【推しの子】―晴れた夜に星を見つけて― 作:horizontal line
読者の皆様にも「現実的に誰がどんな罪でどんな罰を受けるのか?」を考えてみてほしいです。「推しの子」原作を基準にしてくださっても構いません。
誰かを逮捕(または原作から隔離)すれば、みんなハッピーなのかな‥‥を考えたのがこの創作の始まりですので。
十二月も残り少なくなり、警察署の中には事件とは別の理由でも慌ただしい空気が流れ始めていた。忘年会帰りの酔客同士の揉め事、酒の入った事故、人出の増えた繁華街での窃盗、帰省を前に増えていく交通量。世間では一年を締めくくる時期らしいが、人がいつも以上に動く年の瀬は警察にとって仕事が減る季節ではなく、佐伯の机にも月城晴星が刺された事件だけが載っているわけではない。それでも別件を片づけて席へ戻れば、最後には同じ資料を開く日が続いていた。
菅野良介を確保してから、すでに十日以上が経っている。
橋の上で首へ刃物を押し当てていた良介に、佐伯は「生きて話せ」と言った。どうしてアイのところへ行ったのか、何を言いたかったのか、住所をどうやって知ったのか、あの時間にアイが家にいるとどうして分かったのか。あのときは一つとして答えを持っていなかった問いにも、今では埋まったところがある。
もっとも、良介の取調べそのものを佐伯が担当したわけではない。
佐伯は晴星の父親だった真昼と長年の相棒で、美月とも晴星とも事件以前から私的な付き合いがある。その晴星が被害者になった事件で、自分が取調べの正面へ座るべきではない――それは捜査が始まった時点で佐伯自身が決めたことであり、上司からも早々に釘を刺されていた。捜査から外れる必要まではない――しかし、被害者側と深い関係にある人間が、自分でも気づかないまま欲しい答えへ供述を引っ張ることだけは避けなければならない。
私情があるからこそ、手続きを崩さない。
佐伯は担当の捜査員に任せるところは任せ、必要に応じて別室から聴取を聞き、その後に供述と証拠を照らし合わせてきた。本人がそう話したことと、本当にそうだったことは別である。供述を取れば、確認できるものは確認する。裏が取れなければ、取れていないものとして残す。単純で、時間がかかって、時には何日調べても何も増えない仕事を、警察は事件の翌日から繰り返していた。
ただし、十日以上が経った今、良介の事件を扱っているのは警察だけではなかった。
逮捕後、事件と身柄は検察へ送られている。良介には勾留後、国選弁護人が選任され、警察とも検察とも違う立場から良介の権利を守る人間がついた。そして送致を受けた検察官は、警察が集めた証拠を読むだけではなく、自ら良介の話を聞き、必要であればさらに確認すべき点を警察へ返し、そのうえで最終的にこの事件を裁判へ持っていくのかを判断する。
逮捕すれば終わり、ではない――むしろ逮捕してからの方が、曖昧なものを曖昧なままにしておけない時間が始まる。
良介に弁護人がついたからといって、それまでの供述が消えるわけではない。住所を誰から聞いたのかという話を撤回したわけでもなく、取調べで話したくないことを話さないのも本人の権利である。弁護人が接見で何を助言しているのかを警察が知る必要もない。佐伯たちがやることは変わらず、出てきた供述を一つずつ確かめていくことだった。
その積み重ねで見えてきた良介の行動は、事件当日の朝だけを切り取ったものとは少し違っていた。
良介は以前からB小町のファンだったが、最初からアイだけを追いかけていたわけではない。当初応援していたのは同じメンバーのニノで、やがてファンとアイドルという関係を越えて実際に交際するようになった。その頃、B小町のライブ会場で何度か顔を合わせるうちに知り合ったのが、良介が「ヒカル」と呼んでいた年下の男だった。
同じアイドルを応援している。それだけで妙に話が合うことはあるらしい。ライブが終われば感想を言い合い、グッズが出れば何を買ったか話し、次の仕事が発表されれば互いに知っていることを持ち寄る。警察からすれば名字も知らない相手を友人と呼ぶ感覚には少し奇妙なところもあったが、良介にとってはそうではなかった。
そして東京ドーム公演が発表された後、二人は久しぶりに顔を合わせている。
場所は都内の、アイドルグッズを扱う店の近くだった。
東京ドームを目前にしたB小町は忙しく、以前のようにライブ会場で顔を合わせる機会も減っていた。良介は新しいアイのグッズでも出ていないかと店へ立ち寄り、買い物を終えて外へ出たところでヒカルを見つけたという。久しぶりだったこともあり良介の方から声をかけ、そのまま近くの喫茶店へ入った。
最初に話していたのは、以前と変わらないことだった。最近出たグッズ、B小町の仕事、東京ドーム。そうして話題がアイへ移ったところで、ヒカルの方から少し変わった話を持ち出したという。
『そういえば、アイが引っ越したの知ってる?』
良介は知らなかった。
『俺、新しい住所知ってるって言ったらどう思う?』
当然、食いついた。
なぜヒカルが知っているのかという疑問もあったが、それ以上に良介が興味を持ったのは、他のファンが知らないアイの情報をヒカルだけが持っているということだったらしい。住所を知って何をするつもりだったのかと後に尋ねられた良介は、しばらく黙った末に「別に、何も」と答えている。
『知りたかっただけです。……他のファンが知らないこと、自分だけ知ってたら、ちょっと特別な感じするじゃないですか』
その感覚を担当官が完全に理解できたかどうかはともかく、良介にとって「誰も知らない推しの情報を自分だけが知っている」こと自体に価値があったという説明には、一応の筋が通っていた。少なくとも、住所を求めた時点ですでに自宅へ押しかける計画を立てていた、と直ちに置き換えられる話ではない。
