息がなかなか整わない。
あの後トウショウボーイ先輩と会ってスー先輩とアタシはスピカの部室に戻っていく最中、アドレナリンが切れたからか、あるいは緊張の糸が切れたからか。急激に息が乱れ始めた。肩、膝あちこちがアタシの意思から独立して各々気ままにリラックスしようとした結果、アタシはフラフラになった。
すかさずトウショウボーイ先輩がアタシを支え、今も肩を貸してくれてる。
「十分なアップをせずにあんな走りしたからだろう。気が逸るのは結構だけど、その辺の制御はできるようにならなければね」
「見上げた闘争心です。貴方は大物になる。…デビューはいつになるのでしょうか?」
「もっと先になるかな。彼女の身体がまだまだ才能に追いついていない。少し前の君と同じようなものさ」
「なるほど。もどかしいですね」
「そう思うと、よくここまで鍛え上げたものだ!アハハハ!」
「ああっ、急に触らないでください!」
スー先輩は笑いながらトウショウボーイ先輩のトモに手を伸ばした。急にアタシがふらついた時でも動じなかったトウショウボーイ先輩がびっくりして声を上げる。堂々として優等生然としてる中で漏れ出た乙女のような悲鳴に少し微笑みがあふれた。そんな動揺の中でも、アタシを支える姿勢は微塵もブレないところにより安心して体重を預けてしまう。
「どうしたシービー。優等生に張り付いて離れないじゃないか」
「だいぶ、疲れちゃってた、みたい。楽しかったから、仕方ない、ね」
「まったく、しっかりと休んでもらわなければな。君の指導は研修でするには難易度が高いよ。すまないな優等生、もう少し支えてあげてくれ」
へへへ、と震えた笑いしか返せないや。体の力は戻らないけど、息を一つ吸うごとに頭の中は整っていく。
こんなにバテてるアタシに対して、ルドルフはすぐさま走り去っていってしまった。余力を残していたにしても、あそこまでだったなんて。たまらなく、悔しかった。
「いいんですよ。若輩は、頼れる人がいるうちに頼るものです。次に自分が頼られる力を持てるように」
「んふふ。じゃあ、もう少しこうしてよっと」
すごく立派な志の持ち主だ。まさに『優等生』とあだ名されている理由がわかる。そして、これは勝手な想像だけどこの先輩は後輩の有無に関わらずこんなことを言ってのけるんだろうな。ずっとブレずに生きてきたって感じ。そんなところも親近感が湧いてか、自分でも不思議なくらい心を許していってしまう。
「先輩も、いろんな人頼ってきたの?」
「…どう、でしたかね。私は生まれながらに頼られてきたものですから」
「へぇ、大変そ。」
「ええ。でも、そうして生きてこられたのは頼ろうとせずとも支えてくれた周りの力があったからです。貴方もいつかその心に報いる重みを知ると思います。チームのみんなや家族、友達を大切にしてあげてくださいね」
「うん、わかった。」
「…まるで娘だな」
スー先輩が微笑みながらアタシを見てきた。
天邪鬼ってわけじゃないけど、いつもならこんな風に指し示されたらうーんって考えるはずが素直に聞いてしまう。別にちょろいってわけじゃないと思うんだけど、なぜか漂う空気がたまらなくきもちいい。
これからの昼寝スポットはここでいいかもしれない。
「私も普段はこのようなこと言わないのですが…なぜか放っておけないというか」
「何か運命でも感じるのかい?」
「ええ。そして、とても愛らしいです」
「はっはっはっはっ!そうだろう?あの子、ああ見えて随分と甘え上手でね。……少し妬けるじゃないか、シービー」
にやにやしながら、スー先輩がアタシの顔を覗き込んでくる。
からかわれてる。たぶん半分くらいは。
