Op.クリムゾン・ランディシー   作:ゆきなんとか

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破綻

「Заходите внутрь.(中へ入れ)」

 倉庫の奥から飛んだ声に押されるように、ターニャは、二人の女のあとに続いて入口を越えた。

 靴底が硬い床へ触れた瞬間、ターニャは身体がもう一度、船の揺れに取り残されたように感じた。床は動いていない。それでも足の裏だけが遅れて沈み、膝の奥が頼りなく揺れた。冷えた空気に、油と古い木の匂いが混じっていた。

 一緒に来た二人の女は、倉庫の中と、入口の向こうに見える二台の車を交互に見た。二人の間で短い囁きが交わされた。どちらも足を止めず、引き返そうとはしなかった。

 ターニャは、自分がここまで来た理由を確かめるように、胸元へ視線を落とした。服の上には、赤いペンダントがあった。冷えた指はその近くまで上がっていたが、触れなかった。暗い灯りの下では、父が作った夕焼けの色よりも深く、黒に近い赤に見えた。

 父も、この国へ来た。

 ここまで来たのは、日本でガラス工芸を学ぶためだった。炉の前に立ち、父が見たものを自分の目で見るためだった。倉庫はその途中にあるだけで、迎えの人がここから工房へ連れていく。そう考えれば、まだ間違ってはいない。

 顔を上げると、倉庫の奥まで見渡せた。片側に小さな事務室があり、木箱が何列も積まれている。奥には机が置かれ、その向こうに男たちがいた。閉じた搬入口の前にも一人いる。ここから先、どこへ連れていかれるのかを教えてくれる者がいるはずだった。だが、ターニャへ声をかける者はなく、男たちは三人を待っていたというより、運ばれてきた荷物を確かめるように見ていた。

 中央に大柄な男が立ち、その両側に口髭の男と、船で一緒だった案内役の男がいた。案内役は、もう船の中とは違う顔をしていた。こちらを振り返らず、大柄な男のそばに収まっている。

 日本人らしい男たちもいた。机の近くに年上の男、閉じた搬入口の前に長髪の男、少し離れたところに若い男がいる。三人の女の近くには、日本人の女が立っていた。男たちとは違って声を荒らげず、何をするでもなく、三人を見ていた。

 若い男の甲高い怒鳴り声が倉庫に響いた。

 言葉の意味は分からなかった。それでも、自分へ向けられた声だということだけは分かった。ターニャの肩がすくみ、視線が止まった。喉の渇きが急に強くなった。

 船の中でよく喋っていた女が、日本人の女へ顔を向け、日本語らしい短い言葉を投げた。耳に残ったのは、サッポロという音だけだった。

 日本人の女が短く答えると、女は口元だけで笑った。続けてもう一度何かを尋ねたが、返った言葉もターニャには意味を結ばなかった。

 女は肩をすくめた。望んだ返事ではなかったらしいことだけが、その仕草から分かった。

 もう一人の女は何も言わなかった。ターニャも訊かなかった。何を訊けばよいのか分からず、訊いたとしても、自分の言葉が通じるとは思えなかった。

 サッポロは場所の名なのかもしれない。ガラス工芸を学べるところも、そこにあるのだろうか。

 大柄な男が三人を順に見た。顔を見ているというより、そこに三人いることを数えているような目だった。

「Все трое здесь.(三人ともいる)」

 机のそばの年上の男が短く返し、封筒を机へ置いた。男の一人が中身を取り出して数え始めた。紙の束が指の間を移る乾いた音がした。別の男は金を見ず、ターニャたちを見ていた。

 迎えのための金だろうか。

 日本まで運んだ代金。ここまでの船代。運賃。そう考えようとしたが、誰も案内役の男へ道を訊かず、誰もターニャへ父の名やガラスのことを訊かなかった。

 大柄な男が入口の外を顎で示した。

「Почему две машины?(なぜ車が二台ある)」

 年上の男の返事は少し遅れた。

「Планы изменились.(予定が変わった)」

「Что изменилось?(何が変わった)」

「Одну повезём отдельно. В Саппоро встретимся.(一人だけ別に運ぶ。札幌で合流する)」

「Это наше решение.(こっちで決めた)」

 ロシア人の男たちの視線が、三人の女へ向いた。

 一人。

 ターニャは、先ほど日本人の女に話しかけた女を見た。その口元から笑いが消えていた。もう一人は顔を上げたが、誰とも目を合わせなかった。どの一人なのかは言われなかった。

