ウマ娘Frenzy Stars   作:薄暮ターフ

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第十四話 喉奥に閊えた永遠

 

 言うなれば呂蒙。

 

 それが、オレから見たタニノチカラというウマ娘だ。

 

 今日は宝塚記念。六月の第一週という異例の日程だ。

 というのも、ストライキによる日程の変更は宝塚記念にも響いており、特に関西圏のレースはそれが顕著だったようだ。今回は京都レース場での開催と相成り、画面越しにもその熱量が伝わってくる。

 春の総決算といえるレースである宝塚記念は、有馬記念と同じポジションのグランプリレースなのだが、八大競走に数えられておらず、一つ格が低い扱いをされている。

 出走する面子は現役最高峰クラスなのだから、同格にあげても良いと思うのだが…

 

 現地には行かず、学園の視聴覚室にてオレはリギルのチームメイトであるタニノチカラと宝塚記念の中継を見ていた。

 

「………」

 

 レースの様子をタニノチカラは手元にメモ帳を備えてじっくりと見ている。

 実況の一声、挟まれる解説のコメント。ウマ娘のポジションの入れ替わり、走法の変化。

 画面から伝わるあらゆる情報を、端的にメモへと残していく。手元を見ずに文字を書いているところから、幾度となく繰り返してきた作業なのだろう。

 

『関西で初めての勝利を飾るハイセイコー1着!ハイセイコー1着です!!』

 

 レースの結果は、ハイセイコーによるレコード勝ち。差は5バ身。前回の天皇賞・春での惨敗を払拭する走りだった。

 淀の第3コーナーから、先頭で押し切り勝ち。誰が見ても強いと言えるパフォーマンスだろう。天皇賞・春の時の負けを受けて2番人気となったが、これでまた世の中に火をつけることになるだろう。

 

「やはりあの踏み込み…同じ進路でも土煙の量が違う。筋力だけでなく、重量とストライドだな。だが、あれを可能にしているのは…」

 

 走らせるペンと並行して口でぶつぶつと情報を整理させていくタニノチカラ。レースに対する所感を共有したいところだったが、落ち着くまで待つことにした。

 

 …カリカリとペンは止まることはない。

 

 …仕方ない。勝利後インタビューでも見るか。

 

『みんな、ありがとう そして、こんにちわ』

 

 ワアアアアアアアアアア!!!!!!

 

 どうなっている?いつからインタビューは音楽隊が参加するようになったんだ?

 ウィナーズサークルにて、ポップな歌を歌いながら踊るハイセイコーの姿を見て、多くの人々が囃し立てていた

 

『キャー!!!ハーぽんんんんん!!!おめでとぉ!!!!』

 

 興奮するファンの声がカメラに拾われる。どうやらウマ娘のようだ。…熱心なことだな。

 いや違う。いったい、いつから勝利者インタビューの場は、アイドルコンサートのライブ会場になったんだ。

 

「あの安定感…!やはり体幹も凄まじい…!レース時と同じく腕の振り上げが一切衰えない…」

 

 しまった。また情報を与えてしまった…また長引くな。

 

 テレビも消してオレも黙って数分が過ぎた頃、やっとタニノチカラはメモ帳を閉じた。鼻で深呼吸をする彼女の様子からして、かなりエネルギーを使ったようだ。

 

「いつも、あのようにメモに残しているのか?」

 

「そうだ。学ぶことは楽しい。いくら見て書いて考えても足りない。それがいい」

 

「ほう…過去のレース映像からは考えられない言動だ」

 

 オレはデビューして間もない頃のタニノチカラを、観客席から見たことがある。

 当時、『花組』と謳われた近年でもレベルの高いと言われていたクラシック世代。前回の天皇賞・春で2着、今回の宝塚記念で一番人気だったストロングエイトもその世代だ。実力、ルックス共に優れており、その煌びやかさは人々の心を惹きつけた。

 

 翌年、更なる光が日本競バ界を席巻したのだが。

 

