「一筋縄ではいかない、というわけか」
ヤン・ウェンリーは深くため息をつき、手元の歴史書を無意識に開き、そしてパタンと閉じた。彼の脳内で、物理学と古典的用兵術の常識が音を立てて崩れ去っていく。
「ちなみに大淀さん。私の歴史の記憶が正しければ、かつての地球に『大淀』という全く同じ名前の軍艦があったはずですが?」
「はい。我々はその魂を、記憶として持って生まれた存在なのです」
大淀の静かで、しかし確信に満ちた肯定を聞き、ヤンは先ほどの非科学的な会話のパズルがカチリとはまる音を聞いた。
「……なるほど。だから、新たな艦船――、つまり君たち『艦娘』を建造するためには、単なる鋼材や重油だけでなく、『縁』という目に見えないオカルト的な要素が必要になるわけですか」
「オカルト、と言われると少々複雑ですが……はい、仰る通りです」
「………いやはや、これは我ながら、とんでもない事態に巻き込まれたものだね」
人間同士の権力闘争やイデオロギーの対立、あるいは凡庸な上層部の尻拭いならいざ知らず、魂だの縁だのという形而上学的な要素が戦局を左右する戦争など、彼の常識の範疇を完全に超えている。今すぐこの場から逃げ出し、自室に戻ってブランデーをたっぷりと注いだ紅茶を煽り、完全な現実逃避に浸りたかった。
「まあ、理屈としてはおよそ現実的ではない。歴史家としては到底受け入れがたい現象だ。しかし、現実は現実として我々の前に立ちはだかり、あと一ヶ月でここは決定的な物資不足に陥る」
「その通りです。だからこそ、私共は……」
大淀が痛切な面持ちで言い募ろうとするのを制し、ヤンは再びボサボサの黒髪を掻き毟った。そしてふっと、自嘲とも余裕ともつかない奇妙な笑みを浮かべたのである。
「まぁ、やりようはあるでしょうね」
その気負いのない一言に、大淀の理知的な瞳が大きく見開かれた。それを見たヤンは、苦笑しつつ、肩を竦めながら言葉を続ける。
「一つだけ確認させてください。その深海棲艦という敵の『知能』はどの程度のものでしょうか。こちらの戦術的意図を看破し、陣形を崩す程度の知略を持ち合わせているのですか?」
「……個体によります。下位のものは本能のままに動きますが、製油所を占拠しているような高位の個体となれば、明確な戦術的知能を持ち、罠を見破る狡猾さも備えています」
「なるほど。それは厄介だ。だが、
ヤンは図書館の天井を仰ぎ、はるか遠い宇宙の彼方にいる黄金色の髪を持った美貌の覇者の姿を脳裏に思い描いた。圧倒的な物量と完璧な用兵をもって、常に正々堂々とヤンの艦隊をすり潰そうとしてきたあの若き獅子。
彼を相手に絶望的な遅滞戦闘を繰り広げた記憶に比べれば、まだしも盤面はシンプルかもしれない。
「似たような状況に追い込まれたことは、以前にもありましたからね」
どこか懐かしむようなヤンの呟きに、大淀は怪訝な顔をした。
しかし、その目の前にいる怠惰な臨時文官が、もはや単なる歴史の傍観者ではなく、圧倒的な劣勢を覆すための冷酷にして優美な戦術の数式を組み上げ始めたことだけは、確かな事実として彼女の胸を打ったのである。
■
「ひとまず、大型艦を直しましょう」
ヤン・ウェンリーは、まるで食後の紅茶を注文するような、実にあっけらかんとした笑みを浮かべてみせた。
「いや、それは……!」
大淀は反射的に身を乗り出した。大型艦の入渠にかかる莫大な時間と資源を考えれば、目まぐるしく変わる戦線において、それを最優先とするのは一種の自殺行為に等しい。しかし、ヤンは掌を向けて軽く彼女を制し、明日の天気を予報するような気負いのなさで断言した。
「大丈夫ですよ。ここ数日間、
「……なぜです?」
「単純なことです。相手にも、
ヤンは手元の机に、見えないグラフを描くように指を滑らせた。
「私が後方で処理している兵站のデータを見ると、物資の要求量が一定の期間で増減を繰り返していることがわかります。これはつまり、味方に損耗が出たときにだけ局所的に物資が大量消費され、その後は凪のように静まるというサイクルです。敵の動きもおそらくはそういう物なのでしょう」
言葉を区切ると、ヤンは手元のマグカップからすっかり冷めきった配給茶をすすり、しげしげとカップを見つめた。
「……ふむ、冷えた緑茶というのも割とイケるな。ここに少量のブランデーをたらせば、歴史的な新発見になるかもしれない」
「……はい? ブランデー……?」
突然の間の抜けた感想に大淀が呆気にとられるのをよそに、ヤンは何事もなかったかのように言葉を継いだ。
「ですがもし、敵が本気でこの鎮守府の息の根を止めるつもりなら、そのような悠長なサイクルなどは存在し得ない。一気呵成(いっきかせい)の波状攻撃を仕掛けてくるはずです。正面からすり潰されれば、我々は圧倒的な物量の前に数日で瓦解するのだからね」
絶望的な事実を明日の天気のように淡々と告げると、ヤンは呆れたようにボサボサの頭を掻いた。
「
自軍の兵力損耗を嫌う合理主義者なのか、それとも私に似て単なる怠け者なのか、あるいは深海棲艦故の理由があるのか……。まあ、いずれにせよ随分と舐められたものですが、おかげで我々はこうして一息つけるわけです」
