ウマ娘Frenzy Stars   作:薄暮ターフ

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第六話 わが名ぞ響く 勝鬨のあとに

 素足から体温を奪う冷ややかなタイルが、徐々にぬるま湯にあてられて人肌ほどの温もりを宿していく。上から下へ勢いよく落ちていくシャワーの湯は、ただ1人、桶に座り俯くウマ娘を伝っていく。

 濡れた髪、小ぶりな顔の輪郭から顎を通って、豊かな胸の丸みを滑り、薄く筋肉の浮かぶ腹と背中、そして締まった腰から厚い臀部、尻尾と身体を滴り落ちたのち、孤独に合わせて跳ねていた。

 栗東寮の共用施設の一つ、大浴場。薄い紫が徐々に橙色のグラデーションに呑まれていく早朝の空模様。

 それは、1人シャワーに打たれるウマ娘、キタノカチドキが整理していく心情をそのまま映し出しているかのように移り変わっていく。

 電気もつけず、ただ自然光の中、湯浴みする。指を組んで脚を見つめ続けるその時間は、彼女なりの瞑想であった。

 

 今日は、5月3日。3週間遅れてのクラシック三冠レースの開幕戦、皐月賞の開催日である。いつ開催されるか明確でなかったこの期間、キタノカチドキが抱いたフラストレーションはとても制御のきくものでは無かった。

 しかし、今は違う。こんな時間に起きたのは落ち着かなかったからだが、それを上回る、歓喜が彼女の中でひたすらに渦巻いていた。

 

「…ふう」

 

「おや、先客の方がいらっしゃいましたか」

 

「…コダマさん?」

 

 ひたひたと静かな足音で、カチドキの隣に座るコダマ。気づいていた様子もなかったが、大して驚くこともなくカチドキはコダマに目を向けた。並ぶと、小柄で華奢という印象を受けるがよく引き締まったアスリートの身体をしている。そして、肩口で揃えられた髪は、一本一本まで規律を知っているかのように静かに収まっていた。ここまで私的な空間でも、他所行きとして通用しそうなほど整っている。それは取り繕った礼儀ではなく、丁寧な物言いと同じくもはや身体に染みついた性分なのだろう。

 

「しっかり落ち着いたようで何より。以前の…覇気ではない、荒くれを纏っていた時とは大違いです」

 

「その…色々とみんなのおかげで」

 

「ふふ、チームメイトに恵まれているようでなにより」

 

 まるで診察でも受けているかのような問答。シャワーの音でかき消されていくような小さな残響の中で、コダマはカチドキをじっと見ていた。

 

「あまり寝ていないでしょう。遠足前の小学生のようですね」

 

「そこまで、ノーテンキなもんじゃないっすよ」

 

「はあ、コレで『レース前になって眠くなってきました』では困りますからね」

 

 ため息を吐いて、コダマは世話係のスタンスで話し続ける。

 

「ちゃんと寝はしたっす。その上でこんな早く目覚めてんのは、俺が勝ちを求めているからに他ならねぇ」

 

「…心配は要らないようですね。本日、楽しみにしていますよ。見に行きますから」

 

「…いいんすか?『現役』を目の当たりにして」

 

「…ええ。その苦しみは、とうに超えています」

 

 太ももに軽く手を当てて、一瞬苦虫を潰したような顔をしたが、すぐに穏やかないつもの表情に戻った。

 

『屈腱炎』

 走る際、脚部に限界を超えた負荷が掛かり続けることで、腱の繊維が断裂する不治の病。出力に体が耐えきれなくなった末に起こる最悪の怪我の一つである。そしてこれは、優秀で才能に恵まれている者ほど隣り合わせなものだと言われている。

 一度失われた腱のしなやかさは、二度と完全には戻らない。完治には年単位の時間を要し、どれほどリハビリを重ねても再発の影が付きまとう。

 それは、走り続けるウマ娘たちにとって、事実上の「引退勧告」に等しい宣告だった。

 

 コダマはかつて、無敗で皐月賞、日本ダービーを制するという偉業、無敗二冠を達成し、『超特急』と呼ばれたウマ娘である。類稀なスピードで瞬く間に世間にその名は轟いた。

 しかし春、飛ぶ鳥を落とす勢いだった彼女は秋のクラシックでは鳴りを顰め、さらには『屈腱炎』を発症。この隆盛からの急転を味わう心情は、察するにあまりあるものだった。

 

  特急コダマどころか各駅停車にも劣る

 

 雑誌に白黒で印刷された評論家の言葉はどこまでも残酷だったが、クラシックの翌年、怪我を経ながらも果敢に挑んだレースで勝ちを重ね、最後は宝塚記念を制し、多くのファンに見送られながらターフを去った。『カミソリの切れ味』と謳われたその実力は、確かに一つの『時代』を築いていた。

