ウマ娘Frenzy Stars   作:薄暮ターフ

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第二十一話 幼気な陽の下で

 

 トレセン学園名物、夏合宿。

 

 夏の海をフル活用したトレーニング。果たしてどんなのが待ってるか楽しみってところだね。

 

 移動手段は学園から出るバスとか電車、各々に任せるって言ってた。走っていくウマ娘もいるらしい。

 

 スピカのメンバーは、今学園の駐車場に集まっていた。

 

 トレーナーの銀色の軽バン。

 

 後ろの扉は開けっ放しで、畳んだパラソルやら、クーラーボックスやら、誰が持ち込んだのか分からない大きな鍋やらが、次々と呑み込まれていく。

 朝の学園にはまだ人影も少ない。その駐車場で、カチドキ先輩が腕を組んで唸っていた。

 

「……これ、入るか?」

 

「お前がその浮き輪を膨らませていなければ、もう少し楽だった」

 

 真っ赤な浮き輪。

 カチドキ先輩の腰に、しっかりと収まっている。

 

「いや、先に確かめとかねぇと。向こう行って穴開いてたら困るじゃねぇか」

 

「確かめたなら抜け」

 

「今?」

 

「今」

 

 ぷしゅうううう、と情けない音がする。

 何だか、これから遠くへ出かける音には聞こえない。

 

「シービー。そこ、押さえていてくれるかい?」

 

「はーい」

 

 スー先輩に言われて、立てた荷物が倒れないように支える。

 その横を、カブ先輩が大きな袋を抱えて通り過ぎた。

 

「それ、何?」

 

「目隠し」

 

「どこでそんな大きいの使うの?」

 

「部屋。窓とか、隙間とか」

 

 袋の口から、遮光性が高そうな布が覗いている。

 

「カブちゃーん?」

 

 ガビーさんが袋の中を覗き込んだ。

 

「何、その布?宿にもカーテンくらいあるでしょう?」

 

「あるとは聞いたけど、薄かったら困るし」

 

「部屋、真っ暗にして籠もるつもり?」

 

「べつに?日差しを遮るためですけど?」

 

「海まで来て、ずっと隠れてるなんて無しよ。カブちゃん」

 

「まだ何も言ってないじゃん。そもそも合宿なんだから、練習にはちゃんと出るってば」

 

「じゃあ、終わったら一緒に遊びましょうね!」

 

「ちょっとはこっちの話聞いてよ!」

 

 ガビーさんは答えずに笑った。

 カブ先輩は布を袋へ押し込みながら、嫌そうな顔を隠そうともしなかった。

 

 山から帰ってきた後、何があったのかは詳しく聞いていない。

 ただ、あのカブ先輩が二冠ウマ娘に荷物を運んでもらいながら帰ってきたって話だけは、アタシの耳にも入っていた。

 

 せっかく先輩達が乗り込んできたんだったらレースすればよかったのに。

 

 変なの。

 

「忘れ物は無いかな」

 

 テンポイント先輩が、指先で人数を数えている。

 その手には切符。スー先輩とガビーさんとテンポイント先輩は、電車で先に宿へ向かうらしい。

 こっちはトレーナーと、カチドキ先輩、カブ先輩、それにアタシ。荷物と一緒に海まで運ばれることになった。

 

「水着。着替え。トレーニング用具。保険証の控え……」

 

「楽しそうなものが急に出てこなくなったね」

 

「シービー。水着だけで合宿に行くつもりだったのかい?」

 

「靴も持ったよ」

 

「立派だね。その調子で、もう少し持ち物を増やそうか」

 

 褒められてる感じがしないなぁ。

 

 スー先輩はトレーナーに紙を渡して、何かを確かめ合っていた。宿の場所とか、到着する時間とか、そういうことみたい。

 普段なら自然と隣にいるふたりが、今日は別々に出発する。

 だからか、少しだけ会話が長い。

 

「俺たちの方で、到着したら荷物を置く場所を確保しておくよ」

 

「頼む。運転中は電話に出られないから、何かあれば休憩の時にかけ直す」

 

「分かった。……ああ、それと」

 

「まだあるのか?」

 

「君自身の休憩も忘れずにね」

 

 スー先輩の指が、トレーナーの胸を軽く突いた。

 

「せっかく一緒に海まで行くんだ。疲れた顔ばかり見せられては、俺も寂しい」

 

「……分かったよ」

 

 そこでやっと、スー先輩は満足そうに笑った。

 

「それじゃあ、向こうで」

 

「カブちゃん!海でも逃がさないからねー!」

 

「行くって言ってるでしょうが!」

 

「ガビー。出発前に不安を増やすのはやめようか」

 

 手を振る三人を見送って、車に乗り込む。

 カブ先輩は、ガビーさんの姿が見えなくなってから、ようやく息を吐いていた。

 

「まだ海にも着いてないのに、もう疲れた……」

 

 先は長そうだね。

 

   ◇

 

 窓の向こうに、知らない街が流れていく。

 

 朝のパン屋。

 開店前の金物屋。

 交差点の向こうで、こっちに手を振っている小さな子。

 

「へえ、いい街じゃねぇか」

 

 助手席から、あっけらかんとした声。

 先輩の膝の上には、デジタルカメラが載っていた。

 

「それ、もう何か撮った?」

 

「おう。さっきの浮き輪、抜けかけてるところ」

 

「自分で?」

 

「トレーナーが撮ってた。あいつ、いつの間に使い方覚えたんだよ」

 

「こっち向いてくれたら、アタシもポーズするけど」

 

「お前はいつでも撮れるだろ」

 

