「な、何だこれは…?」
掲示板に張り出されたポスターを、もう何度読み返したか分からない。
理解できない――いや、理解したくないが正しいか。
『寮対抗模擬レース』。そう銘打たれたイベントに俺は頭を抱えていた。
そんな俺の様子を見て、担当ウマ娘のミスターシービーが俺の横に並んでくる。
「何これ?レースやるの?
…へ〜面白そう」
「いや、これは困ったぞ」
「え?なんで?」
「『勝った寮に予算を優先する』…。誰だこんなの考え付いたのは!?」
「さあ?先生たち?でも、このシンプルさはアタシ好きだけどね」
ただでさえ、チームを管理するだけでも骨が折れるというのに、生活環境にまで新しい変数が増えてしまった。予算の割り振り次第で設備の変化、ひいてはウマ娘たちのコンディションにも変化がある。悩みを増やしやがって…!
だが、まだ時期に救われたな。夏は基本大レースはない。現状、8月にガビーのデビューを予定している。この模擬レースに出るのかは別としてあまりレースのせいで調子を崩されるということもなさそうだ。
仮に出るとしたら……いや、今は休ませなければな。肉体的にも、精神的にも。
「おやおやぁ!?そこにいるのは〜!?」
これ以上俺をイラつかせるなよ。今日は厄日だな。
「パ・ア・ト・ナー・クン♪」
何かが切れた。
「あいだだだだだだだだ!!!!!!!待って待って、なんで!?!?」
俺は、冷静にハンマーロックを掛けた。
「ちょっ、ギブ!ギブ!左腕がヤバいって!!冷静になれって!!!」
「俺は冷静だ。お前はトレーナー。ウマ娘じゃない。なら、多少の実力行使もやむなし。
…冷静な判断だ」
「どこがだよ!ま、ほんとにまずいかも!」
「やめてあげたら?呼んだだけじゃん」
「……」
「あとたぶん、ほんとに痛そう」
「…はぁ」
「あぁぁ…痛い、痛いよぉ」
シービーに止められ、俺は技を解いた。
いや、悪意あっただろあの呼びかけ。ただでさえ、俺自身ダービーの無念をまだ飲み込みきれていないんだ。あまり刺激してくれるな。
「寮対抗、だってね。いやぁ、ボクとしては困るよ?コレ。管理主義だってのにこんなことされちゃ堪らないじゃない?」
「そこは同意見だな」
「だよね〜!で、君のとこはこの模擬レース、誰か出るの?」
「今のところ予定はない。少なくともカチドキは出さん。」
「ふゥん…そうだね。その判断は正しい。秋にはあんな無様晒させるなよ?…って、キミに言っても仕方ないか」
「言われなくともそのつもりだ」
思っていたよりも、煽られなかったな。普通に檄を飛ばされたのみだ。
「とはいえ、模擬レースは模擬レース。公式戦じゃないし、まだデビューを控えているウマ娘にもいい経験になるかもね。出してみたらどう?」
「来るとしたらトゥインクルシリーズの上澄みだろう?」
「…あれー?その様子じゃ、まだ把握してないなぁ?」
マズイ…!つけあがらせるきっかけを与えてしまったようだ。
「今回は12レースやるらしいよ」
「12?」
「短距離、マイル、中距離、長距離。それぞれ三本ずつ。で、デビュー状況とか実績で条件を分ける」
「……なるほど。上澄み同士で1レースって訳ではないのか」
「そ。デビュー前ならデビュー前同士。夏合宿前の腕試しとしては、むしろ有り難くない?」
「…なるほど」
「いいじゃん!出しなよ!リギルがスピカ倒してやるからさ!」
はいはいはい…それが目的か。
舐めやがって。
その鼻を折るにはちょうどいい機会かもな。
「悪いが、リギルがトップの時代も終わりだ。次はスピカが勝つ」
「宣言は聞き飽きてるんだ。示すなら結果で示してね♡」
ちっ、相変わらず人の神経を逆撫でするのが上手い男だ。
そのまま、マエストロはどこかへ行った。やつのことだ。もう模擬レースに関する会議でも開くのだろう。この6月中、リギルのウマ娘が出走する大レースはない。タニノチカラも休養中で回避と聞いている。
…それとも調整目的で模擬レースに出してくるか?
