原作知識というものは、思っていたより便利だった。
もちろん、何月何日の何時にどこへ魔女が出る、なんて覚え方をしているわけじゃない。そんなものはアニメにも出ていなかったし、そもそも十年以上前に見た作品の細部を全部覚えている方がおかしい。
それでも、実際に目の前へ出てくれば「ああ、これか」と思い出せることはある。見覚えのある場所、聞いたことのある台詞、どこかで見た魔女の結界。何も知らないよりは、ずっとマシだった。
「マギカさんって、妙に勘がいいのよね」
放課後、魔女を探して歩きながらマミさんが言った。
「勘?」
「この前もそうだったでしょう? 結界へ入る前から妙に警戒していたし、使い魔を見てもあまり驚かないもの。何か理由でもあるの?」
「……まあ」
勘というか、見覚えがあるというか。
「昔からそういうの得意だった?」
「いや、そういうわけじゃない」
むしろ前世では、地図を見ても普通に迷う側だった。今の俺が妙に勘良く見えるのは、単にこの世界について少しだけ先に知っているからだ。
「でも、役に立つならいいんじゃない?」
隣を歩くまどかが笑う。
「マギカちゃんが何か気づいてくれたら、わたしたちも助かるし」
「まあ、そうだな」
原作知識。
思ったより使えるかもしれない。
案外、いけるんじゃないか?
そんなことを考えたのが、たぶんよくなかった。
◇
その日の反応は、住宅街から少し離れた工業地帯へ続いていた。閉鎖された倉庫や古い工場が並ぶ細い道を、ソウルジェムの反応を頼りに進んでいく。
やがて、錆びたフェンスの向こうに大きな廃工場が見えた。
「……ここ」
何かが引っかかった。
この建物そのものではない。こういう場所で、何かあったような。
「知ってるの?」
「いや。なんか、この辺だったような気がしただけ」
「この辺?」
「……気のせいかも」
自分でも曖昧だ。
マミさんはそれ以上追及せず、フェンスの向こうへ視線を向けた。
「反応は中からね。行きましょう」
敷地へ入り、開きっぱなしの搬入口から工場内へ入ると、すぐに異常が見つかった。
十人近い男女が、薄暗い工場の奥へ向かって歩いている。誰も会話をせず、呼びかけても振り返らない。その首元には、揃って黒い模様が浮かんでいた。
「……何これ」
まどかの声が小さくなる。
「これ、たしか……」
見覚えはある。
名称が出てこない。
「魔女の口づけね」
マミさんが低い声で言った。
「ああ、それだ」
人間を操る、あれ。
「この人たち、魔女に操られてるの?」
「ええ。このまま放っておけば、自分から危険な行動を取らされることもあるわ。まず結界を探しましょう。鹿目さんは、この人たちがこれ以上奥へ行かないようにお願い」
「分かりました」
まどかが弓を出して奥へ回り込む。
廃工場。人間の集団。魔女の口づけ。そこまで揃って、ようやく記憶の奥にあった映像が繋がり始めた。
「……これ、あれか」
「何か思い出した?」
「いや、その……たぶん、見覚えがある」
画面の向こうで。
そこまでは言えない。
マミさんが壁際の空気の歪みへ手を伸ばした瞬間、景色が反転した。
◇
テレビやモニターが壁にも床にも重なり、意味の分からない映像と砂嵐が結界中を埋め尽くしている。
「……あ」
ここまで見れば思い出せた。
あの魔女だ。
「ハコの魔女……だったっけ」
作中では独特な文字で表記されていたはずだから、名前まで合っているかは少し怪しい。
「知ってるの?」
まどかが驚いた顔をする。
「うーん……たぶん」
「たぶん?」
「自信はない」
原作を知っていると言っても、所詮その程度だ。
マミさんは周囲を警戒しながらマスケット銃を展開した。
「名前が分かるだけでも十分よ。他に何か思い出せる?」
「えーと……」
テレビ。電波。それから、何か精神に関係する魔女だった気がする。そこまで詳細な描写までは思い出せない。
でも、どう攻撃してきた?
何を警戒すればいい?
