「明日ですね。体の調子はいかがですか?」
「うっす。問題ないっす」
「食事は?」
「したっす」
「何を?」
「…うどん」
「及第点ですね。水は?」
「飲んだ」
「どれくらい?」
「飲んだって」
「量を聞いています」
「母親かよあんたは!」
布団が吹っ飛んだ。俺がベッドから勢いよく起き上がったことで、布の大波が巻き起こる。ほんの少しの間宙を舞った布団は浮力を失っていき、目の前のイスに座るコダマさんの全身を覆っていた。
俺の方が体がデカいからか、オーバーサイズな布団を被ったコダマさんは、オバケのコスプレみたいになった。
「寮長です」
「いや、それは、知ってるっすけど」
「まあまあ、夜更かしもほどほどになさいな。
……ほら、もうお休みなさい?」
「うるせーぞ、イットー!」
向かいのベッドの中から、もっともだけど今は聞きたくねぇ指摘をしてくるルームメイト、イットー。
夜の9時。普段こんな時間に寝ないのになんで寝る気満々なんだと聞きたくもなるが、こいつなりの気遣いだろう。
明日は日本ダービー、クラシックの山場だ。
消灯時間にはまだ早いが、明日のこともあると思い、早めに寝ようとしたところだった。そんな意図伝えてもねぇけど、イットーは勝手に部屋の明かりを暗い橙色にしてた。まあ、察してくれてたんだろう。
だってのに、布団入った瞬間この部屋に入ってきたのは、俺らの所属する栗東寮寮長、コダマさんだった。
寝ようとしてんのに、やれ食事だの体の調子だのストレッチしたかだのぐちぐちぐちぐち…!
「文句は受け付けません。私には、貴方を管理する責任があるんですよ?」
「わざわざ寮部屋入ってまでっすか?」
「実際ストレッチ忘れていたのですから」
「それは、あの…助かったっすけど、ダービー前で緊張して」
「ほら、コダマ寮長の心配した通りじゃない。そう意地を張って、何でも撥ねつけなくてよろしいのですよ?」
イットーが布団の中から、肘をついた体勢でコダマさんの援護射撃をし始める。
別に意地なんか張ってねぇって。でも、そうやって言い訳しまくったとこで…
「皐月賞までの貴方の状態、しっかりとフォローしきれなかったのは私の責任でもありますから」
またこれだ。だけど、あれに関しちゃ俺が自己管理できてなかったのもあって拒否できねぇ。
その辺気ぃ回してくれてることを、無碍にはできねぇ。
「心配、ありがとうございます。あん時は、ほんと申し訳なかったっつうか…」
「若いうちはそんなものです。それはそうと貴方は一体いつ…」
大して歳は変わんねぇはずなのに、纏う空気に差がありすぎる。
コダマさんも、俺と同じ学生のはずなのにな。
トゥインクルシリーズを駆け抜けるってのは、俺が思ってるよりずっと濃い時間なのかもしれねぇ。
…俺もいつかは、こうやって誰かに説教垂れる立場になんのかな?
「あの…キタノさん?」
ったく、柄にもねぇこと考えちまった。
大事なのは今だぜ。今はとにかくダービーに勝つことを第一に考えねぇと。少なくとも、この本番前の過ごし方は皐月賞の時に比べれば、全然大丈夫なはずだ。
「ちょっと…」
ただ、ここんとこちらちらと頭に浮かんできやがる言葉が、引っかかり続ける。カブの、あの時の言葉…。
「キタノさん!」
「な、なんだよイットー…」
「なんだではありませんよ。早く!私もう知りませんから!」
イットーは、そう俺に告げて布団にくるまって口を聞かなくなっちまった。気のせいか、ガクガクと震えているような…
「キタノカチドキ」
「!?」
篭って聞こえるのに、鋭く底冷えする声色。首筋を刃物で撫でられるような、そんな感覚。
目の前の、オバケのコスプレじみたシルエットから発せられたソレは、俺がさっき摂った水分を全て干上がらせていくようだった。
「一体、いつになったら、この布団を、退けてくださるのでしょうか?」
「うわああああああ!!!!!すみません、すみません!!」
ビビって後退りしたら、後ろは壁。勢いよくぶつかっちまった。
…いてぇ
いや、そんなことよりも早く布団とらねぇと!