「Мы договорились передать всех троих вместе.(三人まとめて渡す約束だった)」

 大柄な男の声が低くなった。

「Скажем, что одна не доехала. Вам заплатят за троих. Какие проблемы?(一人は途中で来なかったことにする。そっちには三人分を払う。それで何が困る)」

 紙を数える音だけが続いた。

 三人分という言葉の意味は分かっているのに、何を言われているのかが分からなかった。ターニャは机の封筒と紙幣を数える指、三人を順に見る目、外にある二台の車を見比べた。一人だけ別に運ぶという話も、頭の中でうまくつながらなかった。

 誰も三人へ、どこへ行きたいのか訊かなかった。どんな仕事をするのかも、行ってよいのかも訊かない。

 ターニャは、案内役だった男を見た。男は船の中と同じ無関心な顔で、こちらを見ようともしなかった。あの女が言った、日本まで案内してくれる人。着けばガラス工芸ができるところへ行ける。父の行った国で学びながら働ける。

「Что ты сказал?(何だと)」

 大柄な男の手が腰へ動いた。

 日本人の女が、ターニャたちから半歩離れた。同時に、甲高い声の若い男が上着の内側へ手を入れた。

 ターニャは日本人の女を見た。ここへ入ってから、三人の近くにいた人だった。何が起きるのか知っているように見えた。止めてくれるのか、説明してくれるのか、言葉が通じなくても何かしてくれるのか。

 女はターニャを見なかった。

 大柄な男が身体をひねった。

 大きな音が倉庫を打った。

 何が鳴ったのか分かるより先に、ターニャの身体が止まった。胸の内側まで押しつぶすような音だった。耳の奥が塞がり、灯りも男たちも一瞬だけ遠くなった。

 日本人の女が右へ動き、木箱の陰へ消えた。次の音が壁を叩き、硬い破片が床へ落ちた。三つ目の銃声は別の方角から鳴った。

 銃だと分かった。

 ターニャは膝を折り、その場へ身を低くした。逃げる場所を考えたのではない。頭を下げなければならないという考えさえなかった。身体が勝手に縮み、両肩が耳へ近づいた。

 口元だけで笑った女が叫んだ。

 閉じた搬入口へ走る。長髪の男が横へ動いた。その直後、女の身体が前へ折れた。足が追いつかず、床へ投げ出されたように倒れた。

 誰が撃ったのか、ターニャには見えなかった。

 名前を知らない。呼びかける言葉も出なかった。船の中で笑い、自分の顔と身体で稼ぐのだと言っていた女が、床に伏したまま動かなかった。

 もう一人の女は壁際へ座り込んだ。両手を頭へ置き、身体を小さくした。口が動いたように見えたが、銃声に消されて何も聞こえない。

 木箱の陰から口髭の男が身体を出した。年上の男がいる側から銃声が鳴り、口髭の男はすぐに引っ込んだ。その直後、壁際の女が横へ倒れた。頭に置いていた手が床へ落ちた。

 ターニャは動けなかった。

 行かなければ、と思った。二人のどちらへかは分からない。近づいて起こすのか、壁際へ逃げるのかも分からない。ただ、自分だけがしゃがんだままでいることが恐ろしかった。

 また銃声が鳴った。

 ターニャは倒れた二人と音から離れようとした。腰を上げられず、身体を折ったまま、最も近い木箱列の陰へ数歩動いた。片手が床へつきかけ、膝が硬い床を擦った。そこが安全だと考えたわけではない。木箱が視界を塞ぎ、倒れた女たちが見えなくなったところで、身体がそれ以上進まなくなった。

 木箱の向こうで人影が動き、銃声が重なった。誰がどこにいるのか、もう分からない。最初は別々に聞こえた音が、倉庫の壁と天井で何度も跳ね返り、一つの長い音のようになった。

 甲高い声が何かを叫んだ。

 若い男が木箱の脇へ動くのが見えた。次の一発が鳴るのとほとんど同時に、男の身体が急に崩れた。肩から木箱へぶつかり、そのまま床へ倒れた。

 撃たれた。

 そのことだけは分かった。

 若い男の声は、もう聞こえなかった。

 ロシア語を話していた年上の男の声も、いつの間にか消えていた。閉じた搬入口の側で響いていた足音や物が動く音も、銃声の合間に聞こえなくなった。誰が倒れ、誰がまだ動いているのか、確かめることはできなかった。

 木箱の角が弾けた。木片が頬のそばを飛び、ターニャは床へさらに身体を伏せた。乾いた埃が口に入り、火薬の苦い匂いが喉へまとわりついた。その奥に、知らない生臭い匂いが混じり始めていた。

