エイセツシティ近辺、凍てつく雪の山岳地帯。
エイセツシティで7つ目のジムバッジを手に入れたノウゼンとマチエールは、最後のバッジを求め、シャラシティへと続く過酷な銀世界を進んでいた。
「へっくちっ! うう……寒過ぎるよぉ……」
ヒュゥゥゥ……ッ! と吹き荒れる吹雪の中、マチエールは両肩をすくめ、ガタガタガタッ と身体を震わせていた。足元のニャスパー・もこおも、寒さに耐えるようにギュッ とマチエールの足元へ丸まっている。
「出がけに厚手の防寒着を整えておけと言ったろう。ほら、マフラーを巻いておけ」
端正な顔を曇らせ、ノウゼンはハァ…… と深く溜息をついた。ノウゼンはその長身をかがめると、己の首元に巻いていた厚手のグレーのマフラーを解き、マチエールの首元へ雑に、けれど優しく巻き直してやった。
「えへへ……ありがと、ノウゼン。でもノウゼンは寒くないの?」
「俺は鍛え方が違う。それに……旅の道中だからと気を緩めるわけにはいかない」
涼やかな切れ長の瞳で周囲を警戒しながら、ノウゼンはザクッ、ザクッ と雪道を踏みしめた。しかしその時、横足の開けた白銀の斜面から、ザザッ、バシャシャッ! と雪を蹴散らす切迫した足音が聞こえた。
「メリィッ……! メリィッ……!」
シュパッ! と雪煙を割って飛び出してきたのは、見たこともない小さなポケモンだった。透き通るような薄青い体、首元には黄色い結晶、そして青く光る愛らしい瞳。寒さに震えながら、必死にノウゼンたちへ救いを求めるように駆け寄ってくる。
「わあぁ……っ!? 何この子、すごく綺麗……!」
「な……っ!? これはアマルス……!?」
ノウゼンは思わず目を見張った。太古の時代に絶滅し、化石から復元された個体でしかお目にかからないはずの古代ポケモン。それが、この人里離れた厳しい雪山の奥地で、野生の個体として生きていたのである。
「‥‥‥1億年前から生き残っていた? いや、流石に無理がある。‥‥‥復元された個体が野生化したか、サザンドラと同じように『時空の歪み』から現代に飛ばされたか‥‥‥」
ノウゼンが考察に夢中になったその時———。
ドォォォォンッ……!!
背後の白銀の針葉樹林を吹き飛ばすような、凄まじい爆発音が空気を揺らした。 ブワッ! と広がる激しい黒煙と炎が雪を溶かし、ズズズ……ッ! と雪崩のような地響きが轟く。
「な、なに!? 何が起きたの!?」
「ただごとじゃない……マチエール、行くぞ!」
二人は目を見合わせると、バッ! と斜面を蹴って雪煙の立ち込める林の奥へと疾走した。
広大な開墾地に雪崩れ込んだ二人が目にしたのは、極限の惨状だった。 もう一匹の巨大な古代ポケモン——オーロラのような美しいヒレをたなびかせた『アマルルガ』が、ハァ、ハァ…… と激しく喘ぎながら血を流している。その前には、漆黒のコートを纏った男が一人、冷徹な笑みを浮かべて小型飛行ユニットの上に立っていた。
男の傍らには、凶暴な咆哮を上げる巨大な『バンギラス』と、不気味な黒炎を吹く『ヘルガー』。さらに男の右腕には、凶悪な機械砲が装着されており、その無慈悲な銃口をアマルルガへと向けていた
先ほどのアマルスは、捕獲されかける親のアマルルガを護るため、命がけで助けを求めて里へ下りてきていたのだ。
「ヘルガー!『かえんほうしゃ』!」
「やめてっ!! この子たちをいじめないで!!」
マチエールは考えるより先に飛び出した。
「もこお、『ひかりのかべ』!! アマルルガを護って!」
「にゃーっ!!」
シュバッ! と、もこおが跳躍。 桃色の光の障壁が展開され、アマルルガへ向けられたヘルガーの『かえんほうしゃ』を完璧に弾き返す。
「マチエール、左から挟み込むぞ! 合わせろ!」
ノウゼンがザザッ! と雪を蹴って前に滑り込みながら、腰のボールを二頭同時に一閃させた。
「ゲッコウガ、高所から『みずしゅりけん』! ヘルガーの動きを止めろ! ギルガルド、バンギラスの『いわなだれ』を『キングシールド』で食い止めろ!」
「ゲコッ!」
「ギルッ!」
空中で反転したゲッコウガが解き放った高速の水流刃が、ヘルガーの足元を爆砕して牽制。 直後に猛然と襲いかかってきたバンギラスの巨大な岩石の嵐を、前線に躍り出たギルガルドが目眩く聖なる盾で完全に防ぎ切る。
「今だ、マチエール!」
「うんっ! もこお、『サイコキネシス』で雪を巻き上げて視界を奪うよ!」
キィィン! と、もこおの瞳が怪しく光り、周囲の積雪が一瞬にして巨大な雪竜巻となって男の視界を完全に遮った。ノウゼンとマチエール、そしてポケモンたちの息の合ったダイナミックな連携により、敵の攻撃は完全に手詰まりとなった
——はずだった。
「……チッ、小細工を」
雪煙を切り裂き、改めて男の姿が明確になる。仕立ての良い高級なコートを身にまとい、白髪交じりの灰髪をオールバックに固めた壮年の男。右腕の機械砲が不気味な赤光を放っていた。
その砲身を見た瞬間、ノウゼンの脳裏にある記憶が鮮明にフラッシュバックした。
『ノウゼン、君の叔父であるヘイザー・ミラーはいまだ逃亡中だ。彼が逃亡時に持ち逃げしたのは、フレア団が最終兵器に利用していた『破壊の繭』の力を模して極秘開発していた【石化兵器】のプロトタイプだと判明した……』
(あの機械砲は……フレア団の石化銃……!?)