それでも嫌じゃなかった。むしろ、出会ってまだ数分しか経ってないのに、こんなに気を許してる自分の方が少し意外だった。
まあ、いいか。今そうしたいなら、そうすればいい。
そう思っていたのに、目が合った途端、急に照れ臭くなった。
顔が熱くなる前に、ぷいと横を向く。楽しそうな笑い声。どうやら、ますます面白がらせてしまったらしい。
そしてスー先輩は、何事もなかったような穏やかな顔で、次の話題を口にした。
「サブトレーナーの研修の調子はいかがですか?やはり苦労する面も多いとお察しいたしますが…」
「大変は大変だけど、それ以上に楽しいことの方が多いよ。スピカは癖の強い子ばっかりだからね。どうするのが最適解か探るのが…」
「なるほど。勉強になりますね。お伺いしたいことがありまして、現状デビューまでに改善したいことが...」
どうやら、勉強会が始まったみたい。体の調子はもう戻ってきたけど、そのまま先輩に体重を預けつづけることにした。
鼻をくすぐる髪の柔らかさに癒されながら、2人の話をラジオ感覚で聴き流した。空っぽの頭が暖かさに満ちていく。そう感じて間もなく、目的地に着いちゃった。
「ありがとう優等生。リギルの面々にもよろしく伝えておいてくれ」
「いえ、こちらこそ貴重なお話をいただき大変参考になりました。…もう自力で歩けるかな?」
先輩に促され、頭の中でお気に入り登録した場所から離れる。気づけばもうスピカの部室前だ。
名残惜しいけど、さっきの併走が消化不良だったからかまだ走り足りないって気分が勝ってる。さっきの併走の悔しさはそこで晴らさないと。
「うん。ここまでありがとう。またね」
「ええ。また語り合える機会があればぜひ。言葉でも、走りでも。」
先ほどのお勉強会か、アタシをよっぽど気に入ってくれたか。あるいはその両方か。随分と会った時より上機嫌な先輩は楽しそうに笑っている。
「今日はすこぶるいい日。貴方に会えた上に、こんなにも空が綺麗なのですから」
急に舞台然とした言葉が出てきてびっくりしたけど、ポエマーな気質はむしろ好き。アタシなりの共感を伝えた…んだけどね。
「ホントだね。どこまでも広がる空、自由で羨ましいかも。先輩もそう?」
「随分と洒落た言い回しですね、褒めて差しあげましょう。ですが、私はそうは思わない」
柔和な雰囲気から一転、トウショウボーイは覇気をまとった。真剣に目の前のアタシ達を見据えるその顔は、思わず見惚れてしまいそうなほどに、鋭く気高かった。
「空は、憧れるものではない。越えるものです。これこそが、私の在るべき姿」
胸に拳を当てて、矜持を語るトウショウボーイ。その目はどこまでも澄んでいて、何よりも熱くて、狂っていた。
このウマ娘のレースが見たい。そして、走りたい。沸々とアタシの中の熱も湧き上がってきた。けど、すぐにさっきの丁寧すぎる態度に戻ってしまった。
「失敬。格好つけすぎましたかね?まだ何も為してはいないというのに」
「いや、走りはそのまま心を反映する。格好はつけすぎなくらいが丁度いいのさ。優等生」
「…ありがとうございます。では、リギルに戻らせていただきます。そちらの『流星』に、よろしく伝えておいてください」
「…ああ、わかった」
そういって先輩は踵を返して、元来た道を戻っていった。息をするのも忘れて、アタシは空と先輩の姿を捉えた。柄じゃないけど、憧れた。
そんな感傷に浸りかけてすぐ、スー先輩が口を開いた。
「優等生が優しくて良かったね。十分身体を堪能できたかな?」
「…あれ?バレてた?」
「私はもちろん、あの子も気づいていたさ。とっくに自力で歩けていたことくらい」
