背後で、アパートの扉が閉じた。
ターニャは一度だけ振り返った。見えたのは、廊下の薄暗がりの中にある古びた扉だけだった。アリサは出てこなかった。呼び戻す声も、見送る気配もない。
痩せた男は、もう階段を下り始めていた。振り返りもせず、足音だけを先へ送っている。ターニャは小さな鞄を抱え直し、その背中を追った。
日本へ行くと決めたのは自分だった。
父が行った国でガラスを学び、働けるようになってから母へ知らせる。そうすれば、黙って家を出たことも、いつか分かってもらえるかもしれない。今戻れば、もう一度外へ出られるとは思えなかった。
男は、建物を出ると、路肩に停めてあった車の後部座席を顎で示した。ターニャが乗り込むと、自分は前へ回り、何の説明もせずに車を出した。
窓の外には、暗い通りや建物の影が次々と流れていった。何度も角を曲がり、広い道を走ったが、ターニャにはどこへ向かっているのか分からなかった。男は迷う様子を見せなかった。ならば、自分が道を知らなくてもかまわないのだろうと、ターニャは考えた。
しばらくして、車は灯りの少ない場所で止まった。男に促されて外へ出ると、空気の中に海の匂いが濃く漂っていた。冷たい風が頬へ当たり、どこかで金属同士がぶつかる音がした。灯りの少ない先に、船が黒い塊のように浮かんでいた。
ターニャが思い描いていた船とは違った。明るい窓がいくつも並んでいるわけでも、人を迎える広い入口があるわけでもない。低い機関音が腹の底へ響き、ときどき暗がりの中で硬い音が返った。人を外国へ運ぶための船には見えなかった。
男は足を止めず、船へ向かった。
これで日本へ行くのだ。
そう思うと、目の前の船の形よりも、その向こうにあるはずの国の方が大きく感じられた。父が見た場所へ、自分も行ける。どこでガラス細工を作れるのかは知らなくても、着けば案内してもらえる。男はそのために来た人なのだ。
ターニャは質問をせず、男のあとから自分で船へ乗った。
船へ足を移した瞬間、背後に残した町が急に遠くなった気がした。戻ろうと思えば戻れたはずなのに、ターニャは振り返らなかった。日本へ向かうことだけを今は考えていた。
足の下で床がかすかに震えていた。船の中は狭く、どこからか油と湿った布のような匂いがした。
通された場所には、二人の女が先にいた。どちらも二十歳前後に見えた。一人は身体の線が目立つ服を着て、狭い場所でも窮屈そうにせず腰を掛けていた。背筋を伸ばし、脚の置き方まで自分で決めているように見えた。もう一人は少し離れ、膝の上で両手を組んでいた。顔を上げても、すぐに視線を落とした。
「ここにいろ」
男はそれだけ言うと、声を掛ければ届くほどの場所へ離れた。二人を紹介する様子も、これからのことを説明する様子もなかった。
船の奥から低い音が続き、床の震えが足の裏へ伝わってきた。ターニャは壁際へ腰を下ろした。知らない大人ばかりだったが、自分だけではないと分かると、肩に入っていた力が少し抜けた。
先に声をかけたのは、大人びた女だった。
「あんた、まだ子供じゃない。その歳で男を知ってんの?」
ターニャは、何を聞かれたのかすぐには分からなかった。女の目は笑っているようで、値踏みするようでもあった。
「え? なんのことですか? 私、ガラス細工を勉強しに行くんです」
女は一度まばたきをし、ターニャの顔を見直した。それから、口元だけをゆっくり持ち上げた。
「ガラス細工?」
「はい。父がガラス職人だったんです。私もガラスを作りたくて。日本で、勉強しながら働けると聞きました」
「へえ。そりゃまた……。で、どこに行くのさ?」
「まだ知りません。着いたら、案内してもらえると思います」
「誰が待ってるんだい?」
「それも、まだ聞いていません。でも、日本まで案内してもらって、向こうで聞けばいいと言われました」
女は、ターニャの言葉を一つずつ確かめるように見つめていた。もう一人の女も、一度だけ顔を上げた。その視線はすぐに外れたが、ターニャの胸に小さな居心地の悪さが残った。
