六月の夕暮れ。傾いた陽がトラックを横切り、白線の上に細長い影を落としていた。
「カブーっ! 見て見て、すっごいの思いついた!」
「ひゃああっ!? こっ、こっち来ないでぇ!」
ガビーさんが勢いよく駆け出すと、カブ先輩は耳を伏せて飛び退いた。
「何で逃げるのー!?」
「だって、絶対こっちに飛んでこようとしたでしょぉ!?」
「えへへ。バレた?」
「やっぱりぃぃ!」
……元気だなあ。
アタシは練習場の端で背伸びをした。
少し離れたところでは、テンポイント先輩が靴紐を結び直している。全体練習は終わったけれど、もう少し走るつもりらしい。
カチドキ先輩はベンチに腰掛け、空を眺めていた。
その隣では、トレーナーが何かを話している。カチドキ先輩が面倒くさそうに手を振ると、トレーナーは肩を竦め、それ以上は何も言わなかった。
最近、こんな光景が増えた。
少し前まで、トレーナーは随分と忙しそうだった。
ガビーさんが勝手に走り出せば呼び止め、カブ先輩が逃げれば追いかけ、カチドキ先輩が練習を拒めば説得する。みんなの予定を揃え、同じ目標を掲げ、ひとつのチームにしようと懸命だった。
けれど、スピカの面々は、そもそも同じ方向へ進むつもりなんてなかった。
テンポイント先輩には、テンポイント先輩の走りがある。
ガビーさんは面白そうなものを見つければ飛びつくし、カブ先輩は誰かが近づくだけで逃げ出す。カチドキ先輩は、自分で納得しない限り動かない。
アタシだって、誰かの引いた線をなぞるのは好きじゃない。
そんな面々を、トレーナーはひとつにまとめようとしていた。
みんなのためを思ってのことだったんだろう。でも、揃えようとすればするほど、それぞれの足取りは重くなっていった。
今は違う。
「ガビー! そろそろ切り上げろよー!」
「えーっ! あと一回だけ!」
「お前の一回は信用ならん!」
「ひどーい!」
ガビーさんが頬を膨らませる。
トレーナーは苦笑しながらも、それ以上は追いかけなかった。
テンポイント先輩のところへ行き、少し話して、頷く。カチドキ先輩の隣にはもう誰も立っていない。
みんな、相変わらずばらばらだ。
けれど、トレーナーはもう、その隙間を埋めようとはしていなかった。
同じ空の下にいたって、雲はそれぞれ違う形をしている。
だからって、ひとつの空じゃなくなるわけじゃない。
……なんて。
ちょっと格好つけすぎかな。
「シービー。クールダウンも終わったな。今日はこれで終わりだ。それで、寮対抗レースの件だが…」
「まだ返事来てないんでしょ?」
「……よくわかったな」
「顔に書いてあるもん」
「嘘つけ」
トレーナーは苦笑した。
「なんとかしてよ」
「そう言われても…あ、ちょっと待て!おい!」
任せるだけ任せて、アタシは走り出した。
「また明日ー!」
背中へ、呆れた声が飛んできた。
でも、追いかけてはこなかった。
少し前のあの人なら、もう二言くらいは言っていた気がする。
……ふふっ。やっぱり、変わったね。
◇
正門へ続く道を歩く。寮へ戻るみんなとは、途中で別れた。
アタシは一人暮らしだから、帰る場所が違う。好きな時間に窓を開けられるし、好きな時間に本を読める。その代わり、洗濯物は勝手に畳まれないし、冷蔵庫が空っぽでも誰も買い足してくれない。
自由って、なかなか手間のかかるものだ。
さて。今日は何を食べようかな。そんなことを考えながら、校舎の脇を抜けようとした時だった。
「違う。そこで上体を起こすな。踏み込みに合わせて重心を運べ」
聞き覚えのある声がした。
校舎の角から覗くと、補助トラックに三人のウマ娘がいた。
二人が走り、一人がそれを見ている。
見ている方の子は、腕を組んでいた。妙に立派な姿勢。背筋は真っ直ぐで、視線は走者の足元から一度も外れない。
……ああ。
ルドルフだ。
あの時、途中まで一緒に走った子。
「今の動きをもう一度だ。速度を上げる必要はない。まず、正しい姿勢を身体に覚えさせろ」
「は、はい!」
返事をした子が走り出す。その後ろ姿を、ルドルフはじっと見つめていた。
ずいぶん熱心だなあ。
アタシは近くの柵に肘をつき、しばらくその様子を眺めた。
走っている子の足音は、少し不揃いだった。土を蹴るたび、右と左で違う音がする。ルドルフはそれを聞き分けているのか、時折、小さく頷いたり眉を寄せたりしていた。
夕陽が白線を細く照らしている。
その上を走者の影が通り過ぎ、少し遅れてルドルフの影が伸びていく。
あの時は、こんなふうに立ち止まっているところを見なかった。
走って、追いかけて、追い越そうとして…あの子のことは、ちょっとしか知らなかったからこれは意外だった。
「やっほー、ルドルフ」
「……」
返事はなかった。
…聞こえなかったのかな?
