それから、一ヶ月後。
休日の朝、ヤン・ウェンリーは薄暗い下宿先のベッドでハンモックのように丸まりながら、一枚の新聞を広げていた。
安っぽいインクの匂いが漂う紙面には、普段の陰鬱な戦況報告とは打って変わって、見出しの活字が誇らしげに踊っている。
『敵対生物撃退! 湾岸地域の工業地帯に叡知の火が再び灯る!』
『横須賀鎮守府、近海防衛ラインの奪還に成功。南方海域への足がかりを得る』
記事の詳細は意図的にぼかされていたが、大まかな流れはヤンの読み通りであったらしい。敵の慎重さを逆手に取った偽装のルーティーンで時間を稼ぎ、修復を終えた大型艦を中核とした一点突破の奇襲作戦。
敵が状況の変化を悟り、慌てて艦隊を再編しようとした時には、すでに致命的な一撃が製油所を占拠する敵主力――戦艦級に叩き込まれていたのだろう。
「上手いことハマったか。やれやれ」
ヤンはボサボサの頭を掻きながら、新聞をベッドの横に放り投げた。自分が提供した「一般的な思考実験」が、そのまま作戦に採用され、見事に成功を収めたことに対する達成感など、彼には微塵もなかった。
あるのはただ、「これでしばらくは、兵站局の臨時文官としての平穏な生活が保証された」という、極めて即物的な安堵だけであった。
■
数日後。兵站局・第四倉庫管理部の片隅で、ヤンはいつものように簡易ベッドに寝転がりながら、書類仕事に追われる正規の軍人たちに大まかな指示を飛ばしていた。
「第三艦隊の弾薬消費率が想定より二パーセント高い。おそらく主砲の仰角調整に手間取っている。次回は演習用の特殊弾を少し多めに回して、実戦前に射撃統制のキャリブレーションを行わせてください。……ああ、計算はそちらでお願いしますよ」
ヤンの指示に、軍人たちが「はっ!」と敬礼しながら嬉々として計算尺を動かし始めたその時だった。
「ヤンさん。お邪魔しても?」
埃っぽい倉庫にはおよそ似つかわしくない、涼やかな声が響いた。ヤンが首だけを動かして入り口を見ると、そこには大淀が立っていた。彼女の姿を見て、こりゃいかん、とヤンは思わずベッドから身を起こした。
「どうぞ、大淀さん。……と、それはまた、随分と派手にやったようですね」
彼女の清潔感のある白いブラウスの袖からは痛々しい包帯が覗き、知的な額にもガーゼが当てられている。作戦の激しさを物語る傷跡だった。
「少々、事務作業に手間取りました」
しかし、その顔色は決して悪くなく、眼鏡の奥の瞳には、以前のような切迫した疲労の色は消え、確かな活力が宿っている。ひとまずは元気そうであった。
「……軍港の事務作業にしては、いささか傷が多すぎると思いますが」
「ふふふ。――ええ、書類の束に押し潰されまして」
ヤンの軽口に、大淀はくすりと笑って応えた。彼女はヤンの机の前に歩み寄ると、姿勢を正し、静かに深く頭を下げた。
「なんとか、灯火は繋ぎました」
「ひとまず一ヶ月での滅亡は避けられたようだね?」
「はい」
大淀は顔を上げ、眩しいものでも見るような目でヤンを見つめた。
「ヤンさんのあの『思考実験』がなければ、横須賀鎮守府は今頃、重油の枯渇とともに海に沈んでいたでしょう。修復を終えた我が主力艦隊の砲撃が敵主力を粉砕した瞬間……信じられませんでした。本当に、あなたが言った通りのタイミングで、敵の陣形に隙が生まれたのです」
「……たまたま、敵の指揮官が私の想定通りに慎重な性格だったというだけのことだよ。それに、実際に血を流して戦ったのは君たちだ。私は安全な後方で、無責任な作り話をしたに過ぎない」
ヤンは決まり悪そうに頭を掻き、視線を逸らした。英雄としての称賛は、彼が最も苦手とするものの一つである。
「それに、手放しで喜べる状況でもないでしょう。首の皮一枚繋がったとはいえ、奪還したのは近海の製油所だけだ。敵の圧倒的な物量と、根源的な脅威が消え去ったわけではない」
「その通りです」
大淀は表情を引き締め、頷いた。
「ですが、これで少なくとも『戦うための基盤』は整いました。燃料の確保と、南方海域へ進出するための橋頭堡。次は、いよいよ本格的な反攻作戦となります。……つきましては」
大淀は言葉を区切り、一歩前へ出た。その手には、一枚の真新しい辞令書が握られていた。
■
大淀が差し出した真新しい辞令書。そこに記された明朝体の活字を一瞥した瞬間、ヤン・ウェンリーは自身の視神経か、あるいはこの軍事組織の常識のどちらかが致命的に狂っていることを確信した。
「……提督? 私が? いくらなんでも、いきなり過ぎないか?」
ヤンは辞令書と大淀の顔を交互に見比べながら、心底から呆れたような声を上げた。昨日まで時給計算で雇われていた得体の知れない臨時文官が、一夜にして前線基地の全権を握る艦隊司令官に祭り上げられるなど、三流の通俗小説でも編集者に没にされる展開である。
「深刻な人材不足ということですよ、ヤンさん」
大淀は生真面目な顔を崩さずに、しかしどこか悪戯っぽく答えた。
「それに」
「……それに?」
ヤンが鸚鵡返しに問うと、大淀の理知的な瞳に、静かだが確かな熱を帯びた光が灯った。彼女は怪我を負った身体で居住まいを正し、ヤンを真っ直ぐに見つめた。
