天羽しおりが将棋部に入ってから、部室の空気は少しずつ変わっていた。
待ったはなくなった。
対局前後の礼が戻った。
一局終われば、そのまま駒を崩して終わりではなく、どこが悪かったかを最低ひとつは言葉にするようになった。
とはいえ、たった数日やそこらで全部が別物になるわけでもない。
坂本は相変わらず負けると顔に出るし、佐原は詰将棋の本を開いても三問目あたりで露骨に飽きる。部長の黒田は以前よりずっと真面目に部を回すようになったが、それでも「学校の部活」としての緩さまでは消し切れない。
だからこそ、しおりは容赦しなかった。
「坂本先輩、それ、受けになってない」
「またかよ!」
「まただよ」
「言い方!」
「事実」
そんなやり取りが、もはや日常になっていた。
最初の一悶着の日から一週間。
黒田は、半ば本気、半ば意地で、しおりに再び三面指しを頼んだ。
「またやるの?」
しおりが言うと、黒田は腕を組んだままうなずいた。
「部の現状確認だ」
「言い方それっぽいけど、ただの再挑戦でしょ」
「うるさい」
「坂本先輩は?」
「今日は勝つ」
坂本がすぐに噛みつくように言った。
前回ぼろ負けしてから、彼は一番分かりやすく変わった。
負けず嫌いに火がついたのだろう。昼休みにも詰将棋を見ている姿があったし、佐原を相手に延々と練習将棋をしている日もあった。
悪くない変化だと、しおりは思っている。
うるさいし、雑だし、すぐ熱くなるが、盤の前で諦めない人間は嫌いではない。
その日の三面指しは、最初の時ほど一方的ではなかった。
坂本は以前みたいに感情だけで突っ込んでこない。
佐原も、形が崩れた瞬間に止まる悪癖を少しずつ修正し始めている。
黒田に至っては、しおりが嫌がるタイミングで戦いを起こすことを覚え始めていた。
しおりは三つの盤の間を静かに動きながら、その変化をちゃんと感じていた。
(前より、ずっといい)
もちろん、まだ弱い。
けれど“勝負”になり始めている。
だから、この三面指しにも意味があった。
◇
駒音が続く。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
坂本の盤では、しおりが右辺の薄みを突いてじわじわと差を広げる。
佐原の盤では、受けの一手を強要しながら相手の攻め筋そのものを鈍らせる。
黒田の盤では、互いに踏み込みの間合いを測り合い、中盤の入口で火花を散らしていた。
「うわ……またそこか」
坂本が顔をしかめる。
「前もそれでやられたよね」
「覚えてるなら受けて」
「言うのは簡単なんだよ!」
「やるのが将棋」
女子部員の西野が壁際で苦笑した。
「相変わらず容赦ないなあ、しおり」
「先輩だからって手加減したら失礼でしょ」
「それを本人たちの前で言う?」
しおりは首を傾げる。
「だめ?」
「だめではないけど、刺さる」
そのときだった。
襖が、すっと開いた。
「おや」
落ち着いた声が、和室の入口からした。
部員全員の視線がそちらへ向く。
立っていたのは四十代半ばくらいの男だった。
細身で、眼鏡をかけ、スラックスにワイシャツといういかにも教師らしい格好をしている。胸元には職員室の名札をつけたままだ。
将棋部顧問、三枝修一。
この学校では国語を担当していて、囲碁将棋に明るいという理由で顧問を任されている。
ただし、本職の忙しさもあって部に毎回顔を出すわけではない。顔を出しても最初と最後だけ、という日も多い。
しおりが入部してから、まだちゃんと話したことはなかった。
その三枝が、部室の光景を見て足を止めていた。
「……何をしているんだ、君たち」
声音は穏やかだが、目は明らかに面食らっていた。
それもそのはずだった。
和室の中央で、見慣れない一年女子が三つの盤を相手に立っている。
向かいには坂本、佐原、黒田。
しかも様子を見る限り、遊びではない。三人とも真剣そのもので、盤の前の空気がいつになく重い。
黒田が顔を上げた。
「あ、先生」
「黒田、説明してくれるか」
「はい。ええと……三面指しです」
「見れば分かる」
珍しく三枝の返しが早かった。
黒田が少しだけ気まずそうに咳払いする。
「その、今やってるのは一年の新入部員で」
「一年?」
三枝の目が、しおりへ向く。
しおりは自分の手番を終えてから、入口へ向かってきちんと頭を下げた。
「一年の天羽しおりです」
「……天羽?」
三枝の眉が、ぴくりと動いた。
どこかで聞いた名前だった。
しかも、将棋の文脈で。
「先生、この子やばいんですよ」
坂本が盤から目を離さないまま言う。