「ルドルフ?」
「少し待て。今、確認している」
こちらを見ないまま、彼女は答えた。
「うん」
そのまま柵にもたれ、練習が終わるのを待つ。しばらくして、二人のウマ娘が走り終えた。
「今の感覚を忘れるな。次は腕の振りも確認する。少し休憩しておけ」
「はい! ありがとうございます!」
二人が給水所へ向かっていく。
ルドルフはそれを見届け、ようやくこちらへ振り向いた。
「待たせたな。何か用――」
そこで、言葉が途切れた。
瞬きを繰り返すルドルフ。
「……貴様」
「久しぶり」
アタシは手を振った。
「元気だった?」
「……ミスターシービー」
名前を呼ぶ声が、妙に低かった。
ルドルフはその場に立ち尽くしている。目が合ったまま、なかなか次の言葉が出てこない。
「どうしたの?」
「……いや」
彼女は口を閉じ、何かを確かめるようにアタシの顔を見つめた。
「……随分と、久しぶりだな」
「そうだね。ルドルフも元気そうでよかった」
「貴様は……」
「うん?」
「……あの後、どこにいた」
思いがけない質問だった。
「どこって?」
「あの併走の後だ」
「ああ。スーさんに止められたやつ?」
「そうだ」
「普通に練習してたよ。あとは図書室に行ったり、街を歩いたり」
「……そうか」
ルドルフは腕を組んだ。けれど、すぐに組み直した。
落ち着かない様子で視線を逸らし、またこちらを見る。
「ルドルフは?」
「……何?」
「あの後、何してたの?」
「オレか?」
「うん」
彼女は、少し考えるように顎を引いた。
「……貴様を探していた」
風が吹いた。
柵の向こうで、葉の擦れる音がする。
アタシは思わず、ルドルフの顔を見返した。
「……アタシを?」
「……ああ」
「へえ。どうして?」
「決まっているだろう。あの併走の決着をつけるためだ」
「ああ、そっか」
なるほど。あの時のこと、ずっと気にしてたんだ。
アタシも時々思い出していたけれど、いつかまた会えるだろうと思っていた。
けれど、ルドルフは違ったらしい。
「どれくらい探したの?」
「……何?」
「アタシのこと」
彼女は、少しだけ顔を背けた。
「……学園中だ」
「えっ」
「無論、全ての場所を隈なくというわけではない。練習場や校舎、図書室……心当たりのある場所を一通りだ」
「そんなに?」
「……ああ」
アタシは、思わず笑ってしまった。
この学園、結構広いのに、あのルドルフがアタシを探して歩き回っていたなんて。
ちょっと想像してみる。
きっと、あの偉そうな顔のまま、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。
……ふふっ。
なんだか、可愛いなあ。
「……何がおかしい」
「いやあ」
アタシは、彼女の顔を覗き込んだ。
「そんなにアタシに会いたかったんだ?」
ルドルフの耳が、ぴくりと揺れた。
「……違う。勝負の決着をつけたかったのだ」
「うん。それはわかってるよ」
アタシは笑った。
「でも、会いたかったのは本当でしょ?」
ルドルフは口を閉じた。何か言い返そうとしたみたいだけど、その言葉はなかなか出てこなかった。
動く視線や組み直す腕が、妙にぎこちなかった。
「……貴様は、言葉の意味を勝手に変えるな」
「ふふっ。ごめんごめん」
アタシは、少しだけ顔を近づけた。
「でもさ。そんなに探してくれたなんて、知らなかったから」
「……」
「ちょっと、嬉しいな」
ルドルフが目を上げた。その瞳が、まっすぐにこちらを捉える。
さっきまでの険しさが、ほんの少しだけ薄れた気がした。
「……そう、か」
随分と慎重な響きだった。あの時のルドルフは、もっと単純だった。
勝つ。追い越す。自分が一番速い。
そういうことは、少しも迷わず口にする。
なのに、今はアタシに会いたかったのかと尋ねられただけで、こんなに言葉を探している。
何かを隠しているのか。
それとも、本人にもよくわからないのか。
……どっちだろう。
「ねえ、ルドルフ」
「……何だ」
「アタシも、あの時のこと覚えてるよ」
彼女は黙っていた。
アタシは柵から身体を離し、彼女の前へ歩み寄った。
少し屈んで、目を合わせる。
ルドルフは動かなかった。ただ、こちらを見つめている。
「最後まで走れなかったの、ちょっと残念だった。ルドルフの走り、もっと見たかったんだよね」
夕陽が、彼女の頬を照らしていた。
そのせいか、いつもより少しだけ赤く見える。
ルドルフは何かを言いかけたけど、結局喋らずじまい。
アタシは、そんな彼女を見て、少しだけ笑った。
「……ふふっ」
「……何だ」
「ううん」
そして。
「アタシも会いたかったよ。ルドルフ」
そう言って、にっこり微笑んだ。
ルドルフの目が、わずかに見開かれた。それから、ゆっくりと細くなる。
口元が何かを言おうとして動いたけれど、声にはならなかった。
代わりに、彼女は顔を背けた。
前髪を払う手が、少しだけ遅れる。
夕陽に照らされた頬が、さっきよりも赤く見えた。
「……フン」
小さく鼻を鳴らす。
「……随分と、調子のいいことを言う」
「そう?」
「……ああ」
「でも、本当だよ」
ルドルフは答えなかった。あたりが静かになる。
やがて、こっちへ顔を戻した。
「……貴様との勝負は、まだ終わっていない」
「うん」
「いずれ、必ず決着をつける」
その声は、いつものルドルフに戻っていた。
自信に満ちた、迷いのない声。
けれど、目元にはまだ、さっきまでの戸惑いが残っている。
「楽しみにしてる」
「……ああ」
ルドルフは、小さく頷いた。それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
あの時と同じ。走る前のあの顔。
……ふふっ。
やっぱり、面白いなあ。
「……ところで、ミスターシービー」
「ん?」
「貴様との併走については、今ここで決めるつもりはない」