「…本番前なので、とやかくは言いませんが…お前はもう少し上級生への振る舞いを徹底した方がよろしいでしょうね」
表面上だけ笑った顔、少しズレたモノクル。レンズを介さずに合った目は、俺の脳髄を射抜いた。並のやつじゃ、腰抜かしちまうだろうな。
「ほんとすいませんでした!ちょっと、自分の世界入っちまいまして…声が…」
「はぁ…いいでしょう。私も大人気ないことを言ってしまいました。両成敗で手打ちとしましょう」
「ああ、本当に良かったわ。寝れる気がしなかったんですもの」
なんとか、なったか?
………
良かったぁ!!危なかったぜ!!
「なぜか、発汗量が多くなっていますね。水を飲んでおきなさい」
あんたのせいだっていいてぇけど、ここは控える。俺バカみたいに素直だって自覚あるけど、ちゃんとコントロールは効くんだぜ。
とりあえず水だ。部屋の冷蔵庫まで取りに行こう。
そう思ってベッドから立ち上がったら、またあの言葉。
…コダマさんなら、分かるかもしれねぇ。
「コダマさん」
「どうされましたか?」
「ダービーは、実力だけじゃダメって聞いたんだけど、これどういうことかわかるっすか?」
「…」
「言ってたそいつにどういうことか聞いたら、怒るかもしれないから言わないって」
「あの言い伝えではないかしら。『最も運がいいウマ娘』が勝つって」
「ああ…あれか。でもソレ言われても俺怒んねぇけどな」
クラシック三冠の三つのレースには、それぞれに格言みたいなのがある。
皐月賞は『最も速いウマ娘』が勝つ。
日本ダービーは『最も運が良いウマ娘』が勝つ。
菊花賞は『最も強いウマ娘』が勝つ。
一応、距離とかレース場のこととか考えたら、迷信ってわけでもねぇ言葉だ。ダービーポジションとかに関しちゃ運とかの話も分かる。
だったら、俺は笑って切り捨てられるはずなんだ。なのに、ずっと引っ掛かってる。気にしすぎと言われりゃそれまでだけどよ…俺の直感がそれを許さねぇんだ。
俺とイットーのやりとりの間、ずっと考え込んでたコダマさんが口を開く。
「誰かは存じませんが、発言の意図は察しました」
「マジすか?どういうことなんすか!?」
思わず身を乗り出して聞いちまった。それでも微動だにしないコダマさんは俺の目を見据えて、なにやら試してきた。
「貴方は、『日本ダービー』を何だと思いますか?」
「『日本ダービー』を?……世代の一番を決めるレース?え?そうだよな、イットー?」
「わ、私に振らないでくださる?」
ずっとこっち見てたから、この問答のことでなんかヒントでもあるのかって思ったけど、何もなかったか。
「…なるほど。確かにそうですね」
「何が言いたいんすか。コダマさん」
「では、結論から申しましょう、カチドキ。貴方は―――」
「おい、またか…カチドキ!しっかりするんだ!」
「え?ああ!トレーナー、えっと…何の話だったっけか?」
「…それ、いい意味の集中って捉えていいのか?」
「…おう」
「そうは見えんな。糖分摂っておくんだ」
「悪りぃな」
皐月賞ん時の楽屋も、こんなんだったな。コダマさんの言葉が、また頭をよぎる。
トレーナーから、スポーツドリンクを受け取って全部飲み干した。喉が潤う気がしねぇ。
「とにかく、今回は自分との勝負だと思え。できるとこまで回復こそしたが、かなり無理が祟っていると思う。すまない。
…初めて恐怖を感じたんだ、追い切りの時」
「…内に」
「本番前で申し訳ないが、口酸っぱく言わせてもらう。
危険な走りはするな。ただでさえ23人。大事故になりうる。気をつけるんだ」
「わかった」
「…それだけじゃないな。どうした?昨日、何かあったか?」
深呼吸の片手間で返事をする俺の様子に引っ掛かったトレーナー。言うかどうか悩んだが、俺は昨日あったことを全部吐き出した。
「コダマが…」
「もう本番な以上、気にしてもしゃあねぇ。やってやるよ」
「そうか。励ましにもならんだろうが、一つ言わせてくれ」
一呼吸置いて、座り直すトレーナー。
「結局、勝つのはお前だって信じてる。時代だの、周りだの、思いだの一旦忘れろ。
走りたいから走れ。勝ちたいから勝て。お前にはその方が似合ってるはずだ」
「似合ってる、か。分かったように言いやがる」
「分かるさ。お前のトレーナーなんだからな」
キッパリと返される。
ああ、やめだ!悩むのは性に合ってねー!!走って勝つ。とどのつまりはそれだけだろうが!