 タニノチカラも『花組』の世代である。姉のこともあり、将来を期待されていた。

 優れた加速力とスピード。抑えなど効かぬと主張するかのような、地を這うが如き低重心のフォーム。

 

 あの頃のオレでも見ていて分かった。

 

 奴は化け物だと。

 

 しかし、才があることと、使いこなすことは違う。

 激化するクラシックレースの枠争い。出走権に焦っていたことがレース映像からでも見てとれるような走りだった。

 

「あの頃は…吾輩も若かったのだ。我武者羅に走っていればいいと思っていた。ひたすら力を振り回すだけの走りだった。

 …しかし、その結果、二度の骨折…クラシックにも終ぞ出走できなかった。無念…」

 

「ふん」

 

「そんな時に姉さんが言ってくれたのだ。『強く走るより、長く走りなさい』と。

 吾輩は、姉さんの分もターフに立っていなければならない。いや、立ちたいのだ」

 

 素晴らしい姉妹愛だな。オレからもメモ帳からも目を離し、どこかを見つめてそう言ったタニノチカラは、普段のその重苦しい雰囲気からは考えられないほど純粋な思いでレースに臨んでいるようだ。

 

「貴公はどうだ?ルドルフ」

 

「ん?」

 

「心のどこかに、『誰かのために走る』という思いは無いのか?」

 

 誰かのため…か。

 

「そんなつもりで走りなどしない。オレはただ許せんだけだ」

 

「…そうか。いつか満たされる時が来ると良いな」

 

 薄暗い視聴覚室の中で、琥珀色の光が額を横切る長い前髪で見切れていく。わずかに見えた口元からは表情こそ読み取れないものの、先達の優しさを感じた。

 ここリギルに入部してから、オレの中でのタニノチカラというウマ娘に対する印象は大きく変わった。

 奔放というか、仏頂面ではあったものの自身の心に嘘をつけないような…そんな直情径行な荒々しさを画面、そしてラチ越しに見ていた。

 そんなタニノチカラ像を抱いて入った頃…いや、それよりも少し前から感じ取ってはいたか。彼女が天皇賞・秋を制した頃だろうか。

 面目一新。以前までの情熱を訴えかけてくるような猪突猛進な振る舞いと佇まいから一変し、細く鋭く、貫くような気迫へと変貌していた。

 だが、レースへと取り組む姿勢を見る限り、レースへの情熱を形にして注ぎ続けるその一意専心の心根自体は変わっていないようだ。

 

 なればこそ、オレは彼女の中に呂蒙を見た。

 

 

 かつて武勇にのみ頼っていた呉の将は、孫権の勧めで学問に励み、やがて知勇兼備の名将へと変貌した。関羽を敗走へと追い込み、荊州を奪取したことでも知られる人物だ。

 

 その生真面目さ、実直さ。そして、一度定めた道を愚直に突き進む気質。

 

 なるほど。タニノチカラは、もはや呉下の阿蒙ではない。

 

 ……もっとも、最近読んだ本が三国志だったから、こんな連想をしたのかもしれんが。

 

「その本…三国志か?」

 

「ん?…ああ、最近借りて読み切ったところだ。返しに行かなければな」

 

「…今日、返しにいくのか?」

 

「そのつもりだ」

 

 真っ直ぐにオレを見つめるタニノチカラ。性根が真っ直ぐではあるが、何を考えているのかわからないのが難点だ。口数の少なさはもちろん、表情筋が凝り固まったその顔は、見ているとこっちまで感覚が抜け落ちていくような気分になる。

 

「ならば本の感想を考えておくといい。特に、印象に残った人物の人格について考えておけ」

 

「…何?」

 

「吾輩は行く。そろそろ卵を買いに行かなければならない」

 

 そう言って、タニノチカラは視聴覚室を後にする。

 

「行ってくる」

 

 肩に掛かる重厚感のある髪を振り払うように肩を回し、大木が動き出したかのような迫力があった。

 歩き出す。細い腰から伸びるその肢体は決して華奢ではなかった。

 骨太な脚の歩様は力強く、出口の扉から差し込む光へと消えていく背中は逞しかった。

 