良介は住所を教えてほしいと頼んだ。ヒカルは断った。それでも「別に行ったりしない」「知りたいだけだから」と何度も頼み、最後にはヒカルが折れたという。
『絶対、迷惑かけんなよ?』
『分かってるって。そもそも行かねえよ』
良介はそう答えたと供述している。神木光本人も、後の事情聴取でその会話があったことを大筋で認めた。アイの引っ越しを話題にしたのは自分であること。現在の住所を知っていると良介へ話したこと。教えてほしいと頼まれて最初は断ったものの、結局は住所を伝えたこと。そして、迷惑をかけるなと念を押したこと――二人の供述内容は一致していた。
神木はアイの家へ行けとは言っていない。本人へ会いに行けとも言っていない。まして危害を加えるよう指示したこともない。
住所の話を最初に持ち出したのが神木だったという事実を、どう評価するべきか。それは、住所を渡したという事実とは違って、簡単に名前を付けられるものではなかった。
事件当日の良介自身の行動についても、同じことが言えた。良介は花束と刃物を持ってアイの部屋を訪れている。なぜ刃物を持っていたのかという問いに対しては、最初からアイを殺すためではなく、逃げられたり話を拒まれたりしたときに「脅せば、本当のことを言うと思った」と供述した。
だから『殺意はなかった』――と、簡単に終わる話ではない。
刃物を持って他人の自宅へ押しかけ、実際にそれを人へ向けたという事実は残る。ただ、その事実があるからといって、家を出る時点ですでにアイを殺すことまで決めていたはずだと逆算することもできない。
良介の供述では、玄関に入ったところで子供用の靴を目にした。四年前から抱えていた疑いが一気に現実味を持ち、アイ本人との会話の中で感情が昂ぶった。その先で刃物を突き出し、間へ割って入った晴星を刺した。
晴星については、橋の上でも良介は「あいつを刺すつもりじゃなかった」と口走っている。二人に事件以前の接点や恨みがあったことを示すものも見つかっておらず、晴星が隣室から偶然出てきたという現場の状況とも矛盾しない。
――そこまでは、かなり見えてきた。
だが、良介がアイの部屋を訪れるために必要だったものは、住所だけではない。
時間だ。
◇
良介が最初に口にした「ヒカル」という名前に、具体的な輪郭を与えたのはアイだった。
逮捕の翌日、晴星との面会を終えたアイは、自分から佐伯へ話をした。アクアとルビーが自分の子供であること。二人の父親へ最近になって連絡したこと。その電話で、現在の住所を伝えたこと。
そして相手の名前。
神木光――十九歳。アイより一つ年下で、かつて劇団ララライに所属していた。
警察は良介の供述と照合し、年齢や外見、ライブ会場で知り合った時期、連絡を取り合っていたことなどを確認した。現在の住所も大学も、芸能関係の仕事に携わっていることも把握できた。行方をくらませているわけでもなく、任意で事情を聞きたいと連絡すると、神木は拒むことなく指定された日時に現れた。
その聴取も佐伯は担当していない。神木は良介との面識を認め、アイから現在の住所を聞いたことも、それを良介へ教えたことも否定しなかった。良介にアイへの危害を求めたことはないと話し、その点については良介側の供述とも食い違っていない。
佐伯が引っかかったのは、聴取が一段落しかけたところで神木の方から尋ねた内容だった。
「晴星は……もう大丈夫なんですか?」
それを受けた担当官が晴星との関係を尋ねると、神木は少し視線を落とし、ララライにいた頃から知っていると答えた。自分より三つ下で、子供の頃から一緒だった。そこまで話してから少しだけ迷い、「弟みたいな子でした」と付け加えた。それがどこまで本心なのかを、警察が決める必要はない。
神木と晴星が同時期にララライへ在籍していたこと自体は、その後の確認ですぐに裏が取れた。劇団へ話を聞きに行った捜査員は、神木が十代半ばまで所属していたこと、アイが過去にワークショップへ参加していたこと、当時まだ幼かった晴星もすでに劇団にいたことを確認して戻ってきた。神木が劇団を離れてからについては金田一にも分からないことが多かったが、少なくとも三人が同じ場所にいた時期があるという話に矛盾はない。
住所については、これで一本の線になった。
「アイから神木へ」――「神木から良介へ」――しかし、住所を知っているだけでは、東京ドーム公演当日の朝、アイが応対にでると見込んで訪ねられた理由にはならない。
B小町にとって初めての東京ドーム公演である。何時に家を出るのか? どこへ集合するのか? メンバー全員が同じ動きをするのか? 良介が外部から調べた可能性も含めて確認されたが、アイの当日の移動予定を一般のファンが正確に把握できるような情報は見つからなかった。
神木も、その予定については知らないと話した。
『住所を教えたのは自分だが、時間は知らない』――と。
良介も住所については神木の名前を出したのに、あの時間を選んだ理由になると急に口が重くなった。それだけで、別の情報提供者がいると決めることはできない。自分で推測したのかもしれない。偶然だったのかもしれない。あるいは、話したくない別の方法で知ったのかもしれない。
だから警察は、良介の交友関係をもう一度辿った。その中で、神木の供述から一人の名前が出てくる。
『B小町のニノ。俺の彼女』――かつて良介から、そう紹介されたことがあるという。
B小町のメンバーであれば特定は難しくない。本名、「新野冬子」。良介の元交際相手で、現在もB小町に在籍している。当然、東京ドーム公演当日のグループの予定を知り得る立場にいた。
