【推しの子】―晴れた夜に星を見つけて― 作:horizontal line
東京ドーム公演の中止を決めたことは、苺プロ社長―斎藤壱護―にとって殆ど即決だった。勿論、ここに至るまでの道程を考えれば断腸の思いもある。
しかし公演当日の早朝、月城晴星がアイの自宅前で刺され、救急搬送された。アイ本人は無傷だったものの、晴星は腹部から大量に出血し、そのまま緊急手術に入っている。犯人は現場から逃走しており、まだ捕まっていない。そんな状況で数時間後にB小町を東京ドームへ立たせるという選択肢は、彼の中には最初から存在しなかった。
だから壱護は、事件の報せを受けて病院へ向かうまでの間に、公演中止に向けて動くよう最低限の指示だけを出す。本来ならB小町のメンバーは苺プロへ集合し、そこからスタッフの車でまとまって会場へ入る予定だったが、一番人気のアイだけは警備や移動時の混乱を避けるため、自宅まで迎えの車を回して直接ドームへ入ることになっていた。当然、その予定もすべて白紙になる。メンバーには事務所へ来ず自宅で待機するよう連絡し、会場や関係各所への対応を残ったスタッフへ任せ、壱護自身は病院へ向かった。
病院に着いたからといっても彼の仕事は終わらない。晴星の手術が続くあいだ、壱護は何度も手術室のある方角を気にしながら、少し離れた場所で携帯電話を握っていた。会場、制作、警備、レコード会社、テレビ局、雑誌――その他にも今日という日のために動いていた人間はいくらでもいる。一件ずつ事情を説明し、頭を下げ、詳細についてはまだ自分の独断では説明できないと断り、本日の公演を中止することだけを確定事項として伝えていく。その合間にはB小町のメンバーやスタッフの安全確認も入った。
電話を切って戻れば、そこにはアイがいて、ミヤコがいて、アクアとルビーがいて、晴星の実母である美月がいる。美月だけは立場が違う。息子が手術室に運び込まれた母親にとって、今日が東京ドーム公演の日だったことなど、今は何の意味も持たない。それでも彼女を除けば、ここにいる誰もが今日まで東京ドームのことで頭をいっぱいにしていたはずだった…。その全員が今は、たった一枚の扉の向こうにいる十六歳の少年の無事を祈っている。
◇
壱護が自分のプロダクションへ戻ったのは、だいぶ時間が経過してからだった。手術は成功した――ただし出血量が多く、まだ安心できる状態ではない――その報告を聞き、晴星が集中治療室へ移されたところまで確認してから、彼はようやく病院を離れた。ミヤコはアクアとルビー、それにアイのこともあるため病院側に残っている。
外はもう、朝とはまるで違う騒ぎになっていた。B小町の東京ドーム公演中止は正式に発表され、理由についてもメンバーのアイが事件に巻き込まれたことまでは公表されている。さらに、現場で十六歳の俳優・月城晴星が刺されて救急搬送されたという情報まで報じられ始め、テレビでは今日のために用意されていたB小町の紹介映像や過去のライブ映像が、まるで別の意味を持つもののように流れていた。
壱護が戻った事務所で最初にしたことは、スタッフの対応方針についての再確認だ。事件現場の具体的な住所やアイの現在地は答えない。晴星の容体についても、スターライト側が正式に発表していないことを苺プロから勝手に話さない。記者から問い合わせが来てもメンバーへ直接取り次がず、SNSを含め個人で事件について発信させない。それからようやく、今日一日自宅で待たせていたB小町のメンバーを事務所へ呼んだ。
いつもなら、全員が揃えばもう少し騒がしい。東京ドーム当日ならなおさらだっただろう。緊張している者も、浮かれている者もいて、誰かが忘れ物をして、誰かがそれを笑って、そうやって会場へ向かうはずだった。ところが今は、誰もテレビをまともに見ようとしないのに、消そうともしなかった。画面の中ではアイドル衣装に身を包んだアイの写真と、その下を東京ドーム公演中止を知らせる文字が流れている。
「晴星くん、手術は終わったんですよね?」