 静かな武威。壮絶な覚悟を、感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いや、単なる買い出しだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『図書室では静かにお願いします』

 

『騒がしい栗東寮所属者に関しましてはコダマまで連絡を』

 

『騒いだ美浦は、ダート埋めるけぇ』

 

 学園の中でも、知と静の象徴であるはずなのに…暴の波動しか感じない張り紙たち。

 丁寧な物言いが印刷された明朝体と、荒々しい墨が走った筆の文字。

 全く書式は違うが、その裏に潜む筆者の顔は想像するだに恐ろしいものだろう。

 

 …騒がしくしても、果たし合いができるわけではないだろう。一方的に詰られ時間を無駄にするだけだ。ひとまず従うとしよう。シンボリの品格もあるしな。

 

「あれ、初めて見る顔…」

 

 と判断した瞬間、突如現れた喋り声。

 初対面であろう相手にすら気兼ねなく話しかけてくるその胆力。認めこそするが、ここでそのような狼藉を続けようものならこの張り紙の主の犠牲になることだろう。哀れな。

 

 …別に恐れることなどないのだから、返事はするが。

 

「図書室は静かにするところでは無かったのか?」

 

「ずっと静かじゃ、本だって寂しいだろうさ」

 

 優しい声だった。

 何気ない言葉のはずなのに、髪の隙間に指を差し入れられ、ゆっくりと梳かれていくような。そんな心地を覚える耳触り。

 低すぎず、高すぎず。語りかける声というものに設計図があるのなら、これが理想形だろう。

 

 春風駘蕩。

 

 もっとも、まだ名も知らぬ相手をそこまで評するのは早計だろう。声が穏やかだからといって、性根までそうとは限らん。

 

 声の主は受付にいた。

 

 明るい栗毛が窓から覗く斜陽で輝いていた。顎を左の手のひらで支え、肘をつくウマ娘。

 カウンターの開かれた本に載せられ、陽を受けた右手に、栗色の髪が細い影を落としていた。

 

「…んん?ああ、ごめんよ。初めて見た顔じゃないね。シンボリルドルフ…だっけ?チカと一緒にいるのを見た」

 

 しばらくこちらの顔を見ていた文学少女は閃いたように体を起こし、オレの名を当てた。今後、この学園を席巻する以上、知っていてもらわんと困るからな。

 

 …それにしても、チカ、か。その砕けた呼び名、聞いただけでは誰かわからんがオレは察しがついていた。

 タニノチカラのことだろう。馴染みのない呼ばれ方だが、このウマ娘の顔を知っていたオレはすぐに気づいた。

 世間一般としては、目の前のウマ娘の方が著名だろう。オレ以外が見ても知っているといった反応を示すはずだ。

 

 かつて、東西の大戦争の顔役としてターフに立ち、ライバル、観衆、トレーナー…あらゆる人々、ウマ娘の心を狂わせた、風雲の二冠ウマ娘。

 

 そして、タニノチカラの姉。

 

「お前の話もタニノチカラからよく聞くぞ。タニノムーティエ」

 

「なんだ、知ってたの?ミステリアスな謎のウマ娘って思われるのを期待してたんだけどなー」

 

「この学園にいてお前の顔を知らないはずがないだろう」

 

「そっかぁ。そんな有名なんだね、私。ふふっ、なんか嬉しいや」

 

 当たり前だと目で訴えるオレの視線をよそに、タニノムーティエは微笑んだ。記憶の中で鮮烈に焼きついたターフでの姿と、なんら変わらないものだった。いつでも柔らかな物腰は崩さないようだ。

 

 彼女の話となると目が変わる奴らとは大違いだな。

 

「けほっ、けほっ。それで、その脇に抱えた本…返しに来たんだね。預かるよ」

 

「頼む」

 

「三国志か…どう?面白かった?」

 

 手の甲に顎を乗せて、首を傾ける彼女の視線は、オレの瞳の奥底を超えたところまで覗き込んでくるようだった。右耳を飾る白い花の花弁が小さく揺れる。

 