 

「あなたは、その速力をもって無敗で皐月賞まで来ました。このまま『時代』となることを、期待しています」

 

「随分、贔屓するじゃないっすか。」

 

「何と言えばいいのでしょうか…わかるんです。経緯は違えど、あの時のあなたの何処までももどかしいという心に振り回される、あの気持ちが」

 

「…」

 

「私も、トレーナーさんと話し合いながら、二人三脚で走ってきました。不振の秋も、屈腱炎に怯えながら走った春も…私は悔いはありません」

 

 穏やかな口調は変わらなかった。その顔も。だから、腿に押し付けられる握り拳だけ、カチドキは見ていた。

 

「あなたも、悔いのない走りをしたと胸を張れるよう走ってくださいね。それが、先輩として言えることです」

 

「…肝に銘じとくっす」

 

「さて、これから戦う者に湿っぽい話は良くありませんでしたね。忘れてください。

 …あなたのトレーナーさんが迎えに来るのはいつですか?」

 

 顔を上げたカチドキの視線の先には時計。時刻は6時。

 

「まだ後っすわ」

 

「そうでしたか。眠らなくとも、横になるだけでも体力は回復します。今のうちにゆっくりしておくことです」

 

 そう言い残して立ち去ろうとする背中にカチドキは立ち上がった。

 

「あの、ありがとうございました!」

 

「…ならば、今の私の言葉たちが杞憂であったと、証明してくださいね」

 

 振り返ることもなく、響いた活力ある声を受けて更衣室へ向かうコダマの周りの空気は、日の出のそれと重なっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝の湯気の中の、先輩の言葉を思い返していた。妙に耳に残ったあの言葉…レース前にこんなこと考えるなんて、思いもしなかったな。

 

「カチドキ。改めて伝えるぞ」

 

「おう」

 

 レース前の楽屋。チームのメンバーは入れねぇから俺とトレーナーだけだ。

 寂しくはねぇ。みんな見てくれてっからな。

 

「今日のお前は2番。内枠からのスタートだ。良馬場で経済コースも言うほど荒れてはいない。いつも通りにスタートしてスムーズに2、3番手を先行すれば十分いける」

 

「言い切るじゃねぇか。いいのかよ」

 

「慢心のつもりはないが、スピードの絶対値が違うからな。東の本命、カーネルシンボリがいない以上、お前の一強と言ってもいい。ただ、油断はするなよ?

 今回の距離は東京の2000mだ。持久力勝負よりもスピードと直線の末脚、何より配分が活きる勝負になる」

 

「…」

 

「周りもそれは知っているはず。皆お前を警戒するだろう。煽られても乗るなよ?自分を制御するんだ。坂までは絶対温存するんだ」

 

「わかった」

 

 淡々と確認が進んでいくし、心配されている様子もねぇ。いや、心配されても困るからな。

 とりあえず、いつも通りだな。大舞台だろうが、やることは変わらん。

 

「…言えることはここまでだ。…いや、そうでもないな」

 

「…?」

 

「周りの視線に、負けるなよ」

 

 心もち眉を顰めて、トレーナーは言った。

 

「へっ。目で勝てるんなら苦労しねぇ。上等、その圧楽しませてもらうぜ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おや、早かったじゃないか」

 

「今回の『単枠指定』ってのが、どんなものかこっちから見ておきたいんでな」

 

 トレーナーは人混みを縫って、ビュースタンドの最前列まで到達した。1日の気温のピークが過ぎ始めた昼下がり、東京レース場の熱はむしろ上昇し、熱狂は破裂寸前まで膨れ上がっていた。

 数万人の喧騒の中で、特等席に陣取るチームスピカの面々。後ろの目線も気にしてかガビーは姿勢を低くして柵にもたれかかっている。

 トレーナーとスピードシンボリの会話を聞いて、シービーの耳が動く。

 

「ん?『単枠指定』って何?」

 

「今年から始まったシステムだ。突出して強い、人気が高い奴はパドック入場、ゲート入りの動線が分離される。」

 

「めんどくさそうね。なんでそんなことするのよ」

 

「ハイセイコーの時観客だの取材だのみんな押しかけて大混乱だったのを受けてURAが導入したらしい」

 

「なるほど。確かに、去年のレース前はとても観戦できるような状態ではありませんでしたからね」

 

「今回が初めての単枠指定だ。だから、カチドキは日本史上初めて『単枠指定ウマ娘』になったってことだな。

 めでたいのかどうかはこの後決めよう」

 

「…」

 

「ひとまず混む前にパドックに行くぞ」

 

「そうですね、行きましょう…カブ先輩、大丈夫ですか?」

 