しばらく誰も切り出せなかった中で、ようやくメンバーの一人が尋ねた。
「ああ。手術自体は成功した。ただ、かなり出血してる。今は集中治療室だ。まだ大丈夫だとは言えねえ」
部屋のあちこちから小さく息を吐く音が聞こえたものの、それを「よかった」という言葉にしていいのか迷っているのが分かった。月城晴星をまったく知らないメンバーはいなかった。同じ芸能界にいれば仕事先ですれ違ったことのある者もいるし、直接話したことがなくても、十六歳ですでにあれだけの仕事をしている俳優を知らない方が難しい。ただ、自分たちは特に親しい仲でもない…。それなのに、その晴星がアイを庇って刺され、今も病院にいる――この時の言葉にできない複雑な感情を、自分の中でキレイに処理できるほど、彼女たちはまだ大人ではなかった。
「……アイは?」
「怪我はしてない。傷一つねえよ。ただ、今日はもうここには来させねえ。お前らも事件について何か聞かれても勝手に答えるな。家族には自分が無事だって連絡していいが、知ってることを外で喋るなよ」
全員が頷いたあと、別のメンバーが膝の上で握っていた手を少し動かし、躊躇いがちに聞く。
「社長。今日のドームは……」
「中止だ。今日はもうやらねえ」
分かっていたはずなのに、言葉にされると何人かが目を伏せた。今日まで、そこへ立つために練習してきた。歌って、踊って、衣装を合わせ、何度も打ち合わせをして、ようやく辿り着いた東京ドームだった。しかし、その悔しさを今ここで口にすることが正しいのか、誰にも分からない。アイは襲われ、晴星は刺された。自分たちは無事だった。その前で「ドームに立ちたかった」と言っていいのかさえ迷う。
B小町の結成時から一緒のニノも、他のメンバーと一緒に座っていた。
今日のために用意していたものは、もちろんニノにもあった。衣装も、振り付けも、ステージから見るはずだった景色もある。東京ドームへ立ちたかった。その気持ちは嘘ではない。それなのに今は、別のことばかりが頭の中に浮かんでいる。
テレビに映るアイの笑顔を見ながら、ニノは少し前にヒカルから聞いた話を思い出していた。
ヒカルとは、リョースケを介して知り合って以降、今でも時折連絡を取っている。特別頻繁なわけではない。それでも二人の間には共通する話題があり、その中心にはいつもアイがいた。そんなヒカルから、久しぶりにアイ本人から電話があったと聞いたのは、東京ドーム公演を控え、B小町の周囲が今よりずっと浮き足立っていた頃だ。
アイから現在住んでいる場所を教えられた――それだけでもニノには意外だったのに、話の流れで、リョースケにも聞かれて結局その住所を教えてしまったとヒカルは言った。ニノは「なんでそんなこと教えるの?」と呆れたし、ヒカルも最初は断ったのだと話していた。最後には教えたものの、迷惑をかけるなとは念を押したらしい。
ニノ自身は、その住所を聞かなかった。知りたいとも言わなかった。ただ、リョースケがアイの住んでいる場所を知っている――その事実だけは頭のどこかに残っていて…――だからこそ、数日前の『偶然』を、今になって強く意識したのかもしれない。
◇
その日は、仕事を終えて駅へ向かう途中だった。東京ドーム公演が近づけば、B小町の予定も当然詰まる。仕事が終わったあとにも確認しなければならないことがあり、ニノは鞄の中へ入れた資料のことを考えながら、人の流れに混じって歩いていた。
最初は気づかなかった。向こうも同じだったと思う。すれ違いかけてから見覚えのある横顔に気づいて足が止まり、振り返る。ほとんど同時に相手も振り返った。
「……リョースケ?」と、名前を呼ぶと、男は驚いたように目を見開いた。
「ニノ?」
別れてから、二人で会うことはなくなっていた。連絡も取っていない。だから気まずくないと言えば嘘になったが、道端で偶然会った相手から逃げるほど険悪な別れ方をしたわけでもない。
「久しぶり」
「ああ……久しぶり」