 どこか、試してきているような意図を感じた。

 

 …成程。

 

『本の感想を考えておくといい。特に、印象に残った人物の人格について考えておけ』

 

 タニノチカラの、忠告ともいえないあの言葉の真意はここにあったのだな。おそらく誰にでも聞いて回っているのだろう。その目に射抜かれても話し、認められたウマ娘が果たしてどれだけいたのだろうか…。

 

 オレは例外だがな。

 

「そうだな。好ましいのは曹操だった」

 

「へ〜。この本だと、かなり悪者チックに書かれてなかったっけかなぁ」

 

「その悪辣さも、乱世を終わらせるためだろう。その壮大な志と、目先の欲にかまける浅ましさが読んでいて面白かったな。

 治世のために、覇道を征くために己を殺し続け、人間らしさをひたすら捨て続けた精神は素晴らしかったが、敵の叔母である鄒氏という女にうつつを抜かして有能な部下を失う、人間臭さがたまらなかったな。

 なればこそ王を象徴していた。王だろうがなんだろうが、どこまで行こうが所詮ヒトはヒト。獣の心も人の心も表裏一体なのだ。その程度の振れ幅の大きさが、魅力的だったな」

 

「…面白いね、君。感想で楽しくなったのは久しぶりだよ」

 

「ふん、見え透いた世辞など要らん」

 

「もうちょっと聞いてみたいなぁ…君との話、夢中になっちゃいそうだよ」

 

 …こいつに狂信的になる奴らが、如何なる毒牙にかかったのか。少し理解できた気がする。

 

「じゃあ…そうだね。逆に気に入らなかったのは誰かな?」

 

 先程とは逆の質問。そんなもの、いくらでも思い浮かぶが。

 

 オレの中でどうにも気に入らない…いや、許せなかったのは。

 

「劉禅だ」

 

「劉禅……蜀の最後の皇帝だね。やっぱり、国を滅ぼしちゃったから?」

 

「それもある。だが、オレが気に食わんのは、奴が本当に暗愚だったのかどうかということだ」

 

「……暗愚じゃなかったら、気に入るんじゃないの?」

 

「逆だ。暗愚でなかったのならば、なおさら許せん」

 

「へえ……どうして?」

 

「確かに、奴の治世を褒める気にはなれん。宦官の黄皓を重用し、朝政を乱した。度重なる北伐も国力を疲弊させた。国を滅ぼした責を問われるのは当然だろう」

 

「うん」

 

「だが、最後の降伏だ。あれはどうにも引っかかる」

 

「……降伏?」

 

「魏の侵攻を受け、姜維らが抗戦を続ける中、鄧艾は綿竹を突破し、成都へ迫った。劉禅はそこで抗戦を断念し、魏への降伏を選んだ」

 

「そうだね」

 

「まだ戦力は残されていた。成都に籠もり、抵抗を続ける道もあっただろう。だが、仮に敵を退けたとして、その先に何がある? 魏との国力差は覆らん。国土が広がるわけでもない。勝ち目の薄い戦を引き延ばし、兵と民をいたずらに死なせるだけだ」

 

「……」

 

「ならば、国の終わりを見極めた判断そのものは、理に適っている。己の地位に固執し、民を道連れにするよりは、よほど賢明だろう」

 

「……君、降伏するのも悪くないって思うんだ?」

 

「無論だ。退くべき時に退くこともまた、将の才だ。負けると分かっている戦に命を投げ出すことを、勇猛とは呼ばん。蛮勇だ」

 

「そっかぁ……」

 

 タニノムーティエは頬杖をつき直した。

 

「じゃあ、劉禅は最後に、ちゃんと皇帝らしいことをしたんだね」

 

「……そうとも言える。仮に奴自身がその結末を見極め、決断したのならば、な」

 

「ふふっ。なら、どうして許せないの?」

 

「だからこそだ」

 

「……?」

 

「それほどの判断ができるのならば、なぜその才を、もっと早く振るわなかった?」

 

 タニノムーティエの目が、わずかに細まった。

 