「えー。アタシにも今しかない顔とかあるよ?」

 

「じゃあ今度、寝起き撮ってやる」

 

「それはダメ」

 

「私もダメだからね」

 

 カブ先輩が、すかさず付け足した。

 

「まだ何も言ってねぇだろ」

 

「言われる前に言っとくの。ガビーにも絶対渡さないでよ、そのカメラ」

 

「どうすっかなぁ」

 

「カチドキ!」

 

「分かったって!そんな睨むなよ!」

 

 トレーナーが笑った。

 カブ先輩も、少しだけ口元を緩めている。

 

 建物が低くなる。

 空いたところに田んぼが増えて、遠くの山が近くなった。

 アタシは窓を少し開ける。風が前髪を持ち上げて、後ろへ運んでいった。

 

「んー……いいね」

 

「うん。こっちの方が涼しいかも」

 

 隣のカブ先輩も、窓の外を見ていた。

 知らないウマ娘がいるかどうか、確かめているのとは少し違う目。

 

「山、もういいの?」

 

「山に罪は無いよ」

 

「あの先輩達と帰ってきたウワサ聞いたけど...実際どうだったの?楽しかった?」

 

「……いろいろとね」

 

 先輩は目を閉じた。

 聞こうとした言葉を、アタシは引っ込める。

 

 それなら、また今度。

 

 カーブを曲がるたび、荷物が小さく軋む。

 カチドキ先輩が看板を読んで、あの店の名前は変だとか、今の分かれ道はどこに続いてるんだとか、ひとりで忙しい。

 トレーナーは答えられるものだけ答えて、知らないものには知らないと言っていた。

 

「……なあ。あそこ、曲がってみねぇ?」

 

「曲がらない」

 

「景色良さそうじゃねぇか」

 

「ここからでも十分に良い」

 

「分かんねぇだろ。向こうはもっとすごいかもしれねぇ」

 

「帰りに余裕があったらな」

 

「約束だからな」

 

「余裕があったら、だぞ」

 

 もう約束にしてる。

 カチドキ先輩は、こういうところが上手い。

 

 途中で立ち寄った休憩所では、食べたことのない味のソフトクリームを見つけて、またしばらく車に戻ってこなかった。

 

「ねえ。あの好奇心、誰か止められないの?私たちまで干物になるんだけど」

 

 カブ先輩が日陰に座り込んだので、アタシが呼びに行った。

 

 最後のトンネルを抜けたところで、風の匂いが変わった。

 

「あ」

 

 白い光が、窓いっぱいに広がる。

 

 建物と建物の間。

 その先に、青いものが見えた。

 

「海だ」

 

 アタシの声に、カチドキ先輩が顔を上げる。

 次の曲がり角で、それはもう隠れなくなった。

 

 ひらけた海岸線。

 光を細かく砕いた水面が、どこまでも続いている。

 窓から入る風はさっきより湿っていて、少しだけ舌に塩が残った。

 

「うっわ……」

 

 カチドキ先輩が、カメラに手を伸ばした。

 でも途中で止まって、そのまましばらく海を見ていた。

 

 アタシも何も言わなかった。

 

 どうして空と海は、くっついているところだけ色が濃いんだろう。

 

 確かめに行けたら、面白そうだな。

 

   ◇

 

「遅いじゃない、アンタたち!!」

 

 宿の玄関から、ガビーさんが飛び出してきた。

 もう着替えてる。サンダルだし、浮き輪を持ってる。

 極め付けは、顔に対して少し大きいサングラス。普段は雰囲気だけは大人びてるけど、こうして見るとあどけなさというか、やっぱまだまだ学生だってわかる出立ちだった。

 

「お前、気が早すぎだろ」

 

「カチドキだって車の中でも膨らませてたんでしょう?浮き輪」

 

「何で知ってんだよ!?」

 

「テンちゃんに送られてきたの。写真」

 

「あっ、おいトレーナー!!いつの間に!」

 

「出発前だ」

 

 そういえば、何か携帯を触ってたっけ。

 浮き輪の空気を抜いてる時だったかな。

 

「ほら、荷物!さっさと置いて、海行くわよ!フゥ〜〜〜ッ!!!!」

 

「先に宿の方へ挨拶だ」

 

 トレーナーに首根っこを押さえられたガビーさんが、むっと口を尖らせる。

 

「...分かってるわよ。ちょっと先の予定まで言っただけじゃない」

 

「お前が言うと、そのまま先まで行きそうなんだよ」

 

「もう浮き輪持ってるしね」

 

「カブちゃんも欲しい?もう一個あるわよ」

 

「何で二個も持ってきてるの?」

 

 ガビーさんは、当たり前みたいな顔をしてカブ先輩を指差した。

 

 ……なるほど。

 

「私の分かぁ……」

 

 宿は坂の途中に建っていた。

 玄関には乾いた潮の匂いが残っていて、壁に飾られた写真には、今よりずっと小さい建物と、今と変わらない海が写っている。

 中へ入ると、テンポイント先輩が大きな鞄を持って廊下を歩いていた。

 

「シービー。海、見えただろう?」

 

「うん。部屋からも見える?」

 

「見えるよ。あっちの窓からね」

 

 じゃあ、今夜は窓際にしよう。

 潮騒を聴いて寝られるの、いいな。

 

 そう思って階段の方へ向きかけたところで、二階から声が降ってきた。

 

「おお!!新たなマトロの到着だな!!」

 

 ……マトロ?

