夜の闇を、色とりどりの灯りが照らしていた。
通りを行き交う人々は、人種も服装もばらばらで、纏う時代や国柄にまるで統一感がない。しかも、その大半がどこか生気の薄い顔をしている。
そんな、この世のものとは思えぬ街を、ひとりの老人が場違いなほど気軽な足取りで歩いていた。
五十代半ばほどに見える、白髪の男。
ストライプのスーツに虎柄のシャツという、どう見ても堅気には見えぬ格好をしたその老人は、まるで夜の盛り場でも冷やかすような顔で、異形の街を散歩していた。
「────────────!」
次の瞬間、街のどこかから叫び声が響いた。
「うん?」
老人は足を止め、わずかに眉をひそめて声のした方を振り向いた。
「………………」
周囲の大半は無反応だった。
あるいは、厄介事を避けるように、それとなく目を逸らしている。
そんな中、その老人だけは、面白い見世物でも見つけたかのような顔で、嬉々とした足取りのまま声のした方へ向かった。
進むにつれ、周囲の空気は少しずつ色を変えていく。
老人自身に縁のある場所ではない。
だがその一帯は、どこか昔のニューヨークのビル街を思わせた。
やがて声の主らしき場所へたどり着く。
そこでは、小柄な老人と筋骨隆々の大男が、ひとりの長髪の男を相手に鋭く言葉をぶつけ合っていた。
空気は険悪そのもので、今にも誰かが掴みかからんばかりだった。
「おいおい、ずいぶん穏やかじゃねぇな」
誰も関わろうとしない中、その老人だけは空気も読まず、横合いから気軽に声を投げた。
それを聞いた大男が何事かと振り向き、老人の姿を認めた途端、鋭く目を吊り上げる。
「誰だ、貴様は!
好奇心で首を突っ込めば、火傷では済まんぞ!」
「何言ってる」
大男の一喝を、老人は涼しい顔で受け流した。
薄く笑みすら浮かべている。
「だからこそ、面白ぇんじゃねぇか」
そう言って、老人は懐から煙草を取り出した。
マッチを擦って火をつけると、まるで場の険悪さなど意にも介さぬふうに、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
「フン。
あの忌々しい若造も、好奇心だけで厄介事に踏み込んでくる男だった。
どうやら貴様も同類らしいな」
「好奇心ね……まあ、否定はしねえ」
老人は肩をすくめ、煙を細く吐いた。
「だが、こういう厄介事ってのは、大抵、生々しい本音や身勝手な欲のぶつかり合いで起きる。
俺に言わせりゃ、そんなもんほど面白ぇ娯楽はそうそうねえぜ」
あまりにも臆面のない物言いに、長髪の男は一瞬、言葉を失った。
「…………狂人め!」
ようやくそれだけを吐き捨て、男は老人を睨みつける。
だが、その視線にも先ほどまでの勢いはなかった。
「すまんが、そこの方。これは身内の問題じゃ。
好奇心はわかるが、ここは控えてもらえぬか」
「わかってるよ。
俺は所詮、野次馬だ。邪魔するつもりはねぇさ」
小柄な老人の礼節を失わぬ物言いに、スーツの老人は肩をすくめて一歩だけ退いた。
だが、それだけだった。
立ち去る気配はなく、面倒な芝居でも眺めるような顔で、その場に居座り続ける。
長髪の男は、そんな様子を鬱陶しげに眺めていた。
「………………ストレイツォ」
大男が、長髪の男の名を低く呼んだ。
「俺が死んでからの数十年の間に、一体何があった?