こうしてはいられない。こっちも会議をしなければな。
「シービー、後で部室に集合だ。皆を呼んでおいてくれ」
「わかった。ふぁ〜、昼寝してこよっかな?」
「おい」
さて、どうしたものか…
「へぇ〜。出ていいわよね!?ね!?トレーナー」
「待て、お前の場合は一旦身体を見てから」
「なら見せてあげるわよ?ほら」
「ばっ、やめろぉ!!」
ひとまず、皆部室に集まった。
そして、一通り説明が終わったが、概ね皆乗り気である。やっぱ、ウマ娘が提案したんじゃないか?この案…。
特に話を聞いたガビーのテンションが上がりっぱなしだ。一瞬、上半身の制服を脱ごうとフロント部分に手をかけた瞬間は焦った。なんとか抑え込めたが…。
「………」
スピードシンボリの視線が痛い。腕を組み、壁に寄りかかっている体勢でこちらを見てくるが、その圧が増していくのがよくわかる。
今日は厄日だな。
「トレーナー。今回僕達全員、出走するのですか?」
ありがとうテンポイント。これで再び話を進められる。
「いや、全員じゃないな。うーん。
…少なくとも、テンポイントとシービーには出て欲しい。経験として欲しいところだ」
「ちょっと!なんで私がいないのよ!!」
「だから、それは身体が走りに耐えられるかどうか見定め」
「だから見なさいって言ってるじゃない!」
「そうじゃないと言ってるだろうが!!」
服にかかる手。抑える俺の腕。縮まる距離。煌めく視線。睨むスピードシンボリ。
もう駄目だ。髪が抜け落ちる未来が見える。
「…一旦待て。後のトレーニングで結論は出すから…一旦待ってくれ」
「はーあ。なんでよ…いいじゃない…」
いじけるガビーは、力無くテーブルへと顔を伏せた。なんで俺が悪い感じになってるんだ…
「俺は、出なくていいのかよ…」
「…ああ、お前は休め。まだダービーの疲労は回復していないだろう」
「…そうかよ」
……反論すらしない。
やっぱり、一番深刻なのはカチドキだ。ダービー以来、ずっとこんな調子だった。
あのままではきっかけがない限り本調子になるのは厳しいだろう。
しかし、今回の模擬レースには出走させない。これは決定事項だ。精神の前に肉体を壊しては意味がない。
特に、カチドキは既に八大競走ウマ娘だ。確実に激戦となる距離別の大将戦のレースに組み込まれる。適性距離であったとしても、絶対に出走を許すことはできない。
「あの、私は…」
「お前も駄目だ。ただでさえウマ娘が苦手なのに、その催しに出ろというほど俺は鬼じゃない」
「そ、そうですか…よかったぁ」
「何、安心してんのよ。克服するいい機会じゃない。」
「いや、流石に段階が欲しいよ。ガビー」
「ガビー先輩。カブ先輩のペースがありますから」
「やっぱテンちゃんは優しいよ、ありがとう…」
「て、テンちゃん…」
「何よ!私の方が仲良いのに、ちゃん付け先越されたんだけど!」
ガタッ、とガビーが勢いよく立ち上がる。恵まれた体躯に押し退けられた椅子が、床を滑って転がった。
「後輩に愛着湧くのは仕方ないでしょ?ガビー」
「むきー!!」
「…距離どうしよっかなー?スー先輩は出ないの?」
「俺より、今後のウマ娘が出るべきさ。せっかくの機会をこの老兵が掠め取る訳には行かないよ」
項垂れるカチドキ。まだ距離を考えているシービー。ガビーに絡まれて縮こまるカブラヤオー。その間に挟まれて困っているテンポイント。
………そろそろ、相談行ってみるか。
「とりあえず、俺は用事を済ませてからトラックに行く。お前たちも落ち着いたらそこに行ってストレッチ、そして俺がくる前に終わったらスピードシンボリの指示に従ってくれ」
「わかった。行ってらっしゃい、トレーナー」
「…後で話があるから、よろしく頼むよ。トレーナー君」
話す内容が増えたな、スピードシンボリの視線。
ひとまずこの時間なら部室にいるはずだ。情報収集も兼ねて、行くとしよう。
「このままでは彼女が、潰れてしまう…」
扉を閉じる寸前に聞こえたスピードシンボリの声。それは怒りが込もったものではなく、悲壮なものだった。
『チーム・カノープス』
トレセン学園に存在するチームの三大巨頭はリギル、スピカ、そしてカノープス。
リギルは管理体制、スピカは己の走りの追求とそれぞれコンセプトを掲げてその看板を背負っている。