「煽ったら声出す準備はしとけよな。最前列にいて聞こえなかったらブッ飛ばす」
「…肝に銘じておこう」
覚悟は決めた。やれることもやった。一度っきりの舞台、悔いは残さねぇぞ。
「いよいよ本番だ!!コーネルランサー!!」
「はいっ!」
「弱い!!もう一度だ!!!」
「イエッサー!!!!」
「いい覇気だ!見違えたぞ…今のキサマを一ウマ娘として認めてやる!!」
東京レース場の人混みの中で轟く、引き締まった声。後ろに腕を組んで胸を張る大柄なウマ娘、カーネルシンボリと、彼女の言葉に返事をする小さなコーネルランサー。
入り口前の広場、堂々と休めの姿勢をとり動線の混乱を招く2人はそれはそれは衆目を集め、横で立ち尽くすしかないミホランザンは頭を抱えていた。
「もっと、場所を変えないか?流石にここは…」
「バカ者!!ダービーを志す者ならば、群衆の目などいくらでも耐えてみせろ!」
「そうです!刮目せよー!!」
「コーネルまで…はぁ…」
かつてのライバルに、自分へ夢を見てくれた者。
並々ならぬ思いを抱えた2人を見て羞恥を覚えることは、ミホランザンにはとても耐え難いものであった。
友情や敬意は多少の奇行なら美談に変えてくれるが、場所選びまで正当化してくれるほど万能な謳い文句ではない。
しかも、ダービー当日。普段のレースとは比べ物にならない数の観客が押し寄せている。
学園で終わらせておけと説得すればよかった…!
ミホランザンは、後悔を噛み潰しきれない表情を浮かべていた。
「何の騒ぎかと思ってきてみれば、何してる?ランサー」
1人の男が歩いてきた。胸に輝くトレーナーバッジ。抱える資料の束。
そして、『ランサー』という呼びかけ。ミホランザンは渡りに船とばかりに男に話しかける。
「おや、コーネルのトレーナーの方でしょうか?」
「ああ、そうだ」
堅物そうな男だった。話すトーンも平坦。周りの喧騒とは対極に位置する空気感をまとっていた。
「精神集中前のブリーフィングである!邪魔立てするな!」
「ちょっと、カーネルシンボリ!」
「邪魔立て…あ、トレーナーさん!」
「…」
黙ってコーネルランサーを見つめたまま微動だにしないトレーナーは、カーネルシンボリの怒号など歯牙にもかけない。
そんなトレーナーとは対照的に、コーネルランサーは顔を真っ赤にして掌を振り始めた。
「ち、違、違うんです!これは精神集中の一環で…!」
「コーネルの精神が整うのならやっていろ。私は先に行くからな。皐月の時と同じところに来い。そこで改めてブリーフィングだ」
「へ?」
「…ほう。なかなか…」
勝手に感心するカーネルシンボリ。1人、関係者通路の方向へ進んでいくその背中に頼もしさを感じていた一同であった。
「ど、どうしよう…変って思われなかったかな…?」
「…あんなに恥じらうくらいなら、やらない方がよかったんじゃないか?」
「うるさい!」
「…結構、容赦ない性格だよな。君は…」
「とりあえず行ってきます。…勝ちますから。今日だけは、譲れない…!」
握り締める拳は、見送る2人の口角を引っ張り上げていた。
駆け足でトレーナーを追うコーネルランサーは、目的の部屋に着く前にトレーナーの後ろ姿を捉えた。
「早かったな。『先行の訓練』は万全か?今日見せてもらうからな」
当然のように言い放たれた期待。当の本人は、驚きを隠せず後退り。
コーネルランサーは、トレーナーに『先行の訓練』については伝えていなかったのだ。元々、タケホープの姿を見て衝動的に走り出した時に受け入れた提案である。止められると考えていた。
しかし、そんなものは何の意味もなく知られていた。トレセン学園のトレーナーの基本スキルにはストーカーが含まれているのかと疑いたくなる把握能力である。
「な、何でそれを…?」
「自主トレを増やしていたことなど、数字からわかる。把握してからはそれを考慮してプランを組んだ。途中から私が見ていたトレーニングの負荷や内容は軽いものになっただろう?」
「全部知ってたってことですか!?」
「私相手に隠し事とは感心しないな、ランサー。私に頼らず彼女らを頼ったわけなのだから、それ相応の結果でなくては納得しない」
「別に頼らなかったってわけじゃ…」
「ふっ、意地悪な言い方をして悪かった。彼女らとの絆は、むしろ僥倖と感じていたから安心しろ。
