ベスト8決めを終えた一行を乗せたバスが、夜の街を静かに滑っていく。
窓の外には見知らぬ土地の明かりが流れていた。コンビニの白い照明、遠くに見える高架道路の赤いテールランプ、ホテル街の整った灯り。そのどれもが、昼間の熱気をどこか遠いものに変えていく。
だが、しおりの中ではまだ終わっていなかった。
今日の対局の一手一手が、脳の奥でまだ音を立てていた。角を切った瞬間の呼吸。終盤で相手の指先が止まった時間。読みの分岐。相手校の選手たちが、自分の顔を見た瞬間に浮かべた絶望。全部が、まだ盤の上に残っている。
ホテルに着くころには、他の部員たちはさすがに疲れの色を隠せなくなっていた。
「やっと休める……」
黒田がそう漏らし、肩を回す。坂本もネクタイ代わりの学校指定リボンを少し緩めながら、深く息を吐いた。
だが。
「じゃあ、三十分だけ」
部屋に入るなり、しおりはそう言った。
「……は?」
坂本が振り向く。
「三十分だけ、指そう」
その声音は、まるで夕食後に少し散歩でもしようかと言う程度に自然だった。
「いや待て。今日何局指したと思ってるんだ、お前」
「本番は三局」
「“本番は”って何だよ」
「感想戦を入れても、まだ指せる」
真顔で答えるしおりに、黒田が半ば呆れ、半ば感心したように笑った。
「指せるの意味が違うんだよな、しおりは……」
用意された部屋は四人部屋だった。壁際に並んだベッド、中央の小さなテーブル、テレビ台、窓際の丸テーブル。大会参加校向けに確保された宿泊部屋らしく、機能的で清潔だが飾り気はない。
その飾り気のない空間の中央に、しおりは迷いなく将棋盤を二面並べた。
さらに、持参していたタブレットをスタンドに立てる。
黒田がその手元を見て眉をひそめた。
「おい、まさか」
「うん」
「二面+タブレット?」
「三面」
「人間二人と端末一台を同時に、って意味か?」
「そうだけど」
「そうだけど、じゃない」
坂本が額を押さえた。
「お前、それを普通みたいに言うな」
しおりはもう座布団の位置を整えている。まるで最初から全員が当然つき合うものだと決めているような手際だった。
「部長、黒田先輩。お願いします」
「いや、お願いされる側なんだが」
「明日のためでもあるよ」
しおりは盤面も見ずに駒袋を開けながら続けた。
「ホテルに入ってから何もしないと、頭が鈍る。今日の疲れを残したまま寝ると、明日の一局目で読みが遅れる。だから、軽く回してから寝たい」
軽く。
その言葉の定義が、この少女だけ根本的に違う。
黒田は坂本と顔を見合わせた。
「……どうする、部長」
「どうするも何も、もう断れる空気じゃないだろ」
「だよなあ」
結局、二人はそれぞれ盤の前に座った。
しおりは中央に座る。左に坂本、右に黒田、正面にタブレット。
タブレットの画面では将棋アプリがすでに起動していた。オンライン対戦ではなく、強度を上げたAI戦。音を切ってあるらしく、画面だけが青白く光っている。
「ちょっと待て」
坂本が指を一本立てた。
「タブレットの相手、どのくらいの強さだ」
「今日は少し抑えてる」
「少しって?」
「アマ高段くらい」
「それで“抑えてる”のかよ……」
しおりはようやく小さく笑った。
その笑みは挑発でも自慢でもない。ただ事実を言っただけ、という顔だった。
「始めましょう」
先手後手を決め、三つの対局が一斉に始まる。
ぱちり。
ぱちり。
こと。
駒音が、ホテルの静かな一室に小気味よく重なった。
最初の数手は穏やかだった。坂本は居飛車、黒田は振り飛車、タブレットのAIは角換わり志向。意図して別々の形に誘導しているのだろう、しおりはそれぞれに異なる表情で応じていく。
坂本の盤では早いタイミングで銀を繰り出し、圧をかける。
黒田の盤では不用意に前へ出ず、相手の捌きを見ながら陣形を締める。
タブレットには一切の迷いなく最善手らしき応手を返し、機械の速度に人間離れしたテンポで食らいつく。