それだけで終わってもおかしくなかった。けれど、どちらからともなく二、三言が続いた。元気にしていたのか。仕事は忙しいのか。そんな、昔付き合っていた相手と久しぶりに会ったときにするには無難すぎる会話をしているうちに、やがてB小町の話になった。
「東京ドーム、もうすぐだろ」
「うん」
「すげえよなぁ…」
「まあね」
褒められたことが少し嬉しくて、ニノはいつもの調子で返した。
「チケット取った?」
「取ったよ」
「へえ。誰見に来るの?」
昔なら聞く必要のなかった質問だったが、リョースケは一瞬だけ困ったように笑った。
「……アイ」
(あ~あ。やっぱり…か)
胸の中に浮かんだ言葉は、口には出さなかった。ニノと付き合っていた頃から、リョースケがアイを見る時間は少しずつ増えていった。最初は自分を推していた男が、自分ではなくアイを追うようになったことを、ニノは忘れていない。
「まだ好きなんだ?」
「……悪いかよ」
「別に。もう私の彼氏じゃないし~」
「そうだけどさ」
少しだけ昔の空気が戻ったような気がして、ニノは笑った。それがいけなかったのかもしれない。リョースケがドーム当日のことを聞いてきたときも、警戒しなかった。
「B小町って、ドーム何時入りなんだ?」
「知らない。私たちは朝から事務所集合だけど、アイだけ家まで迎えが来るらしいし」
「家まで?」
「そう。人気ある人は扱い違うよね~」
自分で口にして、少し棘があると思った。でも、訂正はしなかった。
「何時くらいなんだろ?」
「だから知らないって。車でもドームまで時間かかるし、遅くても〇時くらいには迎えに行くんじゃない?」
「そっか」
「そんなにアイ見たいなら、先にドームで待ってれば? 入り待ちできるかもしれないよ」
からかうように言うと、リョースケは何かを考えるような顔をした。その顔を見た瞬間、ニノの頭には、ヒカルから聞いた話が浮かんでいた。この人は、アイの住所を知っている。なら、もしかすると――そこまで考えて、ニノは自分から思考を切った。
別に家へ行けと言ったわけではない。ドームで待てと言ったのだ。入り待ちなんて珍しい話でもないし、そもそもリョースケが何をするかまで、自分が考える必要はない。
「じゃ、私行くね」
「ああ。ドーム、頑張れよ」
「ありがと」
それで別れた。
電話をかけたわけでも、呼び出したわけでもない。偶然会って、少し話した。たったそれだけの出来事だったから、その日のニノはしばらくすれば別のことを考えていた。
今は、その数分間を何度でも思い出せる。
◇
「ニノ?」
名前を呼ばれて、意識が苺プロへ戻った。隣にいたメンバーが、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「……何?」
「大丈夫? さっきから顔色悪いよ」
ニノは一瞬だけ言葉に詰まったが、この部屋で顔色が悪いことなど何も不自然ではなかった。
「そりゃ、悪くもなるでしょ」
「……だよね」
それだけで会話は終わった。疑われてはいない。誰も知らない。ニノは自分の携帯へ視線を落としたが、ヒカルにもリョースケにも連絡しようとは思わなかった。今さら何を聞けばいいのか分からなかったし、何より自分から何かを確かめることが怖かった。
その夜、B小町のメンバーたちは事務所側が安全を確認しながら、それぞれ帰宅した。犯人がまだ逃走している以上、翌日以降も不用意な外出は控えるよう伝えられ、仕事については事務所から改めて連絡することになった。
「東京ドームに立つ」。みんなの願いであり夢であったはずだった一日は、誰一人それを叶えることが出来ずに終わった。
◇
翌日の夜、壱護の携帯へ警察から連絡が入った。逃走していたリョースケの身柄を確保したという。犯人が捕まるまではアイだけでなくB小町の他のメンバーにも不用意な外出を控えさせていたため、その報せはすぐにスタッフを通じて全員へ伝えられる。
自宅にいたニノの携帯にも、ほどなくして連絡が届いた。画面に表示された文面を読み、最初に出たのは安堵の息だった。これでもう、あの男がどこかに潜んでいることを恐れなくていい。アイを狙ってもう一度現れることも、晴星のように巻き込まれる人間が出ることもない。