君が選び、挑み、掴み取る。そうして得たものの価値は私がホイホイと与えられるものではないんだ」
「トレーナーさん…」
「では、楽屋に行くぞ。今日はダービーだ。
…今日死ぬ覚悟で腹括れ」
「…はいっ!」
語気が強くなっても変わらぬ、抑揚のない口調。
だが、首根っこを掴まれた。そう錯覚するほどの狂気的な波長が、トレーナーの目から発生していた。
少女の表情は、この瞬間半年以上の成熟を迎えていた。
「おや、コダマ。またここで会うとはね」
「ええ。やはりダービーは最前列で味わいたいので」
東京レース場、ビュースタンド。クラシック三冠の二つ目、一年のハイライトの一つとなることが開幕前からお決まりとなっているレース、『日本ダービー』を見ようと押しかける群衆で埋め尽くされていた。
実際、スピカの面々も最前列をキープするため、日本ダービーが始まる数時間前から居座っていた。体格のせいか、ガビーが後ろの目をよく気にしていたが、カブラヤオーにもたれかかることで低い姿勢を保つことに成功していた。
ずっと負荷がかかり続けるカブラヤオーは汗をかき始めていた。
「カチドキ先輩、なんか悩んでそうだったけど」
「心配はいらない…はずさ。それでもなんだかんだ勝ってしまうからね」
「…」
「あらカブちゃん?カチドキのこと心配?」
「え?あ、いや、そんなことは…」
前日、そして今日のカチドキを見ていたスピカのメンバーは漠然としながらも察していた。カチドキはどこか揺らいでいると。
周りの騒ぎがどんどん大きくなるのに反比例して、口数はどんどんと減っていく。
「…昨日は、カチドキの面倒を見てくれたらしいじゃないか。礼を言うよ」
「いえ、寮長として当然の…」
「すまん、遅くなった」
人混みをかき分け、最前列に辿り着いたスピカのトレーナー。その顔は険しかった。ここまで人混みに揉まれた疲労とは明らかに違う。誰が見ても察せるほどの怒りが、その表情には宿っていた。
「コダマ…!」
「おや、トレ」
一直線な進路。トレーナーはスピードシンボリもはねのけてコダマの前に立つ。
いつものスピカを束ねる時からは考えられない、激情を捲し立てるトレーナーに、若いメンバーは勿論のこと、長年の付き合いにもなるスピードシンボリすらも驚きを隠せなかった。
「どういうつもりだ…!なぜ、カチドキにあんなことを言った!?」
「あんなこと…?ああ、昨日のことでしょうか?」
今にもつかみかかりそうなトレーナーを目の前に、微塵も普段の落ち着き払った態度を崩さないコダマが作る空気は、一触即発の揮発性を有していた。
いるだけでも息が苦しくなる。状況を呑み込めないスピカの面々は静観する他なかった。
それは、さも当然と言いたげにコダマの口から飛び出した。
「『貴方はダービーを獲る器じゃない』と伝えましたが。」
「ふざけんな!何でそんなこと言った!」
堪えきれなかった大喝。それは、会場に集まる10万人の観衆の雑踏に隠れこそしたが、近くにいた一部の人々には届き、息を呑んでその発信源を見ていた。
「何で?…彼女は、ダービーが何なのか知る由も無いようでしたので」
「ダービーが、何なのかだと?」
「貴方こそ、知っているでしょう?ダービーというレースが如何なるものかを。
それを知ろうともせぬまま走ろうとしていたのですから、甘いと伝えたのみです」
「詭弁だ!お前のエゴで選手のメンタルに影響を与えてどうする!!それも前日だぞ!!」
「その程度で揺らぐメンタルに問題があるのでは?」
「お前…!」
握る拳は、もはや初期微動を超えて激しさを増す。
トレーナーは、この瞬間初めて一切のロゴスを喪失した。
腕を振り上げる予兆を感じたスピードシンボリは、慌ててその腕を押さえ、トレーナーを諌めた。
「待て、トレーナー君!」
「心地よい激情ですね」
「コダマァ!」
「落ち着くんだ!
…悪いがコダマ、今回トレーナー君が怒るのは当然だと思うよ。担当を侮辱されるようなことを言われて、トレーナーとして黙ってはいられない」
「訊かれたから答えたまで。
『貴方はダービーを獲る器ではない。一レースと解釈する内は勝つ資格がない』と」
「何を言って…!」
「スピードシンボリ。貴方なら私の言っていることがわかるはず。貴方の出走したダービーこそ、私の言うダービーの象徴のはず」
「…テイトオー」
「なぜ群雄割拠の貴方の世代の中で、彼女は勝てたと思いますか?
