Dクラス「ドッ!ワハハ」 綾小路「wwww」 オリ主「あ、綾小路くんも笑ってるよw」 綾小路「」   作:ホモガキ

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第5話 黒瀬莉愛、勉強する

 

 

 

 

 翌日の放課後。

 

 一年Dクラスの教室には、普段より多くの生徒が残っていた。

 

 理由は中間試験。

 

 より正確に言えば、赤点による退学を避けるための勉強会である。

 

 参加者は、教える側と教わる側に大きく分かれていた。

 

 教える側。

 

 幸村輝彦。

 

 平田洋介。

 

 櫛田桔梗。

 

 そして、本人は乗り気ではないものの堀北鈴音。

 

 教わる側。

 

 須藤健。

 

 池寛治。

 

 山内春樹。

 

 そして。

 

「よっしゃ」

 

 黒瀬莉愛。

 

 現在、最も危険な生徒の一人である。

 

「今日で俺、天才になるわw」

 

「無理だ」

 

 開始前から幸村に否定された。

 

「まだ始まってないじゃん」

 

「一日でどうにかなる段階じゃない」

 

「やってみないと分からなくね?w」

 

「お前の小テストを見た」

 

「…………」

 

「分かった上で言ってる」

 

「言い方きつくね?」

 

「現実だ」

 

 机の上には、数学、英語、国語。

 

 各教科の試験範囲が並べられている。

 

 莉愛はそれらを順番に見た。

 

 そして。

 

「……多くね?」

 

「今さら何を言っているんだ」

 

 幸村が眉間を押さえる。

 

「普通の定期試験だぞ」

 

「定期試験ってこんなに勉強すんの?」

 

「お前、中学までどうしてた?」

 

「前日に頑張る」

 

「それで三十八点だったのか?」

 

「たまたま」

 

「何回たまたまが続いてるんだ」

 

「人生には波があるからw」

 

「お前ずっと谷だろ」

 

「幸村くん今日当たり強くね?」

 

「退学したくないんだろ?」

 

「したくない」

 

「なら真面目にやれ」

 

「はい」

 

 そこだけは、莉愛も素直に頷いた。

 

     ◇

 

 まずは数学。

 

 幸村が問題集を開く。

 

「黒瀬。これを解いてみろ」

 

「いきなり?」

 

「現状を把握しないと教えようがない」

 

「なるほど」

 

 莉愛はシャープペンシルを持つ。

 

 問題を見る。

 

 一次方程式。

 

「…………」

 

「どうした?」

 

「考えてる」

 

「そうか」

 

「…………」

 

 一分。

 

 二分。

 

 三分。

 

「黒瀬」

 

「ん?」

 

「何か書け」

 

「今、頭の中でやってる」

 

「本当か?」

 

「うん」

 

「じゃ答えは?」

 

「…………」

 

「…………」

 

「六?」

 

「なぜ疑問形なんだ」

 

「自信ないから」

 

「途中式は?」

 

「ない」

 

「頭の中でやったんだろ」

 

「消えた」

 

「何が?」

 

「途中式」

 

 幸村の手が止まった。

 

「頭の中から?」

 

「うん」

 

「どうやったら消えるんだ」

 

「俺の脳、揮発性高いんだよ」

 

「意味の分からない言葉を使うな!」

 

 教室の一角から笑い声が起きる。

 

 池と山内も似たような進捗らしく、他人事ではない。

 

 須藤は既に机へ突っ伏しかけていた。

 

「黒瀬」

 

「はい」

 

「もう一回やれ」

 

「はい」

 

「今度は途中式を書く」

 

「はい」

 

「途中で分からなくなったら聞け」

 

「はい」

 

 莉愛は再び問題を見る。

 

 今度は書く。

 

 三行。

 

 止まる。

 

「幸村くん」

 

「どこが分からない?」

 

「ここ」

 

「どこだ」

 

「最初から」

 

「…………」

 

「その顔やめてくんない?」

 

「僕は今、どう教えるべきか考えてるんだ」

 

「絶望してる顔じゃん」

 

「かなり近い」

 

「ひど」

 

 そこへ、横から手が伸びた。

 

 堀北だった。

 

「黒瀬さん」

 

「ん?」

 

「一度、今やっている問題をやめなさい」

 

「え?」

 