「へっ?ああ、うん。大丈夫だよ。ヒトは怖くないから」

 

 カブの目は泳いではいなかった。元々人見知りなところはあるが、それはウマ娘に対して抱くものとはまた別の内向的な気質だ。俺がいなくても取り乱していないあたり、スピカのチームにも少しずつ慣れてきたようだ。

 そう考えていた矢先、カブの目線が忙しくなり始めた。右に左にと眼の白い部分の面積比が入れ替わり続ける。その様子に気づいて、大きな身体が背中越しから小柄なカブを包んだ。

 

「ひゅい!?」

 

「大丈夫よ、ウマ娘と鉢合わせても。私いるんだから」

 

「なんだ、ガビー…驚かせないでよ…でも、ありがとう」

 

「あと、いいわねこれ。良く鍛えてて偉いわ。どんどんリラックスできそう」

 

「ととっ。ご、ごめん、ちょっと重くなってきたかも」

 

「何よ乙女に!!このー!!」

 

「うわああああ!!!」

 

「バカやってないで早く行くぞ」

 

 バックハグの体勢のままどんどんと体重をかけていくガビーに翻弄され続けるカブを後にして、パドックへと向かう。隣を見ると後ろの様子でテンポイントとミスターシービーが笑っていた。

 

「彼女、勝負服は着れたのかな?」

 

 スピードシンボリがこっちに話しかけてきた。今回、彼女にとって初めてなのは『単枠指定』だけではないのだ。

 

『勝負服』

 ウマ娘の晴れ着ともいえる特別な衣装。主に大舞台で着用し、一見走りにくそうに見えたりもするが、ウマ娘にとっては不思議な力がみなぎるという、なんともスピリチュアルな言い伝えのある服だ。

 しかし、これに袖を通すということはウマ娘の夢でもある。彼女らの理想を体現した姿としてデザインされるこの服を着ることが特別なことであることは、当事者ではないが十分想像できる。

 

「ん?着付けに問題はなかったから大丈夫だろう」

 

「かなりデザインに気合を入れた結果、小物というかアクセサリーが多かったじゃないか。俺も着せる際手伝ったことがあるぞ」

 

「心配はいらないさ。いざとなったらスタッフの方々が手伝ってくれるはずだ。大体、カチドキが結構デザインに口出ししてたから把握はしてると思うぞ」

 

「スプリングステークス勝った後でしたか。デザイナーさんが持ってきたものほとんど変えちゃったんでしたよね?」

 

「そうだったね…ふふっ、あははは!」

 

「どうした?スピードシンボリ」

 

「いやあ、すまない。俺はあのレース、録画を後に見ていたんだが、中継の司会が『キタノカチドキが負けたら全裸で中山レース場一周してやりますよ!』って言ってたのを、くくく、思い出してね」

 

「そんなことあったの?誰それ?」

 

「さあ?中年の男だったが」

 

「…カチドキにあのレース勝ってくれたことに改めて感謝しておこうか」

 

 そんなこんな話しているうち、目的の場所に着いた。丁度、これから競走するウマ娘達が各々体をほぐしている場面であった。

 それぞれ煌びやかな服を身にまとい、敵意や苛立ちを隠しきれない表情をしていた。

 ざわざわと周りでは観客の言葉が飛び交うが、そのざわめきも、まだ完全には弾けていなかった。

 

 何かを待っている。誰かは言うまでもない。

 

 パドックにいたウマ娘たちが地下バ道へ消えていく。その頃から、観客席のざわめきが少しずつ別の色を帯び始めた。

 

「きたきたきたきた!!大本命、キタノカチドキだぁ!!」

 

『最後に、2枠2番、単枠指定…キタノカチドキです!!!』

 

 赤、緑、黄。

 三つの色を散らした勝負服は、クラシックの張り詰めた空気にはいささか快活すぎるようにも見えた。

 まず目に飛び込んでくるのは、肩から軽く羽織った白いブルゾンだった。袖にはたっぷりと余裕があり、大柄な身体を包んでなお窮屈さを感じさせない。襟を深い緑が囲み、その内側から赤と黄が覗く。

 そのブルゾンの下から覗くトップスは、いっそう賑やかだった。

 身体へぴたりと沿う生地の上を、赤、黄、緑、そして黒が菱形となって斜めに連なる。整然とした格子でありながら、色同士が次々と隣へ飛び移る。静止していてさえどこか動きを感じさせる意匠は胸元から脇腹へ、色彩そのものが駆け下りているようだった。

 丈は短い。そこから露わになった腹部には余計な肉がなく、呼吸するたび、鍛えられた腹の薄い陰影が上下する。

 黒いショートパンツが腰をきっぱりと切り取り、その周囲を何本もの細いベルトが走る。赤い帯、緑の縁、黄の金具。左右から垂れたストラップまでが三色を拾いながら、歩調からほんの一瞬遅れて揺れており、細かな帯や金具が腰の位置を際立たせ、その下から伸びる二本の脚をいっそう長く見せていた。