「国を失うと見切ることができたのなら、失わずに済む道を探すこともできたのではないか。己の限界を知る目があったのなら、その限界を押し広げるために、何をすべきか考えられたのではないか」

 

「……」

 

「もちろん、敗北を見極める才と、勝利を掴む才は違う。劉禅一人の力で魏を覆せたとも思わん。だが、奴は一国の皇帝だった。己の持つ才も、臣下の持つ才も、使えるものはすべて使い切ったのか。オレには、それが疑わしい」

 

「……なるほどね」

 

「暗愚だったのならば、それまでの話だ。しかし、才を持ちながら振るわず、最後になって初めて賢明な判断を下したのだとすれば……それはあまりに惜しい」

 

「惜しい、かぁ」

 

「国を終わらせることができた。その事実は認めよう。だが、それ以前に、国を存続させるために尽くせる手はなかったのか。オレはそう考えてしまう」

 

「……ふふっ」

 

 タニノムーティエは小さく笑った。

 

「君は、終わらせることより、終わらせないために何ができたかを考えるんだね」

 

「当然だろう。終わらせることを前提に始める者などおらん」

 

「でもね、ルドルフ」

 

 声が、少しだけ柔らかくなった。

 

「終わらせるからこそ、守れるものもあるんじゃないかな」

 

「……何?」

 

「劉禅があそこで降伏しなかったら、もっとたくさんの人が死んでいたかもしれない。皇帝としての自分を終わらせることで、守れたものがあったのかもしれないよ」

 

「……それは、オレも否定しておらん」

 

「うん。知ってる」

 

 そう言って、彼女は微笑んだ。

 

「君は、劉禅が終わりを選んだことを責めているんじゃないんだね。その前に、もっとできたはずだって思ってる」

 

「そうだ」

 

「でも、きっと難しいよ。どこまでやれば、やり尽くしたことになるんだろうね」

 

「……」

 

「まだできることがあるって思い続けたら、いつまで経っても終われないもの」

 

 彼女は、返却した三国志の本へ視線を落とした。

 

「……私はね、終わることも、一つの決断だと思うんだ」

 

「……ふん」

 

 異論はある。

 

 だが、劉禅の降伏を評価した以上、その言葉を一概に否定することもできん。

 

「それは、終わりを迎える者の理屈だろう」

 

「……そうかもね」

 

「オレには無縁だ」

 

「そうなの?」

 

「当たり前だ。オレの覇道に終わりはない。無論、死ぬまでな」

 

「……」

 

 タニノムーティエは、しばらくオレの顔を見つめていた。

 やがて、その口元が緩む。

 

「……ふふっ。あはははは! けほっ、ひひっ……ごほっ!」

 

 盾を思わせる木製の背もたれに身を預け、腹を押さえながら天を仰いで大笑いする。

 図書室は静かに、という注意書きなど意にも介さない振る舞いだ。

 

 ……何がおかしいのだ。

 

「そっかぁ。君、終わらないんだ……へえ、『永遠なる皇帝』ってわけだね? シンボリルドルフ」

 

 それは…悪い気はしない。

 

「……ふっ、良い呼び名だ。ありがたく頂戴しよう」

 

「ふふっ。うん、似合ってるよ」

 

 彼女はそう言って、再び本を開いた。

 

「でも、覚えておいてね。走り切ったと、自分で認めてあげることも、大事だと思うな」

 

 そういって、返した三国志の本をパラパラと捲る彼女の瞳の色は、見ていて不思議な心持ちとなった。

 夕焼けのグラデーションを閉じ込めたような、紫と橙の瞳。顔つきと相まって、明るく派手な色のはずがより儚さを漂わせる。

 

「そうか。その言葉、胸にはしまっておいてやろう」

 

「嬉しいよ。返却は受け付けないからね。

 

 それはそうと…」

 

 このように互いの心を彩るように踏み込んだ話をしたのは久しぶりだからか、かなり興が乗った時間となった。

 しかし、タニノムーティエはまだまだ話し足りないらしい。このように寂れた図書室に1人では尚更か。

 しかし、オレはこの後やることがある。寮対抗レースで、オレに挑みたいと無謀にも挑戦してきたウマ娘のトレーニングを見ることになっている。悪いが呼びかけには答えられない。