ダービーまで重賞を走ったことすらなかった彼女が、12番人気を背負いながら。」
「…」
スピードシンボリは想起する。かつて走ったダービーを。
多くのライバルがいた。期待も割れた。
メジロの新星。大器と呼ばれた者。栗毛の快速。不屈の刺客。漆黒の狙撃手。
大混戦の中、制したのは滑り込みでダービーを走ったあのウマ娘、テイトオー。
それも、着差は2着から4バ身。そして、それ以降勝つことはなく引退した。
それが、ダービーの象徴?
スピードシンボリは、答えを出せず自分の息が深くなるのを実感するほかなかった。
「…では、お聞きしましょう。『パートナー』さん。
貴方は、『日本ダービー』を何だと思いますか?」
重力が増す。背中が湿る。胸の中が冷える。
一回り二回り若いはずの少女の言葉に、トレーナーは怒りで昂った頭が急速に冷えるのを感じていた。
『日本ダービー』とは何か?
ウマ娘が、その生涯の中で一度しか出られないクラシックレース。そのシリーズの二つ目に位置するレースだ。
元々はイギリスのエプソムダービーという世界最高峰と位置付けられたレースに倣い作られたものであり、その歴史自体はクラシック三冠制度が整う前から存在している。
2400mという距離も、究極の根幹距離として設定され、このレース史における王道中の王道に聳えるビッグタイトルだ。
だが、そんなことは聞いていないだろう。トレーナーは感じていた。もっと、本質的な何かを求められていることこそ察していたが、いざ言葉にしようとすると言い表せない感情が浮かんでは膨張し浮かんでは膨張しを繰り返して思考が狂っていく。
狂っていく。
ダービー。
熱くなって。
ダービー。
視界が霞んで。
ダービー。
声が枯れて。
勝って。負けて。泣いて。
全て消えてなくなる。
最後に、一つだけ残った。
それを、トレーナーは発した。
「………夢」
「…夢?」
「俺たちの、ウマ娘たちの、夢…。生涯をかけた、夢。」
言葉を受け取るも、表情を変えないコダマ。その目は一切ブレることなくトレーナーのその目から視線を外さなかった。
もはや怒りも悔しさも、滲ませない眼でトレーナーは訴え続けた。
「…及第点としましょう。貴方はまだダービートレーナーではありませんが、その資格はありそうです」
やっと、柔和な顔が戻ってきた。いや、周りと比較すれば十分冷ややかではあるが、それでも先ほどの気配とは比べ物にならないほど緩やかな空気になる。
面白そうに話を聞いていたシービー以外は、皆呼吸が乱れていた。
「そろそろ、入場ですね」
「え?ああ、そうだな」
急な話題の方向転換に反応が遅れたトレーナー。
ダービーという概念に頭を荒らされていた時間は、決して短い者ではなかったとトレーナーは自覚した。
誰も、何も言わずにターフへ視線を向ける。
「やはり、良いですね。一度しか立てないのが勿体無い。いや、一度きりだからこそでしょうか…」
カチドキをはじめターフに立つクラシック戦線の若者を見て、コダマは恍惚の笑みを浮かべながら独りこぼした。
「ダービーへ、ようこそ」
そして恍惚の顔の裏では、剥き身の刃を鳴らしていた。
『19番のキタノカチドキ。既にゲートに収まっています。落ち着いています。ここまでは良し。これから、どうなる?』
もはや周知の事実。キタノカチドキのイレ込みによる走りへの影響は、身近なチームメイト、トレーナーのみでなく、ここまで追ってきた観衆にも把握されていた。
本人も自覚済みである。だが、それで制御できるほど彼女の抱える衝動は甘くはなかった。
「やってやる…やってやる…」
『獲る資格が無い』…?そんなもん知らねえ。勝って俺は此処に立ってるって示すだけだ。
なんとカチドキはゲート内でイレ込もうとしていた。
戻らなかった調子、コダマの言葉、背負う重圧。
真っ向からこんなものと向き合う方がばからしい。らしさを失ってしまう。
そんな状態で走っても、何ら面白くない。
カチドキは己の中の怪物に、全てを委ねようとしていた。
そうしてカチドキが己を仕上げる様子を誰も気にしてはいなかった。
続々とゲートインするウマ娘たち。皆見えているのは正面のみ。周りの顔を伺うタイミングなどとっくに失っていた。
全員、スタートの準備が整う。
『どっと湧き上がりました大歓声!』
待ってましたと言わんばかりに、胸の内が弾ける大観衆。振り上がる腕は、一人一人の興奮をこれでもかと主張していた。
静まる気配もない。カチドキは、これまでのレースとの違いを、徐々に徐々に実感していた。
『スタートォォ!!横一列の綺麗なスタートであります!』
ゲートが開く。飛び出したのはニシキエース。皐月賞の負けを払拭する意思表明の如く、快調に飛び出していく。
『ダービーポジション』はもはやジンクスではなく一つの理論として成立している。トレーナーたちも口酸っぱく言ってきたのだろう。皆前へ前へとポジション争いが始まった。その中には、小柄ながらもバ群の中で奮闘するコーネルランサーの姿があった。
『外の方からキタノカチドキがスーっと行って好位置をキープしようとしているところ!』
第一コーナーに入る前から激化し始める先行争い。加速してポジション争い参入せんとカチドキは加速するが、今回は枠が災いしていた。
19番。大外枠である。距離のロスはポジション争いにおいて不利なのだ。差しや追込を戦法とするならば大きな影響はないが、カチドキの脚質は好位につけての先行。
『第一コーナーへ向かいます!先頭ニシキエース! ランドグレース、エリモマーチスがこれを追う! その後ろスリーヨーク、そしてコーネルランサー!