 

「よく来た、スピカの諸君!!カピテーヌは歓迎する!!」

 

 階段の上に、海賊帽。

 その下から、嬉しくて仕方ないって顔が覗いていた。

 抱えた箱には、水鉄砲やら水風船、ボール、ビート板...極め付けはプールスティック。気合いの入り方が段違い。

 

「リュウフォーレル先輩?」

 

「その通り!見たまえ、この見事な海を!ここを拠点とするとは、君たちのティモニエも良い目をしている!!」

 

「宿を見つけたのは俺だけどね」

 

 スー先輩が、帳面を片手に廊下から出てくる。

 海賊帽が大きく頷いた。

 

「では、その慧眼にも敬意を!!」

 

「ありがとう。だから、その箱を持って降りてきてくれるかな。廊下を塞いでいるんだ」

 

「承知した!!」

 

 あ、頼んだことはちゃんとやるんだね。

 

 その横で、カブ先輩がそっとガビーさんの背中へ隠れた。

 さっきまで面倒くさそうにしていたのに、今は自分から近づいてる。

 

「……リギルもいるの?」

 

「そうみたいね」

 

「聞いてないんだけど」

 

 声が、アタシたちにだけ聞こえる大きさになっていた。

 

 先輩の後ろから、ぬっと男のヒトが顔を出した。

 

「ようこそお越しくださいましたぁ。まさか、ここでもお会いするとはねぇ」

 

「……マエストロ」

 

 トレーナーの声が、急に低くなる。

 

「宿、変えるか」

 

「聞こえてますよ。随分なご挨拶ですねぇ」

 

「じゃあ、お前が変えろ」

 

「ボクの方が先に到着したのですが?」

 

 荷物を抱えたまま、大人が睨み合ってる。

 

 スー先輩は、その間を普通に通り抜けていった。

 

「君たち。玄関を空けようか」

 

「「……」」

 

 似てるなぁ、このふたり。

 

 リギルも、ここを使って合宿をするらしい。

 ただ、全員がずっと一緒にいるわけではなく、レースやそれぞれの予定に合わせて、出入りはあるんだとか。

 リュウフォーレル先輩は到着してから既に三回、海を見に行こうとして呼び戻されたそうだ。

 

「海がそこにあるというのに、荷解きとは……!」

 

「荷解きを終えない限り、四回目も呼び戻しますよ?」

 

「……カピテーヌは、迅速な荷解きを得意としている!!」

 

 ばたばたと足音が遠ざかっていく。

 この分なら、午後には一緒に海へ行けそうだね。

 

 カブ先輩は何も言わず、壁に貼られた館内図を見ていた。

 非常口のところを指先でなぞっている。

 

 ……使う機会、無いといいね。

 

   ◇

 

 最初に言っておくと、アタシたちは遊びに来たわけではない。

 

 少なくとも、トレーナーはそう言っていた。

 

「今日は移動の疲れもある。砂浜の感触を確かめる程度でいい。歩くところから始めて、足元の違いを覚えろ」

 

「おう!」

 

「はい」

 

「はーい」

 

 昼食を済ませて少し休んでから、海岸へ出る。

 日差しは強いけど、学園にいる時より風がよく通った。裸足の下で、砂がさらさらと逃げていく。

 

 アタシは一歩踏み込んで、そのまま少しよろけた。

 

「おっと」

 

「足、取られるね」

 

 テンちゃんが隣で歩幅を狭める。

 芝の上ならもっと先まで運べるはずの身体が、ここでは思ったところに収まらない。

 

「これ、同じように走ろうとしたら疲れそう」

 

「だから、いきなり走るなと言ってるんだ」

 

 トレーナーが、後ろからアタシの足跡を覗いた。

 

「踵から突っ込むな。無理に砂を蹴り飛ばそうとする必要もない。まずは力まずに歩いてみろ。母指球を意識するんだ」

 

「うん」

 

 もう一歩。

 今度はさっきより、すっと前へ進めた。

 

 なるほど。

 足元と喧嘩するのは、あんまり良くないんだね。

 

 その横を、ガビーさんがずんずんと進んでいく。

 砂が深く沈んでも、あまり気にしている様子がない。

 むしろ、わざと深いところを選んでいる。

 

「……ガビー」

 

「何?走ってないわよ?」

 

「余計に沈む場所を探すな。お前は特にだ。今日は抑えるように言っただろ」

 

「分かってるって。ほら、ちゃんと歩いてるじゃない」

 

 ゆっくりになった。

 でも、ちょっと楽しそうな顔はそのまま。

 

 デビューが近い。

 

 その話をする時のガビーさんは、普段よりもずっと、目がぎらぎらしていた。

 寮対抗レースで見せた走りもすごかったのに、あれでもまだ、待っている途中なんだと思う。

 

「……そんなに楽しみ?」

 

「そりゃあね。ようやく、ちゃんと始められるんだもの」

 

 指先で髪を払って、ガビーさんは笑った。

 

「みんな、こっち見てくれるでしょう?」

 

「うん」

 

「だったら、忘れられなくしてあげないと」

 

 ああ。

 カブ先輩が聞いたら、すごく嫌がりそうなこと言ってる。

 

 当のカブ先輩は、少し離れたところを黙々と歩いていた。

 海側ががら空きになっていて、すごく落ち着くらしい。

 

「海っていいね。片側だけ見てればいい」

 

「カブちゃん。海から来るかもしれないわよ?」

 

「何が?」

 

「ウマ娘」

 

「来ないでしょ。わざわざ泳いでくるの?」

 

 言い切った直後。

 

「抜錨!!海原が我らを待っている!!」

 

 波打ち際から、リュウフォーレル先輩の声がした。

 

 砂が急に弾け飛ぶ。

 

