見滝原中学校へ通い始めて、数日が経った。
正確には「通い始めた」という表現も少し変だ。田中は以前からこの学校の生徒で、長く休んでいただけ。周囲からすれば、最近ようやく学校へ戻ってきたクラスメイトということになる。
俺にとっては、毎日がほとんど初登校みたいなものだけど。
教室の椅子へ座り、机の横へ鞄を掛けたところで、ふと自分の脚へ視線を落とした。
スカート。
何も考えずに座っていた。
「……慣れるの早くない?」
最初の日は、あれだけ気になっていたのに。
座る時の裾も、階段を上る時も、今では身体が勝手にそれらしい動きをする。朝になれば長い髪を整え、女子として話しかけられても、そのたびに「俺、男なんだけど」と引っかかることは減っていた。
まだ、この身体になって一週間も経っていない。
制服の着方も髪の扱いも、学校までの道も、元から身体が知っていたことは多い。そこへ俺自身が慣れてきたのか、それとも最初から身体に引っ張られているだけなのか。
考えると少し気味が悪い。
「田中さん?」
「ん?」
顔を上げると、まどかがこちらを見ていた。
「どうかした?」
「いや。スカートにも慣れるもんだなって」
「……?」
首を傾げられた。
「なんでもない」
「田中さん、前からスカートだったよね?」
「そうだね」
前の田中は。
そこまでは口にせず、曖昧に笑った。
◇
学校での生活は、思っていたより早く形になり始めていた。
授業を受ける。分からないところはまどかたちに聞く。休み時間になれば、近くにいる誰かと少し話す。放課後、必要なら人目のない場所で変身する。
学校では田中。
魔女と戦う時はマギカ。
二つを使い分けることにも、少しずつ慣れてきた。
「そういえばさ」
休み時間、さやかが机へ肘をつきながら、まどかを見た。
「最近、あんたたち妙に仲良くない?」
「え?」
「まどかと転校生と田中さん。休み時間も一緒にいること増えたし」
その視線が、私とほむらを順番に移る。
「そうかも」
まどかが笑う。
「ほむらちゃんも田中さんも、最近いろいろあったから」
「いろいろ?」
さやかが食いついた。
「あ」
まどかが止まる。
魔女関係は、クラスのみんなには内緒。
「学校のことだよ」
私が横から入った。
「暁美さんは転校したばかりだし、私は久しぶりに学校戻ってきたから」
「あー、なるほど」
あっさり納得した。
助かった。
「確かに田中さん、前とちょっと雰囲気変わったよね」
「…………」
今度はそっちか。
「前?」
「休む前。そんなに話したことなかったけど、もっと静かじゃなかった?」
「そう……だったかな」
返しようがない。
俺は以前の田中を知らない。写真の中で笑っていた少女と、いつの間にか学校へ来られなくなった少女。その程度だ。
「でも今の方が話しやすいかも」
「それ褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
さやかが笑い、隣で仁美も頷いた。
「私も少し印象が変わったように思いますわ。以前より……柔らかくなった、と申しましょうか」
「へえ……」
俺ではない誰かの話をされている。
なのに「田中さん」と呼ばれれば、今では反射的に振り向く。
まあ。
毎回考えていても仕方ないか。
数日前なら、そこへ辿り着くまで、もう少し時間がかかった気がする。
◇
昼休み。
「田中さん、それ自分で作ったの?」
まどかが私の弁当箱を覗き込んだ。
「まあ。一人暮らしだし」
卵焼きと野菜炒め、それに昨日の夕食で余った鶏肉。凝ったものではないし、朝から全部作るのも面倒なので、使えるものは普通に前日の残りを詰めている。
自炊は前世でもやっていた。この身体になってから数少ない、そのまま使える技能かもしれない。
「すごいなあ。わたし、自分のお弁当なんて作れないよ」
「鹿目さんのは?」
「お父さんが作ってくれたの」
まどかが嬉しそうに弁当箱を見せる。
彩りがいい。
普通に俺よりちゃんとしている。
「……負けた」
「勝負だったの?」
「今決まった」
まどかが笑う。
その隣では、ほむらがコンビニの袋からおにぎりを取り出していた。
「暁美さん、それだけ?」
「え?」
「昼」
「あと、パンがあります」
袋の中を見せてくれる。
おにぎり、菓子パン、飲み物。
入院明けで、体育ではすぐ息が上がる。そして昼がこれ。
「食べる?」
卵焼きを一つ差し出した。
「え?」
「一個余ってるから」
正確には余っていない。
でも一個くらいならいい。
「でも、田中さんの……」
「また作れるし」
ほむらは少し迷ったあと、恐る恐る受け取った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
一口食べて、少しだけ目を丸くする。
「……美味しいです」
「よかった」
そのまま自分の弁当へ箸を戻しかけて、ふと思った。
そういえば。
魔法少女の本体って、ソウルジェムなんだよな。
今の身体は、言ってしまえば魂から遠隔操作されている入れ物みたいなものだ。腹も減るし普通に動いている以上、栄養自体は必要なんだろうけど。
もし。
足りない分を魔力で補えるなら。
食費、減らせるのでは?
