十八人目が、スタートの白線に並んだ。
カブラヤオー。
名を告げられた瞬間、歓声の底にざわめきが生まれた。
取り消されたダービーウマ娘の代役。しかも、まだ一度も公式戦を走っていない。
この場にいる誰もが、彼女の名を知らなかった。
「……気張らなくていいよ。走り終わったら、みんな同じように腹が減るんだからさ」
シンザンが笑いかける。
返事はない。
小柄な背中は強張っていた。両耳だけが忙しなく動き、左右の気配を拾っている。だが、その目は怯えていなかった。
見ているのは、白線の先に広がる、誰のものでもない芝だけだった。
「ほう!初舞台がこの顔触れとは、運命も随分と趣味がいい!さあ、我らと幕を上げようではないか!」
メイズイが胸を張る。
その大仰な声にも、カブラヤオーは振り向かなかった。
風がやんだ。
旗が上がる。
『八大競走クラス、中距離2400m!両寮五勝ずつで迎える一戦です!』
「始め!!」
土が爆ぜた。
最初の三完歩で、黒い影が十八人の先頭へ躍り出た。
『カブラヤオーが行きました!代役のカブラヤオー、先頭です!!』
「あら。前が欲しいのは、貴女だけではなくてよ?」
カネケヤキが内から寄せる。
桜と樫を続けて手にし、菊の三千でも先頭を争った脚に、ためらいはない。
外からタニノハローモアも並びかけた。
「先頭で息を入れたいの。少し、付き合ってもらうよ」
肩が近づく。
その瞬間、カブラヤオーの踏み込みが深くなった。
ダンッ!!
芝が沈み、黒髪が跳ねる。
縮まったはずの差が、たちまち開いた。
「……ちょっと。そこまで飛ばせとは言ってない」
ハローモアの眉が寄る。
カネケヤキも追うのをやめた。
まだ第一コーナーを回ったばかりだ。ここで意地を張れば、先頭を奪う前に脚を使い切る。
列が縦へ伸びた。
「好きに独演させては、我らの名が廃る!!」
メイズイが進出し、その背後へランドプリンスがつく。
「看板は後でいい。まず、あいつを前から下ろすぞ!」
メイズイが踏み込み、ランドプリンスが続く。
だが、二人が迫った瞬間、カブラヤオーの背中はまた遠ざかった。
横へ逃げたわけではない。進路は空いている。
それなのに、踏み込んだ者の前から、先頭だけが伸びていく。
「幕を急ぐなよ……!まだ終演には早すぎるぞ!!」
メイズイの声に、初めて苛立ちが混じった。
三バ身。
四バ身。
誰も、まだカブラヤオーの隣に立てていない。
後方では、カブトシローが歯を剥いた。
「ヒヒッ。持つかよォ、あんな逃げ。新聞屋が喜ぶのは、今だけだぜェ」
スターロッチは聞き流した。
「騒がしいこと。最後に呼ばれる名前まで、決まったわけではないでしょう?」
さらに内側には、イシノヒカル。
菊と有馬をさらった末脚は、まだ集団の奥に眠っている。
「好きなだけ前へ行きな。直線は、こっちの仕事だ」
誰もが、同じ結論に立っていた。
速く出ることと、最後まで残ることは違う。
2400mは、最初の勢いを褒めてくれる距離ではない。
あの黒い影は、いずれ自分の速さに追いつかれる。
だから、待った。
待っていたのだ。
◇
向こう正面。
先頭はカブラヤオー。
その背後には、メイズイ、ランドプリンス、ロングエース、タイテエムが続き、ハローモアとカネケヤキは少しずつ位置を下げていた。
さらに後ろでは、ハイセイコーとタケホープが互いの動きを測っている。
「ロング。そのポジションもらうぞ」
「お好きにどうぞ」
ランドプリンスの問いに、ロングエースが答えた。
二人の間へ、タイテエムが入ってくる。
「では、ご一緒しよう。君たちの背中を眺めて終わるつもりはないのでね」
「口は後だ。あいつを捕まえる」
結託ではない。
互いに蹴落とすつもりのまま、目の前の一人だけが共通の障害になった。それだけだった。
ランドプリンスが前へ圧をかけ、ロングエースが外から進路を押さえる。タイテエムは二人の後ろで、どちらかが崩れた瞬間に抜ける位置を取った。