(あぁ…よかった…)
そう思ったあとで、ニノの指が画面の上で止まった。「身柄を確保した」。つまり、リョースケは生きている。生きているなら――喋れる。
警察は当然聞くだろう。どうしてアイの住所を知っていたのか。なぜ東京ドーム公演当日の朝だったのか。誰かから予定を聞いていなかったのか。住所について聞かれれば、リョースケはヒカルの名前を出すかもしれない。では、時間についてはどうするのだろう。
ニノはしばらく携帯を握っていたが、そこから何かを消そうとはしなかった。そもそも事件の前にリョースケと電話もメールもしていない。あれは街で偶然会っただけだ。ヒカルへ「何か聞かれた?」と確認することもしなかった。そんなことをすれば、かえって自分が何かを恐れていると認めるような気がした。
何もしないでいればいい。普段通りにしていればいい。自分はリョースケを呼び出してもいないし、アイの家へ行けとも、傷つけろとも、殺せとも言っていない。
どれも本当だった――それなのに、どうして自分自身へ何度も確認しなければならないのか。その理由までは考えたくなかった。
◇
事件から二日目、アイは入院後初めて晴星ときちんと面会した。まだ病院着の晴星を前にすると、事件の朝に見たものが全部なくなったわけではない。それでも晴星は話せたし、笑うこともできた。帰り際には、また来てもいいかと聞くことさえできた。
その後で佐伯と話した。
アクアとルビーは自分の子供だということ。二人の父親へ、少し前に自分から電話をかけたこと。そして、その電話で現在住んでいる住所を教えたこと。言わなければならないと思ったから言った。怖くなかったわけではない。口にした瞬間、何かが壊れるような気はした。それでも佐伯は必要なことを一つずつ確認しただけで、アイを軽蔑もしなければ、母親失格だとも言わなかった。この時アイは初めて『自分のための嘘』ではなく『誰かの為に真実を話した』。
病院を出たアイは、その足で苺プロへ向かう。まだ、もう二人に話さなければならない。
壱護とミヤコが揃った小さな打ち合わせ室で、アイは珍しくなかなか話を切り出せなかった。壱護は急かしかけたが、隣のミヤコに睨まれて黙る。そうして二人から見られていると余計に言いづらくなったものの、ここまで来て逃げるわけにもいかなかった。
「……警察に、アクアとルビーのこと話した」
最初に反応したのは壱護だった。
「何?」
「私の子供だって言った」
壱護の眉が動き、ミヤコの表情も変わった。二人が四年間守ってきた秘密である。それをアイが自分一人の判断で警察へ明かしたのだから、驚かないはずがない。
「お前、なんでそれを俺たちに相談しないで――」
「ごめん」
アイは逃げずに頭を下げた。
「二人がずっと守ってくれてたことなのに、勝手に決めた。それは本当にごめん。でも、話した方がいいと思ったの。晴星くんが刺された理由に関係するかもしれないから」
壱護が言葉を止め、ミヤコが先にその意味に気づいた。
「……子供たちのことが?」
「ううん。正確には、そのお父さんのこと」
今度こそ、二人とも完全に黙った。
「待て」
壱護の声が先ほどより低くなる。
「父親?」
「うん」
「お前、俺たちにそいつが誰か一度も言ってねえよな?」
「言ってない」
「ちょっと待って、アイ」
ミヤコも身を乗り出した。
「その人と今も連絡を取ってるの?」
「ずっとじゃないよ。この前、別れてから初めて私から電話しただけ」
「なんで?」
「……アクアとルビーに、会ってみないかな…って思って」
壱護は一度口を開き、それから閉じた。聞きたいことが一気に増えすぎたらしい。
「名前は?」と、ミヤコが聞いた。
アイはほんの少し迷ってから答えた。
「神木光。私より一つ下。昔、ララライで会った人」
「その人が、アクアとルビーの父親なのね?」
「うん」
「で、警察にそれを全部話したの?」
「全部っていうか……聞かれたことは――「住所は?」」