ならば犯行に関係している――とはならない。元交際相手であり、当日の予定を知り得る人物であるが、警察がその時点で持っていたのは、そこまでだった。
だから、「まずは本人から話を聞くことにしよう」となったのは当然だろう。
◇
ニノの事情聴取を担当したのは、五十代の刑事だ。口数が特別多いわけでも、相手を威圧するような体格をしているわけでもない。佐伯よりさらに長く刑事をやってきた男で、人が怒ったから嘘をついている、泣いたから本当のことを言っている、目を逸らしたから後ろめたい――そんな分かりやすい答えを信じて仕事ができる時期は、とっくの昔に通り過ぎたベテランだ。
「菅野良介さんをご存じですね?」
「……はい」
「どういう関係でしたか?」
ニノは少し迷ってから、「…以前交際していた」と答えた。良介がもともと自分のファンだったこと、イベントやライブで何度も顔を合わせるうちに個人的に会うようになったこと、アイドルという仕事上、交際は公にしていなかったこと。その交際中に良介から友人として紹介されたのがヒカルだったこと。
ただ、良介本人が彼を最後まで「ヒカル」としか知らなかったのに対し、ニノは神木光という本名まで知っていた。三人で知り合った後も神木とニノには時折連絡を取る機会があり、その中で互いの名前を知ったという。警察が良介の供述だけでは「ヒカル」から先へ進めなかった一方、ニノに「神木光」という名前を出しても話が通じたのは、そのためだった。
「菅野さんとは、なぜ別れたんですか?」
「……上手くいかなくなったからです」
「アイさんは関係していますか?」
そこでニノは、初めて担当官の顔を正面から見た。
「リョースケから聞いたんですか?」
「菅野さんが、当初はあなたを応援していたものの、次第にアイさんを強く応援するようになったことは把握しています」
「……そうですか」
ニノは一度視線を落とし、それから少し投げやりに息を吐いた。
「それも理由の一つです。付き合ってる相手が自分じゃない女ばっかり見るようになったら、普通に嫌じゃないですか?」
「アイさんに対しても、良くない感情を持っていましたか?」
「…何ですか、それ」
「確認です」と、全く表情も声のトーンも変えないまま担当官は続ける。
「……好きじゃなかったですよ」
「仲が悪かった?」
「態度には出しませんよ。同じグループだし、仕事はちゃんとします。でも、だからってメンバー全員が『大好き仲良し』じゃなきゃいけないんですか?」
少し強くなった語尾にも、担当官は特に反応しなかった。するとニノは、その態度をどう受け取ったのか、そこで話を切る代わりにもう少し踏み込んだ。
「それに私以外のメンバーもそうです。あの娘の実力はみんな認めてました。センターがアイなのも、それでB小町が売れてるのも分かってた。でも、だから仲が良かったかって言われたら別です。アイと本当に仲が良かった娘なんて、少なくとも私は知りません」
担当官は、その言葉にもすぐ意味を与えなかった。同じ職場の人間を嫌う者など珍しくない。まして、若い女性たちが人気や評価を数字で突きつけられ、同じ舞台の上で立ち位置を競う世界である。誰かが目立てば悔しいと思うことも、自分より評価される相手へ反発を覚えることも、それだけなら人間関係の範囲を出ない。
そしてニノの話が事実なら、もう一つ確認すべきことが増える。『アイと親しくなかったのがニノ一人ではないことは、ニノへの疑いを消す材料にはならない。同時に、B小町内部の人間関係だけを理由に彼女一人へ絞る材料にもならない。当日のアイの動きを知り得た人間が他にどれだけいたのかは、別に洗う必要がある』。
担当官はそこへ深入りせず、話を良介へ戻した。
「別れてから連絡を取りましたか?」
「ほとんど」
「最近は?」
「してません」
「電話は?」
「してません」
「メールやメッセージは?」
「ありません」
「二人で会う約束をしたことは?」
「ないです」
そこで担当官は、同じ質問を言い換えるのではなく、少しだけ角度を変えた。
「では、約束ではなく、最近偶然会ったことはありませんか?」
ニノは答えなかった。ほんの数秒だったが、それまで質問を聞けば何かしら返していた彼女には、充分な沈黙だった。
「……あります」
「いつ頃ですか?」
「東京ドームの何日か前。仕事の帰りに、街で偶然」
「どちらから声をかけました?」
「どっちだったかな……目が合って、たぶん向こうからだったと思います」
ここで意図的なのか、本人の記憶違いなのか分からないが、ニノは初めて担当官に『虚偽の報告』をした。
「何を話しましたか?」
「久しぶり、とか。今どうしてるとか。本当に少しですよ」
「B小町の話は?」
膝の上に置かれたニノの指先が、僅かに動いた。
「しました」
「東京ドームについても?」
「……はい」
「菅野さんから、何か聞かれませんでしたか?」
ニノは記憶を探すように一度目を伏せた。
「……入り時間。『B小町って、ドーム何時入りなんだ』って」
「どう答えました?」
「正確な時間なんて言ってません。私たちは朝に事務所へ集まって、それから行くって」
「私たちは?」
担当官の質問に、
(どこまで正直に答えたらいいの? ただ聞いてるだけにも聞こえるし、こっちの事を全部分かった上で確認してるようにも聞こえる…。マジで最悪。あとで嘘だってわかったら罪が重くなったりすんのかな?)と、内心葛藤するニノだが、(まぁ私、ホントのこと言ってもそれで罰とかないでしょ)と自分を納得させて答える。
「……アイ以外です」
「アイさんだけ違った?」
「アイだけ家まで車が迎えに来る予定でした。一番売れてるし、移動中に騒ぎになったら困るから」
「それを菅野さんにも?」
「話しました」