「…………」
いや待て。
何で魂が宝石になった話から、真っ先に家計へ行くんだ。
「田中さん?」
まどかがこちらを見ていた。
「何?」
「また難しい顔してる」
「ちょっと、魔法少……」
危ない。
「……食費について考えてた」
「食費?」
ほむらまでこちらを見る。
「一人暮らしって大変なんですね……」
「まあ、うん」
そういうことにしておこう。
そもそも腹が減っている時点で、わざわざ試す必要もない。魔力節約のために食事を抜いて倒れる魔法少女とか、あまりにも格好がつかない。
「あ、それなら」
まどかが自分の弁当箱を覗き込んだ。
「わたしのも食べる?」
「え?」
ほむらへ聞いていた。
「パパが作ったやつなんだけど、これ美味しいんだよ」
小さなおかずを箸で摘まみ、そのままほむらの口元へ運ぶ。
「はい」
「…………」
ほむらが固まった。
「ほむらちゃん?」
「えっ、あ……」
まどかは何の疑問も持っていない。
「はい、あーん」
「…………っ」
ほむらの顔が一気に赤くなった。
「じ、自分で食べられます……!」
「え? でも、もうここまで持ってきちゃったし」
「…………」
逃げ道が消えた。
ほむらは箸とまどかの顔を何度か見比べたあと、観念したように小さく口を開く。
「……あ、あーん」
ぱく。
「どう?」
「……お、美味しいです」
「よかったぁ」
「…………」
何だこれ。
すごい。
まだ初々しい眼鏡ほむらが、まどかに「あーん」されて真っ赤になっている。
これを目の前で見ていいのか。
いいんだ。
俺は今、この世界にいるんだから。
――てえてえ。
危うく声に出すところだった。
「田中さん?」
「何?」
「なんか、すごく嬉しそう」
「気のせい」
即答した。
ほむらはまだ少し赤い顔のまま俯いている。
頑張れ、ほむら。
「田中さん、ほむらちゃんのお母さんみたい」
「違うから」
今度はまどかへ即答する。
「まだ卵焼き一個だから」
「まだ?」
「…………」
言い方を間違えた。
「何でもない」
ほむらが小さく笑った。
最初に学校で会った時より、少し表情が増えた気がする。
「最近、四人でいること多いよねー」
少し離れた席から、さやかがこちらを見る。
「四人?」
私、まどか、ほむら。
それから、昼休みに顔を出すことが増えた一学年上のマミさん。
「巴さんまで来るようになったし」
ちょうど名前が出たところで、教室の入口から金色の髪が見えた。
「鹿目さん、田中さん。ちょっといい?」
「あ、マミさん」
まどかが手を振る。
今日はマミさんも弁当を持っていた。
「ほら」
さやかが笑う。
「最近ほんと仲良いじゃん」
「そうですね」
仁美も楽しそうにこちらを見る。
「田中さんが学校へ戻られてから、随分賑やかになりましたわね」
「…………」
そうなのか。
前の田中は、どんな昼休みを過ごしていたんだろう。一人だったのか、誰かと食べていたのか、まどかたちとも話していたのか。
何も分からない。
それでも今は、何食わぬ顔でこの席に座っている。
田中として。
◇
昼休みの終わり際。
さやかと仁美が先に席を離れたあと、まどかが少しだけ声を落とした。
「そういえば、昨日ね」
「うん?」
「マギカちゃんとまた会ったんだよ」
「…………」
来た。
「マギカ?」
知らない顔をする。
「この前話した、銀色の髪の魔法少女。名前、マギカちゃんっていうんだって」
「ああ」
俺です。
「マミさんに戦い方教えてもらってたの。それでね、わたしたち友達になったんだよ」
「へえ……」
俺もその場にいました。
「まだまだ初心者だけどね」
マミさんがさらっと付け加える。
友達になった翌日に本人不在で評価を下げないでほしい。
「でも、すごく速いんだよ。それに刀も格好よくて、鏡みたいなの」
「そうなんだ」
今度は装備レビューが始まった。
「少し変わった魔法も使うみたいなのよ」