キタノカチドキは中団!11番手です!!』
できてる。練習でやってたこと…!
カーネルさん、ランザンさん…それに、トレーナーさん。
みんな、ここまでわたしに走る力をくれた。
皐月賞の時、前目でつけることを意識したけど、ここまで先行争いに真っ向から挑んだのは初めて。
でも良い位置につけた!5番手…ペースさえ乱さなければ、あとはカチドキとの競り合いに全てを賭ける。
今日ばっかりは脇役とか無理だから。
ダービーだけは、譲れないから!!
「縦長の展開ですね」
「…」
「『パートナー』さん?」
「今集中してるんだ。あまり話しかけてくれるな」
「…つれない方」
見かねて、俺は二人の間へ割って入った。
「なら、俺が話し相手になろうか?コダマ」
観客席の空気は、冷ややかな時間が溶けたとはいえ、そううまく切り替わるはずもなくギクシャクとした様子であった。
俺は少し、いや、かなり耐えられる空気ではなかったから、コダマに付き合うことにした。
「カチドキ、ダービーポジションの確保は失敗したようです。捲りの厳しい東京レース場、一体どう展開させるのでしょうか」
「現状、運に恵まれてるとは言えないな。外枠に位置取り…なんとか堪えて欲しいね」
先頭集団は既に向正面。ニシキエースも皐月賞のように大きく逃げることはなく、レースを引っ張り続けていた。
大きな動きはない。
周りの歓声はいまだに衰える気配はなく、それがいっそうこのスピカとコダマのいる空間の静けさが異様であることに拍車をかけていた。
「皐月賞2着の彼女…」
「コーネルランサー?」
「そうです。良い先行策ですね。以前のものとは違う。教えた者の力がよく分かります」
どこか嬉しそうだ。だが、俺にもそれは伝わった。今回、勝つために徹底してこの戦法を仕上げてきたのだろう。ここのところ、カーネルが家をよく抜け出していたと耳にしていたが…なるほど、重なるところがあるかもしれない。
「教え方が良かったんだろうね。よく仕上がった走りだ」
「とはいえ彼女、視線が忙しないようで」
「…」
やはり、天才だ。
走りではなく、たった数度の言葉だけで、俺はコダマの才覚を思い知らされていた。
元々、追込を主としていたことはリサーチで知っているが、皐月賞、そして今回は先行を実践している。
そのことしか、まだ捉えてはいなかった。よくあれだけの細かな所作のみで抜き出してきたものだ。
それはそれとして、あの視線の動き…作戦に慣れていないのだろうか?今回、カチドキの前に立ちはだかるとしたらあの娘だ。気は抜けない。気は抜けないが…何を迷っているのかが不可解だ。
「カチドキを探しているのでしょう」
「え?」
「おそらく、彼女の組み立てている今回のレース像は、カチドキとの競り合い。皐月のリベンジという執念が、今彼女を動かしている。彼女だけが、まだ皐月賞の続きを走っているようです。褒められたものではありませんね」
「…」
「普段なら今回のコーネルランサーと同じ位置、それかもう少し前目につけているであろうところですが、予定と違っているみたいですね。
それは良いことです。予定調和などダービーには相応しくない」
「随分…ダービーの在り方に拘るんだな」
「当然です。私の誇りですから」
「誇り、か」
その二文字が、妙に耳に残った。並々ならない情念を感じる。
「さて、第三コーナーです。前を行くニシキエースもリードが無くなってきましたね」
「一、二、三、四…七番手か。偉いな、カチドキ!」
「褒めるスタンスが年寄りじみていますよ」
言われっぱなしでは終われないだろう?カチドキ…勝つんだ。みんな、見ているからな。
『400メートル標識へ向かって各ウマ娘一斉にスパートの態勢!スリーヨークが上がってきた!さあ、第四コーナーから直線!!』
大欅を越えて太陽を正面に走り出す東京の直線。前に押し出される形でスリーヨークが先頭に立つ。
ゴール板が見えたスリーヨークは、歯を食いしばってストライドを大きく取り始めた。
あたしがダービーを獲る!そのためなら、この命だって惜しくはない!!