何がお前を、そこまで狂わせた?」
「フン……ダイアー。
ディオに無惨に敗れて死んだお前などには、永遠にわかるまいよ」
「あん? 誰だ、そいつ?」
「………………」
大男──ダイアーの問いに、ストレイツォは侮蔑をにじませて返した。
その返答に混じった聞き慣れぬ名へ、スーツの老人が訝しげに眉をひそめる。
小柄な老人は、胸の奥に鉛でも抱えたような息をひとつ吐いた。
そして、わずかに間を置いてから口を開く。
「……その昔、英国貴族ジョースター家の簒奪を企てた男よ。
その過程で、人の身でありながら石仮面に魅入られて怪物と化し、果ては世を支配せんとする野心すら抱いたのじゃ」
小柄な老人は痛ましげにそう答えると、遠くを見やるように目を細めた。
「かつて、勇気ある若者たちが命を懸けて打ち倒した、忌まわしき元凶よ」
「そう」
長髪の男は冷ややかに口の端を吊り上げる。
「そしてそいつは人間を超え、比類なき力と永遠の若さを手に入れた。
そこのダイアーは、無謀にもそいつに挑み、無様に敗れ、無惨な最期を遂げた」
「ッ……!」
痛烈な嘲りに、ダイアーは一瞬、言葉を失った。
「ふうん……無惨に、ね。
本当にそうか?」
「…………どういうことだ?」
スーツの老人の問いに、ストレイツォは内心の苛立ちを押し殺しながら聞き返した。
「いやな。そこの男……ダイアーと言ったか。
見たところ、そいつはそれなりにできる。
だったら、ただ一方的にやられて終わるような柄でもねぇ。
爪痕のひとつやふたつ、残しててもおかしくねぇだろ」
「人間ごときが、くだらん口を挟むな!
経緯がどうあれ、こいつは最後には敗れて死んだ!
それがすべてだ!」
「──と、こう言ってるが。
本当のところはどうなんだ?」
スーツの老人は、まるで他人事の見世物でも眺めるような気軽さで、傍らの小柄な老人へ視線を向けた。
問いを向けられた老人は、すぐには答えなかった。
苦いものを噛みしめるように、ひと呼吸ぶんだけ沈黙を置く。
「……確かに、ダイアーはディオに力及ばず、敗れて死んだ」
「フン」
ストレイツォが鼻を鳴らす。
だが、小柄な老人はそこで言葉を切らなかった。
「じゃが、首だけとなってなお最後の抵抗を見せ、ディオに手傷を負わせた。
それがきっかけとなって、その男と対峙していた戦士──ジョナサンは突破口を見出し、ついには彼奴を打ち破るに至ったのじゃ」
「なーんだ。やっぱ、無駄死にじゃなかったじゃねぇか」
スーツの老人は、からかうようにそう言って、ストレイツォを横目で当てこすった。
「敗者を持ち上げることに、何の意味がある?
そもそも、ジョナサンとてあの時、首だけになったディオを取り逃した。
そして、最後には大西洋上の船で、そいつもろとも海の藻屑と化したのだ。
ジョナサン・ジョースターもディオ・ブランドーも、所詮は等しく負け犬よ!」
スーツの老人の言葉を打ち消すかのように、ストレイツォは強く吐き捨てた。
それは反論というより、己の価値観こそ正しいのだと、必死に言い聞かせる叫びにも似ていた。
「そのような価値観に囚われ続けたがゆえに、あなたは最後には老いに敗れ、朽ち果てたのではありませんかな。トンペティ老師」
「……ストレイツォ」
小柄な老人──トンペティは、かつての弟子をまっすぐ見つめた。
その眼差しに怒気はない。
あるのは、言葉よりなお重い痛ましさだけだった。
「なるほど……」
スーツの老人は、ストレイツォの主張を噛みしめるように、二度三度とうなずいた。
「要するにお前にとって、老いや衰えは敗北で、無念や後悔を抱えたまま終わるのが我慢ならなかったってわけだ」
「……………………」
ストレイツォは、老人の言葉に沈黙で応じた。
「まあ、それはお前の考えだ。
俺がどうこう言って、無理に押しつける気はねぇ」
「……何が言いたい?」
ストレイツォは、苛立ちをにじませながら老人へ問い返した。
「まあ、それを踏まえた上で、俺の考えを言わせてもらうとだ。
人生ってのは、そういう無念や理不尽、ままならねぇ現実と折り合いをつけながら生きていくもんだ」
「…………戯言を!」
「察するにお前は、生涯かけて欲しがっていたものを手に入れたのかもしれねぇ。
だがな、その代わりに、それ以上に大事なもんを失っちまったんじゃねぇか。
しかも、てめぇ自身が気づかねぇうちにな」
「デタラメを言うな!