カブラヤオーの顔が、わずかに横を向いた。
次の瞬間、三人の正面から背中が遠ざかった。
「……また、上げた!?」
追いつくために踏み込んでも、差は縮まらない。
ようやく保てる。さらに迫れば、その先を行かれる。
タイテエムの額から汗が散った。
「これは……追うほど、こちらの呼吸が狂わされるな」
「なら、狂ったままでも踏め!」
ランドプリンスが吐き捨てる。
ロングエースも踏み込んだが、三人とも前を追うだけで精一杯だった。
ハイセイコーも腕を振る。
声援へ返すはずの笑みは消え、口元は強く結ばれていた。
「みんなの前で、追いかけてばっかりじゃいられませんっ……!」
力強く踏み込む。
だが、先頭へ届く前に、タケホープが彼女の背へついた。
「ハイセイコー。意地を張る場所、間違えないでちょうだい」
「……っ!」
「アンタを負かす前に、アタシまで道連れにする気?」
行けば、脚を使わされる。
待てば、差が広がる。
誰かが確かめに行くたび、同じ答えが返ってきた。
前は遠い。
それでも、逃げた者は止まらない。
『1000メートルを通過!先頭は依然としてカブラヤオー!後続との差は……七バ身ほどに広がっています!!』
計時係が時計とターフを見比べた。
掲げられた数字を見た観客の声が、途切れる。
「……あれ、1600じゃなくて2400だよな?」
前方でハローモアの呼吸が乱れる。
カネケヤキがさらに位置を下げ、メイズイの足音にも重い響きが混ざった。
ヒカルポーラが肩を沈める。
「……あの背中、まだ遠くなるのか」
リキエイカンが前を睨んだ。
「追いつくために踏んでるってのに、追いつく前から脚を持っていかれやがる……!」
誰もが欲していた一瞬の緩みを、先頭は与えなかった。
◇
「……潰れるのを、待っているのかい?」
集団の中ほどから、シンザンの声がした。
「あたしも待ったよ。けどね……あの子が潰れる頃に、あたしたちが立っている保証はないよ」
半歩、外へ出る。
リュウフォーレルの目が開いた。
「……なるほどね。港で待ってりゃ、船ごと干上がるってわけ?」
彼女が笑い、両腕の振りを大きくする。
「いいじゃん。カピテーヌは、凪より嵐が好きだよ!!」
シンザンとリュウフォーレルが進む。
その二人に、ダイコーターが反応した。
「待つだけで頂点が獲れるか。
……ここからだ!」
アサホコも続く。
「遅れた分は、自分で取り戻す。……そうして、ここまで来たんだ」
派手な跳躍はない。
崩れぬ一完歩を、もう一度、さらにもう一度。
ヒカルポーラとリキエイカンも、空いた道を追った。
第三コーナー。
七バ身が、六へ。
六が、五へ。
追走勢がようやく差を詰め始めた。
先頭を追う軸はシンザンとリュウフォーレル。その外からダイコーターが続き、メイズイ、ランドプリンス、ロングエース、タイテエムが隊列を立て直す。
後方からはイシノヒカルが大きく進出し、スターロッチとカブトシローもその動きに反応した。
カブラヤオーの耳が後ろを向いた。
首筋に張りついた黒髪。その下で、肩が沈む。
土が飛んだ。
『また上げた!カブラヤオー、まだ速度を上げていく!!』
「冗談じゃねェ……!」
カブトシローの笑いが消えた。
待っていた失速が来ない。歯を剥き、彼女も追い始める。
「ぶっ壊すなら、あたしの仕事だろうがよォ!!」
イシノヒカルが外から捲り、スターロッチがその背後へ入る。
だが、追う者が増えるほど、隊列はかえって分かれた。
先頭を直接追うシンザンとリュウフォーレル。
その後ろで、三番手争いへ移ったダイコーター。
さらにメイズイら中団勢。
大外から一気に差を詰めるイシノヒカル。
誰もが前を見ていた。
しかし、同じ勝負をしている者はもういなかった。
名誉も、経験も、脚の代わりにはならない。
その足で踏める芝だけが、彼女らをゴールへ運んでいた。
◇
第四コーナー。
先頭はカブラヤオー。
