病院へ運ばれたしおりは、思っていたよりずっとあっさりと「大きな問題はありません」と言われた。
救急外来の白い天井。
消毒液の匂い。
慌ただしく動く看護師の足音。
その全部が、対局場の熱を急に遠いものに変えていた。
しおりは診察台の上で毛布をかけられ、ぼんやりと目を開けていた。
身体はだるい。頭も重い。けれど、意識そのものはもう戻っている。
「知恵熱みたいなものでしょうね」
医師はカルテを見ながら、穏やかに言った。
「疲労と緊張が一気に出たんだと思います。今日は安静にして、水分をとって、しっかり休ませてください」
「ほんとにそれだけで……?」
真紀がまだ不安そうに訊く。
「はい。今のところ、危険な兆候はありません。熱が続いたり、別の症状が出たりしなければ大丈夫です」
その言葉を聞いた瞬間、恒一が大きく息を吐いた。
「よかった……」
いつになく本気で青ざめていた父親の顔が、そこでようやく少し緩む。
真紀も目元を押さえ、「ほんとにびっくりしたんだから」と涙声でしおりを見る。
しおりは、少しだけ気まずかった。
「……ごめん」
「謝らなくていいの」
真紀はすぐに首を振った。
「でも、無理しすぎ。絶対に無理しすぎ」
「そうだぞ。名人相手に倒れるまでやるやつがあるか」
恒一の言い方は半分怒っていて、半分泣きそうだった。
しおりは毛布の端を指先でつまみながら、小さく目を伏せた。
倒れるつもりなんてなかった。
ただ、止まれなかった。
あの一局の途中で、自分の中の何かが完全に熱を持ってしまっていた。
宗一郎の一手一手が重く、鋭く、容赦なく、だからこそ嬉しかった。
自分がいま、どこまで通用して、どこから通用しないのか。
それが盤の上で、残酷なほどはっきりと見えた。
だから、止まれなかったのだ。
◇
帰りの車の中、しおりは後部座席に座って窓の外を眺めていた。
夜の街は静かだった。
信号待ちで止まるたび、ガラスに自分の顔がぼんやり映る。頬はまだ少し赤い。
「今日はもう何も考えなくていいからな」
運転しながら恒一が言う。
「家帰ったらすぐ寝ること。タブレットもだめ」
「だめ」
真紀が即座に念を押す。
「絶対だめ。今日は将棋もだめ」
しおりは素直に「うん」と答えた。
本当なら、すぐにでも盤を並べたかった。
あの局面を、名人とのあの中盤を、最後の持将棋へ至る筋を、もう一度最初から全部確かめたかった。
けれど、いまは身体が言うことを聞かない。
まぶたの奥にまだ熱が残り、頭の芯がじんと鈍い。
それでも、思考だけは止まらなかった。
御門宗一郎。
現名人。
強かった。
前世で自分が知っていた名人たちより、ずっと。
少なくとも、いま小学生のしおりが盤越しに感じたものとしては、格段に重かった。
もちろん、単純比較はできない。
時代が違う。
研究環境が違う。
将棋そのものの速度と精度が、昔とはまるで違う。
それでも思ってしまう。
前世の頃の“名人”より、今の“名人”のほうが強い。
それは敗北感ではなかった。
むしろ逆だ。
胸の奥に、ぞくぞくするような熱が残っている。
(もっと強くなりたい)
その願いは、これまでだって何度も抱いてきた。
でも今日のそれは、前よりはっきりしていた。
もっと強く。
もっと速く。
もっと深く。
宗一郎に、今度は変則ではなく本当の勝負で食らいつけるところまで。
いや、食らいつくだけでは足りない。
勝負の土俵に立ちたい。
しおりはシートにもたれ、目を閉じた。
凛々花。
宗一郎。
ネット将棋。
大会。
全部が一本の線でつながっていく。
自分はまだまだ弱い。
無敗で勝ち続けていても、それはあくまで子どもの大会の中での話だ。
名人を前にした瞬間、その先に広がる世界の大きさを思い知らされた。
(勉強しなきゃ)
ただ指すだけでは足りない。
数をこなすだけでも足りない。
現代の将棋を、もっと正しく、もっと深く、自分の中へ入れなければならない。
そのために必要なのは――棋譜だ。
◇
それからのしおりは、前にも増して忙しくなった。
朝、学校へ行く。
授業を受ける。
宿題をする。
将棋教室へ通う。
大会があれば出る。