恥ずかしさで顔から火が出そうなほど熱くなる。スー先輩の顔が見れなくなったアタシは、放熱するようにどこまでも先輩の背中を見送っていた。
「時間も丁度だ。部室でミーティングを始めよう」
促されるまま、部室に入っていった。
「やあ、スピカ諸君」
「おはようございます!!スー先輩!!」
「おはようございます」
「アタシもいるよ」
「おや、シービー。おはよう。…お疲れかな?またどこかで走ってきたのかい?」
「おっ、シービーじゃねぇか!時間通りに来るなんて珍しいなぁ」
先輩2人がすでに席に座っていた。ミーティング用のホワイトボードが机の四方の一つを陣取り、それを囲うように席が配置されている。まあ、部室らしい部室。トレーナーはまだきてないみたい。
「トレーナーは、まあ待つとして…カブとガビーはどこにいるんだ?」
「練習場にいるみたいですよ。トレーナーからの指示らしいので、気にしなくていいそうです」
「そうか。教えてくれてありがとう、テンポイント」
「え?ああ、そうだったのか。てっきり、また逃走劇でも始まってたのかと思ってたぜ。だったら、俺も追い回すけどな!」
「その時は僕も混ぜてくださいカチドキ先輩。楽しそうだ。…今日はおそらく、貴方の皐月賞の話がメインのはずですよ」
聞いてて疲れそうだが刺激的でアタシは嫌いじゃない、溌剌とした鹿毛のウマ娘、キタノカチドキ先輩はイスに体重をかけて天井を向いた。
それに対して、陽を溶かしたような短い金髪が頬から首筋へ柔らかくほどけている、少年と少女の気配が入り混じったウマ娘、テンポイント先輩は足と手を組み落ち着いた様子でミーティングの開始を待っている。
他にもう2人、スピカには先輩がいるんだけどこの場には来ないみたい。
「お、シービー!!これやるよ、とっとけ!!」
「なにこれ?」
「ウォークマンってんだ!!すげぇぞこれ。どこでも歩きながら音楽が聴けるんだぜ」
手のひらに収まる小さな機械から、耳いっぱいに音楽が流れてくる。
街の音を切り取って、そのまま箱に詰めたみたい。
なんかすごい。
カチドキ先輩はこういう新しいものを見つけてくるのが異常に早い。でもシティガールって感じでもない。むしろ山とか似合う。
なんなんだろう。よくわかんないけど、変。
「へぇ、さすがカチドキ。最先端を行くじゃないか。俺の分はないのか?」
「あー、結構限定モノだったんで、それしか手に入らなかったっす。ごめんなさいっす。」
「限定モノの時間は儚いですね」
「うーん。これ、いいや」
「え?」
「アタシ、外とか歩く時は自然の音がいい」
「ええええええええええ!!!!!!そんなぁ…お前、歌好きだからこれ好きかなと思って買ってきたのに…うわああああああああーーーーーーーん!!!!」
耳を塞いだ。
……そんなに泣く?って言いたくなるけど、これでこそカチドキ先輩。
「どうどう、カチドキ。それ、俺はほしいよ。丁度、洋楽を聴くためのプレイヤーが欲しかったんだ」
「スー先輩…っ!ああ、俺、スピカに入ってほんとよかったっす!!」
「その言葉、使うところそこでいいんでしょうか…」
とっても愉快な先輩たちに囲まれながら過ごすこの時間、率直に言って好きだ。トレーナーの方針もそうだけど、やっぱりこの自由でのびのびとした空間の居心地がいい。ただ、それだけじゃない。
「そういえば、テンポイント。先程、トウショウボーイに会った」
「…っ!…何か言っていたでしょうか?」
「『よろしく伝えておいてくれ』だけだ。気炎万丈な良い目をしていたよ。お互い、随分とご執心なようだね」
「…負けるつもりは毛頭ない。僕の『刹那』があいつの『未来』を必ず超えてみせる」