「やばいって何」
しおりがすぐ返す。
「褒めてんだよ!」
「語彙が弱い」
「うるさい!」
西野が苦笑しながら補足する。
「この前、入部初日に三面指しを自分から要求して、坂本先輩たち三人まとめて倒したんです」
「自分から?」
三枝が聞き返す。
黒田が頷いた。
「しかも、こっちが受けた形です」
「ほう……」
三枝は改めて、しおりを見た。
小柄な一年生。
顔立ちはまだ幼い。
けれど目だけが妙に静かだった。
そこで、三枝の記憶の底に引っかかっていたものが、ようやく形を結ぶ。
天羽しおり。
その名を、彼は何度も新聞の地方欄で見ていた。
小学生大会。
交流戦。
地区選抜。
県大会。
低学年の部。
高学年の部。
オープンクラス。
どこを見ても、結果欄の一番上にいる名前。
「……まさか」
三枝が小さく呟く。
「君が、天羽しおりか」
しおりは少しだけ首を傾げた。
「そうだけど」
それが引き金だった。
頭の中で、断片だった記憶が一気につながる。
小学時代に付けられたあだ名。
覇王。
大げさな呼び名だと思った。
だが、戦績を見れば笑えない。
参加大会数、三百超。
しかも、その全てで優勝。
県内どころか近隣地区まで含めて、アマチュアの子ども大会を総なめにした怪物。
さらに年齢制限を超えて一般アマの大会へも食い込み、ついにはアマチュア竜王戦でも優勝したという噂まで回っていた。
読売新聞社と日本将棋連盟共催のアマチュア竜王戦は、アマの大舞台として十分すぎる重みがある。
そこで勝った子どもがいる、と聞いたとき、三枝はさすがに半信半疑だった。
だが目の前の名前が、その噂の中心にある名と一致してしまう。
「先生?」
黒田が訝しげに呼ぶ。
三枝は、ようやく口を開いた。
「……君たち、この子のこと、どこまで知ってる?」
「え?」
坂本が顔を上げる。
「どこまでって……めちゃくちゃ強い、くらいですけど」
「くらい、じゃない」
三枝の声は、教師のそれというより、戦績を知る者の戸惑いに近かった。
「天羽しおり。小学生時代のあだ名は『覇王』だ」
和室の空気が、ぴたりと止まる。
「はおう?」
西野が目を瞬かせる。
佐原が思わず盤から顔を上げた。
「ちょっと待って、何それ。漫画?」
「こっちも最初はそう思った」
三枝は苦く笑った。
「だが、戦績を見ると笑えない。参加大会数は三百を超えている。しかも……」
一拍。
「全部、優勝だ」
沈黙。
坂本が、ぽかんと口を開けた。
佐原の手から駒が一枚こぼれ落ちる。
黒田でさえ、さすがに言葉を失った。
「ぜ、全部?」
西野がようやく絞り出す。
「三百回以上出て?」
「私が把握している範囲では、そうだ」
三枝はしおりから目を離さないまま答えた。
「小学生の学年別大会はもちろん、上級生混合のオープンクラスでも勝ち続けた。一般アマの強豪がいる大会に顔を出したこともある。最近ではアマチュア竜王戦にも参加して――優勝している」
「は?」
今度は坂本の声が裏返った。
「ちょ、待ってください先生。アマ竜王って、あのアマ竜王ですか?」
「その、あのアマ竜王だ」
「いやいやいや!」
坂本が思わず立ち上がりかけ、盤を見て慌てて座り直す。
「なんでそんなのが中学の将棋部にいるんですか!?」
「わたしも中学生だから」
しおりが平然と返した。
「そういう問題じゃねえ!」
珍しく佐原まで同調する。
「いやだって、そんなの聞いてない!」
「聞かれてないから」
「そういうことじゃなくて!」
三枝は額を押さえたくなった。
目の前で起きていた光景の意味が、今になってようやく重さを持ってくる。
見慣れない一年生が三面指しをしていた。
ではない。
アマチュア界の怪物が、学校の放課後の部室で、当然のように三面指しをしていたのだ。
「それで……」
黒田がどうにか声を出す。
「先生、さっき言ってた“噂”って」
「ああ」
三枝は頷いた。
「アマ竜王優勝者には、その後の竜王戦にアマ枠でつながる道がある。だが天羽は、日程だか何だかの都合で辞退したと聞いた」
「辞退?」
西野が信じられないという顔をする。
「もったいなくない?」
「中学の予定とか、いろいろあったから」
しおりはあっさり言った。
その言い方が、かえって部員たちには恐ろしかった。
もったいない。
惜しい。
夢の舞台。
普通ならそう騒ぐはずのものを、この一年生は「予定が合わなかったから」で片づける。
将棋に人生を賭けていない者には出てこない温度だった。
「……怪物じゃん」
坂本が今度こそ本気で呟いた。