 カブ先輩が、無言でアタシたちの内側へ移動する。

 さっきまで海を向いていた耳が、ぴたりと声の方を向いた。

 

 先輩は海から来たわけではなく、海へ行こうとしていた。

 ただ、その勢いのまま大きめの波へ踏み込んで、見事に膝まで濡れていた。

 

「おお……!予想以上に手強い!!」

 

「まだ水着に着替えてねぇじゃないっすか」

 

「カチドキ!海は着替えを待ってはくれないぞ!!」

 

「待つっすよ。ずっとそこにあるんで」

 

 アタシは笑い過ぎて、また砂に足を取られた。

 

 ゆっくり歩く。

 少しだけ走る。

 足首や足裏の感触を確かめながら、休憩を挟む。

 

 その間にも、海の色は少しずつ変わっていた。

 近くは透けているのに、遠くは深い青になる。白い波が崩れると、その境目が一瞬だけ分からなくなった。

 

「シービー。海を見るのはいいが、足元もね」

 

「見てるよ」

 

「今、貝殻を踏みかけた」

 

「よく見てるね、スー先輩」

 

「君を見ているんだからね」

 

 返事をする前に、また笑われた。

 

 最後に軽く身体を伸ばしたところで、トレーナーが時計を見た。

 

「よし。今日はここまで」

 

「じゃあ!!」

 

 ガビーさんの手が勢いよく上がる。

 

「遊んでいい!?」

 

「休憩して、水分を取ってからな」

 

「分かった!!」

 

 合宿っていいねぇ。

 

   ◇

 

「さぁさぁ、海を眺めて腹が鳴ったら、こいつの出番でございやす!」

 

 波の音に混ざって、聞き覚えのある声がした。

 

 浜辺に面した売店。その軒先から、香ばしい匂いが流れてくる。

 鉄板の向こうで手を動かしていたのは、見覚えのあるウマ娘だった。

 

「あ、イナボレス」

 

「おや、シービーの旦那!こんなところでお会いするたぁ、世間は狭いもんで!」

 

「こっちのセリフだよ。何してるの?」

 

「見ての通り、夏の思い出にソースを添えておりやす」

 

「焼きそば売ってるのね」

 

 ガビーさんが身を乗り出す。

 イナボレスは、へらをくるりと返して笑った。

 

「夏休みの間だけ、ここのお手伝いを。寝床と食事もついてくる、ありがてぇお仕事でさぁ」

 

「合宿は?」

 

「走って稼いで、また走る。あっしの夏は忙しいんで」

 

「そっちもちゃんと走ってるならいいけどね」

 

「ご心配なく!で、焼きそばはいかがです?」

 

 ガビーさんが振り返る。

 アタシも、テンポイント先輩も、同じ匂いに捕まっていた。

 

 ……さっきお昼を食べたばかりなんだけど。

 

「俺も一つ」

 

「おや、カチドキの旦那まで!毎度あり!」

 

「いつから旦那になったんだよ、俺」

 

「お買い上げいただいた、その瞬間からでさぁ」

 

 結局、いくつか買って分けることになった。

 熱い容器を受け取ると、ソースの匂いがさらに近づく。

 

 あ。これ、絶対美味しい。

 

「お前ら、食べた直後に泳ぐなよ」

 

 日陰へ荷物を置きながら、トレーナーが言った。

 

「ちょうど良かった。しばらく休憩にするぞ」

 

「では、あそこの日陰を借りようか。先に声をかけてくるよ」

 

 スー先輩が売店の奥へ向かう。

 カブ先輩はその間に、一番端の席を確保していた。

 

「カブちゃん、はい。こっち持って」

 

「……あ、うん」

 

 ガビーさんから容器を受け取って、少し背を丸める。

 イナボレスがこちらを向くと、先輩の箸だけが静かに動き始めた。

 

「昨日の主役さんも、ご贔屓にどうも!」

 

「……どうも」

 

「お口に合えば何よりでさぁ!」

 

 返事の代わりに、もう一口。

 

 それを見届けてから、イナボレスは鉄板へ戻っていった。

 

「……美味しい?」

 

 アタシが聞くと、カブ先輩は小さく頷いた。

 

「うん。すごく」

 

「もっと食べる?」

 

「ガビーが食べたいだけでしょ」

 

「バレた?」

 

 箸が伸びる。

 カブ先輩は容器を遠ざけた。

 

「自分のあるじゃん」

 

「こっちのお肉、大きいんだもの」

 

「見つけないでよ、そういうの」

 

 日陰に笑い声が落ちる。

 

 その向こうで、フォーレル先輩がしゃがみ込んでいた。

 

 波打ち際より、少し上。

 さっきまで何も無かった砂の上に、細い溝が一本伸びている。

 

「……何してるんすか?」

 

 カチドキ先輩が聞いた。

 

「港だ!」

 

「港?」

 

「この浜は実に良い!だが、船を迎える場所が無い!」

 

 手にした枝が、砂へ大きな弧を描く。

 

「ならば、カピテーヌが築こう!」

 

「焼きそば、冷めますよ」

 

「……それは困るな」

 

 フォーレル先輩が戻ってきた。

 アタシはその横を通り抜けて、描きかけの港へ向かう。

 

 溝の底には、薄く水が滲んでいた。

 近くへ落ちていた貝殻を拾って、そっと置く。

 

 浮いた。

 

「あ、船だ」

 

「何!?」

 

 後ろから、すごい勢いで声が飛んできた。

 

 振り向く前に、フォーレル先輩が隣へしゃがむ。

 