ただの仲良しこよしじゃない。ギラギラ燃えてる。やっぱここ選んで正解だったなって思う。そんな会話をしてると、唐突にドアが開いた。
「遅れてごめん。ミーティングするよ」
入ってきた男はスピカのトレーナー。名前は知らない。それくらいアバウトにしか知らないけど、アタシは気に入ってる。入学して間もない時だ。雨の中散歩してたら風邪をひいたところを、一度も面識がないのに出くわしたその時、家まで運んでつきっきりで看病してくれた。幼少期のクラブの時のトレーナーや、ここトレセン学園で実績のみを主張してくるトレーナーとは毛色が全く違う。だから、惹かれた。
ちなみに、看病してる間のチームは唐突にスー先輩にブン投げたらしく、後から事情を知った先輩たちはトレーナーに関節技を極めまくっていた。
『…うん。事情は分かった。』
『彼女を看病したのも正しいと思うよ』
『でもさ』
『僕ら放って他のウマ娘に構うなんて、いい度胸じゃないか』
テンポイント先輩は普段、その雰囲気から王子様と周りから呼ばれているらしいが、そんなの想像もできない勢いで制裁側に回っていたことは今でもしっかり光景が焼き付いている。
チームに入って少しして、そのテンションが日頃のものじゃないことは分かってるけど、アタシにとってはそれがファーストコンタクトだったからびっくりした。
ちなみにカチドキ先輩と、ここにはいないけどガビーさんはノリノリだった。まあ、カチドキ先輩に関してはクラシック街道直進中の今、そういうのが困るのはわかる。
「皐月賞の話をするぞ、カチドキ。ここまで全て勝っているとはいえ初の2000m、出走ウマ娘の数もこれまでの中で一番多い。今までやってきたレースとは環境が大きく違う。そこは分かってるな?」
「うっす」
「そしてさっき知った話が二つ。一つは、カーネルシンボリが故障で出走を取り消した。あの弥生賞を勝ったウマ娘だ」
「あれ?そいつって確か…」
「俺がお前の対抗になるだろうと伝えたウマ娘だ。これによって、お前が皐月賞の圧倒的本命になるだろう」
「そっか。まあ、やることは変わらなさそうだな。とりあえずスタートとポジション争いミスらなけりゃいいんだろ?」
「問題はここからだ、カチドキ」
トレーナーの顔が険しくなる。トントン拍子で話を進めていたが、勢いがなくなる。カチドキ先輩含め、他の先輩たちも不穏な気配に少し戸惑っていた。
「皐月賞の開催が、怪しくなっている」
「…は?どういうことだよ」
「いや、怪しいは違うか。開催はするだろうが、日程がかなりズレるだろう」
「嘘だろ?だって今週末じゃねぇか!」
あまりの衝撃にカチドキ先輩が机をバンと叩いて立ち上がる。前のめりになった上半身と反対方向に、イスが弾き飛ばされた。
「…順を追って説明する。ひとまず、座ってくれ」
「はい、カチドキ」
「…あぁ、ワリィ」
テンポイント先輩が倒れたイスを元に戻した。促されてカチドキ先輩も座るけど、何が何だかわからないって顔してる。
「去年の競バブームから、URAが新たなシステムを導入したり、倍増と言っていいほどのオーディエンス増加に対応したりと多忙を極めている」
「へぇ、『ハイセイコー』の影響そんなにすごいんだ」
『ハイセイコー』
一年前のクラシックレースにて、世間を熱狂の波で呑み込んだ、稀代のアイドルウマ娘。この頃、世の中景気が悪かったらしいけど、地方から抜きん出た実力で中央に殴り込み、無敗で皐月賞を勝つなど快進撃を続けた成り上がりストーリーでみんなの心をガッチリと掴んだ。今の競バブームの火付け役だ。結果、レースのテレビ視聴率、レース場の観客動員数は爆発してるって聞いたことある。
「そうだ。生々しい話で申し訳ないが、業界としてはこの盛り上がりはありがたい」