そこが出てこない。
「……正面から殴ってくる感じじゃなかった、ような」
「曖昧ね」
「ごめん」
「いいのよ。曖昧なことを確定みたいに言われるより、ずっと助かるわ。この結界の様子からして、視界や意識へ干渉してきても不思議じゃない。そこを警戒しましょう」
やっぱり戦闘に関しては、マミさんの方がずっと頼りになる。
「鹿目さんも、妙なものが見えてすぐ追いかけたりしないで。一度、私かマギカさんへ声をかけて」
「はい」
「マギカさんは――」
「前に出すぎない」
「よく分かってるじゃない」
「最近よく言われるから」
マミさんが少し笑った直後、周囲のモニターが一斉に明滅した。
◇
結界の奥から使い魔が飛び出した。
形には見覚えがある。
でも、それだけだった。
「右!」
マミさんの声に反応して刀を振り、一体を斬り払う。そのまま二歩踏み込んだところで別方向の画面から黒い影が伸び、咄嗟に身体を捻った。
肩を掠めた場所だけ、感覚が一瞬鈍る。
「何だこれ……」
「止まらないで!」
銃声と同時に視界の端で使い魔が弾ける。さらに足元の床がテレビ画面のように歪み、別の一体が這い出してきた。
「こんなのあったっけ!?」
刀で受ける。
重い。
見覚えのある相手なのに、原作で見た印象よりずっと忙しい。
そりゃそうだ。
アニメで映っていたのは戦闘の全部じゃない。数分のシーンの裏側で何が起きていたかなんて、視聴者だった俺が知るわけがない。
「マギカちゃん!」
まどかの矢が一体を吹き飛ばした。
「ありがとう!」
返しながら横へ跳ぶ。今度は避けられた。
少しずつ、前よりは動けるようになっている。
それでも。
見たことはある。
戦うのは初めてだ。
◇
結界の奥でノイズが一段大きくなり、複数のモニターへ同じ映像が映し出された。その中央に魔女の姿が浮かぶ。
「あれが本体ね」
マミさんが銃口を向けた瞬間、結界全体が大きく揺れた。
「来る!」
何が。
分からない。
次の瞬間、視界が白く弾けた。
「――っ」
耳鳴りと同時に足元の感覚が消え、身体がどちらを向いているのか分からなくなる。目は開いているのに、見えている映像と自分の身体の向きが噛み合わない。
「マギカさん! 返事して!」
マミさんの声。
でも、どこから聞こえているのか分からない。
「聞こえてる!」
叫んだ瞬間、横から衝撃を受けた。身体が床を転がり、立ち上がろうとしても足が思った方向へ出ない。
「痛っ……!」
これが精神干渉なのか、感覚の撹乱なのかは分からない。
ただ、このままでは戦えない。
「マギカちゃん!」
まどかの声が遠く響く。
モニターだらけの視界の中で、金色の光が走った。
マミさんだ。
リボンを足場へ伸ばして自分の位置を固定し、歪んだ視界の中でも銃口を迷わせない。使い魔が近づけば身体の向きを変え、そのまま撃ち落としていく。
何で動ける。
いや。
分かってる。
マミさんは強い。
俺とは経験が違う。
ああいうふうに、動けたら。
左胸が熱くなり、銀色側のソウルジェムが強く光った。
前にもあった。速く動けると思えば、身体がそれへ近づいた。
なら。
もっと具体的に。
銃を撃つ姿勢。足の置き方。攻撃を受けても迷わず次の一手へ移る身体の使い方。
「俺は……」
巴マミだ。
「――っ」
何かが身体の内側へ流れ込んだ。
背筋が勝手に伸び、ぐちゃぐちゃだった足元の感覚が一本の線へ戻っていく。それだけじゃない。視界の端で銀白だった袖口へ黄色が混じり、腰のあたりから細い布が揺れた。
「……何だ、これ」
リボン。
マミさんが使っているものによく似た、黄色いリボンだった。
衣装そのものが完全に変わったわけじゃない。仮面も日本刀もそのままで、銀と白を基調にした姿のところどころへ、黄色とマミさんの衣装を思わせる意匠だけが重なっている。
なのに、不思議と使い方が分かった。
足元へリボンを伸ばす。
床へ触れた瞬間、身体の位置が固定された。狂っていた平衡感覚が、そこを基準に少しずつ戻ってくる。
「……え?」
考えてやったわけじゃない。
身体が先に知っていた。
踏み込む。
刀を横へ払い、使い魔を斬った反動のまま半歩ずれる。次の攻撃がさっきまで自分のいた場所を抜け、さらに伸びた一本のリボンが壁へ絡んで、流れかけた身体を引き戻した。
「マギカさん……?」
マミさんの声にも、わずかに戸惑いが混じる。
そりゃそうだ。
俺も戸惑ってる。
刀は俺のまま。
