――鹿目まどか視点
いつもの時間に、いつもの道を歩いている。それなのに、足取りだけが昨日までと同じにならなかった。
朝の見滝原は何も変わっていない。通学途中の生徒たちは眠そうな顔で自転車を押し、交差点の信号が変われば何人かまとめて道路を渡っていく。コンビニの前では制服姿の子たちが笑っていて、遠くからは学校へ向かうバスの音も聞こえていた。
自分たちだけが、その中から少し外れているような気がした。
ほむらちゃんは隣を歩いている。少し前なら、私に何か話しかけようとするだけでも何度かこちらを見て、言葉を選んで、それでも結局言えないことがあった。それなのに今日は無理に何かを言おうとはせず、ただ私の歩く速さに合わせてくれていた。
校門が見えてきたところで、足が止まった。
「……鹿目さん?」
ほむらちゃんもすぐに立ち止まる。
「ううん。何でもない」
そう言ってから、少しだけ校舎を見上げた。
昨日までなら、ここから教室へ行けばさやかちゃんがいた。たぶん何か言って、笑って、いつもみたいに私の肩を叩いたりしていた。
今日は違う。
「行こう」
「……はい」
ほむらちゃんは理由を聞かなかった。二人で校門をくぐった。
◇
教室へ入って最初に目に入ったのは、さやかちゃんの席だった。
机の上には何もない。鞄も、教科書も、筆箱も置かれていなくて、椅子だけがきちんと机の中へ収まっている。昨日までなら何かしらそこにあった。さやかちゃん本人が座っていなくても、鞄か教科書か、途中まで飲んだ紙パックか、そういうものが必ず残っていた気がする。
何もない机は、思っていたよりずっと目についた。
私は一度だけ目を伏せ、そのまま自分の席へ向かおうとした。
そこで、もう一つ空いている机に気づいた。田中さんの席だった。
『田中さんも……?』
思わず足が少し止まる。
横を見ると、ほむらちゃんも同じ机を見ていた。
「田中さんも、お休みなんですね」
「うん……」
それ以上は分からない。
さやかちゃんがいない理由と、田中さんがいない理由は、私の中ではまったく違う。でも、教室の中から見ればどちらもただの欠席だった。
そのことが、少しだけ変な感じがした。
◇
ホームルームが始まり、先生がいつも通り出席を取っていく。
「鹿目さん」
「はい」
「暁美さん」
「はい」
自分たちの返事が終わり、何人か続く。
それから、さやかちゃんの名前が呼ばれた。
「美樹さん」
当然、返事はない。先生は一度だけ名簿に目を落とし、特に何かを気にした様子もなく印をつけた。
「欠席ね」
そのまま次へ進む。
「田中さん」
やっぱり返事はなかった。
「田中さんも欠席、と」
先生の声は平坦だった。責めるでもなく、心配するでもなく、ただ事実を確認しているだけ。今日いない生徒が二人いる――先生にとっては、それだけのことなのかもしれない。
でも、その「それだけ」が胸の中へ妙に残った。
◇
休み時間になると、仁美ちゃんが私の席へ来た。
いつもより少しだけ歩き方がゆっくりで、声をかける前にも一度、さやかちゃんの机の方を見ていた。
「鹿目さん。さやかさんから、何か連絡はありましたか?」
「……ううん」
首を振る。
仁美ちゃんは手元のスマホへ目を落とした。
「私も何度か連絡しているのですけれど、返事がなくて……」
画面を指で少し動かし、また止める。
「昨日から、ずっと」
そう言ったあと、仁美ちゃんの声が少しだけ弱くなった。
「……私のせいでしょうか」
「違うよ」
自分でも驚くくらい、すぐに声が出た。
仁美ちゃんが顔を上げる。
「仁美ちゃんのせいじゃない。本当に違うの」
「でも、私があんなことを言ったから……」
「違うよ」
もう一度言う。今度は、少しゆっくり。
「仁美ちゃんは悪くないよ」
仁美ちゃんはすぐには返さなかった。私の顔を見て、何かを考えるように眉を寄せる。
「では……何かあったのですか?」
今度は答えられなかった。
さやかちゃんについて、仁美ちゃんへ話せる言葉が何一つ見つからず、口を開こうとしても喉の奥で止まった。
「あの……」
横から、ほむらちゃんの声が入った。
仁美ちゃんがそちらを見る。
ほむらちゃんは少し緊張したように眼鏡の位置を直し、それから言葉を選びながら話し始めた。
「鹿目さんも、まだ……整理できていないんです」
「……」
「だから、その……今はあまり、聞かないであげてもらえませんか」
最後の方は少し声が小さくなった。
仁美ちゃんはしばらく私とほむらちゃんを交互に見ていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かりました」
「ごめんなさい」
ほむらちゃんがすぐに頭を下げる。