「おい……」
黒田がぼそりと呟く。
「本当に見えてるのか、三つ同時に」
「見えてるよ」
「こっち銀上がった直後に、もう坂本先輩の歩を突く意味考えてただろ」
「考えてた」
「で、タブレットの桂跳ねにも対応してる」
「うん」
「気持ち悪いな」
「褒め言葉として受け取る」
淡々と返しながら、しおりは坂本の盤に歩を合わせた。
その手を見て、坂本の眉がわずかに動く。
「……そこか」
「受けないと、次が痛いから」
「わかってる。だが、三面でその精度かよ」
部長である坂本は、部内では最も安定感のある実力者だった。大会でもチームを支えてきた男であり、精神的な柱でもある。だが、その坂本ですら、しおり相手に盤を挟むと自分の読みが一段粗く感じられてしまう。
受けの一手を強いられた瞬間、流れを持っていかれたのがわかる。
右では黒田が美濃囲いを完成させつつ、反撃の機を窺っていた。
正面ではAIが一直線に最善へ迫ってくる。
それでも、しおりの呼吸は乱れなかった。
まるで三つの別々の川を、同時に同じ掌でせき止めているようだった。
十分ほど経った頃には、すでに差が出始めていた。
黒田の盤では、振り飛車側がさばけたように見せかけた瞬間に角筋を通され、薄いところへ圧力をかけられる。
「やば……」
「まだ大丈夫です」
「お前に“大丈夫”って言われると怖いんだよ」
坂本の方はもっと深刻だった。中盤の入り口でうまく手を作ったつもりが、気づけば玉頭に嫌な形を作られている。直接の詰み筋ではない。だが、進めば進むほど呼吸が苦しくなる類の将棋だ。
しかも、しおりはその状態を保ったまま、タブレットの相手にもまったく遅れない。
盤面だけでなく、局面ごとの温度が違う。
坂本の将棋には“人間の迷い”がある。
黒田の将棋には“勢い”がある。
AIには“容赦のなさ”がある。
その全部を、しおりは別々に捌いていた。
「なあ」
不意に坂本が言った。
しおりは黒田の盤に金を寄りながら、視線だけで応じる。
「何ですか、部長」
「前から聞こうと思ってた」
次の瞬間、しおりはタブレットに一手返し、さらに自分の盤へ指を戻した。まるで会話のために読みが鈍ることなどありえない、と言わんばかりの自然さだった。
「お前の経歴だよ」
坂本は駒台に指をかけたまま続ける。
「顧問から聞いた。小学時代の異名、“覇王”。大会参加数三百超。しかも全部優勝。アマ竜王でも優勝。そんなやつ、普通ならとっくに奨励会だろ」
黒田も、その問いには手を止めた。
聞きたかったのだろう。
当然だった。
しおりほどの実力がある人間が、なぜまだアマチュアにいるのか。
なぜ学校の将棋部などという場所にいて、地区予選などで同世代を薙ぎ払っているのか。
もっと上へ、もっと早く行けたはずなのに。
しおりは少しだけ考えるように目を細めた。
だが、その返答自体は驚くほどあっさりしていた。
「単純ですよ」
ぱちり、と坂本の盤に歩を打つ。
「親が心配症だからです」
「…………は?」
坂本が間の抜けた声を出す。
黒田もきょとんとした。
「いや、待て。もっとこう……何かあるだろ。制度が合わないとか、プロに興味がないとか、別の目標があるとか」
「ありますよ、目標は」
しおりは今度はタブレットに視線を向け、間髪入れずに銀を引いた。
「でも、奨励会に入らない理由はそれです。お父さんもお母さんも、すごく心配性だから」
そこでようやく、しおりは少しだけ柔らかい顔をした。
「小さいころ、倒れたことがあって。それ以来、無理をさせたくないってずっと思ってる。大会に出るのは応援してくれるけど、生活が将棋だけになるような環境は、まだ早いって」
「……それで中学卒業までは」
「はい。せめて中学を卒業するまでは、アマチュアの世界にいるつもりです」
言い方は淡々としていた。