壱護が割って入った。
「さっき、晴星が刺されたことに関係あるかもしれないって言ったよな? それが住所なのか?」
アイは頷いた。
「電話したとき、ヒカルくんに今の住所も教えた」
「お前……!」
壱護が思わず立ち上がりかけ、その腕をミヤコが掴んだ。
「壱護、座って」
「これが座ってられるか! 父親が誰かも知らされてなくて、別れてから初めて連絡取った男に、その上住所まで――」
「だからごめんって言ってるじゃん!」
「そこだけじゃねえ!」
「二人とも声!」
結局ミヤコに叱られ、壱護もアイも同時に黙った。少し間を置いてから、ミヤコは掴んでいた壱護の腕を離し、改めてアイを見る。
「警察に話したこと自体を責めてるんじゃないわ。今回のことなら、私だって話すべきだったと思う。でもね、アイ。もうこの秘密は、あなただけの秘密じゃないの」
アイが顔を上げた。
「あなたがアイドルを続けられるかどうかだけの話じゃない。アクアとルビーの生活もあるし、あの子たちがこれからどこで、どうやって育っていくのかにも関わる。もし外に漏れれば、壱護も私も、事務所のスタッフだって、今まで通りの仕事や生活を続けられるとは限らない。四年間で、それだけたくさんの人がこの秘密の中に入ったの」
「……うん」
「だから、必要でも話しちゃ駄目って言ってるんじゃない。今回みたいに誰かの命に関わるなら、話さなきゃいけないことだってある。でも、一人で全部決めないで。秘密を守ることも、話すことも、もうアイ一人だけの問題じゃないから」
アイはしばらく黙っていた。
「……ごめん」
「うん」
「でも」と、そこで一度言葉を止めたものの、アイは二人から目を逸らさなかった。
「話したことが間違ってたとは、思ってない。晴星くんが刺された。私が住所を教えた人から、どこかに伝わった可能性があるなら、それを黙ってる方が怖かった。また誰かが傷つくかもしれないのに、アクアとルビーのことを隠したいから言いませんって……それは違うと思った」
ミヤコはすぐには答えず、少しだけアイを見てから頷いた。
「うん。それでいいのよ」
壱護も何か言いたそうな顔はしていたが、やがて深く息を吐いて椅子へ背中を預けた。
「……俺も、警察に話した判断が間違ってるとは言ってねえ。ただし次からは先に言え」
「うん」
「絶対だぞ」
「分かったってば」
「お前の『分かった』は信用ならねえんだよ」
「ひどくない?」
「実績がある」
ミヤコが小さく吹き出したせいで、アイまで笑ってしまった。怒られた。それでも追い出されなかった。自分が本当のことを話しても、この二人との関係はなくならなかった。
アイはそれをまだ「安心」と呼んでいいのか分からなかった。ただ、嘘をつかなかったあとの方が、さっきまでより少しだけ呼吸がしやすい気はした。
◇
事件のあと、苺プロはB小町の表立った仕事を意図的に絞った。仕事そのものがなくなったわけではない。むしろ世間の関心が事件へ集中したことで、取材の問い合わせは普段以上に増えている。それでも壱護は事件について語ることを目的とした仕事を断り、特にアイ本人を記者の前へ出すことには慎重だ。
そこには安全面とは別に、ミヤコからの進言もあった。
「今のアイ、あんまり記者に会わせない方がいいと思う」
アイのいないところでそう言われ、壱護は仕事の予定表から顔を上げた。
「事件のことを聞かれるからか?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
ミヤコの頭に浮かんだのは病院ではなく、斎藤家の朝の食卓だった。晴星と面会できるかどうか、そればかりを気にして朝食にもろくに集中できず、何度も時計を見ていたアイ。いつもなら「大丈夫」と笑って隠してしまえたはずの感情が、あの朝はあまりにも分かりやすく表へ出ていた。
「この前の朝もそうだったけど、今のアイ、前より顔に出るのよ」
「顔に?」
「晴星くんに会えるか気になって、朝ご飯食べながらずっとそわそわしてた。あの子、今までだったらもう少し上手く隠したでしょ」