私は、何一つ失ってなどいない!」
立て続けの言葉に、ストレイツォは反射的に言い返した。
「お前はそれを捨ててまで、若さや力にしがみついた。
だがな。俺に言わせりゃ、そんなもんは手段に過ぎねぇ」
「何だと!?」
「聞かせてもらうが、てめぇはいったい何のためにそんなもんにしがみついた?」
「決まっている!
永遠の力と若さの──」
「それが手段に過ぎねぇと言ったはずだ!」
「ッ!」
「ディオと言ったか。
聞く限りじゃ、そいつは自分の目的のために化け物になった」
反論に詰まったストレイツォへ、老人はさらに言葉を重ねる。
「だが、てめぇはどうだ?
俺に言わせりゃ、
「黙れッ!
波紋使いでもない、ただの人間が知ったふうな口をきくな!
第一、貴様とて何一つ無念も後悔も残さず、この世を去ったなどとは言わせんぞ!」
「ああ、無念さ。
不治の病にかかって、くたばったことは無念だった」
「フン! それ見たことか!」
老人が無念を認めた途端、ストレイツォは鬼の首でも取ったかのように勝ち誇った。
「……だが、それの何が悪い?」
「何だと?」
「さっきも言ったろ。人生ってのは、無念や理不尽や後悔の連続だ。
俺に限らず、人間はみんな、それでも歯ァ食いしばって生きてんだ。
そういうもんを抱え込んだままな」
「それがどうした!
人間とは、そうして無念を抱えたまま朽ちるしかない、脆弱な生き物だ!」
「だがな、その無念こそが、人間が生きていた証なんじゃねぇのか?
無念があるからこそ、願いは光り輝くのさ」
「ッ…………!」
力を持たぬはずの老人の言葉に、ストレイツォは一瞬、返す言葉を失った。
「ストレイツォよ。この男の言う通りだ」
トンペティは声を荒らげることなく、静かに弟子の名を呼んだ。
そして、道を踏み外した弟子へ、諭すように語りかけた。
「お前はかつて、力のためではなく、人の魂を鍛え上げるために波紋を学んだはずじゃ。
その初心まで捨てたというのか」
「くっ……!」
「もうよせ、ストレイツォ!」
ダイアーがこらえきれず、声を張り上げた。
「これ以上、今のお前を見るのは忍びない!