だがそこには、親への反発も、諦めもなかった。
ただ受け入れている。
自分を思って言ってくれる言葉だと知っているから。
そのうえで、今いる場所でできる限りの最短距離を走ろうとしているから。
坂本はしばらく何も言えなかった。
目の前にいるのは、怪物だと思っていた。
将棋盤の前では感情を削ぎ落とし、容赦なく急所をえぐり、年齢も格も常識も踏み越えていく、ただ勝つためだけの存在。
だが今の答えはあまりにも普通で、あまりにも年相応ではない“家族の中の子ども”の答えだった。
黒田がぽりぽりと頬を掻く。
「……なんか、ちょっと安心した」
「何がですか」
「いや、お前にも一応そういう、人間っぽい理由あるんだなって」
「失礼ですね」
「人間っぽくない将棋してるやつが何言う」
わずかに、部屋の空気が緩む。
緊張で張り詰めていた夜の糸が、ほんの少しだけほどけた。
しかし、その瞬間だった。
「――詰めろです」
しおりが言った。
「へ?」
「坂本先輩、次に受けを間違えると詰みます」
「うそだろ」
「黒田先輩も、そっちは三手後に寄ります」
「おい待て、今ちょっといい雰囲気だったろ!」
「将棋に雰囲気は関係ないので」
「あるだろ、人間には!」
叫びながら坂本が盤面を見下ろす。
見る。
読む。
さらに読む。
そして、血の気が引いた。
「……本当だ」
玉の逃げ道が、いつの間にか削られている。
露骨な寄せではなかった。だが、歩一枚、金の位置、角筋、持ち駒。全部が静かに噛み合って、受けを間違えた瞬間に終わる形が出来上がっていた。
「いつからだ……」
「さっき銀を引いた手の前からです」
「その頃まだ俺、攻めてる気でいたぞ……」
「攻めさせてただけです」
あまりにも平然と告げられ、坂本は唸るしかない。
右では黒田がさらに呻いていた。
「こっちもだめだ。全然さばけた気がしない。なんで振り飛車側がこんなに窒息するんだよ」
「攻める場所を先に消しました」
「簡単に言うな……」
正面ではタブレットのAIが粘り強く最善を重ねてくる。人間ならため息をつく局面でも、機械は無表情に正解だけを返す。
しおりはそれを受け止めながら、さらに両脇の二人を締め上げていく。
もはや三面指しではない。
三つの世界を同時に支配しているようだった。
十五分後。
最初に投了したのは黒田だった。
「負けた」
潔く頭を下げる。
「完敗。途中まで形は作れたと思ったのに、全部読まれてた」
「ありがとうございました」
しおりは一礼だけ返し、すぐ坂本の盤へ意識を寄せる。
坂本は最後まで粘った。部長の矜持があった。ここであっさり投げるわけにはいかないという意地もあった。
だが、その意地すらも、しおりは読んでいた。
「部長」
「……なんだ」
「その受けだと、七手詰です」
「……別の受けなら」
「九手詰です」
「長くなるだけかよ」
「はい」
坂本は天井を仰いだ。
数秒の沈黙。
それから、ゆっくりと頭を下げる。
「負けた」
「ありがとうございました」
二人目の投了。
残るはタブレットだけだった。
黒田と坂本は、そのまましおりの正面へ回る。画面に映る局面を見て、同時に顔をしかめた。
「まだこれやってたのか……」
「いや、むしろここからが本番みたいな盤面なんだが」
AIは人間の気遣いを知らない。
疲れも知らない。
遠慮もない。
ただ最善だけを積み重ねてくる。
しおりは小さく息を吸い、画面を見つめた。
昼間のチーム戦とは違う孤独がそこにはあった。人間相手ではない。感情も、癖も、ためらいもない相手だ。読みの純度だけが問われる。
だが、しおりの口元はわずかに上がっていた。
楽しそうだった。
「まだいけるのかよ……」
坂本が呆れたように言う。
「はい」
「疲れてないのか」
「疲れてます」
「じゃあ何でそんな顔してる」
しおりは画面から目を離さずに答えた。
「明日、もっと強い相手が来るからです」