 

 一歩。

 

 腰から垂れた帯が揺れる。

 

 もう一歩。

 

 白い袖が春風を孕み、赤と黄が陽を拾う。

 止まっていることを前提にしていない。どこを見てもそう造られている。

 耳をぴんと立てて歓声のする方へ顔を向ければ、金茶の瞳が陽を映し、その口元にはもう笑みが浮かんでいた。

 柵が鳴る。身を乗り出した観客の波が、最前列から後ろへ連なっていく。

 帽子が揺れ、新聞が振られ、名前を呼ぶ声が幾重にも重なった。

 三週間溜め込まれた皐月賞への熱は、どうやらこの一人を待っていたらしい。

 

「待たせたな!しっかり目洗ってきたかお前ら!!」

 

「おおおおおおおお!!!!」

 

「ああは言ってますが、なんだか面映そうですね」

 

「まあ、レース後のテンションもイレ込んで興奮状態の時だからな。普段ハイテンションとは言え、開幕でここまでの歓声は慣れないだろう」

 

「…」

 

「あら、どうしたの?カブちゃん」

 

「いえ、先ほどのウマ娘の方々が、すごく怖い顔してたから」

 

「…ああ、そうだな。俺も、彼女らなら屈辱以外の何物でもない」

 

 とりあえず問題はなさそうだ。着付けもしっかりしているし、良く似合っている。

 ここまでの鬱憤、存分に晴らすといい。

 この思いを眼差しに込めてすぐ、俺はパドックを後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ナメた真似、してくれるじゃないの。キタノカチドキ」

 

 パドックにて観客を熱狂の渦に叩き込んだカチドキはレース場に向かう地下バ道の道中、腕を組んで仁王立ちするウマ娘と相対した。

 出口を背にしているからか彼女の顔は影がかり、より一層負の感情を際立たせる印象となっている。

 

「え?いつそんなことしたんだよ俺。

 てか誰だ?お前」

 

「どーも、あたしはニシキエース。相手のリサーチすらしてないなんて、ちょっとバカにしすぎじゃない?一強だのなんだの言われてるけど、こっちそんなの認めちゃいないから」

 

 ビッという擬音が聞こえてくる勢いで指を指すニシキエースに対し、肩を落とすカチドキ。彼女からすれば、勝手に周りから適用された今回の扱いのことで悪く言われる謂れは無いのである。

 

「参ったなぁ。バカになんてしてねーよ」

 

「いや、それはどうだろうな」

 

「お次は誰だよ」

 

「失礼。私の名はミホランザン。今日はよろしく頼むよ」

 

 握手を求めるミホランザン。敵意を向けるニシキエースとは対照的な振る舞いに、カチドキは戸惑いながらも握り返す。その力は柔らかく確かめるように丁寧だった。

 しかし、カチドキが気を緩めたほんの一瞬、唐突な引力が発生した。ミホランザンが、体を密着させて耳元で囁く。

 

「カーネルシンボリとは、鎬を削りあった仲でね。彼女のクラシックの無念は、西の期待を背負う君を倒して晴らさせてもらう。『東』を甘く見るなよ?」

 

 気づけば、ぎりっと軋む握力で手を握っていた。

 彼女らは『東』のウマ娘である。相応のプライドをもってカチドキという『西』のウマ娘に対抗心を抱いていた。

 

「またそういう話かよ。くだらねぇ」

 

「なに?」

 

 締め付けられる感触に意識が引っ張られるミホランザン。手、顔、立ち姿。カチドキが放つ空気は背筋に度を超えた低周波を伝えていた。

 

「やめてくれよな。俺は代理戦争の駒になる気はねぇ。外野が勝手に騒ぐだけだ。そこに西も東もねぇ。俺は俺だ。

 

 無礼てると――――ぶった切るぞ」

 

「!?」

 

 思わず手を振り払った。ただ、握手と会話。宣戦布告こそしたが、ここまで底冷えする底知れない狂気が帰ってくるとは、微塵も彼女は思っていなかった。後ろで見ていただけのニシキエースも、スムーズな呼吸を失っていた。

 

 レース前からこの様では、いけない

 

 一瞬、息が乱れたが、それでもミホランザンは顎を引き、真正面から睨み返した。

 

「じゃあ、ターフで改めて挨拶してくれよな」

 

 その場で固まり続ける2人を一瞥して歩き出したカチドキ。ぶっきらぼうに進める足は、徐々に影を強めていく。

 

「あれ?ぶったぎる?ぶっちぎる?…ん?どっちだっけな?」

 

