黄金樹の内部に広がる静謐なる水面が、爆ぜるように跳ね上がった。
自らの腹を掻っ捌き、おびただしい鮮血と紅蓮のオーラを全身から噴き上げた壺頭に全裸の褪せ人が、音もなく滑るような前傾姿勢で疾走してくる。手にするのは、肉挽きのノコギリのごとく醜悪に歪んだ二振りの『死体漁りの曲剣』。
間合いが詰まった刹那、褪せ人は水面を蹴って軽やかに宙へと舞い上がった。
重力を無視したかのような鋭い跳躍から繰り出される、二刀流曲剣による空中連撃――狭間の地において幾多のデミゴッドを血祭りに上げてきた、通称『バッタ攻撃』である。
「遅いッ!!」
アウレーザは即座に白銀の大盾を前面に押し立て、その凶悪な乱撃を真っ向から受け止めた。
ガガガガッ!! と耳をつんざく金属音と火花が連続で炸裂する。本来であれば、盾の上からでも瞬時に出血の呪いが蓄積し、全身の血管が破裂して大ダメージを負うはずの必殺の連撃であった。
だが。
「……?」
着地した壺全裸の動きが、わずかに止まった。
手応えがおかしい。曲剣の刃に塗られた血の魔力が、眼前の白銀の重装騎士には一切浸透していかないのである。念のため、褪せ人はローリングでアウレーザの側面へと回り込みざまに素早い二連撃を浴びせかけたが、甲冑の表面を浅く削るばかりで、あの特有の血しぶきが爆ぜる手応えは皆無であった。
アウレーザは大盾で褪せ人を押し返すと、白銀の大剣を正段に構え、兜の奥から朗々たる声を響かせた。
「無駄だ! 我が肉体は既に一度死した身、英雄墓より蘇りし英霊なるぞ! 貴公がどれほど汚らわしいノコギリを振り回そうとも、この身に血など一滴も流れん!」
「あはは! ざまぁ見ろ変態!」
アウレーザの背後でぷかぷかと浮いていた半透明のミケラが、手を叩いて大喜びした。
「骨とか霊体とか石像には出血が効かないのなんて基本じゃん! 鎧と一体化した坩堝の連中にも効かなかったでしょ! 脳死で切腹バッタばっかりしてるからそうなるんだよ!」
幼き神の上機嫌な煽り文句が響き渡る。
実際、出血ビルドにとって「出血無効の敵」は天敵であった。
数回斬りつけて出血ゲージが1ミリも蓄積しないことを確認した瞬間、壺全裸はピタリと動きを止めた。
そして次の瞬間、信じがたい光景がアウレーザの眼前に広がった。
褪せ人が一歩後ろへ下がったかと思うと、何もない虚空に向けて両手を突き出し、恐るべき速度で指先をカチャカチャカチャカチャッ!!と動かし始めたのである。
それは常人の動体視力を完全に置き去りにする、異常なまでの高速の指捌きであった。
アウレーザの目には、褪せ人の目の前の空間に、無数の剣や槍、盾や兜の幻影がズラリと並び、それがシャカシャカッ!と目にも留まらぬ速度で上下左右にスクロールしていくかのような幻覚が見えた。
戦闘の最中に、わずかコンマ数秒で行われる装備変更。
パッと褪せ人の手元が光ったかと思うと、両手に握られていたはずの血塗れの曲剣が忽然と消え失せ、左手には極小の丸盾『バックラー』が、右手には細身の短剣『慈悲の短剣』が、最初からそこにあったかのように握られていた。
「なっ……!? なんだ今の神速の手品は!?」
歴戦の大英雄が驚愕に目を見張る横で、ミケラが即座に透けた指先でそれを指さした。
「あ、あれはパリィビルドだね! 気をつけてアウレーザ、致命の一撃狙いだよ!」
壺全裸は無言のまま、左手のバックラーをくいくいと挑発するように揺らしながら、じりじりと間合いを詰めてきた。剣を振れ、振った瞬間にカンカンと弾いて腹に風穴を開けてやる、という圧倒的な熟練者の余裕が、パンツ一丁の全身から滲み出ている。
だが、アウレーザは兜の奥で不敵に口の端を吊り上げた。
「小癪な真似を……! この聖銀のアウレーザを、坩堝の騎士と同じと思うなよ!」
アウレーザは左の大盾を背に回し、白銀の大剣の柄を両手で深く握りしめた。
大地を踏み砕くほどの渾身の踏み込みから、巨躯を宙へと躍らせる。
「ハァァァァァッ!!」
放たれたのは、全体重と重力を乗せて真上から叩き落とす、両手持ちでの空中斬り降ろしであった。
いかに百戦錬磨の褪せ人が誇るフレーム単位を見極める心眼とパリィ技術であろうとも、両手持ちのジャンプ攻撃はパリィ不可である。
(ッ!?)