内ラチ沿いにシンザン、外にリュウフォーレルとダイコーター。
メイズイ、ランドプリンス、ロングエース、タイテエムが続き、ハイセイコーとタケホープがその後ろへ迫る。
大外ではイシノヒカルが捲っていた。
先頭のフォームが、大きく揺れた。
「……止まった!」
メイズイが叫ぶ。
ハイセイコーが前を向き、タケホープも外へ持ち出す。
ついに来た。
あれだけ飛ばした代償を、今こそ払う時が。
しかし、カブラヤオーは止まらなかった。
腕の振りは乱れ、上体も揺れる。
呼吸は遠目にも分かるほど荒い。
それでも、脚だけが前へ出る。
『直線です!先頭カブラヤオー!内からシンザン!外からリュウフォーレル!さらにダイコーターが迫る!!』
直線へ入った。
カブラヤオーが先頭。
シンザンが最短距離を突き、リュウフォーレルとダイコーターが外から迫る。
後続も一斉に脚を伸ばしたが、勝負の中心はシンザンとカブラヤオーに絞られていた。
シンザンが、来る。
「逃げるのは、そっちの自由さ」
三バ身。
「捕まえに行くのは、こっちの自由だよ……!」
二バ身。
残り200。
シンザンが一バ身まで迫った。
カブラヤオーの横顔が覗く。
汗に濡れた頬。開いた口。荒い息。
その目が、ほんの一瞬だけシンザンを捉えた。
目が合った。
シンザンは、笑っていた。
息も乱さず、肩も沈めず、静かに迫ってくる。
その姿を見た瞬間、カブラヤオーの走りが変わった。
「……困るねぇこれは」
シンザンが呟く。
カブラヤオーの首が、ゆっくりと前へ伸びた。
耳が立つ。
乱れていた腕の振りが、左右同じ幅で揃っていく。
そして、喉の奥から音が漏れた。
「――――――――――ッ」
声というより、空気を裂く音だった。
直線を走る者たちが、一斉に顔を向ける。
「……何だ、今の」
リュウフォーレルの声が止まった。
カブラヤオーの口が開く。
そこから出たのは、言葉ではなかった。
「ぎゃあああああーーーーッ!」
絶叫が、直線を叩いた。
轟く咆哮に引っ張られるように、カブラヤオーは更に前へと踊り出る。
「……っ」
シンザンの眉が上がる。
カブラヤオーは、シンザンを見ていなかった。
背後を振り返りもしない。
ただ前方のゴールだけを見据え、獣じみた声を吐きながら、脚を叩きつけている。
「来るなァァァァァァァァァァッ!!」
その声に、観客席の歓声の構成音が組み変わる。
走りは乱れているというのに、速度は落ちない。
むしろ、速くなっていた。
「……この子」
ハイセイコーの顔から血の気が引く。
「まだ、上がるの……?」
カブラヤオーの脚が芝を叩く。
一歩ごとに土が跳ね、黒髪が大きく揺れる。
フォームは美しくない。整ってもいない。
それでも、前へ進む力だけが異様な密度で残っていた。
残り150。
シンザンがさらに差を詰める。
「いいだろう……逃げるなら、最後まで逃げ切ってみせな!!」
声は、隣の一人へ叩きつける挑戦だった。
カブラヤオーは答えない。
代わりに、喉の奥から低い音が響いた。
「グッ、ガアアアアッッッッ!!」
それは叫びというより、走りそのものが発している音に聞こえた。
その応えに、シンザンが歯を剥いた。
「あたしを越すなら──最後まで、行ってみせな!!」
突き出す膝。
伸びる足先。
もう一段、踏み込んだ。
シンザンの肩が、カブラヤオーの肩へ並ぶ。
『並んだ!!シンザンが並んだ!!カブラヤオーとシンザン、二人が並んで残り100!!』
歓声が空気を震わせる。
シンザンの脚は鋭く芝を切り、カブラヤオーの脚は重く芝を押し潰した。
違う音が、同じ速さで並ぶ。
シンザンが半歩前へ出る。
「捕まえた……!」
その瞬間、カブラヤオーの上体がさらに沈んだ。
腕が大きく振られ、次の一歩が深く入る。
黒髪が、わずかに前へ逃げた。
「なに……!?」
半バ身。
届く。
届かない。
シンザンはさらに脚を回した。
「終わってないッッ!!」
カブラヤオーの一歩がわずかに乱れる。
