近海の脅威が一時的にせよ去ったことで、横須賀鎮守府には嵐の前の静けさとも言うべき、奇妙な平穏が訪れていた。
不敗の魔術師たるヤン・ウェンリーが新提督として最初に着手したのは、狂信的な攻勢計画の立案ではなく、極めて合理的かつ堅実な「日常(ルーティーン)の再構築」であった。
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「パトロールは駆逐艦一隻、軽巡洋艦一隻を最小単位とし、これを二組編成してローテーションを回す。残りの駆逐艦には休養と、別の任務を与えよう」
ヤンの指示により、これまで絶望的な連戦を強いられていた艦隊に、初めて「余裕」という名の余白が生まれた。とはいえ、彼はその余白を無駄にはしない。空きができた駆逐艦である雷と電の二隻には、先日撃破した深海棲艦の拠点跡地周辺海域の探索を命じた。敵の残骸や放棄された施設から、少しでも利用可能な物資を回収させるための、いわゆる廃品回収(スカベンジ)任務である。
その間、手薄になる基地の近海防衛は大淀が単艦で担い、先の作戦で殊勲を立てた戦艦・金剛には、徹底的な海上目標への射撃訓練を命じた。
「しばらくの間、この戦局の鍵を握るのは『戦艦』の打撃力になる」
ヤンは司令官室のデスクで、ぬるい紅茶をすすりながらそう看破していた。彼が着任以来、過去の膨大な戦闘記録を読み漁った結果、一つの特異な事実に気がついていたからだ。すなわち、深海棲艦による「空からの襲撃」――航空機による爆撃や雷撃の記録が、現在のところ一切存在しないのである。
敵の戦術ドクトリンが古典的な大艦巨砲主義に偏重している、あるいは航空戦力をまだ投入できていないのであれば、当面は水上打撃力の優劣が戦線の行方を左右する。ならば、金剛の練度を極限まで引き上げておくことが、次なる防衛戦における最大の保険となるはずであった。
しかし、ヤンは同時に、空からの脅威がいずれ到来する可能性も捨ててはいなかった。それに備えるため、中破状態でドック入りを待っていた正規空母・加賀の修復にも直ちに取り掛からせた。だが、ここで彼を悩ませる根本的な問題が再び浮上する。
「……解せないな」
ヤンは手元の在庫報告書を指先で弾き、傍らに立つ大淀を見上げた。
「現状、直ちに物資が不足しているわけではない。しかし、加賀の修復を行い、金剛をはじめとする大型艦を本格的に作戦行動させれば、数週間で備蓄は完全に枯渇する計算になる。臨時文官時代に、私がもっと手配するよう書類を回していたはずだが?」
ヤンの問いに対し、大淀は困ったような、しかしどこか諦観の混じった苦笑を浮かべた。
「それはあくまで『計算上は』ですよ、提督。本当に」
「……つまり、前線の絶望的な状況と資源の枯渇は、後方の国民には、なんなら後方の一般士官には一切知らされていなかったということですか」
ヤンの低い声に、大淀は静かに頷いた。
「端的に言えば、そうですね。ですが、提督が兵站の書類を手配するようになってからは、これでも劇的に改善したのですよ? 現在のこの備蓄在庫も、あなたが削り出したあの時の数字が形になったものですから」
大淀の慰めにも似た言葉を聞き、ヤンは「やれやれ」と肩を竦めて天井を仰いだ。
国家が未曾有の危機に瀕したとき、権力者は往々にして真実を隠蔽する。パニックを防ぐためか、あるいは自己の保身のためか。自由惑星同盟の腐敗した政治家たちが、敗戦の事実を「戦略的転進」と言い換えて市民を欺いたように、この時代の地球人類もまた、同じ愚かな歴史を繰り返しているらしい。
しかし、ヤンは今回ばかりは、その決定を下した上層部を一方的に非難する気にはなれなかった。
(おそらく、クマを作りながら、彼らなりに悩んだ末の決断だったのだろう)
真実を公表すれば、社会資本はパニックによって完全に麻痺し、シーレーンが断たれる前に国家そのものが内側から崩壊していたかもしれない。あの上層部のクマを作った疲労困憊の顔を思い出すと、彼らもまた、真実を隠すことで社会の平穏を保とうとする「苦渋の決断」を下したのだと理解できた。それが彼らなりの、最悪な状況における責任の取り方だったのだ。