ノウゼンの戦慄が確信へと変わると同時に、煙の向こうの男もまた、地上で自分を見上げる青年の姿を捉えた。男——ヘイザーは、冷酷だった表情を一瞬にして凍りつかせ、驚愕に目を見開いた。
「……ノウゼン……!?」
そして、見上げるノウゼンもまた、雷に打たれたかのようにその場に完全に静止した。
ドクンッ! と心臓が跳ね上がる音が耳奥で狂ったように鳴り響く。 ノウゼンの顔から、一瞬にしてすべての血の気が引き、土気色へと変わった。手から力が失われる。瞳孔は極限まで収縮し、喉の奥からヒュッ…… と掠れた引きつり音が漏れた。
(ヘイザー叔父上……! どうして、こんなところに……!?)
ノウゼンの全身を、寒さとは全く異なる、吐き気をもよおすような激しい恐怖と自責の震えが支配する。足の先から感覚が消え失せ、金縛りに遭ったように一歩も動けない。先ほどまでの洗練された戦術眼は影を潜め、ハァ、ハァ…… と呼吸すらまともにできなくなっていた。
ヘイザーは数秒間の静寂の後、驚愕の表情から一転して——ニチャァ…… と醜く歪んだ、嘲笑に満ちた冷酷な笑みを浮かべた。久しぶりに会った甥の無様な怯えようを、心底見下すような蔑みの視線。
「ノウゼン……? ノウゼンってば! どうしたの!?」
異変に気づいたマチエールが、心配そうにノウゼンの服の袖をキュッ と引っ張った。 だが、その瞬間——。
「触るなッ!!!!」
「つ……っ!?」
ノウゼンは振り返りざま、見たこともないような恐ろしい形相でマチエールを怒鳴りつけた。血走り、激しい感情に乱れた瞳。普段の気品や冷静さは完全に消破され、むき出しのいら立ちと拒絶がマチエールに向けられる。
マチエールは息を飲み、サッ と弾かれたように手を引っ込めてその場に立ち尽くした。
直後——ゴーッ!! と山全体を飲み込むような猛吹雪が吹き荒れる。ホワイトアウト。視界は一瞬で真っ白な灰色の闇へと塗り潰されていく。
「……チッ!引き上げるぞ!」
ヘイザーは苦々しく吐き捨てると、ヘルガーとバンギラスをボールへ戻し、雪煙の奥へと身を翻して撤退していった。猛吹雪がその場を覆いつくそうと襲ってくる
「ノウゼン! 吹雪が来るよ! 走って!!」
マチエールが叫ぶが、ノウゼンは膝をガタガタ と震わせ、雪の上に立ち尽くしたまま動かない。瞳は焦点を失い、完全に正気を失っていた。
「ダメ!ノウゼンが動けない……! もこお、手伝って!」
その時、ノウゼンの腰からポンッ! とモンスターボールが自ら弾けて開いた。光の中から現れたのは、漆黒の毛並みを揺らす「ゾロアーク」。 ゾロアークは主の異常事態を察知すると、ウゥゥ……ッ! と悲しげな咆哮を上げ、正気を失って崩れ落ちそうになるノウゼンをその太い腕で強引に抱え上げた。
「ゾロアーク! あたしたちについてきて! アマルス、避難できる場所へ案内して!!」
マチエールとゾロアークは、雪煙の中で吹雪を凌げる洞窟へと、正気を失ったノウゼンを無理やり連れて脱出したのだった。
◇
洞窟の中は、外の猛吹雪が嘘のように静まり返っていた。 傷ついたアマルルガと、その横に寄り添うアマルス。マチエールともこおが手当てをする中、アマルルガの首元の巨大なヒレがキラキラ……と神秘的な七色の光を優しく放ち、負傷した身体の冷えと痛みを和らげ始める。その光は、側にいたもこおやノウゼンの荒い呼吸をも穏やかに沈めていく不浄を払うような温もりに満ちていた。
だが、ノウゼンは洞窟の最奥、光の届かない壁際に一人で身を寄せ、膝を抱えて丸まっていた。
その背中は痛々しいほど小さく縮こまり、ガタガタと激しく震え続けている。
マチエールは心配でたまらなくなり、手当てを終えると、トントン と静かに歩み寄った。そして、膝を抱えるノウゼンの背中に優しく手を伸ばす。
「ノウゼン……大丈夫? さっきはびっくりしたけど……あたし、怒ってないよ? だから——」
「触るなッと言っただろ!!!!」
バシィィンッ……!!
洞窟内に、乾いた激しい打撃音が響き渡った。
「あ……っ……!?」
マチエールは息を飲んだ。ノウゼンが、振り払うような荒々しい力でマチエールの手を叩き落としたのだ。サッ と弾かれたマチエールの手が空を舞い、彼女はドスン! と雪の上で尻餅をついた。叩かれた手の甲がじんじんと赤く痺れている。
いつだって冷静で、どんなに自分が生意気な態度をとっても優しく頭を撫でてくれたノウゼン。自分に温かい居場所をくれた大切な人が、目の前で、鬼気迫る拒絶の表情で自分を睨みつけている。
マチエールは驚愕のあまり言葉を失い、ただ自分の赤くなった手を強く握りしめてノウゼンを見つめた。
「っ……あ……」
振り払った己の手を見つめ、ノウゼンの顔から全ての表情が消え去った。絶望と自責。自分が何をしてしまったのかを理解した瞬間、ノウゼンの瞳からポロポロ…… と大きな涙がこぼれ落ちた。
「ごめん……、マチエール……っ。」
ノウゼンは途切れ途切れの声でそう吐き出すと、そのまま右手で額を覆い、顔をうつむかせ完全に沈黙してしまった。
重苦しく、息もできないような気まずい時間が、永遠のように長く流れていった。
……どれほどの時間が経っただろうか。
ノウゼンは無言のまま木枝を集め、パチパチ…… と小さな焚火を起こした。橙色の温かな火の光が、洞窟の壁を仄暗く照らし出す。
マチエールは意を決して立ち上がると、ザッ、ザッ とゆっくり焚火の傍らへ歩み寄った。
「……近寄らないでくれ」
ノウゼンは顔を上げないまま、ハァ…… と掠れた低声で懇願するように呟いた。
