夕陽が、白い流星を灼いていた。
テンポイントは、トウショウボーイが立ち上がるのを待っていた。
足首を回し、片足ずつ体重をかける。最後に踵で芝を押す。見慣れた準備だった。
「心配性だね」
「慎重というんですよ。待ち切れませんか?」
「うん。ずっと、お前と走るのを待ってたから」
顔を上げたトウショウボーイと、目が合った。
金橙の髪に差した白が風に揺れる。柔らかな面差しの中で、目だけが笑っていなかった。
「……私もですよ」
客席から、二人の名が飛んできた。
美浦。栗東。交互に上がった寮の名が重なり、声の形を失う。
七対七。
最後の一勝を託す声だった。
テンポイントが客席へ手を上げる。
返ってきた声を聞き終えると、ゆっくり手を下ろした。
「みんな、勝つところを見たがってる」
「ええ」
「期待には応える。それは大前提さ」
「こちらも同じです」
「……寮のためだけに?」
トウショウボーイの耳が、わずかに動いた。
「寮の勝敗が決まっていても、僕はお前に勝ちたい。お前の後ろでゴールするのは嫌なんだ。
……そっちは?」
「私も、貴方に負けたくありません」
「…」
「誰も見ていなくても。何度でも、貴方には勝ちたいです」
「…最初から、そう言え」
テンポイントが笑う。
風が、二人の間へ芝の匂いを運んだ。
トウショウボーイが爪先で地面を押す。
膝から腿、腰へ、無理なく力が通った。その脚を、テンポイントは黙って見た。
テンポイントの尾が、一度だけ強く揺れた。
「今日までずっと今瞬間に焦がれていた。やっと楽しくなりそうだよ」
「負けた後にも、そう言えますか?」
「吐いた唾を呑むつもりは毛頭無い。今日は僕が勝つのだから」
「それは残念。では、代わりに泥を呑んでください」
二人が白線へ歩き出す。
客席から降る声に、それぞれ一度だけ顔を上げた。
◇
「おーい! 二人だけで終わらせる気じゃないだろうな!」
ラッキールーラが、黒い長髪を背へ払って声を張った。
「こっちは、もう待ちくたびれたぞ!」
「今、行くよ」
テンポイントが答える。
「待ってるんやったら、ちょっとずれて。前が見えへんわ」
ラッキールーラが脇へ動くと、陰からカツラノハイセイコが顔を出した。
黒褐色の毛先を払い、客席のハイセイコーへ片手を上げる。向こうでも手が上がった。
クライムカイザーが低く言う。
「挨拶は済んだか。そろそろ並ぶぞ」
「そっちこそ、トウショウボーイばっかり見てるやん」
「勝つつもりで見てる。悪いか」
「悪いわ。私をなめんなや」
カツラノハイセイコは鋭い目を逸らさず、その隣へ入った。
背後で、出走者を数える声がした。
「……あと一人、どなたでしょう」
サクラショウリが振り返る。
すぐ後ろに、細身の長身が立っていた。メジロファントムだった。
「……失礼。いつから?」
「先ほどから」
ファントムはそれだけ答え、白線へ視線を戻した。
サクラショウリが道を空ける。
長い脚が音もなく前へ出た。
「レースでは、そうはいきませんよ」
「……ええ」
ファントムは列へ滑り込んだ。
「……あれ? もう行った?」
ホクトボーイが横を見る。
そこにファントムはいなかった。
少し先の白線脇に、細身の背中がある。
「影みたいな奴だな」
返事の代わりに、足元から低い声が返った。
「お前は違うのか」
ホウヨウボーイが片膝を伸ばし、ホクトボーイを見上げる。
「……まさか。勝つ気もないのに、来るわけないだろ」
「なら同じだ」
ホウヨウボーイは白線へ向かった。
グリーングラスが足の位置を決めていた。
大柄な身体が片足へ沈み、戻る。もう片方にも同じ重さをかける。
その外側に、ファントムが立っていた。
誰に呼ばれたわけでもない。ただ、いつの間にかそこにいる。
ホクトボーイも白線へ足を揃えた。
『最終、第15レース! 未デビュー・未勝利クラス、中距離2400メートル!』
放送が学園中へ届く。
食べかけの箸が止まり、寮旗を持つ腕に力が入った。
七対七。
十人が腰を落とす。