だが、カノープスだけは異質なのだ。思想、理念、目的、コンセプト――そのどれもが、外からは見えてこない。所属するウマ娘も癖者揃い。担当トレーナーについても情報が少なく、レース界に確かに存在していながら、その実態を掴んでいる者は数少ない。
…なんだか、犯罪組織みたいな説明になってしまったな。これでは、申し訳ない。
だが、謎めいているのは確かである。何せ、メディアの露出を極力控えているのだ。スピカ、リギルはよくテレビ報道などで名前を出されるが、カノープスはそれを許していない。
じゃあなんでチームの旗を掲げているのかというと、それもわからない。だから謎なのだ。
しかし、はっきり言うが、俺はここが1番の脅威だと捉えている。今でこそ因縁も何もないが、できることならばそんなもの作りたくない。絶対に事を構えたくないのだ。
そして、訪れたここはカノープスの部室。担当たちをサブトレーナーのスピードシンボリに任せて悪いが、今の俺に必要な力のカギは、ここにあるはずだ。
「失礼します。スピカのトレーナーです。どなたかいらっしゃいますか?」
ノックをして呼びかけるが、返事がない。
…入れ違ったか?もう一度ノックをしてみる。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか?」
なんの前触れもなくドアが開いた。目を擦って現れたのはギザギザの歯をチラつかせた、いつぞやの評論家であった。
「久しぶりだな、カブトシロー。寝ていたところか?すまなかったな」
「ホントだよォ、ったく…なんか用かァ?」
「ああ、『ファンボーイ』に取り次いでもらえるか?」
「なんだよ、トレーナーに用あんのか?」
「そうだ」
「…ちょっと待ってなァ」
…既にツッコミどころが多い。
俺はカブトシローの家に来たのか?そのレベルの生活感というか、ユルさがある。
それにカブトシローも私服を着ていた。おかしいな、ここ学園だよな?一瞬、勝負服かとも思ったが、記憶にあるものとは全然違っていたため即座に否定できた。
「…いいってよ。ちょっと片付けるから待っててな」
俺はカブトシローの家に来たのか?部室という概念がどんどん書き換えられていきそうな体験だ。
程なくして、俺は部室の中に招かれた。
テレビ、ソファ、新聞紙、新聞紙、新聞紙…ほんとに片付けたのかこれは?カーペットの上に散乱しているぞ。
だが、ホワイトボードがあった。良かった。これがなかったら俺は部室と認識できない。
「悪いな。客もてなす礼儀もなってなくてよ」
「いえ、気にしておりません。むしろ、急に訪ねた私に対応していただきありがとうございます」
「おう、そうかたくなんな。ビジネスとか辞めようぜ」
片膝を立てて座布団に腰を下ろす壮年の男。彼がチーム・カノープスのトレーナー、通り名は『ファンボーイ』である。
はっきり言って、狂人だ。
「ここに来たのは、こないだ提案した人生相談か?」
「その通りです。」
「わかった。まあ座れ」
低い座卓を挟んで俺たちは向き合った。冬になれば炬燵にもなりそうな机だ。より一層部室とはかけ離れた生活感が強まる
「とれーなー、冷蔵庫のやついい?」
「あ?どれだよ?」
「こーら」
「おう、いいぞ」
「おっけー」
「お前がいう事じゃないだろ」
笑いながらウマ娘と会話するファンボーイのその振る舞いは、まるで家族のようだった。この時点で異質である。
「あいつはそろそろデビューする予定でな。『エリモジョージ』ってんだ。覚えてってくれ」
「これ、だれ?」
「スピカってチームのトレーナーだ。挨拶しとけ」
「どうも、エリモジョージ。よろしく」
「よ、よろしく。スピカのトレーナーだ」
「通り名は『パートナー』だってよ。いいよな」
「へー。かっこいー」
うちのチームも大概だが、一際癖が強い空間だぞこれ。
カブトシロー、エリモジョージ…既に登場したメンツの空気感で胃もたれがする。
…いや、胃もたれの原因は、彼女らじゃないな。俺の弱さだ。
「結構、マイペースなウマ娘が多いんですね」
「ん?ああ、そうだな。まあ、俺自身がマイペースだからな。トレーナーも趣味だしよ」
もう一度言う。狂人である。
趣味でトレーナー業などまず無理だ。ましてチームなど…。
だが実際、彼はトレーナーの他の仕事として、喫茶店を経営している。個人店で帳尻を合わせることができるとはいえ、人間離れした所業だ。成り立つはずがない。