「迎えが来る時間については?」
ニノは唇を閉じた。さっきまでの楽観はなくなる。ここだけは答えられない。明らかに(言っちゃだめだ!)と思ったからだ。
「……覚えてません」
「何時頃になるか、予想でも話しませんでしたか?」
「覚えてません」
担当官はそこで少し間を置いた。
「その時点で、菅野さんがアイさんの現在の住所を知っていることは?」「知りませんでした」
答えは、それまでより僅かに早かった。担当官はニノの顔を見たまま追及することはせず、手元の資料へ視線を落とした。紙を一枚めくる音がして、そのまま数秒が過ぎる。ニノの方から何か言い足すことはなかった。
「神木光さんから、聞いていませんでしたか?」
ニノの表情が止まった。
「……え? …誰に何をですか?」
「神木さんからは、菅野さんへアイさんの住所を教えたことを、あなたにも話したと聞いています」
その言葉の後には、先ほどより長い沈黙が落ちた。ニノは顔面を蒼白にし、見ればわかるほどに震えている。担当官は「嘘をつきましたね」とは言わなかった。ただ資料を机へ置き、同じ問いをもう一度した。
「菅野さんがアイさんの現在の住所を知っていることは、知っていましたか?」
「…………はい。ヒカルから聞きました」
「いつ聞きました?」
ニノは黙り込んだ。先ほどまでなら、曖昧にでも何かを返していたはずの問いだった。担当官は急かさずに待ったが、ニノの口は開かない。
「事件より前ですね?」
「……はい」
担当官はそれを書き留めた。ニノが最初に「知らなかった」と答えた理由を、その場で決めつける必要はない。単に記憶違いだった可能性も、質問の意味を取り違えた可能性も、自分に不利だと感じて反射的に隠そうとした可能性もある。
ただ、最初の回答が事実と違っていたことだけは残る。
「確認します。新野さんは、菅野さんがアイさんの現在の住所を知っていることを承知していた。そのうえで事件の数日前、偶然会った本人と東京ドームについて話し、少なくとも他のメンバーは事務所へ集合する一方、アイさんだけは自宅へ迎えが来る予定だと伝えた。ここまでは間違いありませんか?」
「……はい」
ここでニノの心は一度折れた。『どうやって嘘を吐いても、自分をそれで守ろうとしても、誰かが暴こうとすればそれは容易に自分を破滅させうるのだ』…と。組織だったモノには個人は敵わないのだ…と。それでも事実と真実が乖離するのは許容できない。
「それを話したとき、菅野さんがアイさんの自宅へ行く可能性は考えませんでしたか?」
「考えてません」
「住所を知っているのに?」
「知ってるからって、普通は行かないでしょう?」
「菅野さんがアイさんへ強く執着していたことは知っていましたね」
「ファンなのは知ってました」
「あなたと別れる原因の一つになるほど?」
ニノの眉が動いた。怒りまたは苛立ちの感情だ。普段は決して表になど出さない。それが仕事をしていく上で大事なことだったからだ。しかし今は――
「それ、関係あります?」
「あなたが当時、菅野さんをどう認識していたのかを確認しています」
「だからって……」
途中で言葉が止まった。担当官は先を促さず、ニノが自分で続きを選ぶのを待った。
「……だからって、私がアイを嫌いだったら何なんですか?」
「嫌いだったこと自体を問題にしているわけではありません」
「じゃあ何!? 私がアイを嫌いだったら、それで私がリョースケに刺させたことになるの!?」
声が跳ねた。それまで警察官を相手に崩さなかった敬語も、その瞬間には綺麗に消えていた。
「私はあいつを呼び出してない! 家に行けとも言ってないし、アイを傷つけろなんて言ってない! たまたま会って、ドームの話をしただけじゃん! それで何!? アイが刺されそうになったのも、晴星くんが刺されたのも、私がやったって言いたいの!?」
「そんなことは言っていません」
担当官の声は変わらない。怒鳴り返すこともなければ、突然崩れた口調を咎めることもない。ただ先ほどまでと同じ調子で返されて、ニノの方が自分の声だけが部屋に大きく響いていたことに気づいたらしい。それでも、今度はすぐには引かなかった。
「だってそういう聞き方してるじゃん! それに予定を知ってたのは私だけじゃない! 他のメンバーだって、社長だって、スタッフだって知ってた! アイだけ別で動くことくらい、私以外からだって聞けたかもしれないでしょ!」
「その可能性も確認します」
「だったら――」
「だから、あなたにも確認しています」
そこで初めて、ニノの言葉が止まった。担当官は何も勝ち誇らなかった。ニノの言っていることには、実際に正しい部分がある。当日の予定を知っていた人間が彼女だけではないなら、他の可能性も調べる必要がある。
だが、それはニノ自身が何を話したかを確認しなくていい理由にはならない。
ニノはしばらく黙ったあと、ようやく息を吐いた。
「……すみません」と、戻ってきた言葉には、また敬語があった。
「嫌いでしたよ、アイのこと。今だって、好きか嫌いかで聞かれたら好きじゃないです。でも……それと、こんなのは別でしょ」
「別だと?」
ニノはすぐには答えなかった。膝の上で握っていた手を見つめながら、何かを飲み込むように唇を噛んで、それでも今度は自分を綺麗に見せるための言葉を選ばなかった。
「嫌いな人がいたら……死んでほしいとか、自分の前からいなくなってほしいとか、思うことくらい……あるでしょう?」
担当官は何も言わなかった。
「私だってありますよ。アイなんかいなくなればいいって思ったこともあるし、あの娘さえいなかったらって思ったことだってある。リョースケまでアイばっかり見るようになった時なんて、本当に……」