 そう返答するよりも先に、タニノムーティエが綴る言葉は止まった。その視線の先は、壁にかかった時計。

 指す時刻は16時30分。教える相手の17時からの自主トレーニングまであと30分だ。

 

「ごめん、ちょっとお願いしていい?」

 

「いや、すまんが、オレはこの後…」

 

「この後来る娘の相手をして欲しいんだ。私のことは知らないって言ってね。裏に行くから。よろしく頼むよ」

 

「おい、ちょっと待て…」

 

 そうオレに押し付けてすぐ、そのまま受付の裏の書架へと入ってしまった。

 呼びかけるが返事がない。一言二言、タニノムーティエの名を呼んでいると、いきなり図書室の扉が開いた。

 その方向を見ると、矢羽根を想起させる造形をした赤と紫の耳飾りを右耳につけたウマ娘がいた。

 ハーフアップの髪型に、切れ長の目。入室するなり真剣な顔つきでこちらを見ていた。

 

「失礼。タニノムーティエは何処にいるかわかる?」

 

「…」

 

「今日、ここで図書委員のはず。知らない?」

 

 …仕方あるまい。

 

「ああ、知らん。オレも今来たところなのだ」

 

「…そう。また、入れ違いってわけね」

 

 途端に顔が曇る。何やらタニノムーティエに用があったらしいが…

 だが、このウマ娘、見覚えがある。未だタニノムーティエに執着し続けているとはな…今日も、行き場のない思いに引きずられたままやってきたようだ。

 

「…逃がさない。アタシ達のクラシックは終わってないのよ。ムーティエ、貴方が戻らない限り…

 

 私を見ろ…!」

 

 そう言ってそのまま出ていってしまった。本を借りることもなく、バタンと扉を閉める。

 全く、なぜオレがこんな茶番に付き合わなくてはならないのだ。

 そう思って書架の扉に目を向けると、栗毛の耳と紙がヒラヒラと動いていた。

 何か書かれた紙を見る。

 

『もう行った?』

 

「…ああ、扉の外にいる気配もない。出てこい」

 

「…ありがとう。会わなくても済むなら、今日は会わなくていいかなって思ってたから」

 

「なぜ相手にしなかった。奴はお前との対話を望んでいただろう」

 

「…私は『終わった』ウマ娘。でも、アローは終わりを知らない。私にこだわってなんていられないはずなんだけどなぁ」

 

 かつての東西の大戦争。西のタニノムーティエとライバル関係にあったのは、たった今現れたウマ娘、東のアローエクスプレス。体格に恵まれた快速ウマ娘だ。

 当時は、彼女らの頭文字をとってAT対決と囃し立てられた者だ。互いに勝ち負けを繰り返したが、春には完成度を増したタニノムーティエは、アローエクスプレスを退けて春の二冠を達成。風雲児としての評判を確立し、西のウマ娘のスターとなった。

 しかし、秋に入ると、その走りには見る影もなく、菊花賞も惨敗。その後引退してしまったのだ。

 

「あの娘、未だに春の時の私と走っているんだ。そんなの、もう何処にも存在しないのに」

 

「…」

 

「アローだけじゃない。テンリュウだってそう。みんなずっと私の幻影を追ってる。その先には何もないのに。終われないままだ」

 

「また走ろうとは思わないのか?」

 

「げほっ…言ったでしょ?私は『終わった』って」

 

『喉鳴り』

 

 喉頭の働きに異常が生じ、気道を十分に確保できなくなる疾患。大量の酸素を必要とする全力疾走において、呼吸の障害は致命的な枷となり得る。

 かつてターフを席巻した二冠ウマ娘は、その喉に競走生命を奪われた。

 

「今日は、咳き込んじゃうな…普段こんな出ることなんてないのに」

 

 そう言って、ムーティエは細く息を吸った。喉の奥で、わずかに空気が擦れるような音がした。

 