壱護にも思い当たるところがあったのか、予定表へ落としていた視線が止まった。
「悪いことだとは思わない。でも、今まで使えてた仮面がちょっと剥がれやすくなってる。そんなときに記者の前へ出して、晴星くんのことや事件のことを何度も聞かせるのはやめた方がいいと思う。それに今は、アクアとルビーのことも警察に話したばかりでしょう」
「……余計なところまで口が滑るかもしれねえ、ってことか」
「それもある。でも私は、アイがまた全部隠す方へ戻るのも嫌なの」
その言葉に、壱護は少しだけ眉を上げた。
「せっかく本当のことを言えたのに、今度は仕事だからって笑って『何ともありません』を何十回もやらせるの、あの子にはよくないと思う」
壱護はしばらく考えてから、手元の予定表へ視線を戻した。
「本人の会見はさせねえ。しばらく取材も止める」
「うん。それがいいと思うわ」
その判断によってB小町が外へ出る機会は少なくなったが、メンバーたちが何もしなくなったわけではない。歌わなければ声は鈍るし、踊らなければ体力も感覚も落ちる。次にいつステージへ立つのか決まっていなくても、その日が来てから身体を作り直すわけにはいかない。外部との接触を避けられる事務所内でのレッスンや自主練習は続けられ、仕事がない日にも何人かが集まって振りを合わせることは、事件前と同じように珍しいことではなかった。
アイもその日常に戻っていく。最初のうちは、誰も事件について積極的に話そうとしなかった。何を言えばいいのか分からなかったという方が近い。アイ自身も無理に話そうとはせず、歌って、踊って、休憩になれば他愛のない話をした。
B小町の中で、アイは一番目立つ存在だった。ステージの中央に立てば客席の視線を奪い、人気でも他のメンバーを大きく引き離している。けれど、だからといって普段から皆を引っ張るリーダーだったわけではない。レッスンの進行やメンバー間の調整を自然と引き受ける者は別にいたし、アイ自身、仲間たちとの距離を上手く測れないことの方が多かった。
東京ドーム公演については、あの日の中止がそのまま終わりになるわけではないことを、メンバーたちもすでに壱護から聞かされている。会場や日程はまだ何一つ決まっておらず、本当にもう一度東京ドームを押さえられるのかも分からない。それでも苺プロとしては、あの公演を中止の一言で終わらせず、延期公演を実現させるつもりで動いている。
だから、休憩中に誰かが衣装の話から「ドームで着るはずだったやつ」と口にしても、以前ほど部屋が凍りつくことはなくなっていた。その日は鏡の前で水を飲んでいたアイが少し考えてから、ぽつりと言った。
「……私、ちゃんと立ちたいな」
何人かが顔を上げた。
「東京ドーム?」
「うん」
「延期するって社長も言ってたじゃん」
「そうだけど」
アイはペットボトルを両手で持ったまま、鏡越しにみんなを見た。
「今度は、ちゃんと最後まで立ちたい」
それは誰かを鼓舞するための言葉ではなかった。絶対的センターとしてB小町を引っ張ろうとしたわけでもない。ただ、アイ自身がそうしたいと思ったから、口にした。
「……社長、絶対実現させろって会場に圧かけてそう」
誰かが言うと、別のメンバーが笑った。
「社長にそんな権力ないでしょ」
「じゃあ土下座?」
「それはありそう」
「やめなよ、想像できるから」
少しずつ笑いが広がっていく。ニノもその輪の中にいたが、彼女にはアイが事件前とまったく同じではないことが偶に感じられた。計算されつくしたかのような、相手が求める笑顔。溢れ出るカリスマ。周りから見ればそれはいつもの『完璧で究極のアイドル・アイ』だ。それでも、何かを言う前にほんの少し考えることが増えた。以前なら笑顔で隠してしまったかもしれないものを、一度自分の中で確かめてから言葉にしているように見える。それは恐らくニノにしか感じ取れていない極僅かな変化だろう。