ファントムだけが、わずかに遅れて沈んだ。
「始め!!」
芝が、十筋に裂けた。
◇
速い。
最初に頭を出したのはトウショウボーイだった。
踏み込んだ足が腰の下を抜け、次の膝がもう前へ出ている。
その外へ、金橙が伸びた。
「……っ!」
テンポイントが並ぶ。
白い流星が視界を横切り、半歩前へ出た。
先頭が入れ替わる。
だが、トウショウボーイは背中を見なかった。
腕を強く引き、次の一歩で肩を戻す。
並んだ。
その一歩は、単に前へ出るためのものではなかった。
テンポイントの背中を見たくないという意地が、脚の裏から身体全体へ駆け上がっていた。先に出られた事実を認めるより早く、トウショウボーイの身体は隣へ戻っていた。
「おいおい、最初からか!」
ラッキールーラが大股で追う。
その内側をクライムカイザーが取った。カツラノハイセイコが続き、サクラショウリが外から位置を上げる。
さらに外を、メジロファントムが進んでいた。
誰かの背後へつき、空いた幅だけを使う。音もなく、少しずつ前へ出る。
ホウヨウボーイは二人の後ろへ入り、ホクトボーイとグリーングラスがその後ろを追った。
『先頭はテンポイント! いや、内からトウショウボーイも譲りません! 二人が並んで第一コーナーへ!』
内はトウショウボーイ。
外はテンポイント。
曲線で、内の肩がわずかに先へ出る。
テンポイントは外を回った。膨らんだ距離を脚で埋める。控える余地はあったが、一度も緩めなかった。
外を回るということは、距離を余計に走るということだった。
それでもテンポイントは内へ入らない。トウショウボーイの後ろへ回ることが、距離の損よりも耐え難かった。遠回りになった一歩一歩が、負けたくないという気持ちをそのまま芝へ刻んでいく。
「……そこまでして、前へ?」
「お前の後ろは嫌なんだよ」
「奇遇ですね。私もです」
トウショウボーイが踏む。
鹿毛が前へ出る。金橙が追う。
コーナーを抜ける間に、先頭の名が二度変わった。
その後ろで、ファントムの姿がラッキールーラの肩に隠れた。
次に見えた時には、クライムカイザーの外へ移っていた。
◇
向こう正面に入っても、二人の肩は離れなかった。
トウショウボーイが半バ身出る。
テンポイントが詰め、並び、爪先ひとつ前へ出る。
息を入れる暇はない。
トウショウボーイが戻り、二人の競り合いに引かれて後続も隊列を詰めた。
先頭にいるのに、二人とも追われているようだった。
相手の脚音が背後ではなく隣から聞こえる。その近さが、休むことを許さない。前へ出ても安心できず、並ばれても引くことができない。互いの存在そのものが、次の一歩を要求していた。
「……忙しい奴らだ」
クライムカイザーの眉間に皺が寄る。
「そのまま行かせるかよ!」
ラッキールーラが外から進んだ。
深い一歩で空白を潰し、テンポイントの外へ迫る。
「二人で決めるには、まだ早いだろうが!」
テンポイントの顎が下がった。
金橙が伸び、直後、トウショウボーイも応じた。
ラッキールーラが迫ったことで、二人は初めて同じ方向へ反応した。
追いつかれる恐れが、互いへの対抗心をさらに強くする。テンポイントが前へ出れば、トウショウボーイも前へ出る。トウショウボーイが踏めば、テンポイントも踏む。二人の意地は、後ろから来る脚音さえ燃料に変えていた。
「……なっ!」
ラッキールーラが歯を食いしばる。
並びかけた身体が、押し戻された。
「……っ、可愛げのねぇ!」
その内側から、クライムカイザーが抜けた。
「可愛がる必要なんざないだろ」
トウショウボーイの真後ろへ入り、肩が外へ寄った瞬間、空いた幅を突く。
黒い前髪が、鹿毛の脇へ現れた。
「横を見てる間に、前を貰うぞ」
「差し上げるものではありませんよ」
鹿毛が一歩前へ出る。
その外を、テンポイントが追った。
「そいつより先に、僕を振り切ってみろ!」
「では、追いついてください!」
テンポイントの腰が沈み、一完歩が伸びる。
トウショウボーイの膝へ届き、二人はまた並んだ。