「今の俺は……自分でも感情の制御が効かない。お前に酷いことを言って、また傷つけてしまう……。頼むから……向こうへ行ってくれ……」
「‥‥‥嫌だ」
マチエールはきっぱりと言い放ち、ノウゼンの隣へドカッ と腰掛けた。
「‥‥‥ノウゼンはさ」
マチエールの静かな声が、洞窟の中に響く。
「あたしが初めてハンサムハウスに来た時、温かいシチューを食べさせてくれたよね。‥‥‥『お腹が鳴ってるだろ』って呆れながら。……路地裏で寒さに震えてたあたしに、温かい場所と居場所をくれたのはノウゼンなんだよ」
「……マチエール……」
「ノウゼンがどんなにあたしを拒絶しても、怒っても、あたしは逃げない。……だってあたしたち、ハンサムハウスの仲間でしょ? 困ってる仲間を見捨てる奴がどこにいるのさ」
ノウゼンは額に当てていた両手を、ゆっくりと顔から離した。その瞳は赤く充血し、普段の知性や冷静さは影を潜め、まるで迷子になった幼い子供のように激しく揺れていた。
「……ごめん、マチエール。さっきは手を叩いて……怒鳴って…本当にすまなかった……」
ノウゼンは震える声でゆっくりと話し始めた。
これまでハンサムしか知らなかった、自分の絶対に打ち明けることのなかった過去を静かに唱える。
「さっき……あのハンターとして現れた男。……あれは、俺の叔父だ。……ヘイザー・ミラー」
「叔父さん……!?」
「‥‥‥ああ。お前には、話していなかったな。‥‥‥俺の生家のこと」
ノウゼンは炎を見つめたまま、ポツリ、ポツリと、重い呪縛のような自らの過去を語り始めた。
「‥‥‥俺の実家……『ミラー家』は、カロスの歴史の中でも古くから続き、産業界でも名を馳せた名家だった。……俺は幼少期から、その家格に見合う『完璧な跡取り』として育てられた。歴史学、経済学、外国語、帝王学……そしてポケモンバトルにおける高度な理論と戦術。……俺に与えられたのは、遊びの時間でも楽しいおもちゃでもなく、両親が望む完璧な教育だけだった」
「‥‥‥。」
「‥‥‥毎日、与えられた課題と勉強をこなすのに必死だった。だけど、どれだけ完璧にこなしても、大人たちは『ミラーの人間ならできて当たり前だ』と冷たい目で見るだけだった。褒められたことも、抱きしめられた記憶もない。……ただただ、無味乾燥で息の詰まる毎日だった」
「ノウゼン……」
ノウゼンは自嘲気味に口元を歪める。
「‥‥‥十四歳になった時、『見聞を広める』という名目で旅に出された。二十歳になるまでに各地で実績を作り、将来のミラー家のためになる人脈を世界中で築くこと。……」
ノウゼンはギュッ と拳を握りしめ、言葉を詰まらせた。
「‥‥旅に出て五年が経った頃……あの未曾有の大事件が起きた。フレア団事件だ」
マチエールが息を飲んだ。
「‥‥‥俺が事件を知ってカロスに戻った時‥‥‥ミラー家は跡形もなく消滅していた。‥‥‥ミラー家は、裏でフラダリとフレア団に多額の資金を流し、彼らの違法技術を買い取っていたんだ。さっき、あの叔父の右手に装着していた銃‥‥‥ハンサムさんから話を聞いていたから正体が分かった。あれはフレア団が破壊の繭と呼ばれる産物の力を模して作ったモノだ。ミラー家はフレア団がつくろうとした理想の世界でも、自分たちの権力を保つために……世界を滅ぼそうとした悪に加担していたんだ」
ノウゼンの瞳から、再び静かに涙が溢れ出した。
「カロスに戻った俺を待っていたのは、警察に連行されていく家族たちの姿だった。資産は全て没収。関わっていた人間は全員捕まった。……俺だけが、何も知らされなかった『無知』ゆえに無罪とされ、無一文で雨の中に叩き出された。そこを拾ってくれたのが、ハンサムさんだった」
ノウゼンは己の肩を抱くように身体を丸めた。
「ハンサムさんは以前、俺に教えてくれていた。叔父が警察の捜査網を掻いくぐり、フレア団の石化技術を持ち逃げして逃亡を続けていると……。その叔父が今、ハンターとして罪もないポケモンや人々を襲い、傷つけ続けている……!」
ノウゼンは深く深くうつむき、ギシッ…… と血が出るほど唇を噛みしめた。
「俺の体に流れているのは……そんな汚い罪人の血だ。俺の家族が、叔父が、今も世界を傷つけ続けている……! なのに俺は、自分だけ救われた顔をして、呑気に旅をして……! さっき、あの叔父の顔を見た瞬間、耐えられなくなった。『俺みたいな汚い血の人間が、マチエールやみんなに触れていいはずがない』って……!」
絶望と自責の底で、肩を激しく震わせるノウゼン。 その吐き出すような告白を最後までじっと聞き終えると、マチエールは静かに、ゆっくりと立ち上がった。
そして、膝を抱えて小さくなっているノウゼンの目の前へ歩み寄ると、その華奢で小さな両手を、ノウゼンの凍えた肩へ——そっと、けれど逃がさないように力強く置いた。
「……ノウゼン」
「っ……マチエール……?」
驚いて顔を上げたノウゼンと、視線が交差する。 マチエールの瞳には、責める色も、引き下がる気配も一切なかった。ただ暖炉の火のように温かく、澄んだ眼差しがノウゼンを真っ直ぐに見つめている。
「……ノウゼンはね、昔からずっと、家族のことで悩んでたんだと思う」
マチエールは、まるで幼い子供をあやし、優しく言い聞かせるように……ひとつひとつの言葉を噛みしめながら、静かに語りかけ始めた。
「……なんでもできて、美味しくて温かいご飯をいつも作ってくれて、バトルだってすごく強くて……あたしにとってノウゼンは、いつだって完璧で、カッコいい、自慢の家族。」
「……。」
「……そんなノウゼンが、こんな風に弱音を吐いて、泣いてる姿なんて……あたし、一度も見たことなかったよ」