「あんたの親父さんは、日本にいるのかい?」
「いいえ。父は、もう亡くなりました」
女の口元が、今度ははっきりと歪んだ。声を立てて笑ったわけではない。それでも、何かおかしいものを見つけたような目だった。
「ふうん、そうかい。そいつは……。まあ、せいぜい頑張りな」
「はい」
ターニャが返事をすると、女は満足したように身体を壁へ預けた。年下だから子供扱いされたのだろう。知らないことばかり話したので、呆れられたのかもしれない。そう考えたが、女の笑みだけは、喉に小さなものが引っかかったように残った。
大人びた女は、日本での仕事について話し始めた。言葉には迷いがなく、自分の顔も身体も笑い方も、そのために役立つと知っているようだった。
「向こうじゃ、男の相手をすれば稼げるんだ。若いうちに稼げるだけ稼いだ方がいいのさ」
そんな仕事をしに行く女と、ガラス細工を学びに行く自分が同じ船にいることに、ターニャはどこか場違いな感じを覚えた。目的が違っても、日本へ行く者をまとめて運ぶことはあるのかもしれない。
女は、痩せた男の方へ顔を向けた。
「向こうじゃ、どこの店に入るんだい?」
「俺が知るかよ」
男は振り返りもせずに答えた。面倒そうに片手を動かし、それきりこちらを見なかった。
「まあ、金になればどこでもいいけどね」
女は肩をすくめ、もう一人へ顎を向けた。
「あんたも稼ぎに行くんだろ?」
口数の少ない女は、すぐには答えなかった。組んでいた指へ力を入れ、短く息を吐いた。
「金がいるのよ」
「ずいぶん急いでるみたいじゃないか」
「家に病人がいる。まともじゃないって分かってる。でも金が要るの」
それだけ言うと、女は再び目を伏せた。自分の事情を聞かれたから答えただけで、ターニャへ何かを教えるつもりはないようだった。
まともではない。
その言葉が、機関音の中でもはっきり耳に残った。
夜の船なのに、どこで何をするのか説明はなく、必要な書類のことも何も聞かれていない。明るい乗り場も、人の列もなかった。二人の女は、それを知ったうえでここにいるらしい。
これは、普通の旅行ではないのかもしれない。
そう考えると、途切れない低い音まで自分を閉じ込めるもののように聞こえた。だが、二人の女も自分も拘束されてはいない。嫌がるところを無理に乗せられたわけでもなかった。
日本へ行くと決め、ここまで来たのは自分だ。
それに、二人と自分は仕事が違う。二人は金を稼ぐために日本へ行くから、自分とは違う事情を知っている。自分はまだ子供で、外国へ行くために何が必要なのか分からない。必要なことは案内する大人が済ませ、日本へ着けば、工房まで連れていける人が説明してくれるのだろう。
日本へ行けば、炉と道具があり、ガラスを作る人がいる。お父さんを知っている人もいるかもしれない。
そう考えているうちに、胸の中の不安は消えなかったが、形だけは小さくなった。
会話が途切れてしばらくすると、船の揺れが大きくなった。床から上がってくる振動が腹の奥まで届き、金属のきしむ音が不規則に重なった。身体が持ち上げられ、少し遅れて落とされるような感覚が続いた。
ターニャは壁へ肩を預けた。初めは寒さのせいだと思った。次に、食べていないせいかもしれないと考えた。だが、やがて胃の中がゆっくり持ち上がり、喉の奥まで押し上げられるような吐き気に変わった。
目を閉じても、揺れは止まらなかった。むしろ、どちらへ傾いているのか分からなくなった。ターニャは片手を床へつき、もう片方で壁を探した。
簡素な食べ物と水が渡された。先に話しかけてきた女は少し顔をしかめながらも口へ運び、口数の少ない女も必要な分だけ食べた。ターニャは匂いを感じただけで胃が縮み、顔を背けた。
ターニャは水をわずかに飲んだ。冷たさが喉を通った直後、また吐き気がこみ上げた。容器を両手で持ったまま、壁へ額をつけた。
眠ったと思うたび、機関音に起こされた。床の震えは身体の中へ残り、目を開けても閉じても同じ音が続いていた。夢を見たのか、ただ考えていただけなのかも分からなかった。