それが事件のせいなのか、晴星のせいなのか、あるいはもっと別の何かなのか、ニノには分からない。ただ、「あの日」見てみたいと思った「完璧なアイの顔が崩れるところ」は、こんなモノじゃなかった。自分が見たかったものが何だったのかさえ――もう分からなくなっていた。
◇
それから日が過ぎ、晴星が退院したという知らせが入った。苺プロでも、B小町のメンバーたちは素直に喜んだ。アイは隣人としてすでに知っており、その日にはアクアとルビーを連れて晴星の家へ顔を出している。それでも事務所へ来て「ちゃんと帰ってきたよ」と話したときには、改めて何人もの顔が緩んだ。
ニノも安心した。そこには、もう言い訳を混ぜる必要がなかった。死ななくてよかった。回復して、家へ帰れた。本当にそう思った。
ただ、晴星が退院しても事件まで終わったわけではない。リョースケは生きて捕まっている。警察が今も調べていることは、ニノにも分かっていた。それなのに十日以上が過ぎても、自分のところへ警察から連絡は来ない。最初の数日は電話が鳴るたびに身体が強張った。それが五日になり、一週間になり、晴星が退院する頃になると、少しずつ別の考えも浮かぶようになった。
リョースケは、自分のことを話していないのかもしれない。そもそも警察は、事件当日の時間をどこから知ったかなんて調べていないのかもしれない。
そんなはずはないと思う自分と、そうであってほしいと思う自分が、同じところにいる。
そしてニノがその二つの間で揺れていた頃、彼女の名前をまだ知らなかった捜査員たちは、別の方向から少しずつそこへ近づいていた。
◇
リョースケが逮捕された翌日から、捜査記録には一人の男が登場していた。最初に分かっていたのは、名前だけだ。
ヒカル。
アイの住所を誰から聞いたのかと尋ねられ、リョースケはそう答えた。当然、それだけで警察が納得するはずもなく、名字を知らないのか、どこで知り合ったのか、何歳くらいの男なのか、何をしている人間なのか、普段どうやって連絡を取っていたのかと質問は続いた。リョースケが答えられる範囲で人物像と接点を洗い出していったものの、「ヒカル」という名前だけで一人の人間へ辿り着けるわけではない。
ところが、その翌日。晴星との面会を終えたアイが、佐伯へ自分から話をした。少し前にアクアとルビーの父親へ電話をかけ現在の住所を教えた、という。その相手を、アイも「ヒカルくん」と呼んだ。佐伯が当然のようにフルネームを尋ねると、今度は名字まで返ってきた。
「神木光です」
十九歳。アイより一つ年下。かつて劇団ララライに所属しており、アイとはそこで知り合ったらしい。その名前を持ち帰ってリョースケの供述と照らし合わせると、いくつもの情報が一致した。年齢や外見だけではない。B小町のライブを通じて知り合ったこと、連絡を取り合っていたこと、アイの話をする間柄だったこと。警察は身元を確認し、現在の住所や大学、芸能関係の仕事に携わっていることまで辿ったうえで、任意で事情を聞きたいと神木本人へ連絡した。
連絡を受けた神木光は、逃げも拒みもしなかった。指定された日時に現れた十九歳の青年は、警察が身構えるような態度を取ることもなく、リョースケを知っているかと聞かれれば「はい」と答え、アイから現在の住所を聞いたかと尋ねられても否定しなかった。では、その住所をリョースケへ教えたのか。そこだけはすぐに答えず、ほんの少し間を置いてから認めた。
「はい。教えました」
ただし、アイへ会いに行けとは言っていない。危害を加えろとも、もちろん殺せとも言っていない。住所を聞かれたときには一度断ったものの、何度か頼まれて最後には教えてしまった。その際にも「絶対、迷惑かけんなよ」と念を押したという。
供述の大部分は、リョースケの話とも一致した。だからといって、それだけで神木の説明をすべて事実として扱うことはできない。殺人未遂を起こした男へ被害者の住所を渡したのは事実であり、なぜそこまでして教えたのか、二人がどの程度の関係だったのか、アイとの過去に何があったのかは確認する必要がある。警察は神木への聴取を続ける一方で、その説明を本人以外のところから確かめ始めた。数日後、刑事が劇団ララライを訪ねて金田一から神木の在籍時期やアイとの接点について話を聞いたのも、その裏づけの一つだった。
