人がものを見るとき、ものに反射した光を目という電磁波センサーが受け取り、周波数の違いを色の違いとして知覚する。このとき一つの疑問が浮かぶ。人は自分と同じ色を見ているのだろうか。
同じ周波数の光であっても、センサーとなっている目の周波数特性には個人差があるはずである。同じ周波数の光を見たとき、他人は自分と全く同じ色として知覚しているのだろうか。
さらには、感情や記憶の個人差もある。すなわち、同じ赤色として知覚していたとしても、そこに見いだすものは人によって異なる。ある者は血の色を思い、ある者は夕焼けの色を思うかもしれない。あるいは、同じ人間であっても、そのときの感情や記憶によって、それは血の色にも、夕焼けの色にもなるのだろう。
今日見る赤は、昨日見た赤と、異なる色なのだろうか、同じ色なのだろうか。
一九九四年 小樽
最後の銃声が消えても、桜町由子の耳の奥には音が残っていた。
息を止める必要はない。呼吸は浅く、一定に保つ。右手に持った銃は、銃口を床へ向けたままにする。それでも、足音と物が倒れる音は聞き分けられる。
動く者はいなかった。
火薬の臭いに、埃と血の臭いが混じっていた。割れた照明が明滅するたび、床に広がった赤が暗くなり、また浮かび上がった。
入口側に二人。壁際に一人。奥に一人。
どれも動かない。
銃撃が終わったというのは推定にすぎない。事実としては確認できていない。
由子はその場で数秒待った。
耳の奥に残る銃声と、いま実際に聞こえている音を分ける。
呼吸。衣擦れ。足音。
聞こえない。
それでも、聞こえないことは、誰も動けないことの証明にはならなかった。
由子は壁に沿って進んだ。
足裏に小さな破片が触れた。踏まずに避ける。倒れた男の手の届く範囲を通らない。開いた扉の正面に立たない。
一歩進むたびに止まり、視界の端まで確認する。
照明が消える。
暗くなる。
再び点く。
そのたび、床に倒れた人間の輪郭がわずかに変わって見えた。
見え方が変わっただけなのか、本当に動いたのか。
由子は順に確認した。
入口側の二人。変化なし。
壁際の一人。変化なし。
奥の一人。変化なし。
銃声が止んだ後の時間が、少しずつ積み重なっていく。
それでも、由子は銃口を上げなかった。
確認できていないものを、確認したことにはできない。
倒れていることと死亡していることは同じではない。動かないことと反撃できないことも同じではない。視界に誰もいないことと、誰も残っていないことも同じではない。
由子はさらに進んだ。
奥で何かが動いた。
由子は止まった。
今度は照明の影ではなかった。
床に座り込んでいる少女がいた。
金色の髪が頬に張りついていた。両手で銃を握っているが、銃口は下がっていた。構え方を知っているようには見えない。手首が震え、指が引き金の近くに残っている。
少女の前に男が倒れていた。
胸元が赤く染まっていた。
由子は男の位置、銃の向き、少女の手、床に落ちた薬莢を順に見た。撃ったのはこの少女だ。
少女は生存している。
武器を保持している。
こちらの存在にはまだ気づいていない。
処理すべき情報が並んだ。
その三つだけで、次の行動を決めるには足りた。
少女がなぜここにいるのかは分からない。
倒れている男との関係も分からない。
銃を撃つまでに何があったのかも分からない。
いま必要なのは、それらではなかった。
ターニャ・リピンスカヤ。
由子はまだその名を知らない。
由子が認識しているのは、銃を持った一人の生存者だけだった。
少女の肩が小さく上下していた。
視線はまだ由子へ向いていない。
由子は距離を詰めた。
一歩。
反応はない。
もう一歩。
床に触れた足が、ごく小さな音を立てた。
ターニャが顔を上げた。
視線が合った。
青い目が由子を捉えた。だが、ターニャが由子の姿を正確に認識したとは限らない。照明は不安定で、由子は影の側にいた。年齢も、顔も、服装も、正確には見えていないはずだった。
ターニャの手が動いた。
銃口がわずかに持ち上がる。
由子はその動きを見た。
銃口の角度。
両手の位置。
指の位置。
少女の視線。
それぞれを別の情報として捉える。
由子は一歩踏み出した。
ターニャは弾かれたように肩を揺らしたが、叫ばなかった。逃げなかった。銃も捨てなかった。
由子は右腕を上げた。
照準を合わせる。
距離は近い。
外す要因はなかった。
ターニャは、銃口の先で動きを止めた。
由子の指が、引き金に触れた。