マチエールは一瞬だけ言葉を切り、柔らかく、包み込むような笑みを浮かべた。
「……でもね。……あたし、すごく嬉しいんだ」
「……嬉しい……?」
かすれた声で問い返すノウゼンに、マチエールは大きく頷いた。
「うん。……ノウゼンが初めて、あたしに隠さず悩みを打ち明けてくれたから。……弱さを、見せてくれたから」
マチエールはノウゼンの肩に置いた手にギュッと力を込め、さらに顔を近づけた。
「……今までさ、あたしいっぱいノウゼンに助けてもらったもん。お腹を空かせてた時も、不安でいっぱいだった時も、いつだってノウゼンが手を差し伸べてくれた。……だからね」
マチエールは、まっすぐノウゼンの瞳の奥を見つめた。
「……今度は、あたしの番。……ノウゼンの辛いこと、悲しいこと……あたしにも、背負わせてよ」
「っ……マチエール……」
「……ね? 一人で背負い込まないで。」
「…………っ……!」
温かな語りかけと、肩から伝わる確かな体温。 ノウゼンの胸の奥で、長年氷のように冷たく凝り固まっていた過去の呪縛が、音を立てて溶け出していく。
「ミラー家なんて関係ない! 叔父さんのやったことだって、ノウゼンには関係ない!……ノウゼンはノウゼンだ!私の自慢のバディだ!!」
「……っ!」
マチエールのはっきりとした強い瞳と、迷いのない言葉。マチエールはぐっと拳を握りしめた。
「どうしても罪悪感で胸が苦しいなら……あたしたちで叔父さんを止めよう!」
その言葉が、ノウゼンの胸の奥に強く突き刺さる。 脳裏に蘇ったのは、かつて自分を拾ってくれた時、ハンサムが破顔して言ってくれた言葉だった。
『君は君だ、ノウゼン君。過去の家名がどうあろうと、君の人生は君だけのものだ』
自分よりも年下の、路地裏で必死に生きてきた少女に力強く励まされた事実に、ノウゼンは一瞬、気恥ずかしさで頬を掻いた。だが次の瞬間、胸を覆い尽くしたのは、溢れんばかりの感謝と温かな感情だった。
「……すまない、マチエール。……ありがとう」
ノウゼンは深く息を吐き出すと、改めてマチエールに向き直り、頭を下げた。
「酷いことを言ってすまなかった。……もう迷わない。俺達の手で、あの男の暴虐を止めよう‥‥‥!」
マチエールは首に巻かれた温かなマフラーをきゅっ と握り直し、ニッと頼もしく笑ってみせた。
◇
一方、雪山の反対側に設営された暗いテントの中。 ヘイザーは右腕の機械砲を手入れしながら、昼間見せたノウゼンの怯え切った表情を思い返し、下卑た薄ら笑いを浮かべていた。
「ハハ……無様なものだ。あの『ミラーの傑作』と言われたノウゼンが、あんな惨めな顔をしおって……」
没落後、裏社会の泥の中に落ち、名誉も地位も失ったヘイザー。彼にとって、表の世界でハンサムの助手として温かな日差しを浴び、ポケモンたちと輝かしい旅を続けるノウゼンは、嫉妬と憎悪の対象以外の何物でもなかった。
「許さんぞ、ノウゼン……。一人だけ清廉潔白な顔をして生きるなど……! ミラーの血からは誰も逃げられん。お前も俺と同じ、暗闇の泥の中に引きずり下ろしてやる……!」
ヘイザーは歪んだ執着を燃やしながら、カプセルに入った怪しい試薬を取り出した。明日もう一度アマルルガを狩るため、そして甥を絶望の淵へ叩き落とすための切り札の調整を進めるのだった。
◇
翌朝。ノウゼンとマチエールは洞窟を出ると、すぐにポケギアで警察に通報を入れた。 しかし、相手からの返答は厳しいものだった。
『雪の山岳地帯の奥地か……! 巡回隊を今すぐ急行させるが、この猛吹雪の爪痕が残る山道だ、現場到着までにはかなり時間がかかるぞ!』
「警察が到着するまで……俺たちでアマルルガとアマルスを護り切るしかない」
ノウゼンとマチエールは腹を括り、二匹のもとへ戻った。
救援を待つ間……マチエールともこおは、小さなアマルスとすっかり打ち解けて遊んでいた。
「えーいっ! もこお、そこだーっ!」
シュパッ!
マチエールが楽しそうに投げつけた雪玉が、空気を開いて飛んでいく。
「メリィッ!」
アマルスは嬉しそうに甲高い歓声を上げると、首元の結晶をキラキラッ! と七色に輝かせながら、トトトッ と器用に雪原をステップしてかわしてみせた。
「ふにゃあっ!」
そこへ、もこおが『サイコキネシス』を発動! キィィン…… と怪しく光る瞳と共に、周囲の雪がふわふわ…… と空中に持ち上がり、無数の丸い雪玉となって宙に浮かび上がる。
「あははっ! すごーい! もこお、一斉発射だーっ!」
シュババババッ!
空中に浮かんだ雪玉が一斉に飛びかい、パフッ! パパンッ! と雪の上で弾けてはしゃぎ声が重なる。冷たい雪山の中で、そこだけがぽかぽかと暖かな笑い声に包まれていた。
……その楽しげな様子を、少し離れた場所からノウゼンは静かに見守っていた。
長身をピンと伸ばし、周囲への警戒を崩さないノウゼン。そのすぐ隣には、巨躯のアマルルガが静かに並んで佇んでいる。
アマルルガは、無邪気に遊ぶ我が子を愛おしそうに見つめると……風鈴のように透き通った『ルゥゥゥ……ン』という、重厚で美しい響きを鳴らした。
そして……感謝を示すように、そっと冷たくも温かな頭をノウゼンの肩へ寄せた。
「……フッ」
ノウゼンは端正な口元をわずかに緩めると、肩に触れるアマルルガの首筋を撫で。優しく愛でた。
「……あいつらは、本当に逞しいな」
パフッ! とマチエールの投げた雪玉が明当違いの方向へ飛んでいくのを眺めながら、ノウゼンは静かに目を細めるのだった。
しかし、太陽がちょうど中天に差し掛かった、その時だった——
ズガガガァァンッ……!!