「なるほど!良い船を持っているではないか、マトロ!」

 

「拾ったんだけどね」

 

 白い船は、溝の真ん中で小さく揺れていた。

 

 そこへ、波が来た。

 

 細い水路を一息に満たして、船をひっくり返す。

 引いていく水を追って、白い殻がころころ転がった。

 

「沈んだ」

 

「……防波堤が要るな」

 

 先輩が呟く。

 

 アタシも、少し考えた。

 

「入口、こっちに曲げたら?」

 

「ほう?」

 

「まっすぐだと、波がそのまま来ちゃうでしょ」

 

「よし。やろう!」

 

 砂を掘る。

 掘った分を横へ積む。

 

 指の間から、冷たい水が滲み出した。

 

   ◇

 

「……二人とも、何を作っているんだい?」

 

 顔を上げると、テンポイント先輩が立っていた。

 

「港」

 

「港だ!」

 

「うん。それは分かったけれど……」

 

 視線が、砂の山とアタシたちの手を行ったり来たりする。

 

「そこ、道にするの?」

 

「まだ決めてないよ」

 

「なら、門を作ってもいいかな?」

 

 アタシとフォーレル先輩は、顔を見合わせた。

 

「いいね」

 

「港町か!ますます良い!」

 

 テンポイント先輩が、膝をついた。

 

 通り道の両側へ、砂を固める。

 高さを揃えて、上へ慎重に砂を載せる。

 

 さら、と崩れた。

 

「……もう少し、厚くしようか」

 

 もう一度。

 

 今度は片側だけが折れた。

 

「そこ、幅が広すぎるんだと思う」

 

 少し離れたところから、声がした。

 カブ先輩だった。

 

 空になった容器を持ったまま、門の跡を見ている。

 

「幅ですか?」

 

「うん。上に載せる砂が、自分の重さで落ちちゃうから。もうちょっと近づけたら?」

 

「なるほど。ありがとうございます」

 

「……大丈夫かは知らないけどね?」

 

 先輩は日陰へ戻ろうとした。

 

「カブちゃん!これ、どこに流す?」

 

 その進路へ、バケツを持ったガビーさんが現れる。

 

「……何、その量」

 

「お水よ。いるでしょう?」

 

「いるけど、そんなには──」

 

 ざばあ。

 

 門になるはずだった場所が、平らになった。

 

 アタシの足元を、さっきの船が流れていく。

 

「……あら」

 

「何で聞き終わる前に入れるの!」

 

「ごめんって!でも、柔らかくなったわよ?」

 

「柔らかくするのにも限度があるでしょ!!」

 

 カブ先輩がしゃがみ込んだ。

 濡れすぎた砂へ、周りの乾いた砂を寄せていく。

 

「ガビー、そっちの砂。水はもういいから」

 

「はいはい!」

 

「これ、手で押すだけだと固まらないね」

 

 テンポイント先輩も隣へ座り直す。

 

「何か、型になるものがあれば……」

 

「あるぜ」

 

 カチドキ先輩が、空の容器を掲げた。

 

「これ、使えねぇ?」

 

 それを見たフォーレル先輩が、ぱっと顔を上げる。

 

「塔だな!」

 

「おう。何個か並べりゃ、それっぽくなるだろ」

 

 ……気づいたら、みんな座ってる。

 

 さっきまで二人で掘っていた港の周りに、次々と手が伸びてきた。

 

「容器なら、こっちも使ってくだせぇ」

 

 売店からイナボレスがやってきた。

 大きさの違うカップを重ねて、砂の上へ置く。

 

「欠けちまって売り物には使えませんが、こういう仕事ならまだまだ現役でさぁ」

 

「助かる!」

 

「終わったら、そこの籠へ。足りなきゃ声かけてくだせぇな」

 

 カチドキ先輩は、早速一番大きなものを取った。

 

 砂を詰める。

 ぎゅっと押す。

 ひっくり返す。

 

「……抜けねぇ」

 

「欲張って詰めすぎたんじゃない?」

 

「いや、これくらいねぇと高くならねぇだろ」

 

「横に引っ張らないで。上。まっすぐ」

 

 カブ先輩が指を差す。

 

 そろそろと容器が持ち上がって、その下から、角の丸い塔が現れた。

 

「おお!」

 

「できたね」

 

「じゃ、次はこっちか」

 

 先輩はもう、隣の場所を均し始めていた。

 

 アタシは、飾りを探すことにした。

 

 小さな巻き貝。

 白い石。

 乾いた海藻。

 

 門の脇に置いてみる。

 少し遠くから見ると、花みたいだった。

 

「綺麗だね」

 

 スー先輩が、アタシの横へ立つ。

 

「スー先輩も何か作る?」

 

「そうだな。……その前に、一つ気になったんだけど」

 

 指先が、水路を辿った。

 

「ここから水が入ると、その門へ真っすぐ当たらないかな?」

 

 全員の手が止まる。

 

 港。道。門。

 

 ……まっすぐだ。

 

「……港をずらそう!」

 

「城の方は動かせないものね」

 

「そっちもまだ壁しかねぇだろ」

 

「これから立派になるんだよ」

 

 テンポイント先輩が、砂のついた手で門を庇う。

 

 フォーレル先輩は笑って、スー先輩へ枝を差し出した。

 

「航路を任せてもいいか、マトロ?」

 

「光栄だね」

 

 枝の先が、新しい線を引いた。

 

   ◇

 

「お前ら、随分大きくしたな……」

 

 飲み物を持ってきたトレーナーが、足を止めた。

 

 塔が四つ。

 門が一つ。

 壁の向こうに城があって、その前には港がある。

 