次に目を開けたとき、扉の隙間から白っぽい光が差していた。昼になったらしい。光は細く、外の景色までは見えなかった。ただ、夜が終わり、長い時間が過ぎたことだけは分かった。
身体の向きを変えると吐き気が戻った。口の中が乾き、ターニャは再び壁へ額をつけた。
そのあと、どれほど眠ったのか分からなかった。揺れと振動は途切れず、ときどき誰かが動く気配だけがした。目を覚ましても、同じ場所、同じ音、同じ匂いが続いていた。
もう一度起こされたときには、隙間の向こうは再び暗くなっていた。
「着くぞ。支度しろ」
痩せた男の声だった。
機関音が低くなり、船体の震え方が変わっていた。一定に続いていた揺れが弱まり、その代わり、外から短い音や声が近く聞こえるようになった。
大人びた女はすぐに立ち上がった。服の皺を手で伸ばし、髪を指で整え、頬を軽く押さえた。さっきまで船に揺られていたことなど見せないように、姿勢を作り直しているようだった。
口数の少ない女も黙って身支度をした。動きに迷いはなかったが、顔は硬く、到着を喜んでいるようには見えなかった。
ターニャだけはすぐに動けなかった。床へ片手をつき、次に壁へ手を移した。脚へ力を入れても、身体がまだ船の揺れに合わせて動こうとした。何度か息を整えて、ようやく立ち上がった。
外へ出ると、冷たい空気が頬に当たった。暗闇の中に灯りがにじみ、風の匂いも出発した場所とは少し違うように感じられた。足元は止まっているはずなのに、まだ床が上下しているようだった。
ターニャは一歩ごとに足元を確かめ、男のあとを進んだ。
船を降りた先には、埠頭の灯りが途切れ途切れに並んでいた。近くの壁には、ロシア語とは違う見慣れない文字が、縦と横に組まれていた。形を目で追っても、どこから読めばよいのかさえ分からなかった。
倉庫のそばには何人かの男がいた。男たちは短い言葉を交わしていたが、ターニャには一つも聞き取れなかった。音の切れ方も、言葉の続き方も、知っているロシア語とは違っていた。
ここが日本なのだ。
誰にもそう言われていない。それでも、見慣れない文字と、意味の分からない言葉がある。二人の女はためらわず船を降り、痩せた男も、ここが目的地だと分かっているように迷わず歩いていた。
長く続いた揺れが止まり、ターニャはようやく着いたのだと思った。胸の奥に、細い息が戻った。父が来た国へ、自分も来た。その事実だけで、立っている場所が急に遠い世界のように感じられた。
だが、灯りの向こうに見えた光景は、ターニャの想像とは違っていた。暗い倉庫と、その前に停められた二台の車があるだけだった。
「どこへ行くんですか?」
「こっちだ。迎えが来ている」
男は倉庫を示し、先に歩き出した。
迎えの人に会えば、そこからガラス工房のあるところへ案内してもらえるのかもしれない。ターニャはそう考えて後を追った。
先に話しかけてきた女は、倉庫にも車にも驚かず、背を伸ばして歩いていた。暗い場所で待つ男たちの視線を受けても、歩幅を変えなかった。口数の少ない女も足を止めなかったが、表情は沈み、唇を結んだままだった。
二人とも、この場所がどのようなところか、初めから分かっていたように見えた。
ターニャは周囲を見回したが、目に入るのは倉庫の壁と車の影、灯りの届かない暗がりだけだった。
歩みが少し遅れた。喉が乾き、肩がこわばった。船酔いとは違う冷たさが、背中を上がってきた。倉庫へ近づくほど、何かがおかしいという感覚が強くなった。
アリサは、男の言うことを聞けば日本へ行けると言った。男は実際にここまで連れてきた。だから、まだ何も間違ってはいない。迎えの人が事情を知っていて、車でガラス工房のあるところへ連れていくのかもしれない。
そう考えても、胸の中のざわつきは収まらなかった。
痩せた男は先に倉庫へ入り、奥へ進んだ。中央には大柄な男が立ち、その片側に口髭の男がいた。痩せた男は反対側へ回った。
三人の女は入口の近くで止められた。
倉庫の奥から声が飛んだ。
「中へ入れ」