身体の芯から感じていた、この狂気。これでこそ、ダービー。
しかし、それはスリーヨークに限った心ではない。
『外から回ってコーネルランサー4番手!!キタノカチドキの動きはどうか!?』
カチドキに、勝つ?違う。
皐月賞のリベンジ?違う!
「わたしが、走ってるのはダービー…わたしが勝つべきはダービー!!」
観衆?カチドキ?名誉?
「そんなもの知るか!!わたしが『ダービーウマ娘』になるんだ!!!!邪魔だてするなら容赦しない!!!!!」
スリーヨークを交わして先頭に立つコーネルランサー。その脚の鋭さは、地を裂かんばかりの切れ味であった。
競り合いをカチドキに仕掛ける予定では、ただ皐月賞に縛られたまま。
彼女のダービーは、この直線の瞬間に始まった。
『キタノカチドキが内に入ってきました!コーネルランサーが先頭!コーネルランサーが先頭!!』
ざけんな。俺を差し置いて、主役気取ってんじゃねぇぞ。
「待て、待てよコラ!!俺は終わってねぇぞ!!!」
初めてのことであった。カチドキは初めて、レースの主役の座から転げ落ちた。
スリーヨークを突き放し始めるコーネルランサーに対し、カチドキは未だスリーヨークを交わすところにすら至っていない。
それもそのはず。進路が悪すぎるのだ。内に入ったのもイレ込んだことが仇となり、もはや内にささる悪癖の再発を回避することができなかったのだ。
いかに素質に恵まれようと、負けるときは負ける。
カチドキは、今までの競走相手に味わわせてきたレースの残酷さを無情に叩きつけられていた。
突っ張る喉。擦れる歯。頬骨すら歪むような感情の奔流がカチドキの体内を巡る。
動け!動けよ!!進めよ俺の脚!!!
檄を飛ばすも身体は覚醒しない。泥で汚れた白い袖は、カチドキの蝕まれゆく心の写しのようであった。
その時である。カチドキの視界に増える青い線を纏う影。それは、今自分が抜くのに奮闘しているスリーヨークより先へ行き、コーネルランサーに並びかけていた。
『これは…誰だ?インターグッドだ!インターグッドだ!!前哨戦のオープン競走1着でダービーに滑り込んだインターグッドが、この土壇場でまたも先頭争いに滑り込んだぁ!!!』
まさかの刺客に交わされ、順位がまた一つ落ちる。
俺が、負ける?
俺が、負けんのか?
許さねぇ。
俺が許さねぇぞそんなこと。
「誰に、断ってそこ走ってんだ!調子乗ってんじゃねぇぞぉ!!!待て!!待ちやがれぇ!!!」
脚のもたつきが急速に整い始め、キタノカチドキは加速を始めた。その勢いのままスリーヨークを交わしに行く。
『キタノカチドキ4番手!さあコーネルランサー先頭!!外からインターグッド!
コーネルランサー!
インターグッド!
コーネルランサー!
インターグッド!』
壮絶な叩き合いが繰り広げられる最後の直線、ゴール板までの攻防、2人のウマ娘に観衆の目は奪われていた。
『コーネルランサー!インターグッド!!インターグッドがわずかに有利!!』
これがあるのだ、ダービーは。残り100m。わずかにアタマの差のリードを生み出したインターグッド。その脚は緩むことなく、ゴールへと向かっていく。
ボクの夢ボクの夢ボクの夢!!!もう脇役は懲り懲りだ!!!
メインはボクだ!ボクを見ろ!!!