「では、なおさらレースの日程をずらすだなんて…ファンの方々からクレームが殺到するのでは?」
「もちろんくるだろう。しかし、今回ばかりはどうしようもないんだ」
トレーナーの目線が落ちる。何か言いたげに口を開きかけてはやめてを二、三度繰り返した。
…悔しいんだろうな。この人も。
「…職員がストライキを起こした」
「なんだって?」
「ストライキって、みんな仕事ほっぽりだしたってことか?」
「その通りだカチドキ。理由は、さっき言った多忙に見合わない待遇に抗議するためだ」
「でも、なんで、こんなタイミングで…」
「…想像だが、春の八大競走シーズン。つまり、今年のトゥインクルシリーズの本格的な始動のタイミングで起こすことによって、URA側が運営のためにも要求を呑まざるを得ないという狙いだろう。目的達成のためならば、理にはかなっている。…どうなんだい、トレーナー君?」
「さあな、知らん。俺は運営に携わっていないからな。だがまあ、そんなところだろう。いい推理だ、将来有望だね。スピードシンボリ」
丁寧に解説してくれたトレーナーとスー先輩。いつもなら端的に話すトレーナーがここまでたくさん話しているのは、カチドキ先輩をなだめるためだろう。感情のストッパーのないあの人に納得してもらうには、丁寧に段階を踏むしかない。導く側の2人が、こっちの想像以上に神経を尖らせながら話している空気が新鮮だった。
ほんと、リギルが絡まなければすごく冷静なんだよねこの人。それでも、ずっと思うところがあるのを我慢してるのも、見てればわかった。
「ストライキした側が諦めるか、URAが要求を呑むか…どっちに転んでもこの一件が解決するまで、皐月賞含めてレースは延期になるだろう。そして、未だ解決の目処は立っていない。つまり、皐月賞がいつ開催になるかわからない。来週かもしれないし、1ヶ月後になるかもしれない」
どんどんトレーナーの喋りに歯軋りと声の震えが追加されていく。トレーナーは、見ず知らずだったアタシ相手でもつきっきりで看病するくらい、ウマ娘のために尽くせる人。この人にとってこの話は、怒りとやるせなさがあふれて仕方がなさそうだった。
「…ウマ娘は何も悪くない。全て、こっち側の都合だ。振り回されるお前達の気持ちは、心中、察するに余りある。本当に、申し訳ない」
「何言ってんだよ…トレーナーはなんも悪くねぇだろ!頭上げろって!」
「本当にすまない…お前の、クラシックを…」
トレーナーはこのことで先輩に負い目を抱いてたみたい。当事者でもなんでもないはずだけど、深々と頭を下げていた。テンポイント先輩は目を閉じて黙って聞いている。
対照的にカチドキ先輩は、謝るトレーナーの肩を掴んで折れていた上体を真っ直ぐに戻した。
「いつになろうが、勝ってくるからよ。そんなシケた面すんじゃねぇ!!俺のトレーナーだろうが!!」
「カチドキ…」
「お前、俺のレース好きだろ?俺の走りに惚れ込んだんだろ?なら楽しみにしてな!!最前列で『勝ち鬨』上げさせてやるからよ!!」
「…ふっ、はははははは!だそうだ、トレーナー君。では、"勝つ"ための話を始めていこうか」
「…これじゃ、どっちが導く側かわかったもんじゃないな。…よし、始めよう」
啖呵を切るカチドキ先輩の言葉を聞いて、ハナから心配なんてしてなかったと言わんばかりに笑い出したスー先輩。トレーナーも少し安心したような顔をしていた。静観していたテンポイント先輩も、口角が上がっている。
元々アタシは、チームなんて面倒が多いと思っていた。縛られて妥協して合わせあって…とても息苦しいものだって思ってたけど、こういった場面で支え合えること、それはとてもいいものだって感じた。ここが特別なだけかもだけど。