そこまで言って、ニノは一度言葉を切った。声が震え始めていることに自分でも気づいたらしい。それでも、今度は引っ込めなかった。
「でも、頭の中でそう思うのと、本当にそんなことが起きてほしいのは違うじゃん……! 腹が立って、嫌いで、いなくなれって思ったことがあったって、だから本当にアイが刺されればいいとか、死ねばいいとか――私、そんなこと望んでなんかなかった!!」
最後には、また敬語が消えていた。担当官はしばらくニノを見たあと、手元へ視線を落とした。彼女が今口にした感情そのものを、罪の告白として扱うことはしなかった。
「菅野さんに、アイさんの自宅へ行くよう勧めましたか?」
「……いいえ」
「危害を加えるようなことを言いましたか?」
「言ってません」
「迎えの時間について、具体的に話したかどうかは?」
「……覚えてません」
「分かりました」
同じ質問を形だけ変えて畳みかけることはしなかった。ニノが怒ったことは事実だった。最初に住所について事実と違う回答をしたことも、アイを好きではないと認めたことも、良介が住所を知っていると承知したうえでアイだけ自宅から別行動になると話したことも事実である。さらに今、アイがいなくなればいい、死んでほしいと思ったことすらあると、自分の口で認めた。
だが、人間が胸の内で誰かを憎んだことと、現実にその死を望んで行動することは同じではない。一度嘘をついたから事件に加担したとも限らないし、アイを嫌っていたから危害を望んでいたとも限らない。逆に、本人が否定したから何もなかったと決めることもできない。
そしてニノ自身が口にした通り、予定を知っていた人間は彼女だけではない。
そこから先を決めるために、捜査がある。
◇
ニノの供述についても、確認できるものから裏付けがされた。東京ドーム公演当日、B小町の他のメンバーは事務所へ集合した後に会場へ向かい、アイだけは自宅へ迎えの車を回す予定だった。その点については事務所側の予定や関係者への確認と一致し、ニノが知っていたことにも何の不自然さもない。
同時に、その予定を知り得た人物も洗い直される。他のB小町メンバー、斎藤壱護、当日の移動に関わる事務所スタッフ、送迎を担当する側。どこまでの情報を誰が知っていたのかを一人ずつ切り分けていけば、アイだけが自宅から別に移動すること自体は、ニノ一人しか知らない秘密ではなかった。
だからこそ、良介がその情報を誰から得たのかという疑問は無くならない。事件前後に良介とニノが電話やメールで連絡を取り合い、何らかの計画を相談していたと示すものも、今のところ見つかっていない。ただし、それは数日前の街中での会話がなかったことを意味しない。本人が認めている以上、二人が偶然会ったという供述は残る。しかし、そこで交わされた一言一句を後から再生することはできない。
ニノはアイだけ自宅から直接向かう予定だと話したことまでは認めている。具体的な迎えの時刻については、「覚えていない」。
その場にいたもう一人は良介である。住所の入手先についてはヒカルの名前を出した男が、時間については話そうとしなかった。
担当官も最初からニノの名前を答えとして与えるような聞き方はしていない。事件の数日前に誰かと会わなかったか。東京ドーム当日の予定を誰かから聞かなかったか。アイが自宅にいる時間を、なぜ知っていたのか?
良介は、肝心なところになると口を閉ざした。住所については神木の名前を出せたのに、時間については出さない。その違いに意味がある可能性はある。別の誰かを庇っているのかもしれない――だが、それもまだ推測だった。
◇
その日の午後、佐伯は良介の事件を担当する検察官と向かい合っていた。これが初対面ではない。これまでにも何度か別の事件を通じて仕事をしてきた相手だった。佐伯はこの検察官が休日に何をしているのか知らないし、家族構成も知らない。向こうも佐伯の私生活について知っていることなどほとんどないだろう。それでも、仕事の仕方なら知っていた。
曖昧な供述を都合よく事実へ変えない。足りない証拠は足りないと言う。佐伯が確認していないものを「確認した」と報告しないことを向こうは知っており、佐伯も、この検察官が事件を早く片づけたいという理由だけで無理に結論を作る人間ではないことを知っている。それだけ分かっていれば、仕事をする相手としては充分だった。
「新野さんの聴取、読みました」
検察官はそう言って、机の上に広げた調書を一枚めくった。何度か一緒に事件を扱ってきた佐伯には、その手が止まった場所だけで相手がどこを気にしているのか、おおよその見当がつく。
「どうでした?」
「面倒ですね。菅野さんが住所を知っていることは認識していた。そのうえで、アイさんだけ自宅へ迎えが来ることを話した。――ただし、住所については最初に『知らなかった』と答えている」
「神木の供述を示したら認めましたけどね」
佐伯が答えると、検察官は頷きながら次の頁へ指を移した。
「なぜ最初に否定したのかは分かりません。自分に不利だと思って咄嗟に隠した可能性はある。ただ、それも本人がそう話したわけではない」
「そこまで勝手に補ってやる必要はないでしょう。嘘をついた。理由は分からない。それでいい」
「ええ。それで、具体的な時間は『覚えていない』。一方の菅野さんも、時間をどう知ったのかについては話さない。事件前後に二人が電話やメールで連絡を取った形跡も、現時点では確認されていない」
検察官はそこで初めて調書から顔を上げた。
「佐伯さんは、どう見ています?」
「新野が何らかの時間を教えた可能性はあると思ってます。ただ――」
佐伯は相手の前に置かれた調書を顎で示した。
「本人が認めてるのは、そこまでじゃない」
「私も同じ見方です」