「今回の作戦は、人類にとっての、初の明確な勝利でした。圧倒的な力を持つ深海棲艦に対し、戦術と知略で打ち勝てるという事実を、あなたは証明してくださった。だからこそ……ぜひ、あなたに」
大淀はそこで言葉を区切り、まるで神仏に祈りを捧げるような、ひどく真摯な声で告げた。
「私の船体を預けたいのです」
いやはや、これは困った。
ヤンは心の中で深大なため息をついた。かつて宇宙艦隊を指揮していた時代から、彼は他人の命を預かることを何よりも嫌悪してきた。ましてや目の前の彼女たちは、少女の姿をしながらも一隻の軍艦として戦い、そして沈んでいく存在なのだ。
「お断りする」などと口にするのは簡単である。
自分はただの歴史家志望の文官であり、責任を負う立場にないと突き放せば済むことだ。
――しかし、歴史の傍観者を気取るには、ヤン・ウェンリーという男はあまりにも生来の人が良すぎた。彼には自覚がある。
あの「一般的な思考実験」が、絶望的な防衛戦に明確な
自らがもたらした結果に対する責任の重さが、彼の喉を塞いでいた。
ヤンはといえば一縷の望みを託して、大淀に尋ねた。
「……ちなみに、あのような作戦を立案した者は、上層部や参謀本部の中で、私以外に誰もいなかったのかね?」
大淀は、いっそ清々しいほどの即答で彼を絶望の淵へと突き落とした。
「誰一人として」
「まいった。これはまいった」
ヤンは両手でボサボサの黒髪を抱え込み、机に突っ伏した。かつてイゼルローン要塞の執務室で幾度となく見せた、不敗の魔術師の最も人間臭いポーズであった。他に頼れる有能な人材がいれば、喜んでその背中に隠れて昼寝を決め込むつもりだったのだが……。
どうやらこの時代の人類も、
「急ぎ、とは言いません」
頭を抱えるヤンを見下ろしながら、大淀は静かに言った。
「最も、我々に残された時間の終わりが、確実に迫ってきておりますが」
「……そいつは困ったな」
机に突っ伏したままのヤンのくぐもった声に、大淀は包帯の巻かれた顔を綻ばせた。
「はい。困りものです」
苦笑を交わす二人。重苦しい戦局の中にあって、その一瞬だけは奇妙なほど穏やかな空気が流れていた。大淀は辞令書をヤンの机の上にそっと置くと、軍人として、そして彼を信頼する一隻の艦娘として、綺麗な敬礼をした。
「よいお返事を、期待しております」
柑橘系の微かな香りを残して、大淀はその場を去っていった。
一人残されたヤン・ウェンリーは、しばらくの間、埃っぽい倉庫の天井を睨みつけていたが、やがて諦めたように手元の辞令書を引き寄せた。彼が歴史家としての平穏な隠居生活を手に入れる道のりは、どうやらこの時代でも果てしなく遠いようであった。
■
その夜、ヤン・ウェンリーはいつもの大衆酒場の片隅にいた。向かいの席には、白髪の老軍人が座っている。幾分かまともな日本酒の入った徳利が、二人の間を行き来していた。
「しかし、どうするのかね? ヤン・ウェンリー」
老軍人は杯を干し、深い皺の刻まれた目を細めてヤンを見た。昼間に大淀から突きつけられた『提督就任の辞令』の件は、すでに彼のような古参の耳にも届いているらしい。
「本音を言えば、全力でお断りしたいところですよ」
ヤンは杯の縁を指でなぞりながら、深々と苦笑した。
「ですが、案外、私も完全に冷酷にはなりきれないようでして。自分がいかに安全な後方にいるからといって、困っている彼女たちを見捨てるのは寝覚めが悪すぎます」
「確かにな」
呆れたように肩をすくめるヤンを見て、老軍人は満足げに頷いた。
「しかし、君には明確な才がある」
「才、ですか」
「そうだとも。なにせ君は、今まで縮小するしかなかった人類の生存圏を、この戦いで唯一押し広げてみせたのだからな」
ヤンは何も答えず、ただ手元の酒を口に含んだ。薄暗い喧騒に包まれた酒場の中で、二人の間にだけ、ぽっかりと重い静寂が落ちる。
やがて、老軍人は空になった杯を見つめたまま、独白のようにぽつりと呟いた。
「人間が年齢の順に死んでゆくのが、まともな社会というものだ」
その声には、長きにわたる絶望的な防衛戦の中で積み重ねられてきた、大人としての深い悲哀と悔恨が滲んでいた。
「わしのような先短い老兵が後方で生き残って、あんなうら若き少女たちが最前線で血を流し、死んでゆくような社会は……どこか根本的に狂っとるのだよ」
それは、人類の存亡という大義名分の下で、艦娘という存在に国防のすべてを丸投げしている世界に対する、血を吐くような本音であった。
「……確かに、そうですね」
ヤンは静かに同意した。歴史を学ぶ者として、国家の都合が若者の命をすり潰してきた事例など星の数ほど見てきたが、それを目の当たりにして心が痛まないわけではない。老軍人は自嘲するように笑い、ヤンに向けて自身の杯を掲げた。
「故に、才ある君に彼女らを頼みたいというのは……。死に損ないの老兵の、身勝手なわがままかね」
「それは……」
不敗の魔術師は、もはや自分の逃げ道が完全に塞がれたことを悟った。
彼はゆっくりと長く息を吐き出すと、己の厄介な運命を飲み込むための儀式のように、手元の酒を一息に煽ったのである。