「もっと前から確認した方がいいわ」

 

「前って?」

 

「基礎から」

 

「これ基礎じゃないの?」

 

「そうよ」

 

「じゃもっと前って何?」

 

「…………」

 

 堀北が少し黙った。

 

「黒瀬さん」

 

「はい」

 

「分数はできる?」

 

「できる」

 

「本当に?」

 

「多分」

 

「多分?」

 

「普通にできると思う」

 

「じゃ、三分の一と六分の一を足して」

 

「…………」

 

 莉愛は紙を見る。

 

「三分の二?」

 

「違うわ」

 

「え?」

 

「そこからなのか?」

 

 幸村の声が裏返った。

 

「いや待って」

 

 莉愛が慌てる。

 

「今のは分かるって」

 

「じゃ正解は?」

 

「…………」

 

「黒瀬さん」

 

「ヒント」

 

「小学生でも解くわよ」

 

「圧かけんなって!」

 

     ◇

 

 黒瀬莉愛の学力は。

 

 想像していたよりも危険だった。

 

 俺は少し離れた席から、その様子を見ていた。

 

 勉強会に参加すると言ったものの、俺自身が前面に出る必要はない。

 

 幸村や堀北の方が、教える役としては自然だ。

 

 俺は自分の勉強を進めながら、必要に応じて様子を見る程度に留めている。

 

 ただ。

 

 その必要が想定以上に多い。

 

「清隆」

 

「なんだ」

 

 案の定、声が飛んできた。

 

「分数ってどうやんだっけ」

 

「幸村に聞け」

 

「今池くん見てる」

 

「堀北は?」

 

「須藤にキレてる」

 

 見る。

 

「だから、そこはさっき説明したでしょう!」

 

「分かんねえから聞いてんだよ!」

 

 確かに手が塞がっている。

 

「清隆」

 

「なんだ」

 

「助けて」

 

「……」

 

 仕方なく席を移る。

 

「どこだ」

 

「ここ」

 

「通分すればいい」

 

「その通分が怪しい」

 

「…………」

 

「何その顔」

 

「いや」

 

「絶対引いただろ」

 

「少し」

 

「認めんなよ!」

 

「試験まで時間がない」

 

「そうだけど」

 

「今からでも基礎を埋めた方がいい」

 

「間に合う?」

 

「やれば」

 

「やれば?」

 

「可能性はある」

 

「低そうに言うな」

 

「高くはない」

 

「清隆ぁ!」

 

「現実だ」

 

 黒瀬が机に突っ伏す。

 

「俺、退学すんのかな」

 

「まだ何もしてないだろ」

 

「もう疲れた」

 

「開始から二十分だぞ」

 

「体感二時間」

 

「集中力も問題だな」

 

「俺、集中してるって」

 

「さっき三回窓の外見てたぞ」

 

「鳥いたから」

 

「一回は飛行機だった」

 

「よく見てんな」

 

「今はお前を見てたからな」

 

「…………」

 

 黒瀬が顔を上げる。

 

「何?」

 

「いや」

 

「急に真顔になるな」

 

「何でもない」

 

 別に深い意味はない。

 

 単に勉強の進み具合を確認していただけだ。

 

 ただ。

 

 黒瀬はなぜか少し機嫌を良くしたようだった。

 

     ◇

 

「じゃあ次、英語」

 

「待って」

 

「何?」

 

「数学もう終わり?」

 

「今日は一旦ね」

 

「勝った」

 

「何に?」

 

「数学」

 

「負けてるわよ」

 

 櫛田が笑いを堪えながら英語の教科書を開く。

 

「莉愛ちゃん、英語はどう?」

 

「数学よりはマシ」

 

「どのくらい?」

 

「海外ドラマとか見るし」

 

「じゃあ得意?」

 

「字幕ありで」

 

「それは日本語読んでるだけじゃない?」

 

「でも発音は聞いてる」

 

「意味は?」

 

「雰囲気」

 

「…………」

 

「桔梗?」

 

「ううん。やってみよっか」

 

 櫛田は笑顔を崩さなかった。

 

 さすがだった。

 

「まず単語から確認しよ」

 

「はい」

 

「important」

 

「重要」

 

「おお」

 

「余裕」

 

「different」

 

「違う」

 

「いいね」

 

「beautiful」

 

「俺」

 