だが、止まらない。
最後の一完歩。
二人の足が、ほとんど同時に芝を叩いた。
白いゴール板が迫る。
『ゴール前!!シンザンか、カブラヤオーか!!』
シンザンの足先が伸びる。
カブラヤオーの胸が、わずかに前へ出る。
最後の一完歩まで、二人の間に芝が残った。
そして、白いゴール板が二人の視界を切り裂いた。
『カブラヤオー!!逃げ切った!!カブラヤオー一着!!シンザン及ばず二着!!三着リュウフォーレル!!』
地鳴りがした。
歓声が遅れて押し寄せ、スタンド全体を揺らす。
シンザンの脚が二歩、三歩と進み、やがて膝に手をついた。
それでも、顔を上げる。
カブラヤオーは、まだ走っていた。
ゴールを越え、向こうの芝へ。肩を激しく揺らしながら、それでも脚を止めずに進んでいる。
シンザンは、遠ざかる背中を見た。
「……まいったね」
声は掠れていた。
けれど、浮かんだ笑みは、ものぐさな会長のそれではなかった。
十八人のうち、八大競走を勝っていない者が、たった一人。
その一人が、誰にも前を走らせなかった。
◇
「ば、バカな…!ありえませんねぇこんな事!」
「はぁ…はぁ…出るって聞いた時はどうなることかと思ったが…よくやったカブ!!凄いぞぉ!!!えらい!!!」
学園中がどよめく中、俺は叫んだ。隣のマエストロは青ざめ、頭を抱えている。
…………
いい気味だバーカ!!!
…………
…心の中でも、こんな幼稚なことなど考えていては勿体無い。ひとまずカブのところに行って、コンディションのチェックだけでもしなければ…
だが、その前に。
「覚えてってくれよな。あれが、スピカのカブラヤオーだ。よろしく!」
「えぇ…よーく頭に刻みました。次にリギルのメンバーが彼女に挑む時、このような結果にはなりません!!」
「そりゃ無理だ。うちの担当こそ最高のウマ娘なんだからな」
「いいえ、ボクの担当の方が凄いのでね」
「「…」」
「スピカの方がすごい!!」
「リギルの方がすごい!!」
「相変わらず、張り合っているのかい?仲が良いね」
「「良くない!!」」
「ふふっ、それは失礼した」
俺たちのやりとりを見て、いつの間にか現れたスピードシンボリが微笑みかけてきた。
『喧嘩するほど仲が良い』
俺はこの言葉が嫌いだ。喧嘩の定義が曖昧な奴らほど、この言葉を使いたがるからだ。
マエストロと俺は断じて仲が良い間柄じゃない。やつはライバルだ。能力・実績を尊敬こそしているが、超えるべき存在という認識でしかないんだ。
「カブのところに行くのだろう?お供するよ」
「そうか。じゃあついてきてくれ」
「最終レースはボクの担当が勝つから…せいぜい今の浮かれ具合を恥じる準備しておくことですね。
そ・れ・で・は 」
「…」
そう言ってマエストロは去っていった。背中に手を組んで余裕そうに話していたが、握りこむその手には、やつの悔しさが滲み出している。
「…よし、カブのところ行くぞ」
目は退場口へ向けたまま、返事をする。
スピードシンボリも歩幅を広げ、先を急ぐ俺の隣へ並んできた。
「わかった。ところで、トレーナー君」
「どうした?」
「先程の、『うちの担当こそ最高のウマ娘』という言葉…俺も含まれているのかな?」
「当たり前だ」
「そうか…」
何となく分かってしまった。こいつが今何を望んでいるか。
「うちの担当だと、候補が多くてね…今一度、誰が最高か言ってくれるかい?」
「俺は担当に優劣なんかつけない」
「そうは言っていないさ」
「なら…」
「俺はただ、欲しいだけなんだ。君からの愛の言葉がね?」
チームを持つ以上、偏った関わり合いや言動はしない。
だが、しかし…かつて専属で担当し、日本の頂点に立ち、共に世界へ挑んだこいつは、俺の人生でも一際特別なウマ娘と言っても仕方ないのかもしれない。
…許せ、スピカの皆。そして、俺。
「…スピードシンボリは、俺にとって最高のウマ娘だよ」
「スピードシンボリは?」