「おそらく、ぶっちぎるって言いたかったんじゃないですか?」

 

「おお、そうだったか。ありがとよ、なんていうんだ?お前」

 

「わたしはコーネルランサーって言います。今日は勝ちます!」

 

「へっ、いいじゃねぇか。俺はキタノカチドキ、楽しみにしてるぜ」

 

 先ほどの圧力はいつのまにか姿を消していた。溌剌とした彼女と、先ほどの彼女は、本当に同じなのか?地下バ道でこの一連のやり取りを目撃したウマ娘は後に口を揃えてこう語った。

 

 

 

 

 

         

        ――――――――あれは、怪物だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あちこちから、期待と願望の入り混じった議論が増え始め、上がる声にブレーキのかからなくなるオーディエンス。皐月賞出走ウマ娘たちがターフ上に出揃う。勢いよく投げ込まれる声援が空間を埋め尽くしていった。

 

「やったれエリモマーチスぅ!!東の奴らなんていてこましたれ!!」

 

「なにぃ!!ミホランザン、東の王者の力見せてやれ!!」

 

 ただでさえ耳のいいウマ娘にとって、大音量は本来なら歓迎できたものではない。

 だが、歓声だけは別だった。

 名前を呼ばれる。勝てと叫ばれる。それだけで、もう一歩踏み込める気がする。

 それ故に、ウマ娘は大舞台に憧れる。改めてそれを再認識したスピードシンボリは、周りの形作る流れのまま、トレーナーに問いかけた。

 

「さて、今回トレーナー君はこのレースをどう見るのかな?」

 

「注目するなら…ミホランザンだろうか」

 

「ほう…聞かせてもらっても?」

 

「やはり、朝日杯ジュニアステークスを勝っている以上、実績、能力としては今回上澄みだろう。東京で走って勝利しているのも大きい。経験がある分、有利だろうな」

 

「朝日杯ジュニアステークス…東のジュニア級王者決定戦」

 

「有力候補だったカーネルシンボリと勝ち負けを繰り返しているが…実力は拮抗しているだろう。無視はできん」

 

「なるほど」

 

 トレーナーとスピードシンボリが入場してきたウマ娘達を見て品評会が展開されているのを横目に、テスコガビー は少し前屈みになってカブラヤオーと目を合わせる。

 

「西の方のジュニア最強決めるのはなんだったかしら?それは誰だっけ?」

 

「阪神ジュニアステークス、だよね。それはだって…」

 

「あーそっか。忘れてた。カチドキか」

 

 マイペースな会話を押し付け続けるテスコガビーに対して、戸惑うカブラヤオーは耳を迷子のようにクルクルと動かしていた。他愛もないような話の裏で、品評会はさらに白熱し始めた。

 

「あとは…エリモマーチスもいいんじゃないかな。ここのところ3連勝中、直近の毎日杯は2000mだがここを勝っているから距離適正もあると言えるだろう。

 …うーん。とはいえ、前哨戦が良かったバンブトンオールとエリモマーチスは、あまりいい状態とはいえなさそうだな。流石にこの日程が響いたかな」

 

「じゃあ、出走ウマ娘達の調子の振れ幅がかなりレースの核になりそうですね」

 

「…そうだな」

 

「本当にそうでしょうか?」

 

「「うわあ!!」」

 

 しゃらり。

 会話の隙間へ、細い金鎖の音が滑り込んだ。

 円いモノクルへ指を添えながら、いつの間にかコダマが隣に立っている。

 

「おや、コダマじゃないか」

 

 トレーナー越しに手をひらひらとさせて挨拶するスピードシンボリ。それに掌を挙げて応えるコダマ。気の置けない振る舞いをしている間、カブラヤオーは固まっていた。

 

「ふふ、研修の調子はいかがですか?」

 

「そうだね。教え子の走りを見て決めてもらおうかな」

 

「…一応、俺の担当だぞ?」

 

「俺の担当でもあるさ」

 

「……それはそうとコダマ、さっきのはどういうことだ?」

 

 登場とともに発した言葉の意図。質問を受けてコダマはターフに目をやった。

 

「簡単な話です。今日の皆の血走った目…これはもはや、肉体で語るレースでは無くなりそうだからです。果たしてこれは、波乱の予兆なのかどうか…楽しみですね。

 特に、あの子の目なんて、恨みがむしろ気持ちいいですね」

 

 かつてスピードシンボリが語った『血みどろのレース』。その時代にて頂点の称号を手にしたウマ娘だ。見てきた景色、価値観、そして常識は今の華やかなスポーツとはまた違っていた。