にも関わらず、実績はあるのだ。カブトシローは天皇賞と有馬記念を制覇。そして、この間の春の天皇賞を勝ったタケホープも、日本ダービー、菊花賞を制した頃にはカノープスに所属していた。
趣味でやっている男が、だ。
なぜこんなことができるのか。以前にちらりとそれっぽい事を聞いたが、改めて確証を得ることにした。
「ですが、副業しながらレースを分析して書類を作って…大変ではありませんか?」
「まあ、パソコンで書類作るのははっきり言って怠いが、別にウマ娘見ることにゃなんの苦労もないぞ」
「…なぜ?」
「え?そりゃあだって、みりゃわかんじゃねえか」
こういうところである。俺が事を構えたくないのは。
リギルの『マエストロ』も大概、トレーナーとしては規格外な実力を持っているが、はっきり言って『ファンボーイ』に関しては、天才という表現すら生温いその観察眼が畏怖の対象なのだ。
何の参考にもならない。彼自身言語化できない。しかし、彼曰く『見ればわかる』のだ。ウマ娘のコンディション、実力、考え…他のトレーナーが教えを乞いても分からない領域における感性が並外れている。
「『みりゃわかる』ですか…私にもそんな力があれば…」
「どうした?カチドキのダービーか?」
「…鋭いですね。とはいえ、他にもあるんですが」
「そうかい。今日何かあったのか?」
「寮対抗の模擬レースが開催されることは知っていますか?」
「ん?…あれか、マルゼンが言ってたな」
「今日その話をチームでしてきたんですが、ちょっとこの頃、あいつらの手綱を引くことができなくてですね…」
「…」
「それぞれ、いろんな感情を抱えているんです。純粋にレースを楽しみたいやつもいれば、一度立ち止まりたいやつもいる。自分のペースを尊重してほしいやつもいれば、日々ベストを尽くすことに命をかけるやつもいる。
相乗効果も狙えるだろうと、チームとしてまとめるよう努力してるんですが、各々の意思があちこちに伸び始めてから、少々、向き合うのにも負担を感じるようになってきてしまいまして…」
「おう。」
「特に…カチドキは深刻です。あの負けから未だ立ち直る気配がない。声をかけようにも、どうするべきか…踏み込みあぐねているんです」
「…そうか」
ファンボーイは、俺の話を一切目線も逸らさず聞いていた。
伝えたいことを伝える。なのに、口にしてから少し後悔した。
これではまるで、あいつらのせいで俺が参っているみたいじゃないか。
違う。あいつらは何も悪くない。俺だ。俺が、上手く向き合えていないだけで――
ファンボーイは俺から目線を外す。喉奥で唸りながら耳の裏を掻いていた。
「お前…賢いんだな」
「え?」
「そこまで気い回したことねえよ。チーム担当したのだって成り行きだったしな。そこまで考えてウマ娘と接してみろなんて、同じ歳の頃の俺に言ってもできねえだろうよ」
「そ、そんな。これくらいは」
「その辺は認めてやれ。自分のことをな」
机に散乱した柄のついた飴玉でビシッと指される。
てっきり、もっとディレクションされまくって『若い』と一蹴されるものだと思っていたが…
「ただ、頭でっかちになっている節はあるな。頭回っちまう分、何かできねえかと常に模索してて、それが叶わねえと息苦しい。
…そんなとこじゃねえのか?」
「…そうなんでしょうか」
「お前はスピードシンボリのトレーナーだしな。サポートしても、したりねえってのが続いてたから麻痺ってるだけだ。もちろん、その精神はいいことだけどな」
「じゃあ、俺はどうすればいいんでしょうか?俺は何をしてやれれば…」
喉を擦る息を吐くが、ネガティブな意図は感じない。慣れないことをさせているんだなと感じる。
「何か『する』か…『する』とかじゃないと思うぞ」
「…どういうことですか?」
「俺らがしてやれることってのは、せいぜい見送ることと見届けることだ。そんな干渉するもんじゃねえ。
俺らにできる1番は、『居場所になる』ことだ。これは別に何かしようとしてできるもんじゃねえんだ」
「『居場所』…?」
「『かわいい子には旅をさせろ』っていうが、若え奴らはさせなくても、勝手に大なり小なり旅してるもんだ。場所とかそういう話じゃなく、心がな。
キタノカチドキもそうだと思うぞ。負けて傷心、自分探し?まあ、そんな時期だろう。そういうやつが周り、仲間に何を求めると思う?