 大柄な男が視界の端で倒れた。手から何か硬いものが離れ、床を滑る音がした。黒いものが木箱列の角の近くまで来たように見えたが、積み荷の影へ隠れた。何だったのか考える前に、別の銃声が鳴った。

 音の間が少しずつ開いた。

 日本語の声も、ロシア語の怒鳴り声も減っていった。静かになったのではない。次にどこから音が来るのか分からない時間が長くなっただけだった。

 ターニャは息を殺した。耳鳴りの向こうで、自分の呼吸だけがひどく大きく聞こえた。喉が鳴るのも、床へ触れた指が震えるのも、誰かに見つかる合図になるような気がした。

 木箱の向こうで足が擦れた。

 ターニャは顔を上げられなかった。音は近づいたのではなく、横へ移っているようだった。誰かが急いで位置を変えている。次の瞬間、木箱の角から人影が回り込んだ。

 船の案内役だった。

 肩越しに後ろを見ながら角を回ってきた男は、そこにターニャがいるとは思っていなかったらしく、全身をこわばらせた。男の顔がはっきり見えるほど、二人の距離は近かった。

 男は目を見開いた。その手には拳銃があった。腕が反射的に跳ね上がり、銃口がターニャへ向いた。

 次の瞬間、発砲音が身体のすぐそばで破裂した。弾はターニャの脇を外れたらしい。何に当たったのかは分からなかった。

 撃たれた、とターニャは思った。

 光と音に押され、ターニャの身体は横へ縮んだ。どこが痛いのかも、血が出ているのかも分からなかった。確かめるより早く、別の方向からもう一発だけ銃声が鳴った。

 男の身体が崩れた。

 何が起きたのか分からないまま、男は床へ倒れた。誰が撃ったのか見えなかった。どこから撃たれたのかも分からない。助けられたという考えは浮かばなかった。

 男の手には、まだ拳銃があった。

 倒れたまま、顔がわずかに動いた。肩が床を擦り、腕が持ち上がろうとした。肘から先だけが震えながら向きを変えた。崩れた姿勢のまま、揺れる銃口がもう一度ターニャの方へ向いた。

 今度こそ撃たれる。

 次の音が鳴る。そう確信した。

 ターニャは逃げようとも、戦おうとも考えなかった。さらに身体を縮め、床へ手をついた。そのとき、木箱の角の影に黒い拳銃が見えた。

 片手を伸ばせば届くところにあった。

 拾うと考える前に、手が動いた。指先が冷たい金属へ触れ、触れたところをそのまま掴んで自分の方へ引いた。どこを持てばよいのか分からなかった。片手では重さを支えきれず、手首が床へ引かれた。もう一方の手を添えた。

 両手で、胸元から前へ押し出すように持ち上げた。

 前には、男の銃口があった。

 それだけを見ていた。拳銃の上にある突起も、指の位置も見なかった。両手に力を入れ、落とさないように強く握り込んだ。その動きの中で、指が引き金を一度だけ引いた。

 銃声が鳴った。

 同時に、掌を内側から叩き返された。

 硬く、強い衝撃が両手を突き抜けた。手首が反り返り、骨の中を走るような痛みが前腕へ抜けた。肘が跳ね、両肩まで一度に揺さぶられた。銃口と両腕が、ターニャの意思とは関係なく上へ跳ねた。前へ伸ばしたはずの腕の位置が崩れ、胸の前へ押し戻された。

 指と掌が痺れた。熱いものを握ったような熱が遅れて広がり、その奥に刺すような痛みが残った。握っていた力が一瞬抜けた。拳銃の重さが両手から落ちそうになり、ターニャは何を持っているのかも分からないまま、指をまた縮めた。

 腕が痛かった。手首から肘まで、まだ衝撃が走り続けているようだった。肩の奥が震え、息が出なかった。

 男がどうなったのかを見るより先に、手から肩までの痛みだけが身体を満たした。

 遅れて、排出された薬莢が床で小さく跳ねた。

 男は、ターニャの前に倒れていた。

 胸元が赤くなっていた。赤は服の上でゆっくり広がったが、ターニャにはそれが何なのか考えられなかった。男の腕は床へ落ち、もう銃口を持ち上げなかった。

 続く銃声はなかった。

 ターニャの膝から力が抜けた。腰が床へ落ち、そのまま座り込んだ。両手は拳銃を握ったままだった。離そうとしても、指が動かなかった。銃口は下がり、手首だけが止まらず震えた。引き金へ触れた指も、その近くに残っていた。

 耳鳴りの中で、倉庫は急に広くなった。

 誰の声も聞こえなかった。

 

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