クライムカイザーの前で、隙間が消えた。
ほんの一瞬だけ開いた道を、クライムカイザーは勝機だと思った。
だが、二人が並び直した瞬間、その道は消えた。二人の競り合いは互いを削るだけではない。近づく者を押し返す壁にもなっていた。
「……っ」
それでも追う。距離を取る余裕はなかった。
その外側で、ファントムがクライムカイザーの背後へ入った。
前の脚が乱れた瞬間だけ、半歩進む。
1000メートルを過ぎる。
隊列が揺れた。
サクラショウリは流れに呑まれかけ、腕を小さくして一度位置を落とす。
「もう下がるんか?」
カツラノハイセイコが横から言った。
「……勝利への一歩は、前だけに踏み出すものではありません」
「ほな、先に行くで」
小さな身体が前へ出た。
サクラショウリは追わず、長く息を吐く。
その横を、ファントムが通り過ぎた。
空いた幅を進み、ホウヨウボーイへ近づく。
「……来たか」
ホウヨウボーイが横目を向ける。
ファントムは答えず、外へ半歩出た。
長い脚が、深い背へ並ぶ。
「お先に行かれますか?」
「……はい」
ファントムの返事は短い。
「では、どうぞ」
言葉とは裏腹に、ホウヨウボーイの脚は緩まない。
ファントムもさらに踏み込んだ。
抜けない。
次の瞬間、ファントムは外へ出た。
ホウヨウボーイが目を見開く。
「……静かな方ほど、強引ですね」
返事はない。
ファントムの脚が、もう一度伸びた。
ファントムの走りには、声の代わりに間合いがあった。
言葉では譲るように見せながら、脚は一歩も譲らない。静かであることと、弱いことは違う。その事実を、長い脚が淡々と証明していた。
◇
後ろからなら、よく見えた。
二人は互いを追い続けている。
肩が出れば隣が戻り、膝が前へ出ればもう一方も譲らない。
「……いつまで付き合う気だろうね」
ホクトボーイが呟く。
「両者とも、一歩も譲らぬ構えにございましょう」
グリーングラスが答えた。
「なら、最後に抜かせてもらおうか」
ホクトボーイが外へ動く。
グリーングラスも一段低くなった。
第三コーナー。
テンポイントが外から出る。
トウショウボーイが内を回り、押し返す。
曲線がきつくなる。
外を走るテンポイントの脚には、内を回るトウショウボーイより多くの負担がかかっていた。それでも内へ切り込まない。外からでも勝つという意地が、重くなり始めた脚を前へ押し出していた。
「……もう音を上げると思っていたんだけどな……!」
「こちらの台詞です。休んでいただいても構いませんよ」
「お前が下がれ」
「誰が貴方の命令など聞くものですか!」
テンポイントが伸びる。
トウショウボーイも応じ、二人は並び直した。
並び直した瞬間、二人の間に安堵はなかった。
むしろ、相手がまだ走れることを知ったことで、残された力まで引きずり出される。苦しいのは自分だけではない。その事実が、休む理由を奪っていった。
テンポイントの口から、笑いに似た息が漏れる。
「……そうだ。これでこそ、お前と刻む刹那……ッ!」
直後、背後から影が迫った。
「……御二方。背を侮りが過ぎるのではありませんか?」
グリーングラスだった。
ラッキールーラを外から抜き、カツラノハイセイコの肩を越え、クライムカイザーのすぐ後ろへ取りついている。
その外から、ホクトボーイも来た。
「さあ。そろそろ、お邪魔しますよっと!」
サクラショウリも位置を上げる。
さらに外で、メジロファントムがホウヨウボーイの横へ並んだ。
ホウヨウボーイが深く踏む。
ファントムも同じだけ踏み込む。
「……譲る気は、ないようですね」
「……ありません」
十人の影が、曲線の出口へ寄った。
隊列が、最後の直線へ向けて厚みを増す。
前の二人だけの争いだったはずのレースが、いつの間にか全員の意志を巻き込んでいた。
誰かが前へ出れば、誰かが追う。誰かが苦しめば、別の誰かがそこへ踏み込む。芝の上で交わされるのは脚だけではなく、それぞれの譲れない理由だった。
◇