「へえ。前だったら、すぐ走ろうって言いそうなのに」
「……以前、似たようなことがあった」
ルドルフは腕を組み直した。
「あるウマ娘に併走をけしかけられてな。その時はトレーナーに制止された」
「ふうん」
「目先の勝負に心を奪われ、己の計画を乱すなど本末転倒だ。オレは、同じ轍を踏むつもりはない」
声は落ち着いていた。
さっきまでの、少し煮え切らない様子とは違う。
「我慢してるんだ?」
「……我慢ではない。選択だ」
「ふふっ。そっか」
「オレには、オレの走るべき道がある。貴様との決着も、その道の先でつければよい」
ルドルフは、真っ直ぐにアタシを見た。
「……もっとも、貴様がその時まで走り続けていれば、の話だがな」
「もちろん。アタシは、走りたい時に走るよ」
「……相変わらずだな」
「ルドルフもね」
走りたい気持ちを失くしたわけじゃない。
ただ、それだけで飛び出すことを、今は選ばない。
……そういうことなんでしょ?ルドルフ。
「じゃあ、アタシはここで見てようかな」
「……何?」
「二人の練習」
「帰るのではなかったのか」
「そのつもりだったけど、気が変わった」
ルドルフは、少しだけ目を細めた。
「……好きにしろ」
「はーい」
アタシは再び柵へもたれた。
ルドルフは二人のもとへ戻っていく。
その背中を見送っていると、彼女が一度だけ振り返った。
目が合う。
アタシが手を振ると、彼女はすぐに前を向いた。
そんなに確かめなくても、今日はまだ帰らないよ。
◇
ルドルフは厳しかった。
上体の角度、腕の振り、足を置く位置。気になるところがあれば、すぐに指摘する。
けれど、何でも自分の走り方へ合わせようとはしなかった。
走者が自分で考える時間を残し、答えを見つけるまで待っている。
あの子、待つこともできるんだ。
夕陽の中で、二人の足跡が少しずつ整っていった。
白線の脇に残された、何度も踏み直した跡。そこへ、新しい足跡が重なっていく。
やがて、練習が終わった。
「ありがとうございました!」
「また、よろしくお願いします!」
二人が深々と頭を下げる。
「今日の感覚を忘れるな。次までに記録をつけておけ」
「はい!」
ルドルフは二人を見送ってから、こちらへ戻ってきた。
「……待たせたな」
「お疲れさま。ねえ、さっきの二人、知り合い?」
「いや。寮対抗レースの掲示板の前で会った」
「へえ」
「出走枠の話をしていたのだ。自分たちには縁のないものだとな」
ルドルフは、二人の足跡へ視線を落とした。
「走りたい意志はあるらしい。だが、実力が足りぬと初めから諦めていた」
「それで?」
「そのようなことは、走りを見てから決めればよい。だから、オレから練習の目付を申し出た」
「ルドルフから?」
「そうだ」
アタシは首を傾げた。
「ふうん。優しいんだね」
「……勘違いするな。オレは、勝負の場に立つ前から己の可能性を切り捨てることが気に入らんのだ」
「だから、わざわざ面倒を見てあげてるんだ?」
「目付だと言っている」
「ふふっ。はいはい」
ルドルフは不服そうに眉を寄せた。
「それに、あの二人が強くなれば、いずれオレの前に立つこともあるだろう」
「そしたら?」
「打ち負かすまでだ」
迷いのない返事。
「相変わらず、自信満々だね」
「事実を述べたまでだ」
「じゃあ、アタシがルドルフに勝っちゃったら?」
「それはない」
彼女の目が、すっと細くなった。
「ふふっ。どうかな」
「貴様との決着についても、答えは同じだ」
その瞳の奥に、あの時と同じ光がある。
背中へ迫る足音。走り終える前に途切れてしまった、あの感覚。いつか、また…。
「あらあら」
柔らかな声が、アタシ達の間へ滑り込んできた。
「ずいぶん楽しそうね、ルドルフ」
振り返ると、一人のウマ娘が立っていた。
すらりと伸びた脚。風に揺れる長い髪。肩の力は抜けているのに、妙に目を引く。
速そう。
「……お前か」
ルドルフが眉を寄せる。
「あら。そんな顔しなくてもいいじゃない、ルドルフ」
「何の用だ」
「通りかかったら、楽しそうな声が聞こえてきたものだから。つい、寄り道しちゃった」
彼女は、にっこり笑った。
「知り合い?」
アタシが尋ねると、ルドルフは頷いた。
「ああ。マルゼンスキーだ」
「へえ。よろしく、マルゼン」
「あら。よろしくね。あなたは?」
「ミスターシービー。シービーでいいよ」
「まあ! あなたがシービーちゃんなのね!」
彼女の表情が華やいだ。
「アタシのこと、知ってるの?」
「ええ。お名前は聞いていたわ」
「誰から?」
「それは内緒」
口元に指を添える。
なんだか、悪戯を思いついた子供みたいな顔だ。
「でも、一度会ってみたかったの。ルドルフとこんなに楽しそうにお話しできる子なんて、なかなかいないでしょう?」
「……楽しそうに見えるのか、これが」
ルドルフが呟いた。
「うふふ。だって、ルドルフ、ずっとお喋りしているんですもの」
「こいつが一方的に絡んでくるだけだ」
「じゃあ、嫌だったの?」
「……そういうことではない」
マルゼンが、さも可笑しそうに笑う。
「ルドルフ、あなたってそんな顔もするのね」
「……お前まで何を言い出す」
「だって、珍しいんですもの」
ルドルフは、深く息を吐いた。
マルゼンは彼女のことをよく知っているらしい。
ルドルフも、マルゼンに対しては少し違う顔をする。警戒しているような、それでいて突き放せないような。
「ところで、シービーちゃん。ルドルフとは、どういうお知り合いなの?」
「前に一緒に走ったんだ。でも、途中で止められちゃって」
「あら。それは残念ね」
「そうなんだよね。ルドルフなんて、その後ずっとアタシを探してたんだって」
隣で、小さく息を呑む音がした。
「……貴様。それを、わざわざ言う必要があるのか」
「えっ。だって、本当でしょ?」