そうして事実を重ねていくうちに、住所がリョースケへ渡った経路については少しずつ形が見えてきた。アイがヒカルへ教え、ヒカルがリョースケへ教えた。しかし、それだけでは事件当日のリョースケの行動をすべて説明できない。
東京ドーム公演当日の早朝、リョースケはアイがまだ自宅にいる時間に現れた。住所だけを知っていて偶然訪ねたにしては、都合が良すぎる。そこで警察が時間について確認すると、ヒカルは自分が教えたのは住所だけだと答え、リョースケ自身も「ヒカルから聞いたのは住所だけです」と供述した。
どちらかが嘘をついている可能性もある。あるいは、本当に別の情報源がいる。佐伯たちは後者も捨てず、リョースケの交友関係をもう一度洗い直すと同時に、ヒカルにも、二人が知り合った経緯や共通の知人について改めて尋ねた。
ヒカルがリョースケと知り合ったのは、まだ彼がアイではなくニノを熱心に応援していた頃だったらしい。ヒカル自身もB小町のライブへ足を運んでおり、会場で何度か顔を合わせるうちに、同じグループを見に来るファン同士として話すようになった。その時点ですでにリョースケとニノは交際しており、しばらくしてリョースケ本人からそのことを明かされ、実際にニノを紹介されたこともあるという。
「どう紹介された?」
そう尋ねられたとき、ヒカルは当時の言葉をほとんどそのまま返した。
「『B小町のニノ。俺の彼女』って」
最初から本名を教えられたわけではない。その後も何度か顔を合わせる機会があり、ヒカルは彼女の本名が新野冬子であることを知った。そして三人が知り合ってからしばらくして、リョースケが追いかける相手は少しずつニノからアイへ変わっていった。やがてニノとの交際も終わったが、ヒカルが知っているのはそこまでで、別れたあとも二人が連絡を取り合っていたのかについては知らないと答えた。
もちろん、ヒカル一人の証言だけで数年前の交際関係を事実として扱うことはできない。ただし、証言が具体的である以上、確認する価値はある。そして何より、ヒカルが名前を挙げた新野冬子は、現在もB小町のメンバーだった。
アイと同じグループに所属し、事件当日は同じ東京ドーム公演へ出演する予定だった女性である。公演当日のアイの予定を知っていても、何も不自然ではない立場にいる。
一方で、事件直前にリョースケと新野が電話やメールで連絡を取っていたことを示すものは、今のところ見つかっていない。リョースケ自身も時間の情報源については話さず、ヒカルも二人が破局した後の関係までは知らないと言っている。警察がこの時点で持っているものは、それだけだった。「ヒカルの話によれば、二人はかつて交際していた、ということ」。「新野冬子は、事件当日のアイの予定を知り得る立場にいた、ということ」。しかし、「事件前に二人が接触した証拠はない…ということ」だ。
分かっていることと、分かっていないことを混ぜるわけにはいかなかったし、過去に交際していたというだけで事件への関与を疑うこともできない。それでも、本人へ確認しなければ先へ進めない情報が出てきたことも事実だった。
佐伯は机の上に広げられた資料を読み返した。リョースケ。神木光。B小町。そして、今までとはまったく別の理由から新しく線の上へ乗った一人の女性。
「……一度、話を聞く必要がありますね」
向かいにいた刑事の言葉に、佐伯は頷く。資料には、「新野冬子」と書かれていた。
その頃ニノは、自分の名前が警察の資料に載ったことも、数日前のたった数分の立ち話について誰かから尋ねられる日が近づいていることも、まだ知らなかった。
同じ話を何度も読み返して、修正してると「どこがおかしいのか?」が分からなくなってくるんですよね…。
もし読んでいて「意味が伝わらなかったり」「誤字やおかしな描写」があればご指摘いただけると嬉しいです。