「だから言ったでしょ」
西野が苦笑する。
「うちら、えらいのに喧嘩売ってたんだよ」
「いや、売られたんだよ最初に!」
「どっちでもいいよ」
しおりが静かに言う。
「まだ終わってないし」
全員の目が、盤へ戻る。
そうだった。
いまはまだ対局中だ。
しかも、その怪物本人は、まるで周囲の騒ぎなど関係ないという顔で三面を回している。
三枝はその姿を見て、背筋に薄いものが走るのを感じた。
新聞の文字だけでは分からなかった。
戦績だけでも足りなかった。
目の前で見て初めて分かる。
この子は、強いだけではない。
勝つことが自然になっている。
勝敗への距離感そのものが、普通の中学生と違う。
◇
「先生」
しおりが黒田の盤の前で止まったまま言った。
「見てるなら静かにして」
三枝は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……あ、ああ。すまん」
顧問に向かってその口調。
普通なら咎めてもいい。
だが三枝はむしろ、妙な納得を覚えていた。
盤の前のこの子には、教師も先輩もあまり関係がないのだろう。
しおりは次の一手を置く。
ぱち。
黒田の顔が引き締まる。
受けが難しい一手だった。
坂本も、佐原も、三枝の話を聞いてから明らかに手が硬くなっていた。
相手がただ強い一年ではなく、アマチュア界で覇王と呼ばれた存在だと知ってしまったのだ。平常心でいられるほうがおかしい。
しおりはそんなことも見抜いているようだった。
「坂本先輩」
「な、なんだよ」
「動揺しすぎ」
「するだろ普通!」
「しないで」
「無茶言うな!」
西野が吹き出した。
三枝も思わず口元を押さえる。
恐ろしい戦績を聞かされた直後なのに、この一年生は何一つ態度が変わらない。
自分が怪物として見られることに慣れきっているのか、それとも本当に興味がないのか。
たぶん両方だろう。
数分後。
最初に坂本が崩れた。
「……負けました」
いつもより投了の声が小さい。
だが、その表情には以前ほどの荒さがなかった。ただ純粋に、悔しさと納得が混ざっている。
続いて佐原。
最後まで粘った黒田も、終盤で差を広げられて頭を下げた。
三面指し、再び全勝。
三枝は黙ってその終局を見届けた。
覇王。
小学生三百戦超全勝。
アマ竜王優勝。
竜王戦辞退。
噂や活字だったものが、いま盤の上で現実になった。
「……信じられん」
思わず漏れた言葉に、しおりが視線だけ寄越す。
「なにが」
「君がここにいることだよ」
三枝は正直に言った。
「もっと別の、特別な研究会や道場の中心にいるものだと思っていた」
「いるよ」
しおりはあっさり返した。
「でも学校にも来る」
「なぜだ」
「中学生だから」
またそれだ、と坂本が遠い目をした。
だが三枝には、その返答が妙に腑に落ちた。
この子は特別だ。
なのに、本人の中ではそれが特別扱いの理由になっていない。
学校へ行く。
部活へ出る。
大会へ出る。
勝つ。
それが一本の線でつながっている。
怪物なのに、日常の中にいる。
それが何より異様だった。
◇
三枝はゆっくりと和室の中を見回した。
坂本。
佐原。
黒田。
西野。
全員がさっきまでとは違う顔をしている。
ただ強い一年が入ってきた、ではない。
自分たちの部室に、とんでもない基準が持ち込まれてしまったのだと、ようやく理解し始めている顔だ。
「黒田」
「はい」
「悪いが、今後はこの子を中心に練習を組んだほうがいい」
「え」
「もちろん、全部を合わせる必要はない。だが少なくとも、部の基準は引き上がる」
黒田は一瞬迷ってから、しっかり頷いた。
「はい。俺もそう思ってました」
「坂本」
「はい」
「悔しいか」
「めちゃくちゃ」
「なら、いい」
三枝はそう言ってから、もう一度しおりを見る。
「天羽」
「なに」
「いや……」
三枝は少しだけ笑った。
「入部を歓迎する。今さらだが」
しおりは数秒だけ黙り、それから小さく頷いた。
「うん」
短い返事だった。
だが、それで十分だった。
顧問は理解した。
この部は、今日から本当に変わる。
中学の将棋部に、覇王が入ったのだから。
### あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
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また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!