壺全裸の頭部がわずかに仰け反った。反射的にバックラーを振り上げかけた褪せ人であったが、咄嗟にガードへと切り替えるのが精一杯であった。
凄まじい衝撃波が水面を割り、極小の丸盾ごと褪せ人の体が水面へと叩きつけられた。ガードの上からでもごっそりと体力を削り取られ、たまらず後方へと連続ローリングで転がり逃げる壺全裸。
しかし、その転がる最中ですら、褪せ人の指先は止まっていなかった。
ゴロゴロと水面を転がりながら、再び虚空で両手がカチャカチャカチャッ!と超高速の印を結び、立ち上がった瞬間には、その左手に巨大な墓石のごとき『指紋石の盾』が、右手には赤黒い腐敗を滴らせる『蟻棘のレイピア』が握られていたのである。
「うわ、今度は盾チクビルドに持ち替えたよ! 引き出しが多い変態だな!」
「問題ありません! その構成は灰都で一度見た! 無駄だ!!」
アウレーザは間髪入れずに追撃へと移った。
絶対防御の石盾を構えてレイピアを突き出そうとする褪せ人の懐へと、神速のクイックステップで一気に滑り込む。そして、大剣を振るうと見せかけて、重厚な鉄の脛当てに包まれた右足を真っ直ぐに突き出した。
「デヤァッ!!」
渾身の戦技『キック』が、指紋石の盾のど真ん中に炸裂した。
ドゴォン! と鈍い音が響き、褪せ人の巨盾が大きく天へと跳ね上がる。体勢が完全に崩れ、無防備なパンツ一丁の胸元が晒された。
「貰ったァッ!!」
「いけーっ、アウレーザ! ミンチにしちゃえー!」
大英雄の白銀の大剣が、必殺の軌跡を描いて振り下ろされようとした――まさにその瞬間であった。
体勢を崩した硬直が解けるか解けないかの極限の刹那、壺全裸はフレーム単位の超反応による後方ローリングを捻り出した。大剣の切っ先が壺の表面をかすめ、火花を散らす。
間一髪で死の淵から生還した壺全裸は、腰の聖杯瓶の個数を数えると、静かに立ち尽くした。
出血は完全無効。
パリィはジャンプ攻撃で潰される。
盾チクはキックで崩される。
この狭間の地を蹂躙してきた熟練の褪せ人にとって、あらゆる戦術を正統派の実力で真っ向から粉砕してくるこの未知の重装騎士は、かつてないほどに厄介で、かつ「まともにやり合っては面倒くさい」強敵であった。
一秒の沈黙。
壺の覗き穴の奥で、何かが冷酷に切り替わった気配がした。
カチャカチャカチャッ!!
再び、虚空で超高速の手捌きが炸裂した。
指紋石の盾が消え去り、代わりに褪せ人の両手に握られたのは、淡く幻想的な薄紫色の光を帯びた、一本の優美な細剣であった。儚い睡蓮の花のような、繊細な柄の意匠。
それを見た瞬間、上空のミケラが「あっ」と声を上げた。
直後、壺全裸は剣を掲げ、戦技『眠りの霧』を発動させた。
ボフッ!! と刀身から濃厚な紫色の煙が爆発的に溢れ出し、周囲の水面を瞬く間に覆い尽くす。さらに褪せ人は、紫の魔力をたっぷりと纏わせたその細剣を構え、煙の中から猛烈な勢いでアウレーザへと斬りかかってきた。
「煙幕か! 小細工など通用せん!」
アウレーザは冷静に大盾を構え、視界を塞ぐ紫の霧の中で繰り出される高速の連撃を、ガギン、ガギンと的確に受け止めていった。刃は一切肉体に届いていない。完璧な防御であるはずだった。
だが。
「……ぐっ……!?」