空き時間にはタブレットで対局をする。
そこにもうひとつ、新しい習慣が加わった。
棋譜並べ。
最初は父が不思議そうにしていた。
「これ、見てるだけで楽しいのか?」
テーブルの上には紙に印刷された棋譜。
その横に簡易盤。
しおりは無言で駒を動かしている。
「たのしい」
「対局アプリのほうが楽しくない?」
「べつ」
しおりは短く答えた。
実戦は実戦で必要だ。
だが、棋譜は別の意味で重要だった。
プロの一局には、自分がまだ知らない思考の線路が敷かれている。
なぜここでこの駒を引くのか。
なぜこの歩を打たずに残すのか。
なぜこの玉形で戦えるのか。
昔の感覚で「悪い」と切り捨てたくなる手が、今の将棋では好手になっていることもある。
逆に、前世で美しいと信じていた組み方が、現代では一手遅いこともある。
その差を埋めるには、現代の強者たちの足跡をなぞるしかない。
しおりは授業で習った漢字をノートに書くみたいに、棋譜を何度も並べた。
一回では足りない。
二回でも足りない。
三回、四回、五回と繰り返すうちに、ようやく一局の呼吸が身体へ入ってくる。
最初のうちは、真紀が心配した。
「勉強もちゃんとしてね?」
「してる」
「学校のこと、おろそかにしないでよ」
「しないよ」
実際、しおりは学業もきちんとこなした。
将棋のために学校を捨てる気はなかった。
勉強そのものも、嫌いではない。
算数は論理の訓練になる。
国語は言葉の精度を上げる。
歴史や理科でさえ、知らないものを構造で覚える点では将棋に近い。
何より、学校を疎かにすれば両親が将棋への理解を引っ込めるかもしれない。
それは避けたかった。
だからしおりは、学ぶ。
学校でも。
盤の上でも。
どちらもきちんと取りにいく。
◇
六年は、長いようで短かった。
小学一年生だったしおりは、二年生になり、三年生になり、四年生になった。
身体は少しずつ伸び、声もはっきりしていく。
髪を結ぶ手つきも、ランドセルを背負う姿も、いつの間にか“幼女”という言葉だけでは収まらなくなっていった。
けれど盤の前では、相変わらずだった。
いや、相変わらずどころではない。
もっと厄介になった。
大会に出る。
勝つ。
次の大会でも勝つ。
学年別でも、オープンでも、交流戦でも、勝つ。
しおりの名前は地方紙の将棋欄に定着し始めた。
小さな記事。
結果一覧。
ときには写真つき。
天羽しおり、優勝。
また優勝。
連続優勝記録更新。
凛々花も、もちろん強くなっていた。
強く、しなやかに、着実に。
受けも攻めも研がれ、以前よりずっと完成度の高い将棋を指すようになった。
それでも、しおりには届かない。
決勝で当たる。
中盤まで凛々花が優勢に見える。
終盤、しおりが薄い勝ち筋を拾う。
最後は一手差。
そんな将棋が、何度も繰り返された。
凛々花は折れなかった。
しおりも止まらなかった。
何年も同じ相手と決勝で当たり続けるうちに、二人の間には奇妙な信頼まで生まれた。
友達と呼ぶには、もっと柔らかいものが足りない。
ライバルと呼ぶには、それだけでは足りない。
盤の上で互いを一番よく知り、一番嫌い、一番認めている相手。
それが御門凛々花だった。
◇
小学校高学年になるころには、しおりはもう教室の中で完全に浮いた存在になっていた。
誰も、まともに勝てない。
昔のように「どうせ負けるし」と対局を避ける子もいれば、逆に腕試しとして当たりたがる子もいた。
だが、どちらにせよ結果は変わらない。
しおりは負けない。
教室の先生たちも、もう「同年代と指して学ぶ段階は越えていますね」と言うようになった。
大人との練習。
上の世代との交流。
遠征。
研究会。
進む場所が変わっていく。
しおりはその流れを当然のように受け入れた。
前世でも、強くなれば環境は変わる。
むしろ変わらなければ困る。
ただ、両親の不安は完全には消えなかった。
「ほんとにこの子、将棋しかしてないわね……」
夕食後、真紀がしみじみ言う。
しおりは食卓の端で学校のプリントを片づけ、その横に棋譜集を広げていた。
「勉強もしてるだろ」
「そういう意味じゃなくて」