「…………」

 

「桔梗?」

 

「美しい、ね」

 

「俺も合ってるじゃん」

 

「そういう問題じゃないかな」

 

 池が横から笑う。

 

「黒瀬、自分で言うなよ!」

 

「事実じゃん」

 

「まあそれはそうだけど!」

 

「認めんのかよ!」

 

 山内まで突っ込む。

 

「次」

 

 櫛田が何事もなかったように続ける。

 

「necessary」

 

「…………」

 

「莉愛ちゃん?」

 

「ネセサリー」

 

「意味は?」

 

「ネセサリー」

 

「それは読み方」

 

「必要?」

 

「正解!」

 

「うぇーい!」

 

 莉愛は櫛田とハイタッチする。

 

「英語いけるじゃん俺」

 

「まだ三問目だよ」

 

「このままいけば百点」

 

「その理屈だと数学も最初から百点だったはずよ」

 

 堀北の冷静な声。

 

「鈴音ちゃん、今俺いい気分なんだけど」

 

「現実に戻しただけよ」

 

「敵か?」

 

「味方になった覚えはないわ」

 

「でも教えてくれてんじゃん」

 

「退学者を出すとクラスに不利益があるからよ」

 

「照れんなって」

 

「何に対して照れる必要があるの?」

 

「俺のこと好きとか」

 

「帰っていい?」

 

「ごめんなさい」

 

 即座に謝った。

 

     ◇

 

 一時間。

 

 二時間。

 

 勉強会は続いた。

 

 最初こそ騒いでいた池や山内も、次第に口数が減っていく。

 

 須藤も部活へ行くまでの間、珍しく机に向かっていた。

 

 莉愛も同じだった。

 

 何度も分からないと言う。

 

 何度も同じ問題を間違える。

 

 五分前に教わった内容を忘れる。

 

 それでも。

 

「もう一回」

 

 その言葉だけは何度も口にした。

 

 幸村は少しずつ教え方を変えた。

 

「黒瀬。数字だけ見るな。何を求める問題なのか先に確認しろ」

 

「はい」

 

「式を作る」

 

「はい」

 

「飛ばすな」

 

「はい」

 

「今飛ばしたな」

 

「バレた?」

 

「僕が見てるんだから当然だろ!」

 

「じゃもう一回」

 

 問題を消す。

 

 書き直す。

 

 また間違える。

 

「違う」

 

「マジ?」

 

「ここ」

 

「あー」

 

「分かったか?」

 

「多分」

 

「その多分をやめろ」

 

「じゃ分かった」

 

「本当に?」

 

「…………」

 

「黒瀬」

 

「もう一回やります」

 

「よし」

 

 幸村の口調も、最初より少しだけ柔らかくなっていた。

 

 莉愛は決して覚えが早いわけではない。

 

 むしろ遅い。

 

 ただ。

 

 本気で退学したくない。

 

 その一点だけは、嘘ではなかった。

 

     ◇

 

 勉強会が一旦休憩に入った。

 

 莉愛は机へ突っ伏す。

 

「死ぬ」

 

「まだ死んでない」

 

 横から綾小路の声。

 

「脳が熱い」

 

「使ってる証拠だろ」

 

「冷やした方がいい?」

 

「必要ない」

 

「アイス買ってきて」

 

「自分で行け」

 

「足も疲れた」

 

「座ってただろ」

 

「心が疲れた」

 

「知らない」

 

「親友冷たくね?」

 

「いつまで続けるんだそれ」

 

「一生」

 

「そうか」

 

「諦めた?」

 

「訂正するのが面倒になった」

 

「認めたじゃん」

 

「認めてない」

 

 莉愛は顔だけ上げる。

 

「清隆」

 

「なんだ」

 

「俺、間に合うと思う?」

 

「分からない」

 

「即答で大丈夫って言えよ」

 

「根拠のないことは言わない」

 

「そういうとこだぞ」

 

「何がだ」

 

「モテない理由」

 

「余計なお世話だ」

 

「でもさ」

 

 莉愛の声が少しだけ落ちる。

 

「結構やばいよな」

 

「ああ」

 

「普通に」

 

「ああ」

 

「俺、今まで赤点とか取っても、まあ何とかなるって思ってたんだけど」

 

「今回は退学だからな」

 

「うん」

 