 作っているうちに、道も増えた。

 道があるなら家も欲しくなって、家を並べたら、今度は広場が欲しくなった。

 

「まだこっちが空いてるんだよな」

 

 カチドキ先輩が、町の端を見ている。

 

「もう十分だろ。ひとまず水分」

 

「あとこれだけ」

 

「それを三回聞いた。手を止めろ」

 

 冷たい容器が、首筋へ当てられた。

 

「うおっ、冷てぇ!」

 

「ほら。シービーも」

 

「ありがと」

 

 日陰へ戻ると、足の裏が急に熱くなった気がした。

 

 夢中になってたんだなぁ。

 

 飲み物を口へ含む。

 砂のついた指先から、水滴が落ちた。

 

「カブちゃん、意外とこういうの好きなのね」

 

「途中で放っておいたら、またガビーが流すでしょ」

 

「一回だけじゃない」

 

「一回で十分だよ」

 

 言いながらも、カブ先輩の目は城の方へ向いていた。

 

 テンポイント先輩も、その隣で門を見ている。

 

 休んでるのに、誰もあそこから離れてない。

 

「……ねえ、先輩。これ見て」

 

 アタシは、拾っておいた貝殻をカチドキ先輩へ差し出した。

 

「何だ?」

 

「ここ。青いでしょ」

 

 濡れた内側を傾ける。

 薄い青が、光の中で緑へ変わった。

 

「おお。ちょっと待ってろ」

 

 先輩がカメラを取り出した。

 

「そのまま」

 

「こう?」

 

「もうちょい右」

 

「こっち?」

 

「それ、お前の右。……いや、いい。俺が動く」

 

 画面を覗きながら、先輩が身体を傾ける。

 

 カシャ。

 

 二人で、小さな画面を見た。

 

 白い貝殻。

 その端に、ほんの少しだけ青いところ。

 

「……ちっせぇな」

 

「本当は、もっと綺麗なのにね」

 

「おう」

 

 先輩はカメラを下ろした。

 

 アタシの手元へ、もう一度顔を寄せる。

 

「さっきの角度、もう一回できる?」

 

 貝殻を、ゆっくり傾けた。

 

   ◇

 

「さあ、進水式だ!」

 

 休憩が終わると、フォーレル先輩が宣言した。

 

 波が来る。

 新しく曲げた水路を、細い流れが通り抜ける。

 

 港に、水が溜まった。

 

「おお……!」

 

 貝殻が一つ、そっと浮かべられる。

 

 白い船は揺れたけれど、ひっくり返らなかった。

 

「成功だ!」

 

「じゃ、アタシも」

 

 横から、もう一つ。

 

「待て、マトロ!まだ開港の挨拶が!」

 

「こっちの方が速いね」

 

「何!?」

 

 フォーレル先輩の指が、水面へ入る。

 小さな波が、白い船を押した。

 

「先輩、今押したっすよね?」

 

「追い風だ!」

 

「指っすよ、指」

 

 カチドキ先輩が笑う。

 

 その間に、テンポイント先輩が自分の船を探し始めた。

 ガビーさんは、もう二つ持っている。

 

「ねえ。これ、どこまで行ったら勝ち?」

 

「勝負なの?」

 

「シービーちゃん、抜かしておいて何言ってるのよ」

 

 それもそうか。

 

 港の奥をゴールに決める。

 並べる前から、ガビーさんの船だけ大きかった。

 

「それ、沈まない?」

 

「大きい方が強そうじゃない?」

 

「……浮けばね」

 

 カブ先輩の呟きが、砂へ落ちた。

 

 結果から言うと、ちゃんと浮いた。

 

 そして、水路に挟まった。

 

「あら?」

 

「言ったじゃん」

 

「沈んでないわよ!」

 

「通れてもいないでしょ」

 

 その横を、テンポイント先輩の船が抜けていく。

 

「あ。速い」

 

「船の形も大事みたいだね」

 

「テンポイント先輩、そっち行き止まりだよ」

 

「……え?」

 

 船が、壁にぶつかった。

 

 戻そうとした指先へ、別の船が当たる。

 フォーレル先輩の追い風が、港の中をぐちゃぐちゃにした。

 

「ちょっと、こっちまで押さないで!」

 

「風向きは変わるものだ!」

 

「便利っすね、それ!」

 

 アタシは笑って、座る場所を変えた。

 影になっていた水面へ、日差しが戻る。

 

 貝殻の縁が、きらりと光った。

 

 その時。

 

「……波、来るよ」

 

 カブ先輩が言った。

 

 みんな、顔を上げた。

 

 さっきよりも大きな白い筋。

 それが浜へ近づいて、手前で低く崩れる。

 

 水が、港へ入った。

 

「おお、耐えてる!」

 

 曲げた水路が流れを逸らす。

 防波堤の内側で、船が一斉に揺れた。

 

 でも、波は港の入口だけから来るわけじゃなかった。

 

 壁の横を回った水が、町へ広がる。

 

「あっ、こっち!」

 

「門が──!」

 

 ガビーさんが、砂の壁へ手をついた。

 

 ぐしゃ。

 

「自分で壊してどうするの!」

 

「守ろうとしたのよ!」

 

「俺の塔も倒れた!」

 

「カチドキ、それ足!自分の足!」

 

 船を拾おうとして、アタシも膝まで濡れた。

 

 冷たい。

 

 笑ってしまって、うまく立てない。

 

 引いていく水の中を、白い船が逃げていった。

 アタシは両手を伸ばして、それだけ捕まえる。

 