(政治家や軍人の自己犠牲など、歴史上では何の足しにもならないがね)
と、ヤンはあくまで他人事のように心の中で毒づいた。
「さて、在庫の愚痴を言っていても重油は湧いてこない。次の一手を考えるためにも、我々の唯一の希望である『工場』を見学させてもらうとしようか」
ヤンは椅子から立ち上がり、大淀の案内で鎮守府の最深部にある建造ドックへと向かった。地下に降り、厳重な防爆扉をいくつも抜け、機密のベールに包まれたその区画へ足を踏み入れた瞬間、ヤンはきょとんとした顔で足を止めた。
それは、かつて彼が見た宇宙戦艦の建造ドックや、歴史書にある巨大な造船所の威容を想像していたヤンにとって、目の前の光景はあまりにもスケールが違っていたからだ。
「……随分と、小さいな」
「それは当然です、提督」
大淀は眼鏡の位置を直し、微かに誇らしげな笑みを浮かべて言った。
「建造されるのは、我々と同じ『艦娘サイズ』の戦闘艦なのですから」
二人は、仄暗い照明に照らされた、まるで小さな工房のような建造ドックの内部へと静かに足を踏み入れた。不敗の魔術師にとって、オカルトと科学が融合したこの不可思議な空間こそが、次なる歴史の転換点となるのであった。
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建造ドックの重厚な扉の向こう側に広がっていたのは、近代工業の粋を集めた無骨な造船所でもなければ、火花と重油の匂いに満ちた鉄火場でもなかった。
ヤン・ウェンリーの視界に飛び込んできたのは、人間ではない、手のひらサイズの小さな「妖精」たちが忙しなく飛び交う、極めて非科学的な空間であった。
広大な空間には確かに四つのドックが並んでいるが、その中で炉に火が灯り、稼働可能な状態にあるのはただ一つだけである。残りの三つは、まるで時が止まったかのように静まり返っている。
「……メルヘンの世界に迷い込んだか、私は」
ヤンはたまらず右手を伸ばし、自らの眉間を深く揉みほぐした。彼の生きた未来の宇宙において、超光速航法や巨大な要塞の建造は物理学と工学の延長線上にある「現実」であったが、目の前で小さなハンマーやスパナを抱えて宙を舞う不可思議な生命体は、どう好意的に解釈してもおとぎ話の産物である。
「いえ、現実ですよ。ヤン提督」
傍らを歩く大淀が、慣れた様子で、しかしいささか同情を含んだ苦笑を漏らした。
「あー、まぁ。で、その、小さくて、可愛らしい彼らは?」
「妖精さん、と呼ばれています」
「妖精さん……」
ヤンがその現実離れした呼称をオウム返しに呟くと、彼の声に反応したのか、ドックのあちこちで作業をしていた妖精たちが、わらわらとヤンの足元に集まってきた。そして、驚くべきことに、彼ら、あるいは彼女らは統制の取れた軍人のように一斉に背筋を伸ばし、新任の司令官に向けて見事な敬礼を決めてみせたのである。
ヤンは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに彼特有の、生真面目さと適当さが入り交じった態度で姿勢を正し、帽子を被っていない頭の横に手を添えて答礼した。
「これはご丁寧に。新たに着任したヤン・ウェンリーだ。その、君たちのような存在は人生で初めて認識した。勝手がわからず、非常識な行動をとるかもしれないが、そこはご容赦願いたい」
宇宙艦隊の司令官が、足元の妖精に向かって真顔で自己紹介と謝罪をする光景は、客観的に見れば喜劇でしかない。しかし、相手がいかなる姿形をしていようと、礼を尽くして対等に接しようとするのは、ヤン・ウェンリーという男の美徳の一つであった。
すると、妖精たちは満足そうに頷き、再び元気よく敬礼で返してきた。
「……良いですよ、と言っています」
「言葉が判るのかい?」
「なんとなく、ですよ」
と大淀は少しだけ誇らしげに微笑んだ。
「で、彼らは一体何者なんだ? ただのマスコットというわけではあるまい」