三撃、四撃と盾で受け止めた瞬間、アウレーザの視界がぐにゃりと大きく歪んだ。
鉄壁の大盾を貫通し、霧と剣撃に込められた「睡眠」が、直接アウレーザの脳髄へと蓄積していく。
そして五撃目を受け止めた刹那、目には見えない紫色の紋様が頭上で弾けるような感覚と共に、抗いがたい猛烈な睡魔と眩暈が、大英雄の意識を根底から揺さぶった。
「こ、これは……! 睡眠の状態異常か……なんと、卑劣な……!」
強靭な精神力によって完全に眠り込むことこそ免れたものの、重装甲冑を支える膝からガクンと力が抜け、アウレーザはその場に大きく体勢を崩してしまった。意識が霞み、数秒間、指一本動かすことすらままならない致命的な硬直――。
その光景を見たミケラが、半透明の顔を真っ赤にして上空から絶叫した。
「ああーっ!! それ『トリーナの剣』じゃん!! なんでお前が持ってるのさ!? 僕が影の地の奥の方に棄ててきた半身の力だよ、この泥棒! 空き巣! 壺! 全裸!!」
霞みゆく意識の中、主君のあんまりな叫び声を聞いたアウレーザは、朦朧としながらも魂の底から冷え切った声を絞り出した。
「……自分の半身を、棄てたのですか……。ミケラ様、最低です……。因果応報、ですね……」
ツッコミを入れるのが、大英雄に残された最後の抵抗であった。
睡眠のよろめきによって完全に無防備となったアウレーザの前で、壺全裸は再びカチャカチャッ!と右手を高速で動かし、トリーナの剣から再び、致命の一撃に特化した『慈悲の短剣』へと持ち替えた。
さらに短剣を象ったタリスマンを腰に提げると、一歩前に踏み出し、動けぬアウレーザの胸元の隙間へと容赦なく、慈悲の短剣をねじ込んだ。
ドスッ!! と、黄金樹の内部に、無慈悲な致命の一撃の炸裂音が響き渡った。
貫通の衝撃がアウレーザの霊基を内部から完全に粉砕する。
「ガハッ……!!」
白銀の大剣が水面へと落ちて重厚な甲冑が仰向けに倒れ伏し、水しぶきを上げた。
かつて黄金樹の全盛期を支え、ミケラによって蘇生された最強の大英雄アウレーザは、あらゆる戦法を駆使する壺頭の褪せ人の前に、ついにその膝を屈したのであった。
「う、嘘でしょ……!? アウレーザが負けちゃった!?」
半透明のミケラが、空中で顔面蒼白になって震え上がった。
倒れ伏したアウレーザの肉体からは、すでに消滅を意味する黄金の光の粒子がサラサラと立ち昇り始めている。もう戦える者は誰もいない。
血のついた短剣を無造作に振って水面に血を払った壺全裸が、ギギギとゆっくり首を巡らせ、宙に浮くミケラの姿を捉えた。
ロックオン。
パンツ一丁の変態が、無言のままスタスタとミケラに向かって歩いてくる。
「ひっ……! ま、待って! 落ち着いて話し合おうよ!」
ミケラは慌てて後ずさりながら、必死に透けた両手を振って命乞いを開始した。
「ね、ねえ! 僕と契約してエルデの王になろうよ! 王になるには半身になる神が必要でしょ!? 僕なら君を優しく導いて――」
ミケラが必死の笑顔を作って愛想を振りまいていた、まさにその演説のど真ん中であった。
スタスタと目の前まで歩いてきた壺全裸は、ミケラの言葉を一ミリたりとも聞くことなく、無言のまま右手の『慈悲の短剣』を半透明の幼き神の腹部へと深々と突き刺した。
ドスッ!!