 振り返ると、門は無かった。

 

 城の片側が崩れて、塔は二つ。

 道だった場所には、薄い水が光っている。

 

「……海、強ぇな」

 

 カチドキ先輩が言った。

 

 みんな、少し黙った。

 

 フォーレル先輩が、濡れた砂へ手を置く。

 

「次は、もう少し上へ築こう」

 

「堀、二重にしたらどうっすか?」

 

「いいね」

 

「門も、少し低くすれば……」

 

「下を広くした方がいいよ。あとガビーは、崩れる時に触らないで」

 

「最後の要る?」

 

 カブ先輩は頷いた。

 

 アタシも、新しい場所を見た。

 さっきより少し高い、まだ足跡も少ないところ。

 

 あそこなら、今度は──。

 

「今日は終わりだ」

 

 後ろから、声がした。

 

「「「えええ……」」」

 

「ええじゃない。もう何時間やってると思ってる」

 

 トレーナーが、腕時計を指した。

 

 ……本当だ。

 

 いつの間にか、海の色が変わっていた。

 

   ◇

 

 借りた容器を洗って返す。

 砂へ埋まった道具を探し、周りへ落としたものを拾う。

 

 城から少し離れたところで、カブ先輩がしゃがんだ。

 

 砂を払った指先に、小さなスコップが現れる。

 

「あ、それ探してたやつだ」

 

「ガビーがさっき置いたところ、だいたい覚えてたから」

 

「流石カブちゃん!」

 

「褒める前に、物の場所覚えて」

 

 イナボレスは、返した道具を見て笑った。

 

「随分と賑やかな港になったようで」

 

「最後、町ごと流されちゃった」

 

「そりゃあ、惜しいこって」

 

「でも、次はもっと大きくできると思うよ」

 

「おや。そいつは楽しみでさぁ」

 

 振り返る。

 

 崩れた城の向こうで、次の波が白くほどけていた。

 残った塔の影が、細く伸びている。

 

 アタシは、貝殻をポケットへ入れた。

 

 宿へ戻る坂道で、サンダルの中がじゃりっと鳴った。

 

「……砂、入ってる」

 

「俺も」

 

「こんなに払ったのにね」

 

 立ち止まって、片足ずつ脱ぐ。

 傾けると、思っていたよりたくさん出てきた。

 

「海、連れてきちゃった」

 

「置いていけ。部屋まで入れるなよ」

 

 トレーナーが振り返る。

 

「今、置いてる」

 

「そうか」

 

 よく分かってないだろうけど、納得してくれたみたい。

 

 少し前では、フォーレル先輩がまだ浜を眺めていた。

 

「良い海だな」

 

「城、流されちゃったのに?」

 

「それも含めてだ!」

 

 そう言って、先輩は笑った。

 

   ◇

 

 夕飯には、魚が出た。

 

 焼いたものと、お刺身。

 湯気の向こうに、白いご飯が山になっている。

 

「ガビー、それ自分で盛ったの?」

 

「そうよ?」

 

「……そっか」

 

 カブ先輩が、それ以上言うのをやめた。

 

 アタシは魚の骨と戦っていた。

 

 身を取ろうとすると、骨もついてくる。

 骨を取ろうとすると、身が崩れる。

 

「シービー、こっちから箸を入れるといいよ」

 

 テンポイント先輩が、自分のお皿で見せてくれた。

 

 同じようにやってみる。

 

「あ、取れた」

 

「うん。そこからなら──」

 

「おかわり、どこだったかしら?」

 

 ガビーさんが立ち上がった。

 

 アタシとテンポイント先輩は、同時にそのお皿を見た。

 

 何も無かった。

 

「……もう食べたの?」

 

「美味しかったわよ」

 

 それは、アタシたちも知ってるんだけど。

 

 隣では、カチドキ先輩がカメラの画面をトレーナーへ向けていた。

 

「これ、途中のやつ。まだ崩れてねぇ時」

 

「思ってたよりちゃんと町になってるな」

 

「だろ?真ん中、俺が作ったところ。その横が──」

 

「私よ」

 

 戻ってきたガビーさんが、後ろから覗く。

 

「そこ、俺が直したんだけどな」

 

「最初に作ったのは私じゃない」

 

「最初に壊したのもガビーでしょ」

 

 カブ先輩が、お味噌汁を置いた。

 

「カブちゃん、今日はずっとそれ言うつもり?」

 

「今日のうちは言う」

 

 トレーナーが、画面を送った。

 

 砂のついた手。

 水路へ身を乗り出すフォーレル先輩。

 真剣な顔で、門へ砂を載せるテンポイント先輩。

 

 次の写真には、アタシの尻尾が大きく写っていた。

 

「あ。これ、何撮ったの?」

 

「船。お前が急に前に来るから」

 

「ごめん」

 

「いや、いいけど」

 

 その端に、小さな白いものが浮かんでいる。

 

 探さないと、分からないくらい。

 でも、ちゃんといた。

 

 カチドキ先輩は少し眺めてから、次の写真へ送った。

 

「これ、あとで皆にも見せてくれ」

 

 トレーナーが言う。

 

「おう。充電しとく」

 

 窓の外では、海と空の境が、だんだん薄くなっていた。

 食器の触れる音に混ざって、遠くの波が聞こえる。

 

 明日は、どんな色になるんだろう。

 

 アタシは最後の一口を食べて、もう一度、窓の方を見た。

 

   ◇

 

 夜になると、海は姿を消した。

 

 窓の向こうには、昼間あれほど眩しかった水面も、空との境も無い。

 ただ、遠くに灯りが浮かんでいた。

 白いもの。赤いもの。見つめているうちに消えて、少し違う場所へまた灯るもの。

 