…変わらず受け入れてくれる『居場所』さ。ひとりぼっちは悪いことじゃねえ。ただ、ひとりじゃ生きていけねえ。その間、変わらず居場所を護んのがトレーナーの役目だと俺は思ってる」
「…」
「他のやつらにしたってそうだ。みんな旅に出るとこだ。当然俺らは心配するが、信じて待つのも仕事だ。」
彼女らも皆、目標やレースに対する情熱が明確になっている。
…確かに、そろそろ自信を持って見送るべきタイミングなのだろうか。
「だから何かしてやったりする必要ねえよ。『居て』やる。これが俺の回答だな」
『居てやる』、か…。何かしなきゃと追い詰められていたが、そんな事は無いってことか。ふっ、まるで悟りでも説かれている気分だ。色々と頭の中を巡る俺にはハードルが高い。
「いや、すまん。一個あるわ、やること」
「な、なんでしょうか!?」
「おお、おお、若いっていいねえ」
前のめりになるのも当たり前だ。今まで飄々としたスタンスを貫いていたファンボーイが、起こすアクション。
知りたい。
それさえ分かれば、俺はもっとあいつらに寄り添えるはず。
「そいつが笑ったら、お前も笑え。お前が笑ったらそいつも笑え。笑おうとすんなよ?一緒に笑え。
ただでさえ、一緒になって泣くしかねえやつらばっかの世界だ。笑えるときゃ笑わねえとな」
そう言ってファンボーイは飴玉を舐め出した。
一緒に、笑う。
今まで、やった記憶はある。至極、当たり前のことだと思っていた。
タイムを更新した時、何気ない会話、そして、レースを全うした時…。
今までの記憶が、一挙にリフレインされる。
自覚した今なら分かる。あの瞬間が、どれだけかけがえのないものか。そして、それを生むのは、ただ尽くすのみでは…。
「……ありがとうございます」
「おう」
「俺、あいつらのところに戻ります」
「ん。行ってこい」
俺は立ち上がり、部室の出口へと歩く。
さっきより、散らかった部屋が綺麗に見えた。
「もうあいつら始めてるぜ」
ベンチでスピカの練習を眺める後ろ姿に、俺は胸が締め付けられる。顔を見るのも気後れしてしまう。
俺はその隣に腰を下ろした。…結局、トレーニングに参加しないという道を選ばせてしまった。
抜け殻のように佇むカチドキは、遠い目をしていて、どこまでも淋しさに支配されていた。
「お前は参加しないのか?」
「していいのかよ。俺の身体ダメなんだろ…?」
……今のこいつに、何を言えばいい。
答えはまだ出ない。それでも、隣を空ける気にはなれなかった。
トレーナーの俺にできることは、まず、ここに『居る』こと。
「好きにしろ」
カチドキの肩が、わずかに落ちる。
「…っ!?