『第四コーナー! テンポイント、トウショウボーイ! まだ並んでいる! グリーングラスが接近、クライムカイザーも食らいつく!』
前方に、ゴールが見えた。
トウショウボーイが先に身体を起こす。
内の肩が前へ出た。
テンポイントの前に、鹿毛の横顔がある。
またか。
金橙の眉が寄る。
何度、前へ出ても。
何度、その肩を退けても。
こいつは、戻ってくる。
その姿は、テンポイントにとって単なる先行者ではなかった。
何度も追い越し、何度も追いつかれた相手。勝ちたいという気持ちを、走るたびに形にして返してくる存在だった。だからこそ、前にいるだけで胸の奥が熱くなる。
「……っ、まだだ!」
テンポイントが外から伸びた。
肩のすぐ横に、トウショウボーイの荒い息が戻る。
「まだ、終わっていませんよ……!」
直線。
二人の間に、白いゴール板が迫る。
『トウショウボーイ! テンポイント! 三番手グリーングラス! クライムカイザーが続く! 外からホクトボーイ!』
グリーングラスが差を詰めた。
大きな腕を引き、二人の間へ身体をねじ込もうとする。
「……こっちにも、道を寄越せ!」
クライムカイザーも内から迫る。
ホクトボーイは外へ出て、残した脚を使い切った。
後方では、ファントムがホウヨウボーイの外へ出た。
長い脚が音もなく伸びる。
ホウヨウボーイが追う。
サクラショウリがその外へ並び、カツラノハイセイコが続く。
ラッキールーラも離れない。
残り300。
テンポイントが、爪先ひとつ前へ出る。
だが、トウショウボーイがすぐに戻った。
前へ出たはずなのに、勝ったという感覚はなかった。
隣にいる限り、テンポイントの一歩は完成しない。トウショウボーイにとっても同じだった。相手がいるからこそ踏み込める。相手がいる限り、終わりには届かない。
「……ほら。抜かれるぞ……!」
「まだ、私の前には出ていません!」
テンポイントの顔が歪む。
怒りと笑いが同時に浮かんだ。
「なら、最後まで……押さえてみろ!」
200。
歓声が割れた。
美浦の名、栗東の名、十人の名が混ざり合う。
トウショウボーイが前へ出る。
テンポイントが並ぶ。
その背後へ、グリーングラスが迫った。
「……届く!」
クライムカイザーとホクトボーイも肩を並べて追う。
だが、先頭の二人は振り返らない。
振り返れば、相手を意識してしまう。
意識すれば、恐れが生まれる。
だから二人は前だけを見た。けれど、隣の足音だけは、どうしても聞こえていた。
150。
トウショウボーイの膝が、着地の瞬間に沈んだ。
ほんのわずかな沈みだった。
だが、トウショウボーイ自身には、それが大きな揺らぎに感じられた。脚が止まるかもしれない。前へ出られないかもしれない。その恐れを打ち消すように、テンポイントの背中が伸びた。
テンポイントが出る。
白い流星が、空を裂くように伸びた。
その横顔が遠ざかる。
トウショウボーイの目が見開かれた。
逃がさない。
ここで離れれば、これまで積み重ねてきたすべてが、相手の背中へ置き去りにされる気がした。
だから、沈んだ膝を責める代わりに、次の足で芝を掴んだ。崩れた一歩を、次の一歩で取り戻す。
「テン、ポイントッ!」
金橙の耳が震える。
鹿毛が、もう一度並んだ。
テンポイントも名を呼ぶ。
「トウショウ、ボーイ!!」
100。
二人が、また並んだ。
もう、どちらも笑っていなかった。
残っているのは、前へ出る意志だけだった。
テンポイントの肩が出る。
トウショウボーイの胸が戻る。
グリーングラスが二人の間へ迫る。
あと少し。だが、ゴールはさらに近い。
50。
『テンポイント! トウショウボーイ! グリーングラスも来ている!』
白いゴール板が目の前に迫った。
トウショウボーイが顎を引く。
テンポイントが腕を引く。
最後の直線は、もはや走る場所ではなかった。
十人の脚が、芝を叩き潰し、蹴り飛ばし、前へ進むための力へ変わっていく。
テンポイントの足裏が地面を捉えた。
踏み込んだ瞬間、身体が弾ける。腰が沈み、背中が伸び、金橙の髪が風を裂いた。