頭上から降り注いだのは、空間そのものを焦がすような黒炎の濁流だった。
「っ……!? クロバット、『ひかりのかべ』!!」
ノウゼンの叫びに応じ、シュパッ! と前線へ跳躍したクロバットが間一髪でパァァン! と桃色の光の障壁を展開する。黒炎が衝突し、激しい水蒸気と爆風が雪原を薙ぎ払う。
「ハハハ! 案の定、ここに潜んでいたか!」
切り裂かれた雪煙の向こうから、ヘイザーがゆっくりと姿を現した。傍らにはガアァァッ! と凶暴な咆哮を上げ地表を蹴る巨大な『バンギラス』と、口元から黒煙を噴き上げる『ヘルガー』。右腕の石化砲を怪しく発光させながら、ヘイザーの口元が酷悪に歪む。
「ヘイザー叔父上……!」
ノウゼンはすぐにボールからギルガルドを出すとマチエールとギルガルドに号令を発する。
「マチエール、ギルガルド! アマルスたちを安全な場所へ誘導しろ! ここは俺が喰い止める!」
「分かった! もこお、いくよ! アマルルガ、こっちへ!」
マチエールが叫んで誘導しようとした、まさにその時。 アマルルガはノウゼンとマチエール、そして彼らのポケモンたちを見つめ、決意に満ちた強い眼差しで頭を高く掲げた。
『ルゥゥゥゥ……ン……!』
アマルルガの首元の巨大なヒレが、太陽の光を浴びて神々しいまでに眩い七色のオーロラを放ち始めた。 空気を浄化し、あらゆる災いや病魔を退ける太古の聖なる波動
——『しんぴのまもり』。
キラキラキラ……ッ! と降る注ぐ神秘の光の粒子が、ノウゼンとマチエール、そして全手持ちポケモンの全身へと優しく染み込み、その身体を包み込む。
ノウゼンはその温かな守護の光を全身に受け、深く頷いた。
「ギルガルド、そのままアマルス達を後方へ!」
「ギルッ!」
キンッ! とギルガルドが盾を構えてアマルスたちを後方へ護送する。
「逃がすな!バンギラス! 『いわなだれ』!!」
ヘイザーの疾呼と共に、バンギラスがドスンッ! と地表を強打。巨大な岩塊の嵐が轟音を立てて崩落してくる。
「ゲッコウガ、岩盤を蹴って空中へ逃げろ! 高所から『みずしゅりけん』! サザンドラ、『りゅうのはどう』でヘルガーの側撃を撃ち払え!」
ゲッコウガが重力を無視した速度で垂直の岩柱を駆け上がり、連続で解き放った高圧水流刃がドカバババッ! とバンギラスの巨体を激しく爆破する。 直後、サザンドラが三つの首から解き放った紫の竜エネルギーの濁流が、と横合いから襲いかからんとしたヘルガーを激しく薙ぎ払う。
地鳴りと爆炎が交錯する超重量級の戦闘。しかし、ヘイザーは名門ミラー家で「最強」と称された男。かつては四天王ドラセナとも渡り合ったというその実力は伊達ではない。
へイザーはノウゼンの戦術の癖を完璧に読み切り、ニチャァ…… と薄笑いを浮かべた。
「無駄だ! お前の戦術の組み立て、技の選択……すべて俺がかつてお前に叩き込んだ教えそのものだ! どんなに正義を気取ろうと、ミラーの血からは逃げられん!」
ヘイザーはハハハハッ! と狂ったような笑い声を上げると、右腕の装填口へ紫色のカプセルを荒々しく叩き込んだ。
「見せてやろう……フレア団の遺産が結実した真の禁忌! 【メガゾード・システム】をな!!」
ドクン……ドクン……ッ!
ヘイザーの機械砲から解き放たれた禍々しい紫の波動が、バンギラスとヘルガーを包み込む。 ポケモンたちがギャアァァァッ!! と狂乱の悲鳴を上げ、その肉体が歪に膨張、破壊的な変化を遂げていく。
「な……強制暴走させて……メガシンカを……!?」
『メガバンギラス』と『メガヘルガー』。それは絆の結晶ではなく、命の脈動を強引に削り取り、狂気的な破壊力を引き出す外道の切り札だった。
痛みに耐えかねて苦しげな悲鳴を上げる2頭の姿を目にした瞬間、アマルルガは激しい憤怒と悲しみを込め、地表を揺るがすほどの雄叫びを上げた。太古より命の営みを見守ってきた神秘の威厳が、生命の尊厳を冒涜するヘイザーの外道へと向けられた瞬間だった。
「ガアアァァァッ!!」
ドスゥゥゥンッ!! とメガバンギラスが足元を踏み降ろした瞬間、十数メートルに及ぶ亀裂が走り、バリバリバリッ! と地表が爆砕する。 吹き飛んだ巨大な岩塊が、ドバババッ! とノウゼンたちへ襲いかかる。
「サザンドラッ!!」
ノウゼンのかわす隙を庇うため、サザンドラが前面に立ちはだかる。だが、メガヘルガーの解き放った超高威力の『はかいこうせん』がサザンドラを直撃する。激しい爆発と共に、サザンドラがドスン…… と雪原へ崩れ落ちた。
「サザンドラ! よく耐えてくれた……戻れ!」
ノウゼンは咄嗟に赤い光線でサザンドラを回収するが、手持ちの主力を一枚失った焦燥が脳裏を走る。
「なんて威力だ……! ゲッコウガ、メガシンカだ!」
ノウゼンは焦燥に駆られ、左腕のメガリングへ指を掛けた。 だが——共鳴の光が走らない。
(ッ……!? なぜ石が応えない……!?)