「――導いてあげられオッフゥ!」
ギデオン=オーフニールと全く同じ轍を踏み、自分語りの最中に容赦なく刺し貫かれるクソガキ神。
元々スカスカの霊体であったミケラの体は、その一撃であっけなく限界を迎え、光の粒子が立ち昇り始めた。
「いたた……っ! もう、本当に誉れの欠片もない奴だな……!」
消滅しかけながらも文句を垂れるミケラの胸元から、コロン、と何かが抜け落ち、澄んだ水面の床へと転がり落ちた。
それは、黄金の輝きと白銀の冷たい光が螺旋状に絡み合った、見たこともないほどに美しく、そしてどこか歪な円環の結晶――『慈愛の修復ルーン』であった。
それを見た瞬間、壺全裸の動きがピタリと止まった。
ゆっくりと身を屈め、その見慣れぬ修復ルーンを拾い上げる。
一秒。二秒。
褪せ人の視界の端に、『慈愛の修復ルーンを入手しました』という未知のテロップが浮かび上がったに違いない。
次の瞬間、壺全裸は突如として発狂したかのような奇行を開始した。
無言のまま、その場でピョンピョンと超高速のジャンプを繰り返したかと思うと、手にした短剣を猛烈な勢いでカチャカチャカチャカチャカチャッ!!と鳴らし始めたのである。
さらにはその場でコマのようにグルグルと超高速回転し、最後に天に向かって『恍惚』のジェスチャーを決め、そのままピタリと静止した。
何百時間も狭間の地を駆け、あらゆる終焉の可能性を見たはずの熟練の褪せ人が、まさかの「未知の隠しルート」を発見した瞬間の、魂の狂喜乱舞であった。
水面に倒れ伏し、下半身から光の粒子となって透け始めているアウレーザと、その隣で同じように消えかけているミケラは、ただ呆然とその気色悪い踊りを眺めるしかなかった。
「……ミケラ様。あれは一体、何の儀式なのですか?」
「……喜びのダンスじゃないかな。褪せ人って、嬉しいことがあるとすぐその場でジャンプしたり武器をカチャカチャ鳴らしたりする習性があるんだよ。ほんとキモいよね……」
二人が遠い目で呟いている間に、満足したらしい壺全裸はスタスタと祭壇へと歩み寄り、砕けたマリカの亡骸に向かって、今しがたミケラからぶんどった『慈愛の修復ルーン』を無造作にねじ込んだ。
瞬間、黄金樹の内部が、目を灼くような眩い白銀と黄金の光に包まれた。
* * *
世界が再構築されていく。
燃え盛っていた灰都の炎は鎮まり、天を覆っていた黒煙が晴れ、狭間の地に再び大いなる黄金樹の輝きが降り注ぎ始めた。ただ、その光はかつてのような苛烈な黄金色ではなく、すべてを優しく微睡ませ、等しく魅了して包み込むような、淡く甘美な白銀の光を帯びていた。
そして、王都の最奥――荘厳なる【エルデの玉座】。
世界の頂点たるその巨大な石の椅子に、新たなエルデの王が悠然と腰掛けていた。
頭には、ひび割れた巨大な壺。
鍛え上げられた肉体には鎧の一片すらなく、薄汚れた腰布――パンツ一丁。
全裸の変態が狭間の地を見下ろす玉座の広場を、どこからともなく茹でカニの生臭い匂いを乗せた風が吹き抜けていく。
幻想の狭間で、そのあまりにもあんまりな光景を最後に見届けたアウレーザは、兜の奥で静かに目を閉じた。
白銀の甲冑が、端からサラサラと光の砂となって風に溶けていく。
消えゆく意識の果てで、大英雄の脳裏に浮かんだのは、玉座の前で散った偉大なる最初の王の言葉であった。
「……ゴッドフレイ様。仰る通りでした」
アウレーザは、荘厳なる玉座に鎮座する壺とパンツを見上げ、心からの実感を込めて最後の言葉を紡いだ。
「やはり、壺頭にパンツ一丁は、流石にありません……」
その呟きを最後に、古の大英雄アウレーザの魂は、今度こそ安らかなる黄金の風となって完全に昇天していった。
「あーあ、アウレーザ、消えちゃった……」
隣でぷかぷかと浮いていたミケラの霊体もまた、より一層薄く消えかけて輪郭を失い、光の粒となって空へと溶け始めていた。
だが、幼き神はその光景を眺めながら、ふっと可憐な小首を傾げ、案外悪くなさそうにニコリと笑った。
「まあ、いいか! 変態が王になったのは癪だけど、使われたのは僕のルーンなんだから、結果的にこの世界はぜんぶ僕の『優しい世界』になったってことだもんね! 終わり良ければすべて良し、かな!」
己の計画がメチャクチャに破綻したことも、英雄を散々振り回したこともすべて綺麗に棚に上げ、純真無垢なクソガキ神は満足げに頷きながら、光の中へと消えていった。
かくして、狭間の地には争いのない、優しくもどこか狂気に満ちた新たな時代が到来した。
玉座に座る全裸の壺頭が、ふと虚空を見上げる。
その視界の上には、世界を救ったどんな祝福よりも尊く、どんな大ルーンよりも価値のある、無機質なシステムメッセージが誇らしげに輝いていた。
『トロフィーを獲得しました! 「慈愛の時代」』
その治世は、呼ばれるだろう。あとがきの時代と。
これにて「蘇れアウレーザ、我らがクソガキ神のために」は完結となります。最後までお読みいただきありがとうございました。
クスリと笑えたら評価いただけると嬉しいです。