ただ、今回のはそんな簡単に乗り越えられるものじゃなさそうだ。
「そうと決まりゃ、早速トレーニングだ!!行くぞテンポイント!」
「ええ、お付き合いいたしましょう」
「安心しろ!皐月賞だって胸焦がすぞ!!口から煙がでねぇよう、せいぜい気をつけな!!!!」
「ちょっとズレてるかな使い方」
大きい口を開けて笑いながら部室を後にしていくカチドキ先輩と、それに続くテンポイント先輩。重たい話から一転して明るい雰囲気に染まっていく、ことはなく。トレーナーはその様子を笑顔で見送りながらも、先ほどのような険しい顔を見せた。
「トレーナー。カチドキ先輩」
「分かってる。もちろんそんなこと」
トレーナーを志す人達ってみんなシンパシーでも使えるのかと思うくらい、トレーナーは食い気味を超えた返事を繰り出す。アタシは驚いてその続きの言葉は発せなかった。
「アイツにはこれから、修羅の道を歩ませることになる。トレーナーとしては、とても厳しい判断だ」
「…だろうね」
「もう研修だなんだ言ってられん。働いてもらうぞ、サブトレーナー君」
「フッ、元からそのつもりで君の下を希望したつもりだ」
「言ってくれるじゃないか。…シービー、ひとまずお前はスピードシンボリとトレーニングしろ。今日のコンディションはこいつのほうが知ってるだろうからな」
「え?」
「見ればわかるぞその発汗量。かなりムチャしただろう。それに靴の傷み方も酷いな…全く。そういうわけでサブトレーナー君、安全に注意して『徹底監視』で頼む」
「お安い御用だよ、トレーナー君。さて、シービー…今日はワガママ聞かないよ。ジムにでも行こうか?」
前言撤回。やっぱこのチーム息苦しいかも。隙見てどっか行って走ろ。
「悪いが逃さんぞ。お前のようなダイヤの原石、ホイホイ手放すわけがないだろう。」
なんでわかるのこわ。
「しっかし、参ったな〜。開催がいつかわからねーなんて」
底抜けに明るい調子は変わらず、そのまま歩いていくカチドキ先輩。頭に手を組んで後ろの空間に寝転ぶかのような余裕ある振る舞いで、トラックコースへの道を進んでいった。
スタスタと歩き、話している僕が半歩遅れていることに気づかないのもいつも通り。
しかし、なぜだろうか。僕にはそれがとても歪に見えた。
「先輩、ちょっといいですか?」
「ん、なんだよ」
「今回の話を聞いて、どう感じてますか?」
「え?あ、んまあ…大変そうだけど、なんとかなんだろ。俺らがこのテの事情で振り回されるのなんて、今に始まったことじゃないしな」
なぜだろうかと思いながら、こんな質問をしておきながら、僕の中ではすでに答えが出ている。先輩の考えていること。
それにしても、初めて見る。こんなにも歯切れの悪い先輩を。もちろん今言っていることも嘘ではないだろうけど、僕はまだ本音を聞けていないと思い、さらに踏み込んだ。
「やっぱり先輩」
「ちげぇよ。お前の考えてるようなのじゃねぇ」
「…素直に言ってください」
「だからなんでもねぇって」
スタスタと早まる足に反抗して、僕は大きく足を踏み鳴らして立ち止まった。ダンッと音が響く。それに少し驚いたように耳をピクリとさせた先輩も足を止めて、腕を下ろす。
「でなければ、一緒に走りません」
「なんだよ、急に」
やっと振り向いてくれた。呆れ顔と、夕陽を背にする僕の方向を見て眩しそうにする表情が混ざり、しかめっ面を見せるカチドキ先輩をひたすら真っ直ぐに見据えた。
「僕らに、そして自分にも嘘をつかないでください」
「嘘なんかついてねぇってば」
「いいや、貴方は嘘をついている。…不安なんでしょう。この先が」