「君といるのが楽しかったからかな?」

 

「お前それ、そこら中でそんな発言してないだろうな?」

 

「え?なんで?」

 

「…アローエクスプレスが執着する原因の一つにお前の言動がありそうだからだ」

 

「…なにそれ、ふふっ」

 

 胸元を抑えて深呼吸を繰り返す彼女を尻目にオレは図書室の出口へと向かった。

 もう時間が無い。早く向かわねば。

 

「あ、また来てよ。もし良かったら、図書委員にならない?歓迎するよ」

 

「…悪いが、既に生徒会に粉をかけられているのでな。一旦、考えさせてくれ」

 

「そっか。いいよ。待ってるから、私」

 

「…いい加減、歯が浮くようなことを言うな」

 

「ふふっ」

 

 わざとなのか、それとも自然体なのかは分からんが、彼女のことを病的に執着し、好いている者達の見ていた景色が、ほんの少しだけわかった気がする。

 

「あ、そうそう。出た後、話しかけられるかもだけど、そこも誤魔化してね。じゃあ、またね」

 

 手首を細かく動かして、見送る動作をとる彼女に、オレは軽く腕を上げて応えた。

 

 …この際、最後まで付き合ってやる。約束に間に合う範囲でな。

 

 

 

 

 

 案の定、扉を出てすぐ、オレは話しかけられた。

 

「…タニノムーティエ、いるか?」

 

「お前は…ダテテンリュウか」

 

「ほう…よく知っているな」

 

「菊花賞ウマ娘。知っているに決まっているだろう」

 

 揺れる顔の横の編み込み。腕組みして壁に寄りかかったショートカットの赤髪のウマ娘、ダテテンリュウは、ギラついた眼光でオレを見る。

 

 まだ、最初の問いに答えていないぞ

 

 そう言わんばかりの無言の圧を感じたオレは、望むならと話してやった。

 尤も、先約がいるためそっちの希望に沿うがな。

 

「生憎、カウンターにはいなかった。入れ違いのようだな」

 

「いや、そんなはずはない。図書委員ならば、持ち時間までもう少し。そろそろ出てくるはずだ」

 

「今日は宝塚記念だ。多少なり変動はあるのではないか?」

 

「…」

 

「少なくともオレは会わなかった。望む答えを返せずすまなかったな。オレは失礼するぞ」

 

「チッ…」

 

 尖った八重歯をきらめかせ、ダテテンリュウは歯を食いしばる。その場から動く気配はない。

 あのタニノムーティエの事だ。入ってきたとしても、棚の陰から陰へと身を潜め、姿を見せずにやり過ごしてしまうだろう。

 やれやれ、こんな眼をするウマ娘、それも実力者を相手に真っ向から戦えないとは…難儀なものだな、タニノムーティエ。

 

「おれを焚き付けたのはアンタだろ?最後まで戦いやがれ…!

 

 あの時のアンタに会いたい、会いたい…!」

 

 

 

 

 刻舟求剣。

 失ったものが、いつまでも同じ場所にあると思っている。あの二人は、過ぎ去った春から一歩も動けていないのか。

 

 

 ……いや。そうまでして追い続けるものがあるというのは、ある意味では羨ましいことなのかもしれん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こないだ、リギルのシンボリルドルフが来たよ」

 

「そうか。本の、面白い感想は聞けたか?」

 

「うん!まるで準備してたんじゃないかってくらいだった。どうなのか知らないけど、すごく面白かったよ」

 

「…フフフ。そうか、何よりだ」

 

「…もしかして、チカが教えたの?私がそういうの聞くタイプだって」

 

「いや、そんなことはない。吾輩はただ…」

 

「…ふふ、いいさ。おかげで楽しい時間が過ごせたんだ。ありがとう。

 

 それよりもチカ。私、早くアレが欲しいよ」

 

「分かっている。準備なら万全だ。

 

 今回は渾身の出来だ。『だし巻き卵』。とくと味わってくれ」

 

「おいしそう!チカだいすき」

 

「…フフフ」

 

 

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