 莉愛は机の上に置かれた問題集を見る。

 

 書き込み。

 

 消し跡。

 

 何度も間違えた痕跡。

 

「退学したらさ」

 

「ああ」

 

「もうみんなと会えんのかな」

 

「この学校は全寮制だ。少なくとも今まで通りには会えないだろうな」

 

「そっか」

 

 珍しく。

 

 黒瀬が笑わなかった。

 

「嫌だな」

 

「なら勉強すればいい」

 

「……うん」

 

 それだけ答える。

 

 俺は少し意外だった。

 

 もっと軽く流すと思っていた。

 

 だが。

 

 黒瀬はこの学校を気に入っている。

 

 クラスメイトと過ごす時間も。

 

 恐らく。

 

 俺と過ごす時間も、その中に含まれている。

 

「清隆」

 

「なんだ」

 

「俺退学したら寂しい?」

 

「別に」

 

「即答!」

 

「まだ退学してないだろ」

 

「仮定の話」

 

「考える必要がない」

 

「逃げたな」

 

「何がだ」

 

「答えから」

 

「そう思うなら好きにしろ」

 

「じゃ寂しいってことにしとくわ」

 

「勝手だな」

 

「うぇーい」

 

 ようやく笑った。

 

     ◇

 

 休憩後。

 

 事件は英語の文法問題で起きた。

 

「莉愛ちゃん、ここは三人称単数だから――」

 

「ちょ待って」

 

「うん?」

 

「三人称単数って誰?」

 

 櫛田が止まる。

 

「誰って?」

 

「一人称が俺だろ?」

 

「うん」

 

「二人称がお前」

 

「そうだね」

 

「三人称って誰?」

 

「それ以外の人」

 

「じゃクラス全員じゃん」

 

「まあ、そうだけど」

 

「単数って一人?」

 

「うん」

 

「じゃ三人称単数って、一人なのに三人なの?」

 

「…………」

 

 櫛田が固まった。

 

 池が吹き出す。

 

「お前何言ってんだよ!」

 

「だって三人って書いてんじゃん!」

 

「三人じゃねえよ!」

 

「じゃ何なんだよ!」

 

「三人称だ!」

 

「だから三人だろ!?」

 

「違う!」

 

「黒瀬」

 

 幸村が割って入る。

 

「一人称、二人称、三人称の『人』は人数じゃない」

 

「え?」

 

「話し手。聞き手。それ以外。そういう分類だ」

 

「…………」

 

 莉愛の顔が変わる。

 

「最初からそう言えよ!」

 

「学校で習ってる!」

 

「知らん!」

 

「威張るな!」

 

「いやでもこれ命名した奴悪くね?」

 

「悪くない!」

 

「絶対俺以外にも勘違いしてる奴いるって」

 

 莉愛が周囲を見る。

 

 池が目を逸らした。

 

「池くん?」

 

「……いや」

 

「お前もだろ」

 

「俺は分かってた!」

 

「目泳いでんじゃん!」

 

「うるせえ!」

 

 笑いが教室に広がる。

 

「あなたたち、本当に退学するわよ」

 

 堀北が呆れた声を出した。

 

「鈴音ちゃん」

 

「何?」

 

「三人称単数って名前、分かりづらくね?」

 

「分かりやすいわ」

 

「敵だな」

 

「知識の問題よ」

 

     ◇

 

 さらに一時間後。

 

 幸村が簡単な確認テストを作った。

 

「今までやったところだけだ」

 

「何点取ればいい?」

 

「まず五割」

 

「低くね?」

 

「今のお前には妥当だ」

 

「舐めんなよ」

 

「じゃ七割」

 

「五割で」

 

「弱いな」

 

 莉愛は真剣に問題へ向かった。

 

 今度は誰にも話しかけない。

 

 窓も見ない。

 

 スマートフォンにも触れない。

 

 少しでも分からない問題があると、眉間に皺を寄せながら考える。

 

 十五分。

 

 解答終了。

 

「できた」

 

「じゃ採点する」

 

 幸村が答案を受け取る。

 

 莉愛は緊張した様子で待つ。

 

 採点。

 

 一問。

 

 二問。

 

 三問。

 

「…………」

 

「幸村くん」

 

「黙ってろ」

 

「はい」

 

 丸。

 

 バツ。

 

 丸。

 