脳裏を泥のように覆うのは、幼少期の記憶。訓練場でヘイザーに見下され、冷たい床に叩きつけられた敗北の恐怖。「自身の戦術はすべてミラーのもの」「また叔父に屈するのではないか」というトラウマの毒素が、心を金縛りにしていた。
「ハハハハ! 怯えているなノウゼン! お前はあの頃から何一つ変わっていない! ミラーの枠組みの中でしか生きられぬ、哀れな人形だ!」
暴走するメガシンカ2頭の凶悪な猛攻。 焦るノウゼンを護るため、アブソルが、クロバットが、ゾロアークが身を挺して攻撃を受け止め、ドサッ、ドサッ と次々と雪の上へ崩れ落ちていく。相棒たちの苦悶の叫びが雪山に響く。
万事休す——絶望の冷気が全身を侵し、ノウゼンがガクッ と膝をつきかけた、まさにその瞬間だった。
「負けないで、ノウゼンーーーーッ!!」
バァンッ! と戦場の爆音を叩き割り、澄み渡る悲痛な叫びが響き渡った。 マチエールだった。彼女はもこおと共に、雪煙の向こうから必死にノウゼンを見つめて叫んでいた。
「負けないで! ノウゼンはミラー家の人形なんかじゃない! あたしの、大好きな、自慢のバディなんだから!!」
「にゃあぁぁぁっ!!」
逃げ遅れたアマルスとアマルルガも、傷ついた身体でノウゼンへ向かって必死に鳴き声を上げる。相棒のゾロアークが、血を流しながらも立ち上がり、主を鼓舞するようにポンッ! と力強く背中を叩いた。
ノウゼンの頭の中から、ヘイザーの嘲笑も、ミラー家の冷たい記憶も、スッと消え去っていった。 視界を覆っていた霧が晴れていく。
(……そうだ。俺は何に怯えていたんだ……! 俺のこれまで培ってきたものは、ミラーのためでも、過去を証明するためでもない。俺を信じてくれた……大切な仲間たちを護るためだ!)
ノウゼンの瞳から、あらゆる迷いと恐れが消破された。静かな、しかし燃え盛る情熱を宿した眼差しがヘイザーを射抜く。
「行くぞ、ゲッコウガ……! 俺たちで、過去の呪縛を断ち切るぞ!!」
キィィィィンッ……!!
ノウゼンのキーストーンが、眩いばかりの蒼き閃光を解き放つ。ゲッコウガの身体をゴォォォッ! と巨大な水流の竜巻が包み込み、光の柱が天を突いた。
「——メガシンカッ!!」
バシャァァンッ! と水煙を破って降臨した『メガゲッコウガ』。
「ゾロアーク、『ナイトバースト』で視界を奪え!」
バッ! と倒れかけていたゾロアークが最後の力を振り絞り、不気味な幻影の闇でヘイザーたちの視界を遮断する。
「小癪なッ! 『はかいこうせん』!!」
ヘイザーの叫びと共に、メガバンギラスの口腔から解き放たれる極大の破壊エネルギー。 だが、メガゲッコウガは雪上に足跡一つ残さぬ神速で滑走し、命中することはなかった。視認すら不可能な速度が生み出す衝撃波が、二条の雪煙の壁となって左右へ豪快に切り開かれていく。
「ヘルガー、『あくのはどう』!」
「『みずしゅりけん』!」
正面から迫るメガヘルガーの『あくのはどう』と、メガゲッコウガが超高速回転で放った水流刃が正面衝突。
ドガァァァンッ!
水と闇のエネルギーが激しく干渉し合い、周囲の積雪を一瞬で蒸発させる真っ白な爆風が立ち込める。
「奴らの懐へもぐりこめ!」
「ゲコッ!!」
メガゲッコウガはその爆煙を一瞬で置き去りにし、メガバンギラスの巨体へ急迫。
メガバンギラスが狂乱のまま振るった凶悪な爪が鼻先を削る直前、メガゲッコウガは鋭い動きで攻撃を紙一重でかわし、その巨大な胸元へ完全に潜り込んだ。
次の瞬間、背後から引き抜かれたのは
——蒼い光芒を荒々しく放つ超巨大な『水手裏剣』
「穿て……ッ!!『みずしゅりけん』!!」
ズバババババァァァンッ!!
超高圧に凝縮された二枚の巨大な水流刃が、零距離からメガバンギラスとメガヘルガーの胸腔をダイレクトに貫通。 爆発的な水柱が天を突くように噴き上がり、暴走状態のメガシンカが完全に破砕された。二頭の巨大な体躯は地響きを立てて絶倒し、雪原へと激しく沈んだのだった。
「バ……バカな……!? 俺のバンギラス達が……俺が、ノウゼンに負けた……!?」
目の前の現実を正しく認識できず、ヘイザーは狂乱した。 その時、ウゥゥゥ〜〜ッ! とバトルの轟音を聞きつけた警察のサイレン音が雪山に響き渡り、警官隊が現場へと雪崩れ込んできた。
「そこまでだ、ハンター・ヘイザー! 動くな!」
「‥‥‥うあああぁぁぁっ!! 許さん……許さんぞノウゼン!!お前だけが太陽の下で……ミラーの闇から抜け出せると思うな! お前だってミラーに押し潰されそうになっていただろ!! 俺たちだけが泥をすすらされた…… お前も……お前も俺と同じ闇に落ちろぉぉっ!!」
追い詰められ正気を失ったヘイザーは、右腕の光線銃をノウゼンへ向け、バァン! と狂ったように引き金を引いた。
——周囲の時間感覚が、引き伸ばされたようにゆっくりになる。
ノウゼンの視界に迫る、漆黒の石化光線。
かわす時間は、なかった。光線が胸に命中した瞬間、猛烈な冷気と共に、皮膚が、肉が、急速に無機質な灰色の「石」へと変貌していく。
ピキピキピキ……ッ! と光線が直撃した箇所から伝わる圧倒的な冷たさと感覚の消失。ノウゼンは死の恐怖と戦いながら、最後にゆっくりと振り返り、泣き叫ぶマチエールを見つめた。
(っ!‥‥‥マチエール‥‥‥ごめん)
心の中で最後の謝罪。
直後——ノウゼンの顔面まで完全に石化し、彼は物言わぬ一基の石像となった。
「ハハハハハ! ざまあみろ! 俺の邪魔をした愚か者の末路だぁっ!お前もミラーの人間!!一人だけ日の当たる場所で生きていくなど、許すものか!!!」
ドサッ! とヘイザーは駆けつけた警官隊に激しく押さえつけられ、地面に顔を叩きつけられた。