 テンポイントは少し汗ばむ。レース前に高まる会場の熱か、はたまたコダマの言葉が引っ張り出してきた冷や汗か…感覚も麻痺してくるほどに狂う東京レース場にいては、断定のできない事象であった。

 

「なるほどな…勿論、競バに絶対は無いし、確定した未来なんてものは無いと思う」

 

 コダマの言葉を受け止めたうえで、トレーナーはなお言い切った。

 

「それでも今回、あいつが負ける姿が想像できん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「キタノカチドキ」

 

「あ?」

 

 ゲート入り直前、背を向けたまま名を呼ぶミホランザン。あまりに突然の呼びかけに呼ばれた当人は気の抜けた返事しか返せなかった。

 先ほどの固まっていた姿ではない。背中に、その一歩に、握りしめる拳に刻まれた確かな決意。世代の頂点を掴む資格のある者としての風格が漂っていた。

 

「改めて挨拶させてもらう。ミホランザンだ」

 

「ん?知ってっぞ」

 

「チッ、調子の狂うやつだ」

 

 後ろ首を掻かれながら悪態を口にされても、カチドキはどこ吹く風。

 ミホランザンはなおも前を向いたまま、言葉を続ける。

 

「君のいったこと、やはり納得できない。ウマ娘は、人の夢を脚にのせて走るものだ。私は東のプライドを背負って走る」

 

「…」

 

「とくと見るがいい。この脚を。…私の遥か後方からな」

 

 ガシャリとゲートが閉まる。

 

 もはや語る必要はない。

 

 それはミホランザンの覚悟の音と重なった。

 

「…大層なこった。古ぃんだよ、そういうの」

 

 鼻で笑ってカチドキが歩き出す。西日がその照りつけを強め始める頃、耳の裏を打つ血流の音が芝を踏みしめる音と重なっていく感覚が深まる。

 

「『俺』のレースだ。泥塗ってくれんなよ」

 

 不敵な笑みに鋭く尖った目。芝に生まれ落ちた天賦の怪物の警告は、誰の目にも耳にも捉えられてはいなかった。

 

『出走者全員、ゲートに収まりました。待ちに待ったクラシックの開幕戦、始まりの時が迫ってまいりました』

 

 ざり、ざり。

 幾人か、靴を芝に擦る所作が目立つ。

 耳が立つ。肩が揺れる。指が開いて、また握られる。

 誰も、もう待てない。

 

『さて体勢整って気合いが掛かります。………さあスタートしました!!』

 

 ガチャリと大きな機械音。それを吹き飛ばす外野の歓声の中、一斉にゲートから地面を蹴った轟音が飛び出す。

 

『ちょっと、あまり…スタートがよろしくなかったのはエリモマーチスでありますが、2000m、第34回皐月賞スタートを切りました』

 

 横並びの列が徐々に縦の一列へ収束していく。

 飛び出して前方を意識して早々、視界にコーナーが飛び込んできた。このコーナーが終わった直後に待つのは向正面。ポジションの確保をここで逃そうものなら、勝ちの目は途端に薄れていく。

 そんな思考の元、位置取りの勝負が苛烈になっていく中で飛び出した影が急激に加速していく。

 

 キタノカチドキじゃない…あたしを見ろお前ら!!!

 

『今一気に先頭に立ちましたのはニシキエースであります!ニシキエースが先頭それに続いてミホランザンであります』

 

 己を認めなかった奴らに。ナメやがったアイツに。暴れる怒りをその走りの推進力に換えてニシキエースがコーナーに差し掛かる。しかし、その後ろをミホランザンが逃すことなく追いかけた。

 

「奇遇じゃないか…では我慢比べと行こうか!!」

 

「やってやる!!!」

 

 前評判通り、二人とも速い。

 だが、速すぎた。

 序盤から互いに一歩も引かず、持ち味のスピードを惜しげもなく叩きつけあう。

 二人だけでレースを引っ張るつもりなのか。

 そう思う間にも、後続との差は開いていく。徐々に前後に並ぶ形にはなったが、バ群からはもう8バ身も先で走り続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

「速いな。大逃げになったか」

 

「カチドキ先輩は…3番手だね。バ群の頭にいるよ」

 

「よし、それでいい...」

 

 トレーナーの柵を掴む力が増す。上がる口角。静かに見守るその目はずっと開いたまま、目瞬きすらも忘れていた。

 騒然とする場内を差し置いて、向正面で繰り広げられているレース。

 大きく逃げた2人は未だバ群を突き放し続けていた。

 

 十。

 

 十一。

 

 十二。

 

「前を走る2人、保つと思えないんだけど」

 

「うーん…でも、あれだけ離してたら、息…いや厳しいかな」

 

「ああ、このまま走り続けていたらジリ貧になるだろうね。もうすぐ、『坂』が始まるからな」

 