魔法まで全部同じになったわけじゃない。
それでも今だけは、マミさんならどう身体を支えるのか、どう次の一手へ繋げるのかが、知らないはずなのに分かる。
「マミさん! 本体お願い!」
「え、ええ!」
俺が使い魔を引き受ける。
今度は一人で突っ込まない。マミさんの射線を避けて位置を取り、まどかの矢が頭上を抜ければ、その直後に飛び込んできた敵へ刀を返す。姿勢が崩れそうになれば、黄色いリボンが壁や床を掴んで身体を引き戻した。
数秒前までとは、まるで違う。
いつもの俺に。
巴マミが、少しだけ混ざっていた。
◇
「今よ!」
マミさんのリボンが魔女を拘束し、まどかが弓を引く。
俺も刀へ手を添えた。
相手から見える俺の位置を、ほんの一瞬だけ横へずらす。
――スペッキオ・ファントム。
「…………」
心の中で言った。
認めるのは癪だけど、ちょっと集中しやすい。
正面から一気に間合いを詰め、鏡面の刀を振り抜く。黄色いリボンが最後の一歩を支え、魔女の身体へ大きな裂け目が走ったところへ、まどかの矢が突き刺さる。
「今です!」
続けてマミさんの銃撃。
結界中のモニターが一斉に砕け、魔女の姿がノイズへ飲まれていった。
数秒後、廃工場の景色が戻ってくる。
◇
倒れていた人たちが、少しずつ意識を取り戻し始めていた。
「大丈夫そうね」
マミさんが一人ずつ様子を確認する横で、俺は刀を下ろして大きく息を吐いた。
「……勝った」
その瞬間、袖口に混じっていた黄色が薄れた。
「あ」
腰から伸びていたリボンも光の粒になって消え、気づけば衣装はいつもの銀と白へ戻っている。
「やっぱり……消えたわね」
マミさんが近づいてきた。
「見えてた?」
「ええ。むしろ見間違いかと思ったくらいよ。色だけじゃない。さっきのリボン、私の魔法によく似ていたでしょう?」
「俺もそれ聞きたかった」
「……自分で出したんじゃないの?」
「出したけど、出し方は知らない」
一瞬、マミさんが黙った。
「それ、かなり変なこと言ってるわよ」
「分かってる」
自分で言っていても意味が分からない。
「マミさんみたいに動けたらって思ったら、身体が勝手に……それで、リボンまで出た」
「今までの自己暗示とは、少し違うわね」
マミさんはさっきまで黄色が残っていた袖口を見つめる。
「速くなれると思って速くなるのと、他の魔法少女の魔法に似たものまで使えるのでは話が違うもの。次は安全な場所で確かめましょう。実戦だけで試すには、分からないことが多すぎるわ」
「うん」
俺にも異論はない。
何が起きたのか、自分でもまだ分からない。
ただ。
少しだけ気になった。
あれは本当に、ただの自己暗示だったんだろうか。
◇
見覚えのある出来事だったから、少しだけ早く異常へ気づけた。
名前はうろ覚え。攻撃方法なんてほとんど覚えていなかった。それでも、ゼロよりはいい。
原作知識は答えじゃない。
ヒントにはなる。
「やっぱり、知ってるって相当デカいな」
もっとも、知ってるのは画面に映ってたところだけだけど。
それでも十分デカい。
「何か言った?」
「なんでもない」
まどかへ首を振る。
◇
工場を出る頃には、すっかり日が落ちていた。
その途中で、ふと足が止まる。
「……あれ」
今さら、記憶がもう一つ繋がった。
廃工場。魔女の口づけ。テレビだらけの結界。H.N.エリー。
そこで、別の映像が頭の奥に浮かぶ。
青い衣装。
剣を持ったさやか。
まどかの前に魔法少女として表れて、この魔女と戦っていたような。
それ以上は曖昧だった。どのタイミングだったかも、その前後に何があったかも、はっきりとは出てこない。
ただ、少なくとも今のさやかはまだ何も知らない。
魔法少女ですらない。
なのに、この魔女はもう倒した。
「マギカちゃん?」
少し先で、まどかが振り返る。
「どうしたの?」
「……いや」
廃工場をもう一度見る。
俺がいる。
田中が学校へ戻り、マギカとして魔女と戦っている。
その時点で、何もかも同じになるわけがない。分かっていたはずなのに、どこかでまだ、この世界も大きな流れだけは原作通りに進むと思っていた。
違う。
0週目だし、原作を知っていても知らないことはたくさんある…
俺が動いたから変わったのか。それとも最初から細部は違っていたのか。
そこまでは分からない。
ただ一つ。
画面の外から見ていた頃とは、もう違う。
俺ももう、この世界の登場人物だった。
さやかは一人で倒してましたね…