トレー、ナぁ…。そうだよな、もう。負けた俺なんて…」
「走りたい時にでも走れ。俺は待ってる。あの時の、いやあれ以上のお前の『勝ち鬨』を待ってる」
「…へ?」
けれど、隣に座っているだけで、こいつに伝わっているのか。
俺が何を思って、何を待っているのか。黙ったままじゃ、見限られたと思わせたままだ。
ファンボーイの言葉が、今になって胸につかえた。
「一回負けたからって、俺がお前の見方変えるわけ無いだろう。
俺はここにいる。いる、からさ…自分はここにはいないって顔、するな…」
「…なんで、お前が泣いてんだよ…」
「…黙れ。お前が吐き出さず腐るからだ…!」
言ってしまえば、もう押し戻せなかった。悔しかったことも、心配だったことも、それでもこいつと勝ちたいことも。
吐き出せと言いながら、俺だって飲み込んでいた。
待っているだけじゃ、こいつには俺の顔が見えない。隣にいる俺も、悔しがっている。まだ、お前と先へ行きたがっている。
それを伝えるところまでが、俺にとっての『居る』なのかもしれない。
…気づいてないと思ってたのか?カチドキ。お前があの時、悔しさで叫びそうな思いを全て噛み殺してたこと。そのままコーネルランサーを見送って、観客に一切顔を向けずにターフを後にしたこと。俺はその姿が、目に焼きついて離れない。
そして、俺らと合流しても、『次は勝つ』とか、未来の話を何もしなかったな…。
「満足するまで、いくらでも悩め。そして、いくらでも言ってくれ。俺はもちろん、チームの奴らだってお前の言葉をスカすことなんかしない。
俺だって、お前の気持ちを汲み取りきれずに制限ばかりしていたことは反省する。すまなかった。
だから、言いたい事があれば言ってくれ。皆いるんだ」
「…なんだよ。こっちみんな、みんじゃねぇよおい…!」
「お前は負けた!悔しいだろ!俺だって悔しい!……次は勝とう。俺も、お前と勝ちたいんだよ!」
カチドキのシルエットが消えた。それと同時に、懐に重く突き刺さる感触があった。胸に額がぶつかり、ジャージを掴む指が食い込む。
俺は初めて、カチドキが泣くのを堪えられなくなるところを見た。
泣きじゃくるカチドキは、言葉をなんとか成立させる。それが、彼女の望みだった。
「俺が…俺が勝ちたかった!俺だって、あそこにいたかった!!あんな、叫び見せられて、そこにすらいけなかったのが、悔しかった!」
「…そうだよな。俺もさ」
「うっ、う…うわあああああ」
俺の着るジャージにしがみつき、顔を押し付けるカチドキの慟哭は、ターフの向こうに届くことはなかった。
だが、こいつはひとりじゃない。俺が側にいる。
「俺の未来を、信じてくれて…ありがとう…」
絞り出すように、カチドキはそう伝えてくれた。
顔を上げると、遠くでこちらを見ている二つの碧玉と目が合った。
スピードシンボリの目には、これまで見たことのない慈しみが宿っていた。
「見事なご指南にございました。私も感じ入った次第です」
「…なんだよ。居たなら言え。紹介しそびれたじゃねえか」
『パートナー』が出ていった扉の先を、ファンボーイは眺めていた。何かを見ているわけでもない。ただただ、ずっと眺めていた。
その様子を、陰から正座で見守り続けていたグリーングラスは、パートナーの退出後に口を開いた。
「シロさんも私も、時分の場を慮り、おずおずと控えておりました。さりながら、ジョーさんのみは別様でございましたが」
「ジョーさんきもちわるい。かえて」
「…モジョさん?」
「…あたしモテない?」
「知らねえよ。だが、世にでりゃみんなほっとかねえさ」
後ろから抱きつき、肩に顎を乗せるエリモジョージを相手に、微動だにしないファンボーイ。
そんな男を相手に、彼女は耳を萎れさせて「むう」と拗ねた。着崩したジャージの下で、くしゃくしゃのタンクトップが片方の肩からずり落ちている。本人はまるで気にしていない。
「てか、指南っつうか…相談乗ってただけだぞ?ほぼ喋ってんの俺だったし、ちゃんと役に立てたのかねえ?」
「あの面構えを見れば一目瞭然です。気懸かりは無用でしょう」
「まあ、俺なんぞより『共感』って分野には明るそうだしな。今後が楽しみだ。
おい、ジョージ。コーラとってくれ」
「…もうのんだ」
「はあ!?おまえ、2本あっただろうが!?」
「もうのんだ。ポテチ欲しい」
「はあ…」
「その齢に炭酸は、いささか障るやもしれません」
「…けっ、可愛げのないやつらだ」
ファンボーイは財布を握って部室を後にした。