 バツ。

 

「…………」

 

「何点?」

 

「まだ」

 

「はい」

 

 最後。

 

 幸村が赤ペンを置いた。

 

「五十八」

 

「…………」

 

「黒瀬?」

 

「……勝った?」

 

「何にだ」

 

「五割」

 

「一応超えた」

 

「マジ!?」

 

 莉愛が立ち上がる。

 

「うぇーい!」

 

「うるさい!」

 

「五十八!」

 

「本番なら安心できる点数じゃない!」

 

「でも三十八から二十上がった!」

 

「同じ問題じゃないだろ!」

 

「上がったことにしようぜ!」

 

「しない!」

 

 それでも。

 

 幸村の表情は、最初ほど険しくなかった。

 

「まあ」

 

「ん?」

 

「今みたいにちゃんとやるなら、間に合う可能性はある」

 

「マジ?」

 

「ああ」

 

「幸村くん」

 

「何だ」

 

「好き」

 

「気持ち悪い」

 

「ひどっ!」

 

「勉強しろ」

 

「はい!」

 

 莉愛は再び座った。

 

     ◇

 

 勉強会が終わった頃には、外はかなり暗くなっていた。

 

 一人。

 

 また一人。

 

 教室から出ていく。

 

「明日もやるからな」

 

 幸村が言う。

 

「うい」

 

「返事」

 

「はい」

 

「今日やったところ、寮で復習しろよ」

 

「はい」

 

「本当にやれよ」

 

「はい」

 

「信用できない」

 

「なんでだよ」

 

「今までを見ろ」

 

「明日の俺は違う」

 

「昨日も同じようなこと言ってなかったか?」

 

「人は成長するから」

 

「一日で?」

 

「高校生だぞ?」

 

「知らないよ」

 

 幸村は疲れた様子で帰っていった。

 

 櫛田も平田も既に帰った。

 

 堀北も最後まで残っていたが、今はもういない。

 

 教室には。

 

 莉愛。

 

 そして綾小路。

 

 二人だけが残っていた。

 

「清隆」

 

「なんだ」

 

「疲れた」

 

「見れば分かる」

 

「背負って帰って」

 

「嫌だ」

 

「即答」

 

「歩けるだろ」

 

「歩けるけどダルい」

 

「なら歩け」

 

「冷たい」

 

 莉愛は鞄を持つ。

 

 その時。

 

 一枚の紙が机から落ちた。

 

 先ほどの確認テスト。

 

 五十八点。

 

 綾小路が拾う。

 

「ほら」

 

「ありがと」

 

 莉愛は受け取る。

 

 少し眺める。

 

「清隆」

 

「何だ」

 

「五十八ってどう?」

 

「まだ危ない」

 

「だよな」

 

「ああ」

 

「でも」

 

 莉愛は答案を鞄へ入れる。

 

「三十八よりはいいよな」

 

「比べる意味はないが、まあな」

 

「じゃいける」

 

「その自信はどこから来る」

 

「今日、五十八取れたから」

 

「確認テストだぞ」

 

「明日六十八」

 

「毎日十点上がる前提なのか」

 

「そしたら四日で九十八」

 

「百を超えた後はどうする」

 

「知らん」

 

「考えてなかったな」

 

「百超えたら東大行ける?」

 

「行けない」

 

「マジ?」

 

「高校の中間試験で百点取っても無理だ」

 

「世知辛ぇ」

 

 教室を出る。

 

 廊下には、もうほとんど生徒がいない。

 

 二人並んで歩く。

 

「清隆」

 

「なんだ」

 

「今日ありがとな」

 

「俺はほとんど何もしてない」

 

「分数教えたじゃん」

 

「少しだけな」

 

「あと残ってた」

 

「自分の勉強をしてただけだ」

 

「でも残ってたじゃん」

 

「……」

 

 理由を説明する必要はない。

 

「俺さ」

 

 黒瀬が前を向いたまま続ける。

 

「勉強嫌いだけど」

 

「ああ」

 

「退学はもっと嫌だわ」

 

「なら問題は解決してる」

 

「何が?」

 

「どっちを選ぶか」

 

「勉強?」

 

「ああ」

 

「…………」

 

 黒瀬は少しだけ嫌そうな顔をした。

 

「究極の二択じゃん」

 

「比較になってない」

 