大淀は息を呑み、完全に言葉を失った。最前線で血を流し、目の前の敵を凌ぐことに必死になっていた彼女たちにとって、マクロな兵站の数字の揺らぎから敵の戦略的意図を逆算するなど、思いもよらない発想であった。
「日々の戦闘で余裕を失った情報部は、この単純な事実に気づけない。そして後方の安全な椅子に座る上層部たちは、『幸い物資は送っているのだから、いずれ前線が気合で領海を取り返してくれるだろう』と無邪気に信じているわけです。数字の辻褄が合っていれば、戦争に勝てるとでも思っているのでしょうね」
ヤンはそこで言葉を切ると、大げさに肩をすくめた。
「いやはや。いつの時代も、最前線から遠く離れた安全な椅子に座る人間ほど、歴史の教科書から何も学んでいない証拠ですがね」
呆れ顔でボサボサの頭を掻く臨時文官の姿は、どう見ても軍人らしくなく、ひどく頼りなく見えた。しかし大淀の目には、その冴えない青年の頭脳の中に、すでに絶望的な戦局を覆すための冷酷にして精緻な方程式が組み上がっていることが、はっきりと見て取れたのである。
■
「ただ、相手に悟られるような真似は避けなければなりません。彼らの『ルーティーン』は崩さないまま、こちらの内情だけをすり替える。故に、ここは大淀さん、あなたにも前線に加わってもらいましょう」
ヤンは手元の本を指先で軽く叩きながら、まるで明日の昼食のメニューを決めるような気軽さで言った。
「駆逐艦
大淀は息を呑み、実務家としての本能から即座に反論した。
「……いくらなんでもそれは危険すぎます! ただでさえ薄い防御陣がさらに半減することになるのですよ? もしその手薄な隙を突かれて、敵の主力級に強襲されでもしたら、取り返しがつきません」
「ええ、
ヤンは少しも慌てることなく、どこか楽しげにさえ見える様子で頷いた。
「ですがね、相手が血の気の多い猪武者や、何も考えていないボンクラ指揮官であるならば、私もこんな危険な提案はしませんよ。
敵は、ここまで我々を追い詰めておきながら、あえて一気呵成の攻撃を控え、真綿で首を絞めるような飢餓作戦を実行している。この盤面において、敵の指揮官は極めて『慎重』であり、理性的だ。だからこそ、この手品が通用するのです」
「……と、いいますと?」
「考えてもみてください」
ヤンは人差し指を立て、空中で小さな円を描いた。
「あと少しで干上がり、虫の息になるはずの獲物が、ここに来ていきなりパトロールの陣形やルーティーンを変えてきた。しかも、基本的には司令部を守っているはずの要である軽巡洋艦「大淀」をも、哨戒のルーティーンに組み込んでまで。あえて防御を薄くするような不可解な動きを見せている。
―――もし君が、非常に戦略的にも戦術的にも優勢であり、自軍の損害を出すことを極端に嫌い、完全な勝利を望む慎重な敵将だったなら、どう考えるかね?」
大淀はハッとして、眼鏡の奥の目を瞬かせた。彼女の優秀な参謀としての頭脳が、ヤンの意図を急速にトレースしていく。
「……罠か、あるいは破れかぶれの決死隊か。どちらにせよ、何か裏があるのではないかと疑い……」
「ご推察の通り。……過去の歴史においても、凡将よりむしろ知将と呼ばれる者の方が、取るに足らない小細工の前で足を止めてしまうものです」
ヤンは満足げに微笑み、ボサボサの黒髪を軽く掻いた。
「『
相手が深海に棲む怪物であろうと、知能と理性がある以上、疑心暗鬼からは逃れられない。相手が優秀であればあるほど、不可解な動きには立ち止まって深読みをしてしまうものです。
敵がその『見えない罠』を警戒して足を止めている数日間こそが、我々に残された唯一のゴールデンタイムというわけです」
ヤンは再び椅子に深くもたれかかり、古い図書館の天井を見上げた。
「その敵が立ち止まっている猶予を使って、ドックで埃を被っている大型艦を全力で修復する。同時に、三交代制にすることで軽巡は今までよりは幾分か怠惰に過ごせ、完全に浮いた駆逐が一枚、休養をとる余裕ができる。最前線で張り詰めていた彼女たちの体力と、すり減った士気が戻るのを待つわけです。そして――」
ヤンの黒い瞳に、歴史の転換点を見据える魔術師の鋭い光が宿った。
「万全の状態となった大型艦と、英気を養った護衛艦隊をもって、一転して攻勢をかける。敵が『様子見』のルーティーンに慣れきったその一瞬の隙を突けば、あるいは痛烈に深海棲艦の横っ面を張り飛ばせるかもしれませんよ」
圧倒的な劣勢を、敵の心理を逆手に取ることでひっくり返す。
力と力のぶつかり合いではなく、相手の理性そのものを盤上の駒として利用する、悪魔的なまでの
「……ヤンさん、あなたは一体」
大淀の声には、深い畏敬の念が混じっていた。しかし、当のヤン・ウェンリー本人は、まるで面倒な宿題を片付けた子供のように、大きく背伸びをしてあくびを噛み殺している。
「さて、私の思考実験はここまでです。この策を採用するかどうかは、優秀な上層部と現場の皆さんに委ねますよ。私はしがない臨時文官ですから、明日もまた、書類の山と格闘しなければなりませんのでね」