その動きは、勝ちたいという思いが身体を追い越した瞬間だった。
脚が限界を訴えても、意志だけが先に進む。前へ出ることが、苦しさを感じないための唯一の方法になっていた。
トウショウボーイも譲らない。
鹿毛の脚が芝を深く抉り、跳ね上がった土が後方へ飛び散る。腕を振るたび、肩が前へ突き出される。
こちらもまた、負けたくないという気持ちに身体を預けていた。
苦しいからこそ、相手の存在が必要だった。隣にいる限り、まだ踏める。隣にいる限り、終わらせてはいけない。
並ぶ。
離れる。
また並ぶ。
ゴール板が、目の前で巨大な壁のように迫った。
「まだだァッ!」
テンポイントの声が、喉を裂いて響いた。
「ここで、負けるものですかッ!」
トウショウボーイが叫び返す。
最後の一完歩。
テンポイントが、全身を前へ投げ出した。
脚が限界を越えて伸びる。白い流星が、空の下で燃え上がる。
同時に、トウショウボーイも踏み切った。
鹿毛の身体が弓のようにしなり、最後の力を一気に解き放つ。
その背後から、グリーングラスが迫った。
「届かせる……ッ!」
大地を踏み抜くような一歩。
クライムカイザーも、ホクトボーイも、残った力をすべて叩き込む。
十人の脚音が、ひとつの轟音になった。
金橙が光った。
鹿毛が伸びた。
白い流星と、駆ける鹿毛が、ほとんど同時にゴールへ突き刺さる。
白線が、二人の身体を一瞬で切り裂いた。
その瞬間だけ、二人の意地も、恐れも、声援も、すべてが同じ場所へ重なった。
勝ちたいという思いが、どちらのものか分からないほど近くで燃え、ゴール板はその熱を一度に受け止めた。
『ゴール!!』
◇
歓声が爆発した。
だが、その直後には、音が消えた。
「……どっちだ?」
テンポイントが数歩先でよろめき、膝へ両手を置く。
トウショウボーイも減速し、片手を腿へついた。
二人の間を、風だけが通り抜けた。
グリーングラスが身体を起こす。
クライムカイザーが外へ流れ、ホクトボーイがその後ろで足を緩めた。
ホウヨウボーイ、サクラショウリ、メジロファントムが続く。
ファントムはゴールを越えてもすぐには止まらず、数歩進んでからようやく足を緩めた。
カツラノハイセイコが白線を越え、最後にラッキールーラの大きな身体が駆け抜けた。
十人が、走り終えた。
それでも、勝者の名は呼ばれなかった。
『先頭は……テンポイントか、トウショウボーイか! 非常に際どい入線となりました! 三着にはグリーングラス! 四着、クライムカイザーです!』
放送の向こうで、紙を動かす音がした。
『一着、二着につきましては、写真判定となります。確定まで、しばらくお待ちください』
写真判定。
その四文字が、両寮の歓喜を宙へ留めた。
走っている間は、前へ出れば終わると思っていた。
だが、終わったはずの今も、勝敗は決まっていない。二人の意地はゴール板を越えてもなお、判定という形で宙に残されていた。
「……勝った、のか?」
テンポイントが顔を上げる。
声は掠れていた。
「……こうなっては、わかりません……」
トウショウボーイが答える。
まだ、相手の目を見るだけで息が乱れた。
「僕も、相当な意地っ張りだと思っているが……お前も大概だな」
テンポイントが身体を起こす。
白い流星が、汗に濡れた髪の間からもう一度現れた。
「出会い方が違えば、もっと仲が良かったかもしれませんね」
「そんなのごめんだ」
「私もです」
少し離れた場所で、ファントムが二人を見ていた。
テンポイントが気づく。
「ファントム。君はどうだった?」
ファントムは二人を見たまま、短く答えた。
「……速かったです」
「それだけ?」
「……はい」
ファントムは判定所へ視線を戻した。
二人も、同じ方を向く。
誰も立っていない白線の上を、傾いた光が細く照らしていた。
その向こうで係員が屈み込み、小さな画面を覗いている。
学園中が勝負の結果を待っていた。
◇
『結果…出ました。何度も確認しましたが…このカメラでは差がわかりません!!