検察官は調書を閉じず、その横に置かれていた別の資料へ手を伸ばした。ニノの聴取を受けて警察が確認した、東京ドーム当日の関係者の予定だった。
「それに、新野さん自身が指摘した通り、アイさんの移動予定を知り得た人間は彼女だけではありません」
「ええ。そこも洗ってます。今のところ、新野以外から菅野へ漏れたって話は出てませんけど」
「出ていないことと、なかったことも違いますね」
「そういうことです」
検察官は資料を戻し、今度は神木の聴取記録を開いた。
「神木さんの方は?」
「怪しいですよ」
佐伯が即答すると、検察官が僅かに眉を上げた。
「ずいぶん素直に言いますね」
「怪しいものを怪しくないとは言いませんよ。自分から住所を知ってるって話を振って、頼まれたら結局教えてる。何も引っかからない方がおかしいでしょう」
「同感です。ただ、菅野さんへアイさんの家に行くよう勧めた事実は確認されていない。危害を加えるよう求めた証拠もない」
「良介も、そこは同じことを言ってます」
「そして神木さん本人も否定している。現時点で、それを覆すものもない」
佐伯は椅子の背へ少し体重を預けた。二人が同じところで引っかかり、同じところから先へ進めないのは、意見が一致しているからというより、そこまでしか証拠がないからだった。
「良介については?」
佐伯が尋ねると、検察官は神木の資料を閉じ、今度は事件そのものの記録へ目を落とした。
「こちらも処分を考えなければなりません。いつまでも身柄を取ったまま捜査できるわけではありませんから」
「分かってます。だからこっちも急いでるんでしょう?」
「急いでくださいとは言いましたが、雑にやってくださいとは言ってませんよ」
「俺が雑な仕事持ってきたことありました?」
検察官の指が止まった。
「若い頃なら」
「……いつの話ですか…」
「…お互い若かった頃です」
佐伯は鼻で笑った。検察官の方もそれ以上は続けず、すぐに資料へ戻る。こういうところも昔から変わらない。
「菅野さんについて、どの事実で公判を求めるのかはこちらでも詰めます。刃物を持って行った理由、アイさんに対して何をするつもりだったのか、実際に月城さんを刺した瞬間の認識。本人の供述だけで決める話ではありません」
「ええ」
「一方で、神木さんと新野さんについて刑事責任を問えるかは、それとは分けて考える必要があります」
検察官は三人に関する資料を机の上へ並べた。紙の上だけを見れば、一本の線はあまりにも綺麗に繋がっている。
「アイさんから神木さんへ住所が渡った。神木さんから菅野さんへ渡った。新野さんは、菅野さんが住所を知っていることを承知したうえで、アイさんだけ自宅から別行動になると話した。そして菅野さんが自宅へ行って、事件が起きた」
「綺麗ですね」
「綺麗すぎるくらいに」
検察官は、そこで三枚の資料を少し離した。
「でも、三人で打ち合わせた証拠はありません。神木さんが菅野さんに危害を加えさせる意図を持っていたと示す証拠も、現時点ではない。新野さんについても、アイさんを好きではなかったことや、最初に一度事実と違う回答をしたことだけでは足りません」
「――予定を知ってた人間も他にいる」
「ええ。それに、仮に新野さんが具体的な迎えの時間まで話していたことが後で確認できたとしても、それだけで菅野さんに刃物を使わせるつもりだったことまで証明できるわけではない」
佐伯は黙って頷いた。そこが、この事件の厄介なところだ。起きた結果から遡れば、誰の行動も意味ありげに見える。住所を教えたことも、時間を話した可能性も、アイを嫌っていたことも、良介の執着を知っていたことも、晴星が刺されたという結末を知った後なら、すべてがそこへ向かっていたように見えてしまう。
だが、捜査は結末から過去の意思を作る仕事ではない。
「菅野さんについて何の罪で裁判へ持っていけるかという事と、神木さんや新野さんに刑事責任を問えるかは――別の問題です」
検察官が言った。
「そこは理解してますよ」
「警察が怪しいと思うことと、こちらが起訴できることも違いますから」
「嫌味ですか?」
「確認です」
佐伯は一度だけ口元を歪めた。
「なら、こっちからも確認しておきます。起訴するか決めるのはそちらですけど、何があったのか調べるのはこっちです。足りないところはまだ追いますよ」
「ええ。それでお願いします」
検察官は淡々と答えた。佐伯には、それで充分だった。
◇
「じゃあ、ニノが教えたんじゃないですか?」
署へ戻った後、資料を見ながらそう言った若い刑事に、佐伯は顔を上げた。
「何を?」
「時間ですよ。少なくともアイだけ家から行くって話したのは認めてるんでしょう? しかも最初、良介が住所を知ってることまで隠した。良介は住所なら神木の名前を出したのに、こっちは黙ってる。元カノなら、庇ってるって考えれば――」
「考えるのはいい」
佐伯が遮ると、若い刑事は口を閉じた。事件が始まってから何度か佐伯の指示で動かしている男だった。刑事になってまだそれほど長くはないが、仕事は真面目で、足を使うことを嫌がらない。覚えも悪くない。ただ、一つの可能性を見つけると、それが答えであってほしいという気持ちまで一緒に走り出すところがある。
「で、それを何で証明する?」
「……ニノ本人が時間については覚えてないって言ってるなら、良介から聞くしか」
「そうだな」
「――でも良介は言わない」
「そうだ」
「だったら、やっぱり――」
「その『やっぱり』を一回捨てろ」
佐伯が断言すると、若い刑事が黙った。
「ニノが教えたと仮定して調べる。それはいい。だが、当日の予定を知ってた人間は他にもいる。良介が自分で何かを推測した可能性もあるし、俺たちがまだ拾えてない情報源がある可能性だって残ってる。ニノが怪しいと思った瞬間から、出てきたもの全部を『やっぱりニノだ』の箱に放り込むな」