共に修行に励んだ、あの頃のお前を思い出してくれ!」
悲痛な声で、ダイアーはかつての友へ呼びかけた。
「………………」
「まあ、言うべきことは言った」
言葉を失ったストレイツォを尻目に、老人は踵を返し、肩越しにそれだけ告げた。
「幸い、ここにいる以上は人間も化け物もねぇ。
時間なら腐るほどある。
この先どうするかは、てめぇ自身でじっくり考えりゃいい」
それきり、老人は振り向きもせず歩き出した。
トンペティとダイアーも、もはやこれ以上かけるべき言葉を持たなかった。
幾度もストレイツォを振り返りながら、やがてその場をあとにする。
「………………」
ストレイツォは、ただそこに立ち尽くしていた。
反論の言葉は出ない。
睨み返すことすらできぬまま、三人の残した言葉だけが、いつまでも胸の奥に沈んでいた。
ところ変わって、ここは天界のアパートの一室。
壁際に置かれた薄型液晶モニターの前で、顔に傷跡のある老人が言葉を失っていた。
画面の中では、ストレイツォがただ立ち尽くしている。
その少し後ろ、ソファーの上には、首と胴の一部だけとなった黒髪の若い男が横たわっている。
灰のようなものがゆっくりと寄り集まり、失われた肉体をわずかずつ形作っていた。
彼は、いまだその再生の途上にあった。
「ストレイツォ……」
傷跡のある老人は、ただその名を絞り出すのが精一杯だった。
怒りでもない。罵声でもない。
胸の奥からせり上がってくる何かを、どうにか押し殺した末の、かすれた一言だった。
「スピードワゴン……」
青年は目の前の老人──ロバート・E・O・スピードワゴンへ、気遣わしげに声をかけた。
「僕も一度だけだが、かつて彼と肩を並べて戦った。
その頃の彼は……」
「わかっています、ジョースターさん……」
スピードワゴンは、青年──ジョナサン・ジョースターの言葉を静かに遮った。
かつて彼自身、長柄のハンマーを手に、ストレイツォと共にディオとその眷属へ立ち向かったことがあった。
だが、それきりではない。
その後も幾十年。石仮面にまつわる災厄が世界のどこかで牙をむくたび、互いに立場は違えど、同じ脅威に向き合い続けてきたのだ。
「わかっているからこそ……つらいのです」
かつてのストレイツォは、力だけを求め、それに溺れるような男ではなかった。
人として強くあろうとしていた。
誇り高くあろうとしていた。
かつて彼が求めていたのは、もっと別のものだったはずだ。
いったい、どこで道を誤ったのか。
「…………確かに、あの老人の言うことは間違いではない」
ジョナサンは静かにそう言って、そっと目を伏せた。
「だが……あまりにも、容赦がない」
その言葉を否定することはできない。
それでもなお、容易には呑み込めぬものを見るような面持ちが、彼の端正な顔に淡く差していた。
自身の結論を押しつけず、自ら答えを導き出すよう促したあの老人のやり方は、きっと間違ってはいなかった。
だが、それでもスピードワゴンの胸に残るものは消えない。
かつての友の変節に気づけず、止めるべき時に止められなかった。
その悔いとやりきれなさが、鈍い重みとなって胸の奥に沈んでいた。
重苦しい沈黙が部屋を満たしていた。
そのとき、不意に遠慮がちなノックの音が静かに響く。
「……どうぞ」
ジョナサンが静かに応じた。
「エリナ……」
扉を開けて入ってきたのは、若い女性──エリナ・ジョースターだった。
だが、その若々しい見た目に反して、所作には年季の入った淑女の落ち着きがあった。
その手には、三人分のティーセットを載せたトレーがある。
エリナは何も聞かなかった。
何も語らなかった。
ただ、部屋の空気を乱さぬよう静かに歩み寄り、テーブルの上にトレーを置いた。
それから慣れた手つきで、ジョナサンとスピードワゴンの前に紅茶を注ぐ。
無言のまま二人へそれを勧め、最後に自分の分も静かに用意した。
立ちのぼる湯気だけが、張りつめた部屋の空気にかすかなぬくもりを落としていた。
「冷めないうちに、どうぞ」
エリナはそう静かに告げると、まだ両腕の戻らぬジョナサンへ、そっとカップを傾けてみせた。
ジョナサンも何も言わず、その厚意に静かに身を委ねる。
「……ありがとうございます」
スピードワゴンは短く礼を述べ、差し出された紅茶に口をつけた。
胸の痛みが消えたわけではない。
ストレイツォに対する悔いも、やりきれなさも、そのまま胸の内に残っている。
それでも、エリナが静かにもたらしたいつもの空気は、張りつめていた心をほんのわずかに和らげていた。
ジョナサンもまた、立ちのぼる湯気のぬくもりの向こうで、かすかに目を細める。
誰も多くを語らぬまま、それでもその部屋には、先ほどまでとは違う静けさが満ちていた。