マルゼンが、ゆっくりとルドルフへ顔を向けた。
「まあ。そんなにシービーちゃんのことが気になっていたの?」
「……勝負の決着をつけたかっただけだ」
「うふふ。学園中を探すほど?」
ルドルフは答えず、視線を逸らした。
「案外、情熱的なのね」
「……余計なことを言うな」
アタシは、ルドルフの顔を覗き込んだ。
「ねえ、言っちゃまずかった?」
ルドルフは少し黙ってから、目を伏せた。
「……いや。事実ではある」
意外。てっきり、また否定すると思ったのに。
「ふふっ。そっか」
マルゼンは、そんなルドルフを柔らかな目で眺めていた。
「でも、今すぐ走ろうとはしないのね」
「……ああ。以前、お前にけしかけられた時のことは覚えている」
「ええ」
「トレーナーに制止された。オレは、同じ轍を踏むつもりはない」
「……そう。少し変わったのね、ルドルフ」
「変わったのではない。学んだのだ」
「うふふ。そういうところは相変わらずね」
マルゼンは笑った。ルドルフも、ほんの少しだけ口元を緩める。
その表情を見ていると、二人の間にはアタシの知らない時間があるのだとわかった。
◇
夕陽は、もう校舎の屋根へ半分ほど隠れていた。練習場に残っているウマ娘も少ない。
「ねえ、二人とも。お腹空かない?」
ルドルフが眉を寄せた。
「……この流れで、なぜ食事の話になる」
「だって、お腹空いたんだもん」
マルゼンが笑う。
「あら。私もちょうど何か食べたいと思っていたところよ」
「じゃあ、三人で行こうよ」
「まあ! なかなかイカしたお誘いね」
「……寮の門限があるだろう」
「じゃあ、それまで」
「……」
「せっかく会えたんだしさ」
アタシが笑うと、ルドルフは少しだけ目を細めた。マルゼンを見て、時計を確かめる。
「……長居はせんぞ」
「決まりね!」
マルゼンが嬉しそうに手を合わせた。
こうして、アタシたちは三人で学園を出ることになった。
◇
夕方の商店街は、一日でいちばん賑やかな時間を迎えていた。
八百屋の威勢のいい声。魚屋の前に撒かれた水。買い物籠を提げた人たちの足音。
その合間を縫って、揚げ物の匂いが流れてきた。
……あ。いい匂い。
「ねえ、あそこ」
アタシは指を差した。惣菜屋の店先で、丸いコロッケが次々と油から引き上げられている。
衣の表面で小さな泡が弾け、金色の湯気が立ち上っていた。
「コロッケだ」
「ええ。揚げたてみたいね」
マルゼンも嬉しそうに覗き込む。
「ちょっと寄っていかない?」
「……貴様らは夕食を食べるつもりなのか。それとも間食をするつもりなのか」
「どっちでもいいじゃん」
「よくはない」
「ルドルフは食べないの?」
「……食べぬとは言っていない」
ふふっ。
素直じゃないなあ。
「へい、いらっしゃい! お目が高い! ちょうど揚げたてが上がったところでさぁ!」
店先から威勢のいい声が飛んできた。
売り子は、小柄なウマ娘だった。
くすんだ金色の髪を低い位置で束ね、額には白い鉢巻き。前掛けの紐をきっちり結び、片手には油紙の袋を重ねている。細めた目尻の下で、口元が器用に笑った。笑うと、小さな八重歯が覗く。
「今なら一個からでも大歓迎! 三つまとめてお買い上げなら、揚げたてのうちにお包みいたしやす!」
「じゃあ、三つ」
「へい、毎度!」
慣れた手つきでコロッケが袋へ収められる。
「お嬢さん方、学園帰りですかい?」
「うん」
「いやぁ、そりゃあ結構! 走った後には腹も減る。腹が減りゃあ財布の紐も緩むって寸法で」
「……妙な理屈だな」
ルドルフが呟く。
「へい。理屈はともかく、味は確かでござんすよ」
売り子はにっと笑い、袋を差し出した。
「まずは一口。お気に召したら、次もぜひご贔屓に!」
アタシは熱い袋を受け取った。
「ありがと」
「礼言うんならこっちです!まいど!」
けれど、その目はもう次のお客さんを捉えていた。
頭を下げるのも、商売を逃さないのも、同じくらい自然らしい。
店先を離れ、一口齧る。さくっ、と小気味いい音がした。中のじゃがいもは熱く、ほくほくしていて、少しだけ甘い。
「んーっ。おいしい」
「本当。揚げたてって、どうしてこんなにゴキゲンなのかしら」
マルゼンが目を細める。
ルドルフも一口食べ、しばらく黙っていた。
「……悪くない」
「ふふっ。素直においしいって言えばいいのに」
「十分に評価している」
そう言いながら、もう一口。
……気に入ったみたいだ。
◇
コロッケを食べ終え、商店街を少し歩いたところで、今度は甘い匂いがした。
焼き型からはみ出した生地が、薄いきつね色に焼けている。
「あ、たい焼き」
アタシは足を止めた。
「シービーちゃん、まだ食べるの?」
「うん。別腹」
「うふふ。そうよねえ」
ルドルフは、何やら考え込んでいた。
「……コロッケ一個に加え、たい焼きまで食べるとなると、夕食の摂取量を調整する必要があるな」
「えー」
アタシは思わず振り返った。
「ルドルフ、今それ考える?」
「当然だ。栄養管理は競走能力の維持に欠かせん」
「でもさ」
アタシは、焼き型から立ち上る湯気を眺めた。
「せっかく、こんなにいい匂いがしてるのに。そこで計算を始めちゃうなんて、無粋だなあ」
「何?」
「ロマンがないよ、ルドルフ」
マルゼンが、くすくす笑った。
「まあまあ。シービーちゃんの言うこともわかるわ」
「……食欲と栄養管理は両立できる」
「ええ。でも、たまには計算を忘れて食べるのも素敵でしょう?」
ルドルフはたい焼きを見た。アタシを見る。それから、もう一度たい焼きを見る。
……ふふっ。
迷ってる。
「一個くらい、いいじゃん」
「……一個だけだ」
「やった」
その時。
「へいっ! 毎度どうも!」
聞き覚えのある声がした。
たい焼き屋の奥から、白い鉢巻きが現れる。
「焼きたて一丁! 尻尾まであんこ、商売繁盛の福たい焼きでござんす!」
……あれ?
