かつて「闇に舞い降りた天才」と呼ばれ、裏麻雀界に君臨した老人がいた。
自分が自分でいられるうちに人生を終えるため、彼は自ら尊厳死を選んだ。
その後、「向こう側」で邂逅した者たちへ、彼は何を語るのか。
とある昼下がりのオープンテラスで、老人がひとり酒のグラスを傾けていた。
ストライプのスーツに虎柄のシャツを合わせた、いかにもチンピラ然とした白髪の老人だ。
「ん?」
ふと、自分のテーブルから少し離れた場所で、地面に這いつくばって何かを探しているらしい男が目に入る。
服装からして警官だろう。
腰に警棒と拳銃を下げ、鍔付きの帽子を被っている。
「何をしてるんだ?」
好奇心から、老人は警官にたずねた。
「ああ、食事中にすまない。
実は近くで暴行事件があってね。
聞き込みでは、凶器がここに捨てられている可能性が高い。
それで手がかりを探している」
警官は手を止めないまま、丁寧に答えた。
「こんな所から探すつもりか?」
「仕事だからな」
警官が探しているのは、何もないように見えるアスファルトの上だった。
とても、手がかりにつながる痕跡があるようには見えない。
それでも警官は、なんでもないことのように答えていた。
老人の知る警官といえば、上っ面だけの役人か、ヤクザとつるむ悪徳警官ばかりだ。
この男のように、事件に真摯に向き合う者は初めてだった。
「なぜ、そこまで熱心になれる?」
気づけば、老人はそうたずねていた。
「そうだな……」
警官は作業の手を止めて立ち上がり、真っ直ぐ老人を見た。
「私は結果だけを求めてはいない。
結果だけを求めれば、人は近道をしたがる。
だが、近道した時、真実を見失うかもしれない。
そうなれば、やる気も次第に失せていく」
迷いのない口調で、警官はそのまま続ける。
「大切なのは、真実に向かおうとする意志だと思っている。
向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう?
向かっているわけだからな……違うかい?」
「…………なるほどな」
老人は納得したように、深く頷いた。
「なあ、兄さん。
後で一緒に飲まないか?」
老人は上機嫌で、警官を飲みに誘った。
「誘いはありがたいが、忙しいからな。
いつになるかはわからないぞ?」
「別に急いじゃいねぇ。
仕事が終わって、兄さんが気分よくグラスを空けられる時で構わねぇよ」
老人は気さくに答えた。
「……では、その時は呼ばれるとしよう」
警官はそう言って微笑み、再び職務へ戻っていった。
その後も老人は、上機嫌にグラスを空けていた。
後日、老人と警官、そして元警官を名乗る長身の若者が、夜のバーで静かにグラスを交わしていた。
「……とまあ、そういう訳でな。
結局俺は、チンピラのままこのザマさ……」
若者は向こうで体験したことをそう締めくくると、自嘲気味に薄く笑った。
「……一流になる必要が、どこにあるんだ?」
「…………何?」
若者の話を聞き終えた後の老人の言葉に、若者は思わず顔を上げた。
「いや……昔、似たようなことを言った相手がいてな。
そいつも、自分が二流だ三流だと勝手に線を引いてた」
「成り上がるのを諦めろってのか?」
「そうは言わねぇ。
だが俺は、一流になれないことより、熱を失うことの方が問題だと思っていてな」
感情を荒げる若者に、老人は諭すように言った。
「お前が何をやってたのかは聞かねぇ。
だが、それでもお前は熱を失わず、向こうで何かを成し遂げたんじゃねぇのか?」
「それは……」
若者は言葉に詰まる。
老人の言葉に、反論の余地がなかったからだ。
だが、向こうで犯した過ちのせいか、若者には自分を肯定することが憚られた。
「チンピラのままだと言ったな。
だが、そういう意味じゃダメ人間でもいいじゃねぇか。
老人はそう言って、グラスの酒を呷る。
「いいじゃねえか、三流で。
同じ三流でも、熱い三流なら上等だ」
「……そうだな。
私も上のやり方には馴染めず、ヒラのままだった。
だが、かえってそれで良かったのかもしれん」
憑き物が落ちたような顔で、警官はそう返した。
「………………」
若者は何も答えず、静かにグラスの中身を呷った。
鼻に抜けるスモーキーな香りと、強いアルコールが胃を焼く感覚が、不思議と心地良かった。
それから三人は多くを語らず、ときおり短い言葉を交わすだけでグラスを傾けていた。
カウンターの内側では、マスターはあえて口を挟まず、にこやかにそれぞれのグラスへ静かに酒を注ぎ足している。
三人とも言葉は少ない。
だが、そこに気まずさはなかった。
彼らの間には、何人たりとも容易には立ち入れない、穏やかな空気が流れていた。