「…」
はっきりいうけど、さっきのトレーナーが言ってた内容、当事者のアスリートとしては最悪なことを言われている。
ウマ娘は基本、何ヶ月も前から、決まったレーススケジュールの中で目標を決めて準備をしていく。それに向けて、最高のコンディションでレースに挑むためだ。ほんの少しの不調、ほんの少しの仕上がりの良し悪し。この差で生まれた1mmで勝者と敗者、そして未来が決まる世界なんだ。
なのに、いつ次のレースが開催されるかもわからない今回の状態では、最高の仕上がりにするタイミングを決められない。かといって、最高潮の調子を何週間もキープするなんてまず無理な話だし、それを試みたとしてもその後の反動はひどいはず。
そして、元々タイトなスケジュールである春クラシックで皐月賞と日本ダービーの間隔に変動が生じ、より苦しいものになる。
自分自身の努力どうこうじゃどうにもできない状況というのは、不安と鬱屈でいっぱいになり、フラストレーションが溜まっていくだろう。想像するだけでも嫌だ。
「別に、そんな不安なんて感じてねぇよ」
「何度も言っています。嘘をつかないでください」
「しつけぇぞ!なんでそんな嘘をついてるかどうかにこだわんだ!?」
「いつ終わるかわからないからです」
「…なに?」
「明日にも、この命は燃え尽きるかもしれない。いつだって、僕らの命は星屑のようなもの…自分にも嘘をついて誤魔化すなんて勿体無いこと、していられない」
「…」
僕は、本音を話した。先輩は目を閉じて口を結ぶ。
会話を拒否されただろうか?と僕は後悔をしかけてすぐに振り払った。このままでは、僕にとっても先輩にとっても心苦しいまま終わる。黙って待ち続けた。
鼻をかすめる春風が、時間をスロウに揺らしていく。実際のところでは、先輩はそんな間を作らず答えてくれていたんだろうけど、その間が少し長く感じた気がする。黄昏時だからなのか…感傷が押し寄せて僕の感覚を呑み込んでいったように思えた。
「『ハイセイコー』の次のクラシック」
「…」
「俺らの世代は、結局そういう扱いさ。その中で俺は無敗で皐月賞を勝とうとしてる。つまり、アイツの後追いみたいなふうに見られてんだ」
「…虚しいですね」
「全くだ。……けど、そんなことは別にいいんだよ。俺は俺だし、走りゃ分かる」
そう言い切る声だけは、いつものカチドキ先輩だった。
「ハイセイコーがどうとか、東がどうとか西がどうとか、そんなもん全部まとめて走って黙らせりゃいい。俺はずっとそうしてきた」
「……ええ」
「なのに――」
先輩の顔が陰る。
「……今回は、走れねぇじゃん」
「先輩?」
「今までなら簡単だったんだよ。前に誰かいたら抜きゃいい!届かねぇならもっと速く走りゃいい!足りねぇなら鍛えりゃいい!」
声が、少しずつ大きくなっていく。
「ハイセイコーの次だって言われようが、東の連中にナメられようが、そんなもんターフでぶっ飛ばしゃ済む話だったんだよ!!」
「カチドキ先輩……」
「なのに今回は何だよ!俺がどんだけ走ったって開催日は決まらねぇ!どんだけ仕上げたって『今週はありません』で終わり!俺の脚じゃどうにもなんねぇ!!」
振り返った先輩の顔から、いつもの笑みが消えていた。
「……ふざけんなよ」
「……」
「俺、勝つつもりなんだぞ」
低くなった声が、かえって痛々しかった。
「無敗で皐月賞獲って、その次だって獲ってあいつらに見せてやるつもりなんだよ。『ハイセイコーの次』じゃねぇ。『キタノカチドキが来た』って言わせてやるつもりなんだよ」
「……」