「……はい」
「逆もだ。一度嘘をついたから怪しい、で止まるな。なんで嘘をついたのかは分かってない。ニノじゃないとしたら今あるものがどう見えるかも考えろ。それで潰せる方から潰す。最後まで残ったものがあるなら、そこからまた考えればいい」
若い刑事は少し考えてから、手元の資料を見直した。
「……佐伯さんって、こういうの誰かに教わったんですか?」
「何だよ、急に?」
「いや。なんとなく」
佐伯は答える代わりに、資料へ視線を落とした。「自分で作った筋書きに証拠を当てはめるな。証拠から筋書きを作れ」。――昔、何度聞かされたか分からない。
若かった頃の佐伯は、一つ手掛かりを見つければそれを中心に全部を繋げたくなったし、筋が通れば正解へ近づいた気にもなった。そのたびに真昼が横から余計なことを言った。可能性と事実を混ぜるな。証拠が足りないなら足りないまま持っていろ。分からないことを分かったふりするくらいなら、分からないと言える刑事でいろ。
当時は、うるさいと思ったこともある――が、
「……まあ、似たようなことを言う奴はいたよ」
「先輩ですか?」
「相棒」と、言い切った佐伯がよほど珍しかったのだろう。
「へえ?!」
「何だ、その反応」
「佐伯さんにも教えられてた時代があったんだなって!」
「お前、俺を何だと思ってんだ?」
若い刑事が笑いながら資料を抱えて去っていく。佐伯はその背中を見送りながら、自分でも少し可笑しくなった。
「真昼さん…。俺も少しは先輩らしくなりましたかね?」
いない相手へ小さく返してから、佐伯は資料をもう一度開いた。
◇
そうして一つの供述を取り、一つ裏を取り、そこから見つかった次の人物へ話を聞き、必要なものは検察とも共有し、また確認するという作業を繰り返しているうちに、街からはクリスマスの飾りが消えていた。
佐伯がそれに気づいたのは、別件で署を出た帰りだった。つい数日前まで電飾と赤や緑で埋まっていた店先には正月用品が並び、駅では大きな荷物を抱えた人間が目立ち始めている。年末だろうが事件が待ってくれるわけでもなく、署へ戻れば別件の報告がいくつも積まれていた。それらを片づけ、自分の席へ戻った頃には、とっくに外は暗くなっている。
机の上へ、晴星の事件に関する資料を並べたのは、新しい答えを探すためではない。一度、今までに分かったことだけを、最初から並べ直すためだった。
良介は、もともとB小町のニノを応援していた。その後ニノ本人と交際し、その頃にライブ会場でヒカルと知り合った。やがて良介の関心はアイへ移り、ニノとの交際は終わった。
四年前、良介はヒカルからアイが妊娠している可能性を聞き、宮崎へ向かった。当時の移動について確認できる範囲では、本人の供述と大きく矛盾する事実は見つかっていない。
四年後、東京ドーム公演を目前にしたアイが、自分から神木光へ連絡した。二人の子供に会ってみないかと尋ね、その電話の中で現在の住所を教えた。
その後、神木と良介は久しぶりに会った。神木からアイが引っ越したことと、自分が新しい住所を知っていることを話題にした。良介は教えてほしいと頼み、最初は断られたものの、最後には住所を教えられた。神木は「絶対、迷惑かけんなよ」と念を押し、良介も行かないと答えた。
事件の数日前、良介は元交際相手のニノと偶然会った。
ニノは東京ドームの話をした。良介から入り時間を聞かれ、他のメンバーは事務所へ集合するが、アイだけは自宅まで迎えが来る予定だと話した。その時点で良介がアイの住所を知っていることも、ニノは知っていた。
ただし、具体的な迎えの時間まで話したのかは分からない。
ニノは覚えていないと言い、良介は情報源を話さない。その会話を記録したものも見つかっていない。しかも当日のアイの動きを知っていた人間はニノだけではなく、別の経路から情報が漏れた可能性も、現時点では完全には消えていない。
そして事件当日、良介はアイの自宅を訪れた。
花束と刃物を持って。
本人は、最初から殺害するための刃物ではなく、脅して本当のことを聞くためだったと供述している。玄関で子供用の靴を見て、四年前から抱えていた疑いを自分の中で事実だと決めつけ、アイとの会話の中で感情を昂ぶらせた。その末に刃物を突き出し、間へ入った晴星を刺した。
ここまで並べれば、随分と分かったように見える。
事件翌日の朝には答えのなかった問いの多くに、今では何らかの答えがある。良介がなぜアイへ執着していたのか。住所をどこから手に入れたのか。なぜ晴星が刺されたのか。
それでも、全部を一つの筋書きとして繋ごうとした瞬間、証拠のないところが見えてくる。
神木が住所を渡さなければ、良介はあの部屋へ辿り着けなかったかもしれない。
誰かがアイの当日の動きを伝えなければ、あの朝に訪ねることはできなかったかもしれない。
その誰かがニノだった可能性はある。
だが、「可能性がある」は事実ではない。
神木が住所を渡したことは確認できる。それどころか、自分から住所を知っていると話題にしたことも本人が認めている。軽率だったと言うことはできるだろう。何の意図もなかったのかと疑問を持つこともできる。
しかし、住所を教えたことと、良介にアイを襲わせようとしたことの間には距離がある。
現時点で、その距離を埋める証拠はない。
ニノについても同じだった。
良介が住所を知っていると承知しながら、アイだけ自宅から別行動になることを話した。最初は住所について知らなかったと事実と異なることを答え、その後に認めた。アイを好きではなかったことも、時にはいなくなればいい、死んでほしいと考えたことすらあると認めている。