 向正面の直線の後半、東京レース場には一つの関門があった。

 高低差1.5mの上り坂である。それは、どんなに鍛錬を重ね、才覚に恵まれようとも、至らないものは無情に潰す。スタミナ、踏込のパワー、そして負担に打ち勝つメンタル。あらゆる底力を試されるのだ。

 さらには向正面の開幕は、常に下りの傾斜である。よりスピードが乗った状態で訪れる急な坂で早仕掛けをしようものなら、弾けて終い。ロングスパートなど以ての外である。

 この坂の存在によって、東京レース場は瞬発力勝負か、前残りの二極化となるパターンが多い。

 東京でのレース経験の多いスピードシンボリはおおよそ未来に目処をつけていた。

 

「でも、なんか妙…あんだけ離されてるなら誰かしら追いかけにいくもんじゃない?」

 

「…」

 

「トレーナー、わかります?」

 

「ああ、忠告はした。『視線に負けるな』ってな」

 

「?」

 

 カブラヤオーとテスコガビーが同時に首を傾げる。真剣にレースを見つめ続けるトレーナーとは対照的にコミカルな様子である。教え子の疑問を解消しきらず、我を忘れて目の前のレースに過集中する男の言葉をコダマが補足した。

 

「おそらく皆、カチドキをマークしているのでしょう」

 

「やはりそうでしたか。では、カチドキ先輩が仕掛けた瞬間、レースは大きく動く…」

 

「じゃあ、みんなカチドキちゃんに合わせて動こうってしてること?なにそれ、ぶっ飛ばせばいいのに」

 

「…ガビー。今度のトレーニングは座学としようか」

 

「ええ〜!?」

 

 サブトレーナーとしての職務を全うする意識を高めたスピードシンボリの言葉に驚くテスコガビーを見て、テンポイントとミスターシービーはくすりと笑っている。

 

「前の2人、後続の目…乱されるなよ、カチドキ」

 

 決して届きはしない声量で、トレーナーは一言送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ニシキエース依然として先頭。続いてミホランザンが2番手をキープ。そこから大きく間隔が開いております、キタノカチドキが3番手。そこから、カネオオエ、コーネルランサーと、その後ろから続いていきます!』

 

 後続のバ群から聞こえる呼吸が、さっきまでとは明らかに違う。

 一定だったリズムが、崩れる。

 整っていた息が、途切れる。

 静かな呼吸は、荒い喘ぎへ。

 表情も苦悶のものであり、走りに綻びが生まれ始めたものもいる。

 後ろで控え続けていたとはいえ、前方が生み出したハイペースは確かに他のウマ娘たちに影響を与えていた。

 しかし、この展開による消耗は当の本人たちも例外ではなかった。

 

 

『まだ差が詰まりません!まだ差が詰まりません!!』

 

 

「はあ…はあっ、意地っ張りにも、程が、あるんじゃないか?」

 

「お互い、様だろ!いい加減、諦めやがれ!」

 

「それは…できん!」

 

 先ほどの快調で飛ばしていた様子はとっくに消え失せ、ミホランザンが言った通りの我慢比べが始まった。ニシキエースが先頭を行けば、ミホランザンが喰らいつく。双方引き下がることなく削り合う姿勢が、過酷なハイペースの成り行きであった。そしてそれは東京レース場の名物、大欅の向こう側に差し掛かってもお互い譲る気などさらさら無かった。

 しかし、大欅が合図するのは第3コーナーの始まり。そして、坂の終わり。

 

 怪物が、動き出した。

 

『800mの標識を通過しました!ぐんと差が詰まってまいりましたが、その間にはまだ6バ身くらいあります!!』

 

『600mを通過しました!キタノカチドキがジリジリと進出、キタノカチドキが上がってまいります!!』

 

「ちっ、きやがったな!」

 

「悪いが今更、君の場所など用意していない!!」

 

 第4コーナーを早々抜け出して、直線へと躍り出たニシキエースとミホランザン。それぞれ進路は大きく分かれた。ニシキエースはラチ沿いに、ミホランザンは外側へ。

 あとは、ひたすらゴールまで一文字。もはや駆け引きはいらない。全身全霊を込めるだけだ。

 

「あたしが、『一番速え』んだあああ!!!!」

 

『先頭は依然として、頑張ります!4番のニシキエースであります』

 

「う、うああああああーーーーーー!!!!!!」

 

 呼応するように、ミホランザンも叫ぶ。目の前は太陽のグレアに包まれる。先など見ずに必死に走った。

 

 

 

 その間を、一つの影が殴り込む。

 

 

 

 

「そろそろ混ぜろよ、辛抱したんだからさぁ!!」

 

 

 

 

『真ん中を割るようにしてキタノカチドキが突っ込んできた!!ミホランザン3番手!キタノカチドキ先頭!』

 

「行くぜぇ!!!俺が一番だ!!!!」

 

 徐々に差を広げ始めるカチドキ。負けじと足を踏み込むが。

 

「…クソっ」

 

「おのれ…!」

 

 ニシキエースとミホランザンには、もうそんな余力は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

「……嗚呼、やはり、いいわ。あの子」

 

カミソリの顔が、静かな喜悦に歪む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 またか

 

 またなのか

 

 2着 

 

 3着

 

 2着

 

 今日も、ここで終わりか?