「いえ。こちらこそ、ごめんなさい」
仁美ちゃんも同じように首を振った。
それから戻ろうとして、ふと田中さんの席を見る。
「田中さんも、お休みなのですね」
「うん」
そう答えると、近くにいたクラスメイトが会話を聞いていたらしく、何となくこちらへ顔を向けた。
「田中また休み?」
「前も結構休んでなかった?」
「でも最近は普通に来てたよね」
それだけだった。
誰も大ごとだとは思っていない。田中さんは前から時々休んでいたから、今回も少し体調を崩したか、家の都合か、その程度に受け取られているらしい。
その話題も、次の授業の準備が始まる頃にはもう消えていた。
◇
昼前になると、先生が欠席者用のプリントを何枚か持ってきた。
「鹿目さん」
「はい」
「美樹さんの分、机に置いておいてくれる?」
「……はい」
受け取った紙を持って、さやかちゃんの机まで歩く。机の上へ置くと、白い紙がやけに目立った。
少しあとには、田中さんの分も別の子が持ってきて、同じように机へ置いていった。
二つの机に、一枚ずつプリントが残る。明日か、その次の日には本人が戻ってきて、それを手に取る。先生も、クラスのみんなも、たぶんそう思っている。
私も田中さんについては、そうなのかもしれないと思っていた。
でも、さやかちゃんについてだけは違う。
それが分かっているのが、自分たちだけだということが苦しかった。
チャイムが鳴っても、さやかちゃんの机の上にあるプリントから、すぐには目を離せなかった。
◇
昼休み、ほむらちゃんと二人で窓際に座った。
お弁当を開いたものの、ほとんど箸が進まない。
教室の中では、いつもと同じように笑い声がしている。誰かがパンを分け合い、別の子たちは次の休みにどこへ行くかを話している。
「みんな、普通だね」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
「……はい」
ほむらちゃんも教室を見回す。
「さやかちゃんが明日来るって、みんな思ってる」
ほむらちゃんは何も言わなかった。
「田中さんも……どうしたんだろう」
少しして、私はもう一つの空席へ目を向けた。
「分かりません」
ほむらちゃんは、本当に分からない顔で首を振った。
「何かあったのでしょうか……」
「連絡もないみたい」
「そうですか……」
それ以上は話せなかった。窓の外から聞こえる運動部の声だけが、妙に遠く感じた。
◇
放課後、仁美ちゃんは帰り支度をしながら、もう一度さやかちゃんの机を見た。
朝より少しだけ机の上が賑やかになっている。配られたプリントや、先生から渡された連絡物が置かれていて、それがかえって本人が戻ってくる前提を強くしていた。
「明日は……来ますよね」
仁美ちゃんが、誰にともなく言った。
私は答えられなかった。ほむらちゃんも何も言わない。
教室を出る前に振り返ると、二つの空いた席だけが、朝と同じ場所に残っていた。
◇
――マギカ視点
学校から少し離れた場所で待っていると、まどかとほむらが並んで歩いてくるのが見えた。
俺は普通の服のまま、通行人の邪魔にならないよう壁際へ寄っていた。刀もなければ魔法少女の衣装もない。白くなった長い髪だけが風に揺れ、そのたびに視界の端へ入ってくる。
まだ慣れない。鏡を見るたびに誰だこれと思うし、外を歩けばなおさらだった。
先にこちらへ気づいたのはまどかだった。足を止めるほどではないが、何秒かじっと見られる。
「……何?」
「あ、ごめん」
まどかが慌てて首を振った。
「まだちょっと……見慣れなくて」
「まあ、俺もだよ」
髪を少し摘まみ、先の方を見る。自分で見ても白い。
横を見ると、ほむらも眼鏡越しに何度かこちらを見ていた。
「ほむらも?」
「す、すみません!」
「だから何で謝るんだよ」
「その……いつも魔法少女の姿で戦っている印象が強かったので、今のマギカさんを見ると、少し不思議で……」
まどかも横から口を挟む。
「なんていうか、普通の女の子みたい」
「今までは普通じゃなかったのか?」
「そ、そういう意味じゃなくて!」
「……でも、少し分かります」
「ほむらまで?」
ほむらが困ったように眉を下げる。
「すみません……」
「もう謝らなくていいって」
まどかがほんの少し笑った。それにつられたように、ほむらの口元も少しだけ緩む。
昨日からずっと重かった空気が、その瞬間だけ少し薄くなった。
◇
三人で歩き始める。
特に意識したつもりはなかったのに、気づけば俺がいつもの癖で少し前へ出ていた。
「あっ」
後ろからほむらの声がする。
「何?」
「今は……あまり一人で前へ行かない方がいいと思います」
「歩いてるだけだぞ」