「さっきの…?」
「へい? ……おやまあ!」
売り子が顔を上げた。
「さっきのコロッケのお嬢さん方!」
「今度はたい焼き屋さん?」
「へい! こちらも少々お手伝いを」
「忙しいんだねえ」
「貧乏暇なしと申しやすが、あっしの場合、暇がありゃ稼ぎ時を逃している証拠でさぁ」
言いながら、手は休まない。
たい焼きを紙に包み、釣り銭を揃え、次の焼き型へ生地を流す。
「さて、お嬢さん方。三つでよろしいですかい?」
「うん」
「へい、ありがとうございます!」
ルドルフは、たい焼きを受け取りながら呟いた。
「……先ほどとは別の店ではないか」
「へい。店は違えど、お客様はお客様。あっしにとっちゃ、どちらも大事なご縁でさぁ」
「……そういうものか」
「そういうものでござんす」
売り子は胸を張った。
けれど、すぐに次のお客さんへ頭を下げる。
「へい、いらっしゃい!」
……なんだか、すごい子だなあ。
アタシはたい焼きを一口齧った。
薄い皮の中から、熱いあんこが顔を出す。甘くておいしい。
隣でマルゼンも幸せそうに目を細めている。
ルドルフはというと、たい焼きをじっと眺めていた。
「どうしたの?」
「……いや」
「食べないの?」
「食べる」
そう言って、彼女は尻尾の方から齧った。
「ルドルフって、そっちから食べるんだね」
「……何か問題があるのか」
「ううん。意外だなって」
「どちらから食べても、栄養価は変わらん」
「また計算してる」
「……」
マルゼンが笑った。
「うふふ。ルドルフ、今日は大変ね」
「……まったくだ」
そう言いながら、彼女はもう一口食べた。
さっきより、少しだけ大きく。
◇
たい焼きを食べ終えた頃には、商店街の灯りがぽつぽつと点き始めていた。
店先から漂う惣菜の匂いに、夕餉の支度を急ぐ人々の足音。軒を連ねる商店には色とりどりの商品が並び、暮れかけた通りを賑やかに彩っている。
その中を歩いていると、ふと、隣の足取りが緩んだ。
「……」
ルドルフだ。
彼女の視線は、通りの向こうにある八百屋へ向けられていた。
正確には、その店先に積まれた果物の木箱へ。
瑞々しい橙色のみかんに、まだ青みの残る梨。そして、赤く色づいたりんご。
ルドルフは、そのりんごをじっと見つめていた。
何かを確かめるように目を細め、値札へ視線を移す。それから、ほんの少しだけ耳を立てた。
…アタシは、思わず口元を緩めた。
「ねえ、ルドルフ」
「……何だ」
「寄っていかない?」
「……どこへだ」
「あそこ」
アタシは八百屋を指差した。ルドルフは一瞬、目を見開いた。
「……何故だ」
「んー。なんとなく?」
「……貴様の気まぐれには、いちいち付き合っていられんぞ」
「ふふっ。でも、ちょっと見ていこうよ」
そう言って、アタシは彼女の返事を待たずに歩き出した。
マルゼンも、楽しそうについてくる。
「あら。お買い物?」
「うん。そういうことにしとこうかな」
「…うふふ。そういうことね」
背後から、小さな溜息が聞こえた。けれど、足音はちゃんと三人分。
…素直じゃないなあ。
「へい、いらっしゃい! 本日の目玉は朝採れきゅうり! 歯触り上々、お値段お手頃でござんす!」
…………。
「へいっ! ……おやまあ!!これはこれは! 本日三度目のご来店! いやあ、ありがたいご縁でござんすねえ!」
またあの売り子が現れた。狭い街。
…いや、そういう問題じゃないんだけど。
「…今度は八百屋さんなんだ?」
「へい。こちらも少々、手が足りないとのことで」
「……待て」
ルドルフが口を挟んだ。
売り子は、ぴたりと手を止める。
「へい?」
「先ほどは惣菜屋、その次はたい焼き屋。そして今度は八百屋か」
「へい。左様でござんす」
「……行く先々に現れるとは、いささか出来すぎている」
ルドルフは腕を組んだ。
さっきまでりんごを見つめていた時とは打って変わって、鋭い視線が売り子を捉える。
「怪しいな。貴様、何者だ?」
……あははっ。まるで尋問だ。
けれど、売り子は怯むどころか、にんまりと笑った。
「おやおや。これはご挨拶が遅れやした!」
前掛けを払い、背筋を伸ばす。それから、芝居がかった仕草で片手を胸へ添えた。
「名はイナボレス!しがない勤労学生にして、稼げるところにゃ東奔西走!商売繁盛、信用第一!イナボレスと申しやす!」
ぺこり。
実に見事なお辞儀だった。
「……イナボレス」
「へい!」
「……それで、何故これほど多くの店で働いている?」
「へい。働けるところがあるなら、働かにゃ損でござんすからねえ」
「……それだけか?」
「それだけで十分じゃありやせんか?」
イナボレスは、にっと笑った。
「もっとも、あっしも商売人の端くれ。お客様のお顔は覚えておきたいところですが……いやはや、こうして三度もご縁があるとは、あっしも驚いておりやす」
ルドルフは、しばらく彼女を見つめていた。
イナボレスも、にこにこと笑い返す。
「まあまあ、ルドルフ」
マルゼンが、柔らかく笑いながら口を挟んだ。
「そんなに怖い顔をしたら、せっかくのお買い物が台無しよ?」
「……別に、怖がらせるつもりはない」
「うふふ。そう?」
ルドルフは小さく息を吐き、視線を逸らした。
その先にあったのは、やっぱりりんごの木箱だった。
「ねえ、イナボレス」
「へい、何でござんしょ?」
「このりんご、見せてもらってもいい?」
「もちろんでござんす!」
イナボレスは、すぐに木箱の方へ回った。
「こちらは保存物ですが、状態は上々。少々時季は外れておりやすが、味は十分保証いたしやす!」