「みんなだって待ってんだぞ。俺が走るところ。俺が勝つところ。俺だって楽しみにしてんだよ。スタンドいっぱいにして、みんなでバカみたいに騒いでさ。最後に俺が勝って――」
ぎゅっと握った拳が、わずかに震えた。
「『やったぞお前らー!』って、勝ち鬨上げてぇんだよ」
「……ええ」
「なのにさ……」
そこで、言葉が途切れた。歯軋りが、僕の襟首を掴む。
「こんなんで身体グチャグチャになって、一番いい俺で走れなかったら……どうすんだよ」
「……」
「ただでさえ、みんな俺が勝って当たり前みてぇな顔してんだぞ。『今年はキタノカチドキだ』『ハイセイコーの次はコイツだ』って。俺だって……」
先輩は一度、大きく息を吸った。
「俺だって、そう思ってたんだよ!!」
拳が壁を叩いた。一つ一つ強くなる息が、先輩の感情の乱れを助長していく。
「走りゃ勝つ! 勝って、また次走って、また勝つ! それでいいだろうが!!」
「先輩……!」
「なのに走る日も分かんねぇ!身体をどこに持ってきゃいいかも分かんねぇ!そのくせ周りは勝って当然だ去年のスターの次だ無敗だ天才だ!好き勝手言いやがって!!」
そこで初めて、先輩の声が震えた。
「……じゃあ俺が、これで負けたらどうなるんだよ」
「……」
「負けても、みんなハイセイコーの時みたいに『立ち上がれー!』って言ってくれんのかよ。『次があるぞー!』って叫んでくれんのか?」
「……」
「それとも――
『なんだ、こんなもんか』って……終わんのかよ」
似合わなかった。いつだって僕より半歩先を歩いて強引に引っ張っていく先輩が、そんなことを口にする姿は、ひどく似合わなかった。
「……クソッ」
先輩は乱暴に前髪を掻き上げて。
「違ぇんだよ。こんなこと考えたいんじゃねぇんだよ」
「……」
「ハイセイコーなんか関係ねぇ。世間の期待も知ったことか。俺は俺だ。そんなこと、ずっと分かってたはずなのに……」
そして、自分の脚を見下ろして。
「走れねぇと、余計なことばっか頭に入ってきやがる」
「……カチドキ先輩」
「……落ち着かねぇんだよ」
最後の一言だけが、妙に小さかった。
…僕から言わせれば、愚直で繊細。その速さで何もかも置き去りにできるくせに、こういうものだけは置いていけないらしい。
なら、僕にできることは一つだ。
「なら話が早いではありませんか」
「え?」
「勝てよ」
「なっ」
「負けること想定して走るなんて、自分の生涯への冒涜です。在りたい自分は、自分で選んで手に入れるしかないんです」
「…」
「なら、未来を憂いて嘆く暇なんてないじゃないですか。少なくとも、貴方には似合わない。貴方は能天気にレースにイレ込んで、理不尽に勝ってればいいんだ!周りのことなんか気にするな!!命を燃やせ!!!!」
「テンポイント…」
言いたいことは言った。あとは先輩なら、迷いなく走り出してくれるはず。送り出す側にできることと言ったら、これくらいだ。
「おまえ…アツいな」
「何を今更…熱くなければ、僕はこのチームにいません」
「ぷっ…アッハハハハハ!!!そうだよなぁ!そりゃそうだ!!ここにゃ、熱のあるバカしかいねぇ!!現状そんなチームの代表ヅラしてる俺が、日和ってなんかいられねーな。…よし、来いテンポイント!はしっぞ!!」
「…ええ!望むところです!!」
笑い声が、黄昏の風を吹き飛ばして、僕らは走り出した。今日を残すには、それで十分だった。
「あれ?皐月賞って中山だっけか?」
「そのはずです。なので、こっち行きましょう」
「よっしゃ。コーナリング決めてやるぜぇええ!!!」
トラックでトレーニングを始めた直後、トレーナーから開催は中山レース場から東京レース場に開催変更と聞いて、僕らはずっこけた。
大丈夫、怪我はしてないよ。