「分かっています。でも、その……」
ほむらは一度言葉を止め、それから俺の身体を確かめるように見る。
「今は魔法が使えないんですよね」
「まあな」
返事をすると、ほむらの表情が少し曇った。
「もし何かあったら、今までみたいには……」
言い切る前に、まどかを見る。まどかもこちらを見ていた。
ほむらは少しだけ迷ってから、今度は俺へ視線を戻した。
「今度は、私たちが守らないと」
「……俺を?」
「はい」
ほとんど即答だった。
自分でも言い切ると思っていなかったのか、ほむらの頬が少し赤くなる。それでも、言い直したりはしなかった。
「そっか」
俺もそれ以上は茶化さなかった。
少し前まで、守るとか庇うとかいう言葉は、だいたい俺が自分から使う側だった気がする。それをほむらから向けられるのは、思っていたより変な感じがした。
◇
「今日ね」
少し歩いたところで、まどかが話し始めた。
「うん」
「さやかちゃんの席、空いてた」
その言葉だけで、どんな机だったのか何となく想像できた。誰も座っていなくて、でも明日には戻ってくるみたいに何も変えられていない机。
「……そっか」
それしか返せなかった。
まどかは少し間を置いてから、もう一つ続ける。
「田中さんの席も空いてたよ」
今度は、足まで止まりかけた。
「……田中も?」
「うん。先生も理由は分からないみたい」
横を歩いていたほむらが俺を見る。
「学校のことは多分知らないと思いますが、マギカさん、何か知っていますか?」
『そりゃ来ないよな』
最初に浮かんだのはそれだった。でも、すぐに別の考えが続く。田中がどうなったのかを、俺は本当には知らない。銀色が砕けて俺だけが残った、それ以上のことはまだ何も確定していない。
「……いや」
少し考えてから首を振る。
「分からない」
嘘ではない。
ほむらは俺の顔を少しだけ見つめた。何か気になることがあるようにも見えたが、すぐに視線を戻す。
「……そうですか」
まどかも、そのまま田中の話として受け取っている。
「心配だね」
「……ああ」
風が吹き、白い髪が頬へかかった。俺は片手でそれを払う。
学校では田中が休んでいる。その少し離れた場所を、白髪になったマギカが歩いている。まどかにもほむらにも、この二つを繋げる理由はないから、二人の中では何の矛盾も起きていない。
それが少しだけ不思議だった。
◇
「身体は、本当に大丈夫なんですか?」
田中の話が途切れてから少しして、ほむらがまた口を開いた。
「たぶん」
「たぶんって……」
眼鏡の奥から、明らかに不満そうな目を向けられる。
「ちゃんと休んでね」
今度はまどかも加わった。
「二人とも過保護になってない?」
「だ、だって」
ほむらは少し言いにくそうに目を泳がせた。
「今まで、マギカさんが前に出すぎていたんです。危ない時も、すぐ自分から……」
「マミさんみたいなこと言うな」
言った瞬間、三人の足がほとんど同時に止まった。
しまったと思った時には遅い。
まどかの表情から、さっきまで少し戻っていた柔らかさが消えた。ほむらも視線を落とす。
「……悪い。いや、今のは本当に悪かった」
まどかは小さく首を振った。
「ううん。大丈夫」
その「大丈夫」が大丈夫じゃないことくらいは、俺にも分かった。
ほむらも何か言おうとしたが、結局小さく息を吐くだけだった。
また三人で歩き始める。
こういう時に限って、口が余計な仕事をするところだけは昔から変わらない。
◇
しばらく歩くと、学校が少し遠くなった。
まどかがふと振り返る。
「田中さん、明日は来るかな」
俺もつられて校舎を見る。
あそこに、自分が座っていた席がある。机の形も、椅子の硬さも、授業中に見える黒板の角度も、思い出そうと思えば普通に思い出せる。
でも、その場所へ今の姿で戻っていく自分は想像できなかった。
「……どうだろうな」
答えると、ほむらも学校の方へ目を向けた。
「連絡がつくといいですね」
「……ああ」
二人とも、本気で田中を心配している。
そのことが、少しだけ胸に刺さった。
俺はここにいる。話もできるし、歩くこともできる。それなのに、二人が心配している田中は今も欠席したままだ。どちらも間違っていないからこそ、ややこしい。
風に煽られた白い髪を押さえながら、もう一度学校を見る。
田中は、もうあの席には戻らないのかもしれない。
その考えが形になると、今まで曖昧にしていた問題まで一緒に浮かび上がってきた。
田中が戻らないなら、学校にいた自分はどうなる。
この身体で、今までと同じ名前を使うのか。
それとも、田中とは別の誰かとして生きるのか。
そもそも今の俺は、どっちなんだ。
『じゃあ、俺は?』
まだ答えは出なさそうだ。