ヤンが問うと、大淀の表情から微かに笑みが消え、実務家としての真摯な顔つきに戻った。
「彼らは、この艦娘というシステムの……建造、入渠、武器管制、はては航空機の操縦から弾着観測、進路の決定に至るまで、そのすべてを決定づけ、支えている根幹なのです」
「根幹……」
ヤンは完全にあっけにとられていた。
かつて彼が指揮した数万隻の宇宙艦隊は、高度な電子計算機と数百万人の将兵の血と汗によって制御されていた。その事実から見れば、この時代の人類が戦っている状況は、ひどく理不尽なファンタジーの世界である。砲弾を放つ艦娘の主砲の照準も、大空を駆ける艦娘の艦載機、その操縦桿を握るのも人間の兵士ではなく、この小さな妖精たちだというのだ。古典的な物理法則は完全に死に絶え、形而上学的な魔法が戦場の支配者となっている。
「OK、OK。まぁ、呑み込もう」
ヤンは両手を軽く上げ、降参のポーズをとった。
「現実に目の前にあるのだから、歴史家としては事実として受け入れるしかない。で、まぁ、ひとまずだ。妖精さんたち」
ヤンは足元の小さな作業員たちに向かって、再び口を開いた。
「現状、使われていないドックを増やしたり、並行して建造を行ったりすることは可能かね?」
ヤンの問いに対し、妖精たちは顔を見合わせ、なんとも微妙な、申し訳なさそうな態度をとった。
「ドックは増やせません。以前もご説明しましたが、縁が足らないのです」
大淀の補足に、妖精たちは「その通りだ」と言わんばかりに一斉に大きく頷いた。
「……そうか。しかし、その『縁』というのも……どこかに出向けば手に入るものなのかい?」
ヤンが尋ねると、妖精たちは力強く縦に首を振った。どうやら「縁」という概念は、この世界においては物理的に獲得可能なリソースの一種として認識されているらしい。
「どこで手に入る?」
そう聞くと、妖精たちは今度は揃って横に首を振った。
「……縁は手に入る。しかし、場所は不明か。全く、禄でもない。禄でも無いぞ」
ヤンはボサボサの黒髪をガリガリと掻き毟った。軍事戦略を立てる上で「必要な資源の場所がわからない」というのは、補給線の維持を至上命題とするヤンにとって最悪の条件である。
「まぁ、現状はわかった。無い物ねだりをしても仕方がない。では、現在のドックで、新たな艦娘の『建造』を行うことはできるか?」
そう言うと、妖精たちは全員が嬉しそうに頷き、わらわらと集まって何かを組み立て始めた。数秒後、彼らは小さな「手作りのボード」を掲げ、ヤンに向けて手渡してきた。
「おや、これは何かね?」
ヤンが顔を近づけてそのボードを覗き込むと、そこには極めてご丁寧に『艦娘建造方法』と記されていた。そこには、燃料、弾薬、鋼材、ボーキサイトという四種類の物資のイラストが描かれており、それらを「規定量」投入した後に、建造開始のボタンを押せば、あとは妖精たちが勝手に艦娘を建造してくれるという、驚くべきシステムが図解で示されていた。
「……なんとまぁ」
ヤンは首が痛くなるほど深く天を仰いだ。
緻密な設計図も、何万時間という工数計算も、複雑な冶金学も必要ない。ただ四つの資源を放り込み、あとは妖精とやらがボタン一つで兵器を「生み出す」というのだ。それはもはや軍事工業ではなく、結果の読めない神頼みの儀式――あるいは、悪質な賭博の類であった。
「兵站を整えれば勝てるという私の信念が、根本から揺るがされそうだ。……資源を投入してボタンを押すだけ。それで何が生まれるかは、神と妖精のみぞ知る、か」
「そういうことになりますね」
と、大淀は淡々と肯定した。
「やれやれ。私の知る人類史において、もっとも行き当たりばったりな軍備拡張計画だ。だが、手駒が増えなければ一ヶ月先の生存も危うい」
ヤンは手元の『建造方法』のボードを見つめ、長く、深い深呼吸をした。不敗の魔術師たる彼が、この非合理極まりない世界のルールを盤上の駒として受け入れ、いかにして理不尽な戦争を生き抜くか。その奇妙な戦いの幕開けを告げる火は、今、妖精たちの小さなドックの中で静かに燃え上がっていたのである。