よって、同着とします!!
したがって、今回の寮対抗レースは、7対7と1引き分け!!』
周りからあらゆる声が飛び交った。戸惑い、無念、怒り…少なくとも、勝利を待っていた両寮の輪から、歓声は上がらなかった。
…勝ちきれなかった。トウショウボーイに。
僕自身、思わず舌打ちが出てしまう。
「皆のプリンセスが、そんな怖い顔をしてはいけないのでは?」
「誰のせいだと思っているんだ」
「私のせいというのであれば、それはお門違いでしょう?」
睨む僕を同じように睨み返すトウショウボーイ。丁寧な物言いこそ崩れないが、下唇を噛んでしまうくらいには苛立っているようだ。僕と同じように。
つくづく、嫌気がさす。何故こうも僕らには重ね合えるものが多いのに…
僕はこんなに、君が嫌いなのだろう。
「さて、美浦寮の方々にこの失態をお詫びしなくては。あとは、トレーナーからのフィードバック、そして…」
あれだけ走った後に、トウショウボーイは息こそ乱れているものの、その針金を通したような真っ直ぐな背筋は出走前からブレていなかった。
僕の記憶が正しければ、特筆するようなスタミナなんて持ち合わせていなかったはずなのに…
僕は、少し膝が震えているというのに。
「貴方の走りも磨きがかかりましたね。栗東の代表に相応しかったです。将来、八大競走も夢ではないでしょう」
「…あ?」
「これからも、互いに精進していきましょう。次はこのような決着など、絶対に無い」
そう言ってトウショウボーイが立ち去った。写真判定の時間を挟んでも、未だ息の整わない者、腰に手を当て空を見上げる者、膝に手をつき芝を見つめる者…。彼女らの間をぬって、トウショウボーイはターフを後にした。
…背筋こそ伸びてはいるけど、歩幅、肩のブレ…ほんの些細なところだけど、それなりに疲労が重なってて、痩せ我慢してるんだと察しがついた。
ただ、周りの反応は…。
「全然、余裕そうだぞ…あのウマ娘…」
「トウショウボーイだっけ?ありゃ凄いね、あのマッチレースやってもこの消耗って…?」
「しかもデビュー前でしょ?やっぱ天才っているもんだな」
腹が立つ。そんな感嘆の言葉が贈られても、走った子たちの荒い息が飛んできても、追い風にするように奴はそのまま歩き去っていった。
「…ちくしょう」
僕は、奴を超えられなかった。
「ちくしょう…!」
未来など、分からないというのに。
「ちくしょう!!」
僕はまた、
◇
「…つまらん幕切れだ」
「いやぁ…これ…うわ、結局予算どうすれば良いんだよ…」
「…考えろ。オレは知らん」
「ええ!?おい坊っちゃん!!冷たいじゃないかい!もうちょっと手心ってもんが…」
「…致し方ありませんわ。改めて予算の分配を考えなくては…会長、今日は徹夜でございますね」
「夜の生徒会室…ああ、一夜のロマンス!!なんと背徳な響きでしょう!!」
「…か、勘弁してくれぇぇ……」
カブラヤオーに負けてもヘラヘラしていたシンザンの振る舞いの代償…これが、天命だったのかもしれんな。