アタシは、りんごをひとつ手に取った。赤い果皮が、夕陽を受けて艶やかに光る。
「へえ。おいしそう」
「へい! 甘みも歯触りも申し分なしでござんす!」
アタシは、隣のルドルフへりんごを差し出した。
「ねえ、ルドルフ。これ、どう思う?」
「……何故、オレに聞く」
「なんとなく」
「……」
ルドルフは、少しだけ眉を寄せた。けれど、差し出されたりんごは受け取った。
掌の上で静かに回し、表面を確かめる。
「……ふじか」
「へい! お目が高い!」
イナボレスが、すかさず頷いた。
「少々値は張りやすが、こちらは保存状態も良好。なかなかの一品でござんすよ」
「……そうか」
ルドルフは、もう一度りんごを眺めた。それから、香りを確かめる。
さっきまでの険しい表情が、ほんの少しだけ和らいでいた。
「……悪くない」
「へい! では、おひとついかがで?」
「……そうだな」
ルドルフは、少し考えるように目を伏せた。けれど、その手はりんごを離さない。
「ルドルフって、りんご好きだもんね」
「……ああ」
「ふじ」
「そうだ」
「ふふっ。覚えてるよ」
彼女は、少しだけ目を細めた。
「……」
アタシは笑った。
「ルドルフにもそういう顔があるんだなって」
「……どういう意味だ」
「さあ?」
彼女は、少しだけ眉を寄せた。
でも、りんごは手放さなかった。
イナボレスは、そんな様子を見てにっと笑う。
「いやあ、よいお買い物で! では、こちらをお包みいたしやしょう!」
りんごは丁寧に紙へ包まれ、ルドルフの手へ渡された。
彼女はそれを受け取り、小さく頷いた。
「……ああ」
「へい、毎度あり!」
イナボレスは、釣り銭を揃えながら笑った。
「しかし、りんご一つにもお客様の好みが出るもんで。いやあ、商売は面白い!」
会計を済ませると、彼女は深々と頭を下げた。
「本日三度のご贔屓、まことにありがたく! またのお越しをお待ちしておりやす!」
店先を離れると、マルゼンが小さく笑った。
「それにしても、面白い子ね」
「うん。どこにでもいるみたい」
「……偶然にしては、少々出来すぎているな」
ルドルフは、まだ少し納得していないらしい。
「ふふっ。縁があるんじゃない?」
彼女は、少しだけ目を細めた。
「……縁、か」
その手には、りんごの包みがあった。アタシはそれを見て、思わず笑った。
「ねえ、ルドルフ」
「……何だ」
「そんなに好きなら、もう一個買っておけばよかったのに」
「……必要な分だけ買えばよい」
「ふふっ。そっか」
でも、その包みを持つ手は、どこか大事そうだった。
「あら、あそこ。素敵な喫茶店があるわ」
指を指すマルゼン。窓の向こうには、柔らかな橙色の灯り。
木製の看板に、小さな花の模様が描かれている。
「少し休んでいかない?」
「いいね」
「……待て」
ルドルフが口を挟む。
「まだ食べるつもりなのか」
「今度は休憩だよ」
「……」
「それとも、ルドルフは帰る?」
彼女は時計を確かめた。
「……一杯だけだ」
「決まりね」
マルゼンが笑った。
◇
喫茶店の扉を開けると、小さな鈴が鳴った。
磨かれた木の床。窓際に並ぶ丸いテーブル。壁には古い風景画が飾られ、珈琲の香りが満ちている。
外の賑わいが、扉一枚を隔てただけで遠くなった。
「いらっしゃいませー!」
……。
アタシは、足を止めた。
カウンターの向こうに、白い鉢巻き、低く結んだ金色の髪。
前掛けの上から、今度は喫茶店のエプロンを重ねている。
「……イナボレス?」
「へいっ!」
彼女が顔を上げた。
こちらを見るなり、にっこり笑う。
「これはこれは! 本日四度目のご縁でござんすね!」
「今度は喫茶店?」
「へい。こちらも夕方から人手が足りないとのことで」
「……貴様」
ルドルフが額へ手を当てた。
「いったい、いつ休んでいるのだ……」
「休む間がありゃ稼ぎ時!…とは申しやすが、もちろん休憩もいただいておりやすよ」
「……そうか」
ルドルフは、どこか釈然としない様子だった。
マルゼンが口元を押さえて笑う。
「うふふ。もう、ここまで来ると運命みたいね」
「へい! 運命ならば、ぜひ末永くご贔屓に!」
イナボレスは、すかさず頭を下げた。
「さて、お嬢さん方。お席へご案内いたしやす!」
窓際の丸いテーブルへ通され、三人で腰を下ろした。
「ご注文は?」
「アタシ、ミルクティー」
「私は珈琲をお願いしようかしら」
「オレは紅茶だ。ディンブラ」
「へい、かしこまりやした!」
イナボレスは注文を書き留めると、軽やかにカウンターへ戻っていった。
窓の外では、商店街の灯りが少しずつ増えている。
アタシは椅子へ深く腰掛け、ひとつ息を吐いた。
「ふう。結構歩いたね」
「ええ。でも、楽しかったわ。こうして誰かと寄り道するのも、なかなかいいものね」
「マルゼンは、普段あんまり寄り道しないの?」
「そうねえ。ひとりで出かけることは多いけれど、誰かと一緒っていうのは、案外少ないかもしれないわ」
「へえ。アタシも、普段はひとりが多いかな」
「まあ。気が合うわね」
「ふふっ。そうかも」
ルドルフは、そんなアタシたちを眺めていた。
「……貴様らは、寮へ戻らなくてよいのか?」
「ああ、アタシは寮に住んでないから」
「……何?」
「一人暮らしなんだ」
ルドルフが目を見開いた。
「……一人暮らし?」
「うん。学園の外に部屋を借りてる」
「……そうだったのか」
「ルドルフは寮?」
「当然だ。美浦寮に所属している」
「ふふっ。そっか」
その隣で、マルゼンが小さく笑った。