「…これ以上は勘弁してくれ」
「…ふ、仕方がないな。また我慢するとしよう。俺の専売特許なんだろう?」
「…いざこうやって言葉にするには、まだ恥ずかしいんだ。待っててくれ」
「──ッ!?………本当に君は…」
そんなやりとりをしているうちに目的地に到着していた。それと同時に緑のハチマキが懐に飛び込んでくる。
「トレーナーさん!!」
「カブ、大丈夫か?」
開いた瞳孔は既に臨界点を迎え、目は泳ぐという域すら超えて、もがき苦しむように溺れていた。
「私を匿ってください!ここにいたら…」
「…注目を浴びる覚悟はできていなかったか」
「急にみんな話しかけてくるようになって、逃げたらみんな追いかけてきて…うう、ぐすん」
…部室に届けてから、最終レースを見るとしよう。
◇
「…口だけでは無かったか。マルゼンスキー」
カブラヤオーの衝撃的な番狂わせから3レースが行われた。
八大競走クラスの長距離はコレヒデが勝利。順当と言える。あまり言いたくはないが、中距離に上澄みが集中した分、長距離の層は薄かったからな。タケホープがいるだけでも変わっただろう。
そこから追加分のレースが始まった。短距離はサクラシンゲキというウマ娘が爆走という表現も生温い飛ばし方で勝利をもぎ取った。このレースも鮮烈だったが、オレに更なる衝撃を与えたのは次のレースだ。
第14レース、追加の未デビュー・未勝利クラスのマイル戦。
『エスコートしてくださる?貴方の景色の、その先へ』
『景色を楽しむ余裕なんて、無い方がアガるわよ?』
壮絶なスピード勝負。勝ったのはマルゼンスキーだった。2着はラモーヌ。
二人の差は、一バ身。
オレでも、マイルでラモーヌに勝つには相当本気で臨まねばならない。
しかし、奴は側から見て分かるレベルで、『楽しく走る』という宣言したスタンス通りに走り、勝利した。
ラモーヌと後続の空白は、8バ身だった。
直線ではマッチレースとなり、最早後続など視野にも入らなかったが、あの叩き合い…いや、そんなつもりなどなかったのだろう。
奴は飛ばした。もっと飛ばしたいから飛ばした。
誰がいるとか関係なく、ただそうしていただけ。
稀代の怪物、その走りにオレは興奮した。
…惜しむらくは奴もミスターシービー同様、栗東寮側の所属で出てきたことだったな。奴が美浦についていたなら、このレースで美浦寮の勝ちが決まっていたというのに…
ここにきて7対7。最終レースまで勝敗が持ち越されることとなった。レース数の追加、提案…いや、呑み込ませて正解だったな。
「いやぁ、負けた負けた!!すごいねぇあの子!」
からっとした調子のいい声が横から舞い込んでくる。目を動かすと、そこには普段よりはちゃんと整えてある髪のウマ娘がいた。
「…シンザン」
「ありゃ大成するね。年長者として嬉しいよ」
「…なぜそんなヘラヘラしている?」
気に食わん。現役時代、あれほどに明朗な傲慢を振り撒いてきたシンザンが、負けてこのように笑っていることが。
だが、奴はあっけらかんとして言った。
「そりゃ、栗東のウマ娘以前にあたしはシンザンだろ?」
「…何?」
「悪いけど、あたしは寮の勝ち負けはどうでもいいのさ。夢のある若人がどんどん陽の目を浴びてくれって話だね。文句言うなら、あたしに勝てなかった同輩が悪いのさ」
…いや、何も変わりはなかった。なんという自己中心的な発想。あの傲慢さは別の形でこのターフを踏み荒らしていた。
だが、オレに誤魔化しは効かんぞ。
「…ならせめて、本気で走るくらいしろ」
「よしてくれよぉ〜。悪いけどこんな木端の喧嘩で本気になんてなってられないよ。賞金もある訳じゃないしね」
チッ…調子が狂う。そんな問答を繰り返しているうちに、最終レースの出走者が出揃った。
このレースで、決着が着く。
「これで最後…頼んだぞ、トウショウボーイ」
ターフにてあるウマ娘と睨み合う彼女の背中は、いつもの慇懃無礼な空気をかき消すほどに昂っていた。