「俺には同じくらい嫌なんだよ」

 

「なら退学すればいい」

 

「それはもっと嫌」

 

「じゃ勉強だ」

 

「清隆って逃げ道潰すの上手いな」

 

「お前が自分で潰してる」

 

「それな」

 

 莉愛が笑った。

 

 その声は、静かな廊下によく響いた。

 

     ◇

 

 黒瀬と別れた後。

 

 俺は一人で寮へ向かった。

 

 今日の勉強会を振り返る。

 

 黒瀬の学力は低い。

 

 かなり低い。

 

 特に数学。

 

 基礎部分にも抜けがある。

 

 英語は感覚で覚えている部分が多少あるものの、文法理解は弱い。

 

 国語はまだマシだが、設問を最後まで読まない癖がある。

 

 普通に考えれば。

 

 赤点候補として名前が挙がるのは妥当だ。

 

 ただ。

 

 思っていたよりは、やる。

 

 分からなければ聞く。

 

 間違えればやり直す。

 

 飽きる。

 

 騒ぐ。

 

 余計なことを言う。

 

 それでも戻る。

 

 少なくとも。

 

 途中で投げ出すことはなかった。

 

「…………」

 

 五十八点。

 

 あれだけ嬉しそうにしていた。

 

 大した点数ではない。

 

 本番なら、まだ危険な位置だ。

 

 それでも。

 

 黒瀬にとっては、三十八点から先へ進めると感じられる数字だったのだろう。

 

 もし。

 

 本当に退学点を取った場合。

 

 俺にできることはある。

 

 方法はいくつか考えられる。

 

 だが。

 

 そこまでして黒瀬を残す理由が、今の俺にあるか。

 

「……」

 

 考える。

 

 結論はまだ出ない。

 

 そもそも。

 

 今考える必要もない。

 

 まずは黒瀬自身が点数を取ればいい。

 

 その方が。

 

 余計なことを考えずに済む。

 

     ◇

 

 翌朝。

 

 教室へ入る。

 

「清隆ぁ!」

 

 予想通り声が飛んできた。

 

 黒瀬が走ってくる。

 

「なんだ」

 

「宿題やった」

 

「そうか」

 

「見て」

 

 ノートを突きつけられる。

 

「俺が見る必要はないだろ」

 

「いいから」

 

 受け取る。

 

 昨日やった数学。

 

 途中式。

 

 答え。

 

 一問目。

 

 正解。

 

 二問目。

 

 正解。

 

 三問目。

 

「ここ違う」

 

「え?」

 

「符号」

 

「うわ」

 

「でも途中までは合ってる」

 

「マジ?」

 

「ああ」

 

「じゃほぼ正解?」

 

「不正解だ」

 

「厳しくね?」

 

「答えが違うからな」

 

「でも惜しい?」

 

「惜しい」

 

「うぇーい!」

 

「何を喜んでる」

 

「清隆に褒められた」

 

「褒めてない」

 

「惜しいって言ったじゃん」

 

「事実だ」

 

「それ褒めてんじゃん」

 

「違う」

 

「照れんなって」

 

「朝から面倒だな」

 

 黒瀬は上機嫌でノートを返してもらう。

 

「今日六十八いけるな」

 

「その理論まだ続いてるのか」

 

「当然」

 

「じゃ試験当日は?」

 

「百二十八」

 

「上限を超えてる」

 

「ボーナスポイント」

 

「ない」

 

「夢ねえなあ」

 

 黒瀬が笑う。

 

 俺は自分の席へ向かう。

 

 昨日より。

 

 ほんの少しだけ。

 

 退学の可能性は下がったのかもしれない。

 

 少なくとも。

 

 本人が本気でやる気を失わない限りは。

 

「清隆」

 

「今度は何だ」

 

「今日も残る?」

 

「勉強会にはな」

 

「じゃ決まり」

 

「何が?」

 

「俺も残る」

 

「最初からその予定だろ」

 

「清隆いるなら頑張れるわ」

 

「……そうか」

 

「お」

 

「何だ」

 

「今ちょっと嬉しかった?」

 

「気のせいだ」

 

「絶対そうじゃん」

 

「勉強しろ」

 

「まだ朝だぞ!」

 

 今日も。

 

 静かに過ごすのは難しそうだった。

 

 

 

 

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