「実は、私も一人暮らしなのよ」
「……お前もか?」
ルドルフが、今度はマルゼンを見た。
「ええ。学園の近くに住んでいるの」
ルドルフは、しばらく黙っていた。
アタシとマルゼンの顔を交互に見る。
「……なるほど」
腕を組み、少し考えるように目を伏せた。
「待て、では今回の寮対抗レースは……」
「そうなんだよね」
アタシは頷いた。
「アタシ、出られるかまだわかんないんだ」
「……はあ!?」
「寮に住んでないから、参加資格があるのかどうか。トレーナーが確認してくれてるんだけど、まだ返事が来てなくてさ」
「私も同じよ」
マルゼンが続けた。
「チームには所属しているけれど、寮対抗となると、どこまでが参加資格になるのか曖昧でしょう?」
ルドルフは、少しだけ眉を寄せた。
「……そのような問題があったとは」
「ふふっ。ルドルフ、難しい顔」
「……笑い事ではない」
「うん。でも、今ここで決められることじゃないでしょ?」
「……それはそうだが」
「だったら、紅茶でも飲んでから考えようよ」
ルドルフは、少しだけ目を細めた。
「……貴様は、実に気楽だな」
「そう?」
「……ああ」
その時、イナボレスが飲み物を運んできた。
「へい、お待たせいたしやした!」
テーブルへ、三つのカップが並べられる。
珈琲の香りに、紅茶の柔らかな湯気。
「いやあ、何やら難しいお話で!」
「ちょうど、寮対抗レースの話をしてたんだ」
「おお! やっぱり、あの催しでござんすか!」
イナボレスが目を輝かせた。
「商店街でも噂になっておりやすよ。学園で大勢のウマ娘が走るとか!」
「……ああ。現在、開催へ向けて調整中らしい」
ルドルフが答えた。
「当初は12レースの予定だったが、出走の機会を増やすため、生徒会へ増枠を提案した」
「へえ。増やしたんだ?」
アタシが尋ねると、ルドルフは頷いた。
「15レースだ。種目ごとの配分も見直し、より多くの者が走れるようにした」
「まあ。素敵ね」
マルゼンが微笑んだ。
「一人でも多く走れるのなら、それに越したことはないわ」
「……ただし、出走者の選抜は必要だ」
ルドルフは、静かに言った。
「枠を増やしたところで、誰もが出走できるわけではない。競走である以上、相応の実力が求められる」
「ええ。それはわかっているわ」
マルゼンは頷いた。だけどその笑みが少しだけ薄くなる。
「でも、走りたいと思っている子が、最初から諦めてしまうのは、やっぱり寂しいことね」
その言葉に、アタシはさっきの練習場を思い出した。
ルドルフが見ていた二人。何度も同じ場所を踏み直していた足跡。
「……だからこそ、努力すべきなのだ」
ルドルフが答えた。
「自分には無理だと決めつける前に、まず走れ。走った上で足りぬものを知り、それを補え」
「そうね」
「それでも選ばれぬならば、さらに力をつければよい。勝負の世界とは、そういうものだ」
マルゼンは、すぐには答えなかった。
窓の外を眺める。その横顔には、さっきまでの華やかな笑みとは違う、静かな表情が浮かんでいた。
「……ルドルフ。あなたは、速い子と走りたいのね」
「無論だ」
「自分を脅かすくらいの相手と?」
「そうだ。競うに値する相手が増えることに、何の不都合がある」
ルドルフは、少しだけ口元を持ち上げた。
「いずれオレの前に立つというのなら、望むところだ。全て打ち負かしてみせる」
マルゼンは、その顔をじっと見つめた。
「……そう」
それから、少しだけ笑った。
「私はね、ルドルフ。速い子も、そうでない子も、もっと一緒に走れたらいいなって思うの」
「……」
「もちろん、勝負には勝ち負けがあるわ。誰もが同じ速さで走れるわけじゃない。それでも、走りたいって気持ちまで、速さで決まるものじゃないでしょう?」
マルゼンは、カップの縁へ指を添えた。
「誰かと走るって、楽しいことだもの」
……。
その言い方が、少し気になった。その笑顔の奥に、何か別のものがある気がした。
マルゼンを初めて見た時、アタシは速そうだと思った。
たぶん、それは間違っていない。でも、速いからこそ、見えなくなるものもあるのかな。
「……甘いな」
ルドルフが言った。
「走ることを楽しむのは自由だ。だが、競走に臨む以上、勝利を目指さぬ者など、オレには理解できん」
「ええ。あなたなら、そう言うと思ったわ」
「……」
「でもね。誰かと一緒に走ること自体が、その子にとって大切なことだってあるのよ」
ルドルフは腕を組んだ。少し考えるように目を伏せる。
「……否定はせん。だが、オレが求めるものとは違う」
「そうね」
マルゼンは頷いた。
「きっと、そこが私たちの違いなんでしょうね」
短い沈黙が落ちた。喫茶店の奥で、スプーンがカップへ触れる音がする。
アタシは二人の顔を見比べた。
ルドルフは、誰よりも速く走りたい。
マルゼンは、誰かと一緒に走りたい。
どちらも走ることが好きなのに、その好きの形が違う。
「ねえ、二人とも」
アタシはカップを置いた。
「そんなに走る話が好きならさ」
「……何だ」
「なあに?」
「今度、三人で走らない?」
ルドルフがこちらを見た。
マルゼンも、少しだけ目を見開く。
「……三人で?」
「うん。ルドルフと、マルゼンと、アタシ」
指を一本ずつ立てる。
「三人で併走したら、きっと面白いよ」
マルゼンは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと笑みを浮かべた。
「……まあ。素敵なお誘いね、シービーちゃん」
「でしょ?」