「カチドキばっか見てたキミは、カチドキと走っていろ!!!」
インターグッドの本音が飛び出す。虎視眈々と狙い続けたこの瞬間、ダービー出走まで諦めずに粘り続けたからこその言葉だった。それは、コーネルランサーの鼓膜を情けなど皆無に殴りつけた。
「…ッ!?」
その時、コーネルランサーの喉の奥が破裂した。
「うわあああああーーーーーー!!!!!!!!!!誰がっ、誰がお前の言う通りに走るか!!!!
そこを退け!!わたしが『ダービーウマ娘』だ!!!カチドキの『2着』じゃない!!!!!」
これがあるのだ、ダービーは。
勝負と誇りの世界。運など二の次。感情が灼き切れ、命を割いて挑む、数多の夢の残骸の上に立つ夢。
その重みと真っ向から向き合い続けて抱いた志は、嘘をつかないのだ。
「退け!退けえ!!」
「誰が退くか!!これで終わりだ!!!」
リードはとっくに消えた。
30。
20。
10。
身体を合わせて走る栗毛が二つ。桃色に被さる青い線は未だに先頭を譲る気配はない。
3。
2。
1。
優劣をつけるとはかくも残酷なのか。
『前2人合わせてゴールイン!!!コーネルランサーとインターグッド!!!3着はキタノカチドキです!!これは写真判定だ!!』
お互いにぶつけ合った殺気とも言える気迫は、大きく勢いを緩めた。
レースは終わった。結果を待つ。その時間、先頭争いをした2人には心中穏やかな瞬間など1秒たりともなかった。
『長い判定が続きます』
一言も交わさない、コーネルランサーとインターグッド。肩、膝、そして肺。安定して機能する部位はなかった。
『判定結果が出ました!!』
顔を上げる。汗でぐしゃぐしゃの顔は、電光板の光を滲ませる。
『優勝は……コーネルランサー!!コーネルランサーです!!
インターグッド、わずかに届かず!!ハナ差!!
日本ダービーを制したのは、コーネルランサー!!!』
「勝っ…た…?」
「…おめ、でとう…。くっ、ううう。あああ」
顔を伏せながらも、相手への賛辞を送るインターグッド。
その姿は、コーネルランサーの視界にこそ入らなかったが、どのような顔してるのかの想像は、勝手にできてしまった。
しかし、未だに頭がはっきりしない。勝ったからなんなのか。わたしは、今どこで、何をしているのか。
それほどまでに脳が未だ回らない中、頭に乗る一つの衝撃が、視界の色彩を取り戻した。
キタノカチドキが、コーネルランサーの頭に手を乗せていた。
「アイサツ、しろよ。『ダービーウマ娘』」
「!?」
「ほら、行けよ。勝ったヤツの特権だぜ。拝んでこいよその景色」
頷きもせず、そのまま歩き出したコーネルランサー。カチドキの手は、そのまま力無く滑り落ちていく。
10万人を超える見届け人を前に、マイクを渡されたコーネルランサーの手は震えていた。
「わ、わた、わたしは…」
ここまで一切収まる気配のなかった歓声が、勝利者の言葉に耳を傾けんと収まり始める。
十万人の視線が、たった一人に集まっている。なのにコーネルランサーは、まだ誰とも目を合わせられなかった。
「わた、し、は」
「コーネル!こっちだ!!こっちに言ってくれ!!!」
「…え?」
大手を振るウマ娘が1人、その横で腕組みをするウマ娘が1人。衆目も気にせず、1人大声で呼びかけたのはミホランザンだった。
「君は、今日、何者になったんだ!?」
「今日、わたしが、何者に…?」
そんなもの、決まっている。
大きく息を吸って、コーネルランサーは叫んだ。
「わたしが、『ダービーウマ娘』です!!!」
わああああああああああああ!!!!!!!!
歓喜の大喝采が遠くなる感覚を覚えて、視界の動きがスロウになったコーネルランサーは、視界が滲んでいくのを止めることはできなかった。
「ふっ、キサマ、何を泣いている…?」
「べ、別に、泣いてなどいない…!」
「バカ者。感涙を、責める者などいないさ」
「う、ううう…!」
その叫びは、ミホランザンの耳を貫いて心を揺さぶる。途端に、泣き崩れたその姿を見て、カーネルシンボリは静かに涙を流した。
キタノカチドキは、その後ろ姿をずっと見ていた。
なぜ俺が、あそこにいれなかったのか。
なぜ俺が、こんなところにいるのか。
なぜ俺が、こんな思いしてんのか。
全てを包括した叫びが周りに届かないよう、カチドキは噛み殺し続け、喉の奥でのたうち回り続けていた。