その一言で、部屋の空気がまた変わった。
ベスト8に残った学校。
そこにいるのは、今日を勝ち抜いた連中だけだ。
当然、どこも一筋縄ではいかない。
しかも、しおりの存在はすでに警戒されている。明日は“しおりで一勝計算される”どころか、“しおり以外をどう刈るか”まで含めて対策されるだろう。
その包囲網を、しおりはわかっている。
わかっていて、なお高揚していた。
「……奨励会に行かなくても」
坂本がぽつりと呟く。
「お前は、もう十分おかしいよ」
「褒めてます?」
「最大級にな」
黒田も笑った。
「でもまあ、わかったよ。中学卒業までアマチュアにいるってんなら、その間だけでも同じチームでいられるのは得だな」
「得、ですか」
「そりゃそうだろ。こんなの、普通は同じ学校にいねえ」
しおりはその言葉に、ほんの少しだけ目を細めた。
それは照れ隠しにも似た、短い沈黙だった。
そして次の瞬間。
こと。
タブレットへ、一手。
盤面が跳ねた。
「……あ」
黒田が息を呑む。
「その手、踏み込むのか」
「ここしかないので」
AIの陣形の急所へ、一直線に刃を入れる一着だった。安全ではない。むしろ危うい。少しでも読みを外せば、即座に反撃を浴びる。
だが、だからこそ相手の計算を狂わせる。
しおりは、その危うさの中心に自分から踏み込んでいく。
画面の相手が即応する。
しおりも即応する。
さらにAI。
さらにしおり。
数手の応酬。
そして、ついに画面の表示が切り替わった。
**あなたの勝ちです**
沈黙。
数秒遅れて、黒田が声を上げた。
「勝った……!」
「マジかよ……」
坂本も息を吐き、額を押さえた。
三面指し。
二人の先輩を下し、最後に高段設定のAIまで倒し切る。
それをやってのけた本人だけが、何事もなかったかのようにタブレットを閉じた。
「もう寝ましょう」
「お前なあ!」
「明日がありますから」
正論すぎて、誰も言い返せない。
しおりは立ち上がり、盤上の駒を片づけ始めた。駒を一枚一枚袋へ戻す手つきは丁寧で、試合中の鋭さとは違う静けさがあった。
坂本はその横顔を見ながら、ふと思う。
この少女は、まだ中学一年生だ。
親に心配される年齢で、夜にはホテルの一室で将棋を指し、明日のことを考え、同時にもっと遠い未来も見ている。
奨励会に行かないのではない。
今は、行かないだけだ。
まだアマチュアの側にいる。
だが、それは留まっているという意味ではない。
むしろ、どこにいても進み続けるという宣言に近かった。
「しおり」
坂本が呼ぶ。
「はい?」
「明日も勝つぞ」
しおりは一瞬だけ手を止め、それからまっすぐ頷いた。
「当然です」
その答えに迷いはなかった。
窓の外では、見知らぬ街の夜が更けていく。
ホテルの廊下は静まり返り、遠くでエレベーターの音だけが微かに響いた。
明日、地区代表が決まる。
そこで待つのは、今日以上の重圧と、今日以上の包囲だろう。
しおりを知る者は、誰もが彼女を避けられないと理解している。
そして、しおりもまた知っている。
避けられないなら、
盤の上で、
全部ねじ伏せるだけだと。
消灯後、部屋が暗くなっても、しおりの目だけはしばらく閉じなかった。
昼の棋譜。
さっきの三面指し。
タブレットの終盤。
明日ぶつかるであろう知らない相手の形。
無数の盤面が脳裏を流れ、その全部が一点へ収束していく。
――まだ足りない。
もっと強く。
もっと深く。
もっと先まで。
静かなホテルの夜の中で、少女の飢えだけが、眠ることなく燃え続けていた。
### あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、**お気に入り登録**や**評価**をしていただけると、とても励みになります。
また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!