しかし、彼の惨めな狂気の叫びすら、今のマチエールには一切届いていなかった。
世界から、一切の音が消え去っていた。
「ノウ、ゼン……? 嘘でしょ……? ノウゼンっ!!」
息が止まるほどの絶望。マチエールは狂ったように駆け寄り、タタタッ! と冷たい石像と化したノウゼンにしがみついた。
「嘘だと言ってよノウゼン!‥‥‥ 目を開けてよ!!」
ペチペチ! といくら叩いても、すがりついても、冷たい石からは何の温もりも、声も返ってこない。もこおも、傷ついたゲッコウガたちも、涙を流しながらノウゼンの石像に擦り寄り、悲痛な声を上げている。
「嫌‥‥‥嫌だよノウゼン! 置いていかないでよぉぉぉっ!!‥‥‥二人でハンサムハウスで頑張ろうって!!‥‥‥ミアレの平和を守ろうって!!約束したじゃんかぁぁぁ!!!」
マチエールは石像に額を押し付け、ボロボロ…… と大粒の涙をこぼして泣き叫んだ。 首に巻かれた、あの温かいマフラーをギュッ と狂おしいほど強く握りしめながら。
「あ、うあああああああああああああああああああああああッッッッ!!!!!!!!」
ハンサムも姿を消し、クセロシキも去り、最後に残った大切な「家族」とのあまりにも唐突で残酷な別れ。静寂の雪山に、少女の切り裂くような哭泣が虚しく響き渡った。
その時——。
ズシン……ズシン…… と重い足音が近づいてきた。 アマルルガだった。傷ついた巨大な古代ポケモンは、覚悟を決めた静かな瞳でノウゼンを見つめると、ゆっくりとそっと、その大きな頭をノウゼンの石像へ触れさせた。
そして——アマルルガの首元の美しいヒレが、キラキラキラ……ッ と太陽のような神秘的な七色の光を放ち始めた。
ルゥゥゥゥ……ン……
風鈴の透き通る音色と重低音が織りなす、オーロラのような聖なる鳴き声。
『しんぴのまもり』——。
戦闘開始前にアマルルガがノウゼンたちに掛けた『しんぴのまもり』の聖なるヴェールは、石化の凶悪な呪いがノウゼンの精神や魂、そして体の「内奥深く」まで侵食するのを防ぎ留めていたのだ。表面が石化しても、その核にある生命の火は守られていたのである。
アマルルガが改めて放った浄化の光が重なると、パリ……パリパリッ! と石像の表面に静かな亀裂の音が響いた。
表面を覆っていた灰色の石の殻が、さらさら…… と綺麗な砂となって崩れ落ちていく。 肌に血色が戻り、閉じ込められていた胸の鼓動が、ドクン……ドクン…… と再び力強く動き出した。
「……っ、ハ……ッ! ゲホッ……!」
ノウゼンは大きく息を吹き返し、ドサッ と雪の上へ崩れ落ちた。
「ノウゼン……!?」
ゆっくりと目を開けるノウゼン。その視界に飛び込んできたのは、涙と鼻水で顔をグチャグチャにしたマチエールと、歓喜の声を上げる大切な相棒たちの顔だった。
「ノウゼンーーーーーッ!!」
「ぐふっ……!? ま、マチエール……!」
ガシィッ! と飛びついてきたマチエールに抱きつかれ、ノウゼンは盛大に後方へ倒れ込んだ。マチエールはノウゼンの胸に顔を押し付け、大声を上げて泣きじゃくっている。ノウゼンの手持ちたちも、もこおも、重なるようにノウゼンへ抱きつき、歓喜の涙を流した。
「よかった……よかったぁ……! 生きてる……生きてるよぉ……!」
ノウゼンは苦笑しながら、彼女の頬に溢れる涙を優しく拭ってやった。
「……心配をかけたな。助けてくれて、ありがとう」
ノウゼンは優しくマチエールの頭を撫で、傍らのアマルルガへ深く感謝の眼差しを向けた。
◇
「放せ! 私はミラーの人間だぞ! こんなところで終わるはずが……ノウゼェェェンッ!!」
警官隊に連行されていくヘイザー。彼は去り際、自らの過去と執着に囚われたまま惨めに叫び続けていた。ノウゼンはその背中を、悲哀と、しかし迷いのない静かな瞳で見送った。彼はもう、過去の呪縛には囚われない。
違法兵器もすべて押収され、事件が完全に収束した後。晴れ渡った雪道で、ノウゼンとマチエールは無事に守り抜いたアマルスとアマルルガに別れを告げていた。
「バイバイ、元気でね! もう悪い奴らに見つかっちゃダメだよ!」
アマルスたちが名残惜しそうに「メリィッ!」と鳴き声を上げ、白銀の山奥へと帰っていくのを見送った後——。
マチエールはクルリと背を向けると、無言のまま、ザクッ、ザクッ と雪を踏みしめて先を歩き始めた。
ノウゼンは一瞬不思議そうに眉をひそめたが、その背中を追うように歩調を合わせた。
「……マチエール?」
声をかけてみる。だが、マチエールは振り返るどころか、返事すらしない。マフラーに顔を深く埋めたまま、ただひたすらに前だけを見つめて歩き続けている。
「……マチエール、体調でも悪いのか?」
再び問いかけても、返ってくるのはヒュゥゥ…… と吹き抜ける風の音と、二人の足音だけだった。
(……怒っている……のだろうか?)
ノウゼンは戸惑いを隠せないまま、マチエールの数歩後ろを静かに歩いた。
会話のない、重く気まずい時間が流れていく。 ノウゼンは己の不甲斐なさを噛みしめていた。あの時、叔父の狂気に巻き込まれ、一度は命を落としかけた。もしアマルルガの奇跡がなければ、自分は永遠に石のままだった。マチエールにどれほどの恐怖と悲しみを味わわせてしまったか、想像するだけで胸が痛む。
……どれくらいの時間、そうやって無言で歩いただろうか。
ザッ
突如として、前を歩いていたマチエールが足を止めた。
「……マチエール?」
ノウゼンが足を止めた、まさにその瞬間だった。
バッ!
マチエールが弾かれたように振り返り、一直線にノウゼンへ駆け寄ってきた。
「っ……!? マチ——」
ガシィッ!