「ええ。とっても」
その瞳の奥に、妙に鋭い光が宿る。
あ。たぶん、とんでもない風が待ってる。
「……待て」
ルドルフが口を挟んだ。
「貴様、先ほどの話を聞いていなかったのか」
「聞いてたよ」
「オレは、軽々しく併走を引き受けるつもりはない」
「うん。だから、今すぐじゃなくていいんだって」
アタシは肩を竦めた。
「ちゃんと予定を合わせて、必要ならリギルのトレーナーにも話してさ。寮対抗レースとは関係なく、ただ三人で走るだけ」
ルドルフは腕を組み、アタシを見る。
それから、マルゼンへ視線を向けた。
マルゼンは、にっこり笑っている。
「……お前まで、そんな顔をするな」
「あら。どんな顔かしら?」
「……以前と同じ顔だ」
「うふふ。そう?」
マルゼンは楽しそうに笑った。
「でも、ルドルフ。今回はシービーちゃんからのお誘いよ。それに、今すぐ走れとは言っていないでしょう?」
「……わかっている」
ルドルフは短く息を吐いた。
「……検討はしてやろう」
「やった」
「まだ引き受けたとは言っていない」
「断らなかったでしょ?」
「……」
ルドルフは答えなかった。代わりに、紅茶へ口をつけた。
マルゼンが口元を押さえて笑う。
「うふふ。楽しみが増えちゃったわね」
「……まったくだ」
ルドルフは呆れたように呟いた。
でも、その口元には、ほんの小さな笑みが残っていた。
その時、イナボレスが水差しを持ってやってきた。
「へい、お冷やのおかわりはいかがで?」
「ありがとう」
彼女は空いたグラスへ水を注ぎながら、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで、皆さんはその寮対抗レースに出られるんですかい?」
「アタシとマルゼンは、まだわかんないんだ」
「へえ。そりゃあ残念で」
イナボレスは頷き、ルドルフへ顔を向ける。
「では、ルドルフのお嬢さんは?」
「オレは出る。長距離だ」
「おお! 長距離でござんすか!」
イナボレスが目を輝かせた。
「そりゃあ、たいしたもんで!」
「……騒ぐほどのことか」
「へい! 長距離ともなりゃ、相当な体力が必要でしょう。見てる方も、さぞ腹が減るってもんでさぁ」
……。
「うふふ。商売の話になっちゃうのね」
「へい。つい、癖で」
イナボレスは照れたように頭を掻いた。
「それで、ルドルフのお嬢さん。勝算はいかほどで?」
ルドルフは、少しだけ目を細めた。
「……勝算?」
「へい。長距離となると、相手も手強いんじゃありやせんか?」
「無論、油断はせん。競走に絶対はないからな」
「ほほう」
「だが、オレが負けた後の算段など、考える必要はない」
「すごい自信」
「当然だ」
マルゼンが楽しそうに目を細めた。
「うふふ。ルドルフらしいわね」
「オレは勝つ。そのために走るのだ」
そこには何の迷いもなかった。
勝ちたいから走る。
誰かと走りたいから走る。
面白そうだから走る。
どれも、ちゃんと走る理由になる。
「いやあ、実に景気のいいお話で!」
イナボレスが、にっと笑った。
「ところで、寮対抗レースともなりゃ、大勢のお客さんが集まるんでしょうねえ」
「……何が言いたい」
ルドルフが眉を寄せる。
「へい。もし商店街の店にも何かお手伝いできることがありゃ、ぜひ声をかけていただきたいな、と」
……ああ。そういうことか。
アタシは思わず笑った。どうやら寮対抗レースまで商売の種にしようとしているらしい。
「……なるほど」
ルドルフは、イナボレスをじっと見た。
「貴様、なかなか抜け目がないな」
「へい。お褒めにあずかり光栄でさぁ」
「褒めているとは限らんぞ」
「それでも、聞いていただけたなら一歩前進でござんす」
イナボレスは怯まなかった。
「無論、無理にとは申しやせん。お役に立てることがありゃ、その時にご相談を」
頭を下げるその姿勢には卑屈さがなかった。
値切られれば何でも差し出す、という顔ではない。
自分の働きに値打ちがあると、ちゃんと知っている顔だった。
「……覚えておこう」
ルドルフが答える。
イナボレスの口元が綻んだ。
「へい! その一言、ありがたく頂戴いたしやす!」
深々と頭を下げ、軽やかにカウンターへ戻っていく。
「本当に、商売上手な子ね」
マルゼンが笑った。
「うん。見てて飽きない」
「……大した行動力だ」
ルドルフも、少しだけ感心したように呟いた。
◇
飲み物を飲み終える頃には、窓の外はすっかり夕暮れが深まっていた。
商店街の灯りが、舗道へ長い帯を落としている。昼間の賑わいは少し落ち着き、代わりに夕飯の支度を急ぐ人たちが行き交っていた。
ルドルフは時計を確かめた。
「……そろそろ戻るぞ」
「うん」
「ええ。少し早めに戻るくらいが、ちょうどいいわね」
マルゼンが頷いた。
今日の夕飯もういらないかも。
…いや、それじゃトレーナーに怒られちゃうか。
「ねえ、二人とも」
「……何だ」
「なあに?」
「今日、楽しかったね」
マルゼンが微笑んだ。
「ええ。とっても」
ルドルフは少しだけ目を細めた。
「……悪くはなかった」
「ふふっ。そっか」
アタシは笑った。ルドルフは、相変わらず素直じゃない。
でも、今日は随分といろんな顔を見られた。
驚いた顔。困った顔。少しだけ嬉しそうな顔。
それから、走る話になると、途端に自信満々になる顔。
あの時の併走ではあんなに速く走っていたのに、今日は随分とゆっくり歩いた。
……それも、悪くないな。
つい歌い出しそうなくらい軽快な足取りで、気づいたら2人と逸れてしまった。