「ともだち?」
「そう、ともだち」
恒一は少しだけ考え、それから苦笑した。
「まあ……いないわけじゃないんだろ?」
「学校では、普通に話してるみたいだけどね」
「でも休みの日に遊ぶとか、そういうの全然ないし」
しおりは聞こえているのに、聞こえないふりをした。
友達がいないわけではない。
話す相手もいる。
学校で一緒に係をやったり、給食の時間に話したりもする。
ただ、休日に一緒に遊ぶより、盤の前にいるほうを選ぶだけだ。
それはたぶん、普通ではない。
両親が不安になるのも分かる。
でも、自分の中の優先順位は変えられなかった。
遊ぶより、指したい。
指すより、学びたい。
学んだら、また試したい。
その循環の中にいると、他の時間は自然と後ろへ下がっていく。
◇
時は流れる。
春が来て、夏が過ぎ、秋の大会で優勝し、冬にまた棋譜を並べる。
学年が上がる。
ノートの字が丁寧になる。
将棋の手はさらに鋭くなる。
しおりは現代将棋に食らいつき、前世の自分を乗り越えようとしていた。
定跡の変化。
中盤の速度。
終盤の正確さ。
ネット将棋で浴びた早い手。
プロの棋譜から吸い込んだ発想。
凛々花との激戦で磨かれた実戦感覚。
それら全部が、少しずつ一つの将棋へ混ざっていく。
天羽しおりの将棋。
元竜王の記憶だけでもない。
現代のコピーでもない。
何百局、何千局という実戦と研究と執念の果てに、自分だけの輪郭ができ始めていた。
そして気づけば――六年。
病院で知恵熱だと言われたあの夜から、早六年が過ぎていた。
◇
中学校の入学式の日。
しおりは鏡の前で、新しい制服の襟を指で整えていた。
セーラー服。
紺のスカート。
小学校の頃より少しだけ大人びた自分の姿が、鏡の中に映っている。
まだ幼さは残る。
けれど、もう「小さな天才少女」とだけ呼ばれる時期も終わりつつあった。
「似合ってるじゃない」
真紀が後ろから笑う。
「中学生って感じする」
「する?」
「するする。急にお姉さんっぽい」
恒一も腕を組んでうんうん頷く。
「いやー、早いなあ。ついこの前まで熱出して倒れてたのに」
「その言い方やめて」
真紀が苦笑する。
しおりも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
あの日から六年。
自分は成長した。
身体も。
将棋も。
心も――少なくとも少しは。
凛々花もきっと同じだ。
もう子どもの大会を総取りして終わる時期ではない。
この先はもっと広く、もっと重く、もっと残酷な勝負が待っている。
奨励会。
プロへの道。
そしてその先にある、竜王への挑戦。
全部が、まだ遠い。
でも、以前よりはっきり見えている。
「しおり」
真紀が優しく呼ぶ。
「入学、おめでとう」
「おめでとう」
恒一も続く。
しおりは二人を見て、小さく頷いた。
「……ありがとう」
その言葉は、盤の上とは違う種類の重みを持っていた。
支えてくれた。
心配してくれた。
ときに止めようとしながらも、結局は背中を押してくれた。
この六年を、自分ひとりで勝ち抜いたわけではない。
しおりは玄関で靴を履き、鞄を手に取る。
その手つきは落ち着いていた。
中学生になる。
ただ学年が変わるだけではない。
次の景色へ入る合図だ。
将棋の世界は、ここからさらに厳しくなる。
同年代の怪物たちも増えるだろう。
凛々花もまた、今まで以上に鋭く食らいついてくるはずだ。
でも、望むところだった。
しおりは扉を開け、春の光の中へ出る。
新しい制服の裾が、わずかに揺れた。
もっと強くなる。
もっと先へ行く。
名人の強さを知ったあの日から続いている渇きは、まだ少しも満たされていない。
だから進む。
学校へも。
将棋へも。
竜王へ至る、まだ長い長い道へも。
天羽しおり、中学一年生。
しおりの物語は、まだ終わらない。
### あとがき
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それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!