だが、人を憎むことは犯罪ではない。
心の中で誰かの不幸を願うことと、それを現実に起こすために動くことも同じではない。一度自分を守るために嘘をついたとしても、それだけで他人を襲わせたことにはならない。仮にニノが具体的な迎えの時刻まで話していたとしても、それだけで良介が刃物を持ってアイの自宅へ押しかけることを望んでいたと証明できるわけでもない。
そして良介自身についても、刃物を持ってアイの家へ向かったという事実だけから、最初から殺害を決意していたと逆算することはできなかった。
だからといって、良介の責任が消えるわけではない。
自分でアイの家へ行った。自分で刃物を持って行った。自分でそれを人へ向け、晴星を刺し、死にかねないほどの傷を負わせた。そこは誰かから住所を聞いたこととも、時間を聞いた可能性とも別に、良介自身がしたこととして残る。
では神木は。
ではニノは。
何を考えていたのか。どこまで予想していたのか。何を望んでいたのか。
佐伯はそこまで考えて、資料をめくる手を止めた。
(……分からない、な)
少なくとも、警察にはまだ分からない。人間の胸の中は捜索して押収できない。録音されなかった会話を後から再生することもできない。何かをした人間が、その瞬間に何を考えていたのかを、起きた結果だけから都合よく逆算することも許されない。
そして今では、もう一つ分かっていることがある。
警察が「怪しい」と思うことと、逮捕できることは同じではない。逮捕できることと、検察が起訴できることも同じではない。起訴されたことと、有罪になることも同じではない。
警察は捜査する。検察官は集められた証拠を自分でも確かめ、何を裁判へ持っていくのかを決める。弁護人は被疑者の側に立ってその権利を守り、起訴されれば検察と弁護側がそれぞれの立場から法廷で主張する。その先で何が事実として認められ、どんな責任を負わせるのかを決めるのは、警察でも検察でもない。
逮捕は、答えではなかった。
真相と、警察が知っていることは同じではない。警察が知っていることと、それを証明できることも同じではない。調べ続ければ、いつか全部が同じところへ重なるのかもしれないし、重ならないものが最後まで残るのかもしれない。
それでも、空いているところへ想像を詰めることだけはできなかった。
「佐伯さん、まだ帰らないんですか?」
資料から顔を上げると、昼間にも話した若い刑事が上着を片腕に引っかけたまま立っていた。
「……お前、まだいたのか」
「佐伯さんに言われた資料まとめてたんですよ。誰のせいだと思ってるんですか…」
「仕事だろ?」
「便利な言葉ですね、それ」
若い刑事は佐伯の机へ視線を落とし、まだ広げられたままの資料を見ると露骨に呆れた顔をした。
「帰るよ」
「その台詞、さっきも聞きましたよ」
「今度は本当だ」
「じゃあ閉じてください」
「お前は俺のお袋か」と、本気で呆れたような口調で佐伯。
「佐伯さんのお袋さんなら、もうちょっと言うこと聞くんじゃないですか?」
「俺の何を知ってんだ、お前は」
佐伯が睨んでも、若い刑事は笑っただけだった。
「年越しまでそれ読んでたら笑いますからね」
「縁起でもねえこと言うな。さっさと帰れ」
「佐伯さんもですよ」
「分かった分かった」
「その『分かった』が信用できないんですよねえ」
「うるせえな」
それでも若い刑事は今度こそ「お先です」と頭を下げ、廊下の向こうへ消えていった。
佐伯はしばらく、その背中が消えた方を見ていた。今日、自分があの男へ何を言ったのかを思い返す。答えを先に決めるな。可能性と事実を混ぜるな。証拠から考えろ。
昔、自分が何度も言われたことだった。
真昼から受け取ったものを守ろうと意識して刑事を続けてきたわけではない。そんな綺麗な話でもない。ただ現場を重ね、間違え、覚え、また次の事件へ行くうちに、いつの間にか教えられたものが自分の考え方になり、他の組織の人間からもその仕事の仕方を信用され、今度はそれを若い刑事へ口にする歳になっていた。
自分が今の立場になってどれほど経っただろう? あの頃の自分より優秀な奴もいたし、どうやって育てればいいんだろう? と途方に暮れた奴がいた時もある。真昼が死んでから六年になる。長かったようにも思うし、昨日のことのように思う日もある。それでも時間は止まっていなかったらしい。教えられる側だった男が、いつの間にか教える側に回るくらいには。佐伯は資料を閉じた。事件は終わっていない。
良介については、検察が裁判へ持っていくための判断を進めている。神木についても、ニノについても、確認すべきことがなくなったわけではない。新しい証拠が出れば調べる。供述が変われば確かめる。分からないことは、分からないまま持って次へ進む。
それでも晴星はすでに退院し、少しずつ元の生活へ戻り始めている。中止された東京ドーム公演についても、いつまでも中止になった日のまま止まっているわけではない。警察が事件を調べ、検察がその先を考えている間にも、当事者たちの時間まで止まってくれることはなかった。
窓の向こうには、遅い時間になっても消えない街の明かりが見える。つい数日前までクリスマスだった街には正月飾りが増え、署内ではまだいくつもの電話が鳴り、年の瀬らしく別件へ駆り出される警察官の足音が廊下を行き交っている。
佐伯は上着を取り、今度こそ席を立つ。分かったことは増えた。
そして、分からないことがどこに残っているのかも、ようやく分かってきた。
十二月は――もう終わろうとしている。
前書きで意味深なこと書きましたが、別にしなくていいです(笑)
このお話を最後まで読んでくれれば、その答えの一つになると思うので。とかハードル上げてみたりして。