 

 いや

 

 

 

 そんなに

 

 聞き分け良くないから

 

 

 

 わたし

 

 

 

 

「待てカチドキ!!わたしを忘れんなぁ!!!!!!」

 

 

 

 

 

『コーネルランサー2番手に上がった!!コーネルランサー2番手になった!!差は二バ身差!』

 

 速度が緩み始めたニシキエースのその横、さらに内ラチ沿いを進み、コーネルランサーが爆発した。一瞬で後続を振り切り、一気にカチドキの土俵へと踏み入る。

 

「待てぇ!!待てぇぇぇ!!!!」

 

 喰らいつき続ける、桃色基調の勝負服。春の主役を求めながら、幾度も脇役に押し込められてきたコーネルランサー。

 その姿は、まさしく、執念の具象化。

 絶叫するたび、背中が近づく。

 

 少し。

 

 また少し。

 

 またほんの少し。

 

 だが、ターフは無情だった。

 

 

「終いだ。先行くぜ」

 

 

『強い!!キタノカチドキ!!強い!!

 

 ゴール!!

 

 1着!!!キタノカチドキの優勝!!2着にコーネルランサー、3着が3番のミホランザン!』

 

「はあ、はあ…勝ったぞお前ぇらあああーーー!!!」

 

 ワアアアアアアアアアア!!!!!!

 

「やっぱり強かったぞキタノカチドキー!!」

 

「へっ、今更、何言ってやがる」

 

 息と歩調をレースから切り替え、オーディエンスを煽ったカチドキ。

 炸裂する歓声は天まで届くほどに突き抜けていった。

 

「くっ…敵わな、かったか…」

 

「これじゃ、終われねぇ…ダービーでは必ず…!!」

 

 壮絶な先行争いを最後まで演じたニシキエースとミホランザン。

 それでも、勝者ではない。

 膝をつき、噛み締めた歯だけが悔しさを語った。

 

「…次は、勝ちます。次こそ…ダービーはわたしが…!絶対に!」

 

 駄目だった。

 仕掛けどころはあっていた。ハイペースの対処も良かった。末脚だって、他の差し追込みで勝負したウマ娘に負けてはいない。

 だが、負けた。

どんなに執念をもって挑もうと。

 

 

 天才はいるのだ。

 

 

「はあ…はあ…まず、一つだな。やっと、始まりやがった」

 

 整えた歩調はすぐに崩れかけた。安堵が意地を上回り始めている。

 

 苦々しい面は晒さねぇ

 

 その思いで顔を伏せ、ウィナーズサークルまで歩く。歓声の中で自分の呼吸の音がどんどん近づいてきたその時、カチドキの耳は一つの声を捉えた。

 

「よくやった。俺たちの誇りだお前は」

 

「…!」

 

 顔を上げる。

 待っていたのは微笑むスピカの面々。

 呼びかけたトレーナーの目尻は、少し赤かった。

 

「…バカ。まだ、皐月賞だぜ?早いって」

 

「先輩。嘘つくなって前言いましたよね」

 

「…っ」

 

「素直になりなさい、カチドキ。それでこそ貴方らしいのですから」

 

 何かが、溢れかえる。

彼女は、何も考えず思いのまま飛び込んだ。チームスピカ全員を抱きに行くように広げた両腕。あまりの勢いにラリアットのように喰らってグエッと声を上げたカブラヤオー。

 勿論両腕に収まる人数ではない。しかし、入らなかったガビーやシービー、スピードシンボリも外から抱擁で包んだ。

 

「…ありがとよぉ。みんな、ほんとに…勝てて良かった…!俺を、示せてよかった…!!うっ、ううぅぅぅ…」

 

「本当に、よくやり通した。こちらこそ、礼を言う」

 

「ううう、やめてくれよおおお」

 

「あの、邪魔してごめんなさい。一旦ウィナーズサークルまでお願い出来ますか?」

 

「だそうだ。止めて悪かったカチドキ。

 

 …行ってこい」

 

「…おう!」

 

 豪快に肘から拳までを目の上でスライドさせて、その涙を拭ったカチドキは、改めてその腕を掲げた。

 

 その顔は、今年の春、最も輝いていた。

 

 

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