マミさんが続ける。
「認識をずらす、と言えばいいのかしら。まだ本人にも分からないことが多いから、しばらくは私と一緒に練習することにしたの」
「……へえ」
昨日一緒に決めた本人です。
「私を助けてくれた人ですよね」
ほむらも会話へ入った。
「はい。仮面をつけていた」
「そうそう」
まどかが頷く。
「田中さんにも紹介したいんだけどな」
「…………」
またそれか。
「機会があったらね」
ないよ。
少なくとも同時には。
マミさんが私を見る。
「そういえば、田中さんとマギカさんって、髪の色が少し似ているわよね」
「えっ」
一瞬だけ変な声が出た。
「……確かに」
まどかまでこちらを見る。
やめて。
マミさんは少し考えるように目を細めた。
「髪の色も近いし、背格好も……でも、やっぱり雰囲気はかなり違うわね」
「そう?」
「ええ。マギカさんはもっと……落ち着いている、かしら」
「…………」
それ、俺です。
何とも言えない気持ちになって弁当へ視線を落とした。
「変身すると、本当に雰囲気って変わるんだね」
まどかが何気なく言う。
「魔法少女って、みんなそんな感じなの?」
「人によるわ。衣装や武器で印象が変わる子は多いけれど、マギカさんの場合は特にそうね。仮面だけじゃなくて、あの子自身の魔法も関係していると思う」
「へえ……」
適当に相槌を打つ。
学校では「私」。
変身したら「俺」。
仮面をつけて、少し格好つける。
本人としてはその程度なのに、周囲には本当に別人に見えているらしい。
便利だからいいか。
結局、その程度で流した。
◇
放課後。
昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。
「田中さん」
「ん?」
振り返る。
同じ学年の女子だった。
顔には見覚えがある。
名前は――出てこない。
それでも身体の方は、相手を知っているような気がする。最近では、もう珍しくなくなってきた感覚だった。
「久しぶりに戻ってきた時も思ったけど、なんか雰囲気変わったよね」
「そう?」
「うん。前より話すようになったっていうか。それに髪も伸びたし、最初ちょっと別人かと思った」
「…………」
心臓が、一拍だけ強く鳴った。
別人。
その通りだ。
「休んでたからかな」
それらしい答えを返す。
「そっか。まあ、元気そうならよかった」
「ありがとう」
相手は手を振って去っていった。
その背中を見送りながら、靴箱へ手を置く。
田中は、ここにいた。
この学校へ通って、誰かと話して、誰かの記憶に残っている。俺が知らないところで、ちゃんと一人分の人生を持っていた。
今は俺がその席へ座り、その名前で呼ばれ、その続きを勝手に生きている。
「……考えても仕方ないか」
数日前にも似たようなことを考えた。
ただ、その結論まで辿り着く時間は、少しずつ短くなっている。
◇
校舎を出る。
夕方の風で長い髪が揺れたので、邪魔にならないよう耳へ掛けた。
やってから気づく。
「…………」
これも、もう普通にやってるな。
髪も、スカートも、女子として扱われることも、田中という名前も。
最初は全部、自分ではないものだった。
今も完全に自分のものだとは思っていない。それでも、いちいち意識することは確実に減っている。
「慣れるって怖いな……」
小さく呟いて歩き出す。
ポケットの中には、二つ繋がったソウルジェム。
学校では田中として弁当を作り、まどかたちと昼を食べる。
戦う時はマギカとして刀を握り、マミさんに教わる。
友達までできた。
今のところ、それで困っていない。
むしろ、この世界でどう過ごせばいいのか、少しずつ分かってきた。
だから、その時はまだ気づかなかった。
慣れるということが。
何かを自分のものにすることと。
何かを忘れていくことの。
どちらに近いのかなんて。