 船だろうか。

 それとも、向こう岸の街だろうか。

 

 距離の分からない光は、どれも星に似ていた。

 けれど、空よりも低いところで、ゆっくりと揺れている。

 

 窓を開けると、波の音が近くなった。

 

 ざあと寄せて、ほどけていく。

 引いた後には、細かな音だけが長く残った。昼間、足の裏から逃げていった砂が、今も暗がりの中で動いているのかもしれない。

 

 湿った風が、頬を撫でた。

 昼の熱がまだ残る部屋へ、少しずつ夜が入ってくる。

 

「……それ、閉める?」

 

 振り返ると、カブ先輩が大きな布を抱えていた。

 

「ううん。もうちょっと開けてたい」

 

「そっか」

 

「先輩の、それは使わないの?」

 

「うん。ここのカーテン、ちゃんと厚かった」

 

「良かったね」

 

「良かったけど、何のために持ってきたんだろうね、これ」

 

 布を畳み直すたびに、窓から入る風が端を持ち上げる。

 先輩は何度目かで少し嫌そうな顔をして、身体ごと窓に背を向けた。

 

 アタシは笑って、また外を見る。

 

 さっきより、目が慣れてきた。

 庭の植え込み。その先の道。低い屋根の並び。

 灯りの届くところだけが、暗闇から少しずつ戻ってくる。

 

 でも、海は戻らない。

 

 あそこにあるのは分かっているのに。

 昼間、みんなで歩いて、笑って、砂だらけになった場所なのに。

 

 耳を澄ますと、波の音が、もう一度届いた。

 

「……シービー。寒くない?」

 

 テンポイント先輩が顔を上げた。

 膝の上には、明日の予定が書かれた紙。

 手元を照らす小さな明かりが、俯いた髪を柔らかく透かしていた。

 

「平気。もう少し聴いてたい」

 

「そっか」

 

 紙へ視線が戻る。

 けど、先輩は何も書かないまま、しばらくその端を指で押さえていた。

 

「楽しかったね、今日」

 

「うん。城、また作る?」

 

「時間があればね。次は、門をもう少し低くしようと思う」

 

「考えてたんだ」

 

「……崩れたままというのも、少し悔しいじゃないか」

 

 あの門は、もう無い。

 知っているのに、言われると、そこだけはまだ砂浜に残っているような気がした。

 

「門、下に支えを入れたら、もう少し大きくできると思うよ」

 

 袋の口を結びながら、カブ先輩が言った。

 テンポイント先輩が、すぐにそちらを向く。

 

「支え、ですか?」

 

「枝とか。砂だけだと、あの幅はやっぱり無理があるから」

 

「なるほど……」

 

「……あ、別に、またやりたいって言ったわけじゃないからね」

 

「分かってるよ」

 

 アタシが答えると、先輩は何か言いたそうにこっちを見た。

 でも、結局言わずに袋を隅へ置く。

 

 布の擦れる音。

 紙を畳む音。

 誰かが布団へ腰を下ろす、小さな音。

 

 昼間はすぐに歓声へ紛れてしまったものが、今は一つずつ聞こえていた。

 

 廊下を、足音が通る。

 ガビーさんとトレーナーの声が聞こえた。

 

「分かってるわ。向こうのレース場への移動もあるんでしょう?」

 

 ガビーさんの声だった。

 

「ああ。だから、はしゃぐのは構わんが疲れは残すなよ」

 

「残さないわよ。ちゃんと寝るし、ご飯だって食べたし」

 

「よく知ってる」

 

「……何よ、その顔」

 

「楽しみなんだなと思ってな」

 

 少しだけ、間が空いた。

 

 その間にも、波は寄せていた。

 遠くで崩れた音が、屋根を越え、窓を抜けて、アタシのところまでやってくる。

 

「……当たり前じゃない」

 

 昼間より、小さな声。

 

「待った分、楽しみで仕方ないのよ」

 

 その先は、聞こえなかった。

 低い声が何かを返して、影が一つ頷く。

 

 アタシは窓へ手をかけた。

 

 閉じかけた硝子に、部屋の中が映る。

 広げられた布団。隅に寄せた鞄。

 髪を梳く先輩と、紙を片づける先輩。

 その向こうに、海の灯りが一つ重なっていた。

 

 ゆっくり閉める。

 

 波の音が、遠ざかった。

 

 さっきまで頬に触れていた夜が、硝子一枚の向こうへ戻っていく。

 窓の中には、アタシたちの部屋が残った。

 

「ねえ。明日も持っていくの?」

 

 布団の方へ戻ると、カチドキ先輩がカメラを片づけているところだった。

 画面の灯りが、指の間から細く漏れている。

 

「おう。せっかく来たんだしな」

 

「また砂のお城?」

 

「さあな。あっちで何があるか、まだ分かんねぇだろ」

 

 先輩が、にっと笑う。

 

「とりあえず、充電しとかねぇと」

 

 コードを繋ぐと、小さなランプが灯った。

 

 昼間の海も、砂の城も、あの貝殻の青いところも。

 今は、その小さな機械の中に入っている。

 

 アタシは枕元へ、自分の貝殻を置いた。

 もう乾いていて、灯りの下では白くしか見えなかった。

 

 布団へ潜る。

 耳を澄ますと、閉めた窓の向こうから、まだ微かに波が聞こえた。

 

 暗い天井を見上げているうちに、昼間の水面が浮かんでくる。

 目を閉じても、その眩しさだけがしばらく残っていた。

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