「うぐっ……!?」
ノウゼンは息を飲んだ。マチエールが頭からノウゼンの胸へ飛び込み、しがみついてきたのだ。
華奢な腕に、ありったけの力を込めて。ノウゼンのコートを強く、強く握りしめ、まるで彼が、別の世界へ消えてしまわないように……引き留めるように必死に抱きついてくる。
「……マチエール……?」
ノウゼンが呆然と声を漏らすと、彼の胸元に顔をうずめたまま、マチエールがぽつり と、小さく呟いた。
「……死んじゃったかと思った」
「……っ」
「……つらかった。……すごく、すごく……怖かった……」
震える声。ノウゼンの胸に押し当てられたマチエールの顔から、温かい涙が溢れ出し、彼の服を濡らしていく。
「……ハンサムおじさんもいなくなっちゃって……クセロシキおじさんもいなくなって……っ」
マチエールはノウゼンの服を握りしめる手に、さらに強く力を込めた。壊れものを抱きしめるような、痛々しいほどの必死さ。家族を二度も失ってきた少女が、最後に遺された大切な居場所を失いかけた、絶望の吐露。
「……ノウゼンまでいなくなったら……あたし、どうしたらいいか分かんないよ……っ」
泣きじゃくりながら、切実にすがりつくマチエール。
「……もう二度と……いなくならないで……っ!」
「…………」
ノウゼンはゆっくりと目を見開き、そして……切ない愛おしさに胸を締めつけられた。
(そうだった……この子はずっと、一人で耐えていたんだ……)
ノウゼンは自身の至らなさを静かに恥じ入ると、そっと長身を屈めた。そして、震えるマチエールの小さな背中に腕を回し、優しく、けれど絶対に離さないという強い意志を込めて、力強く抱きしめ返した。
「……ごめん」
ノウゼンはマチエールの頭に頬を寄せ、耳元で静かに、深く誓った。
「……ごめん、マチエール。寂しい思いをさせた。恐い思いをさせた……」
ふっと穏やかな笑みを浮かべ、ノウゼンはマチエールの背中をトントン と優しく叩いた。
「……約束する。もう二度と、お前を置いていなくなったりしない。俺はいつだって……傍にいる」
「……ぐすっ……うん……っ」
マチエールはノウゼンの胸の中で何度も大きく頷き、ノウゼンの温もりを確かめるように、さらに強く抱きつき返した。
風が止み、静寂が包み込む白銀の雪道。 二人の首元を飾るマフラーが、温かな絆を示すように、そっと寄り添って揺れていた。
ミラー家
・概要
カロス地方の貴族界と財界で名を馳せた名家の一つ。その歴史は古く、栄枯盛衰を繰り返し、少なくとも1500年は遡ることができるという。一説には3000年前の王国時代から存在していたという話もある。基幹産業は鉱業と金融業。
当主であったノウゼンの父親とフラダリは大学時代の学友。
家格や経済力が並大抵ではない反面、しきたりや因習といったしがらみも多く、それに由来する重圧が一族の人間達の心に歪みを生んでしまっている。
フラダリ財団のスポンサーの一つであり、ホロキャスターをはじめとしたフラダリラボの研究にも積極的に投資していた。
その裏ではフラダリがボスを務めるフレア団にも協力し、多額の資金をフレア団に流していた。それによってフレア団が開発していた、強制的にポケモンをメガシンカさせる「メガゾード・システム」や、最終兵器のエネルギー源として利用していた「破壊の繭」研究の副産物である「石化技術」等の違法技術を手に入れ、ポケモンハンターや他の犯罪組織に多額の金と引き換えに販売・レンタルを行い、犯罪の活性化を促していた。
・目的
フレア団の作る理想世界においての「ミラー家」としての地位を守ること。
当主であったノウゼンの父親は、フラダリの才能を高く評価しており、「彼ならば「世界を作り変える」というフレア団の途方もない計画を実現してしまえる」と悟る。
そのため、理想世界創造後の「ミラー家」の地位を保証するという契約の元、フレア団に協力することになる。
最初こそ一族の人間たちからは猛反対されたものの、着実にカロスを掌握していくフラダリの辣腕ぶりに次第に慄いていき、最終的にミラー家の総意という形でフレア団に全投資していくようになった。
犯罪の活性化を促していた理由は、フラダリの絶望を途絶えさせない為。かつてフラダリが人間の欲望と傲慢さに絶望していた経緯を知るノウゼンの父親は、フラダリの人間に対する憎しみが消え、理想世界の創造という目的を途中で放棄することを恐れていた。なによりフレア団に全投資していたミラー家としては、途中で計画がとん挫することは何としても避けたかったのである。
結果、フラダリの失墜とフレア団の計画の失敗とともに、ミラー家の悪事もすべて露呈し、一気に没落への道をたどることになる。
なお、ノウゼンにはこれらの悪事は何一つ教えられていなかった。ノウゼンの父親は、万が一フレア団の計画が失敗したときのことを考え、ノウゼンには何も知らせず、彼に一切罪が被らないようにしていた。そうすることによって、いつかノウゼンやその子孫たちがミラー家を再興してくれると信じて。
その行為は我が子を愛するが故のものなのか、家の存続だけを考えてのものだったのか、それはもう誰にもわからない。
ノウゼンの叔父であるヘイザ―のプロフィールです。
・プロフィール
氏名 ヘイザ―・ミラー
年齢 48歳
出身 カロス地方
身長 178cm
好きなもの 金 権威 ローストビーフ
・手持ち
バンギラス
ヘルガー
・概要
カロスの旧名門『ミラー家』の一員で、ノウゼンの叔父。
10年前はミラー家のポケモンバトルの指導教官をしていたが、ミラー家没落後はポケモンハンターとしてカロス中で暗躍し、フレア団から提供された『メガゾード・システム』と『石化技術』を駆使してポケモンを狩り、金持ちたちに高額で売り払っていた。
・人物像
白髪の混じった灰髪をオールバックに固めた壮年の男性
自分の欲に非常に忠実。元々権威主義者で『ミラー家』にも歪んだ誇りを持っていたが、没落して以降は金への執着が倍増した。
性格に多大な難があるが、ポケモンバトルや育成に関しては非常に高い能力を有しており、その実力は名門『ミラー家』の中でも最強だった。実際、ポケモントレーナーとして活躍していた頃は現四天王ドラセナと互角の勝負を繰り広げていたという。
少年時代のノウゼンにポケモンバトルの指導していた事実上の師匠ともいえる存在であり、その苛烈な指導によってノウゼンからは非常に恐れられていた。
なお、手持ちのポケモンたちはヘイザ―を心から慕っているわけではなく、「彼といると甘い汁をすすれる」あるいは「強くなれるから」という理由で付き従っている。ミラー家が没落した時、多くの手持ちポケモンが彼を見限って離脱したという。