積み上げられた木箱の間、明滅する照明の光が届ききらない場所で、何かが動いた。
ターニャは顔を上げたつもりだったが、実際には顎がわずかに動いただけだった。頬に張りついた髪の向こうで、明滅する灯りがにじみ、暗い人影だけが木箱の間から近づいてくる。
耳の奥では、細い音が途切れず鳴っていた。息を吸おうとしても胸がうまく広がらず、浅い呼吸が喉の奥で震えた。血の生臭さと火薬の苦い臭いが混じり、乾いた口の中にまでまとわりついていた。
両手には、まだ拳銃があった。
指を開こうとしても、どこへ力を入れればよいのか分からなかった。掌だけが熱を持ち、指先の感覚は遠のいている。手首から肘、肩へと続く痛みが、脈打つたびに形を変えた。胸の前にある黒いものが、自分の手に支えられているということさえ、うまくつながらなかった。
暗がりの中にある人影が、明滅する灯りのたびに少しずつ大きくなった。
靴が床へ触れる気配はあったが、耳鳴りのために一歩ごとの音にはならなかった。明滅する灯りが消えるたび、その姿も消え、次に灯りが戻ると少し近くにいる。距離は縮まっても、顔も、性別も、年齢も分からなかった。ただ、人影だけがこちらへ近づいてきた。
近くでも顔は見えなかった。男か女かも分からない。見えたのは、暗がりから伸びる腕と、その先にある銃だけだった。
ターニャは反射的に肩を引いた。
背中を逃がそうとして、上体がわずかに起きた。痺れた両手も一緒に動き、拳銃も持ち上がった。銃口がどちらを向いたのか、ターニャには分からなかった。撃つつもりはなかった。もう一度指を動かすという考えもなかった。ただ、目の前の銃から身体を遠ざけたかった。
そのとき、人影が一歩踏み出した。腕が上がり、銃口がこちらへ向いた。
撃たれる。
身体が先にその瞬間を待った。肩が縮み、息が止まり、両手の痛みも耳鳴りも、次の大きな音が来るまでのものに変わった。
一秒が過ぎた。
音は鳴らなかった。
人影の腕は下がらず、銃口も自分に向けられたままだった。ターニャの指は動かず、身体も動けなかった。
そのまま一秒が過ぎた。それでも撃たれなかった。
ターニャは息を吐けなかった。止めていたことにも気づかず、胸の奥が痛くなってから、細い息が喉を漏れた。その音で撃たれるのではないかと思ったが、銃口の向きは変わらず、やはり何も起きなかった。
助かったとは思わなかった。銃口を向けられれば、次には音が鳴るはずだった。だが、時間だけがそこで止まり、起きるはずのことが抜け落ちたような、形のない空白が二人の間に残った。撃たれると分かっているのに、撃たれないことのほうが、よほど恐ろしく感じられた。
遠くで車の扉が閉まる音がした。
空白を割るように、大勢の足音が倉庫へ近づいた。入口から鋭い日本語の声が飛んだ。言葉の切れ目も意味も分からなかったが、命令する声だということは分かった。
ターニャは倉庫の入口へと顔を向けた。
また誰か来る。
ここから離れなければならない。どこへ行けばいいのか全く分からなかったが、今いる場所から身体を動かさなければならないという衝動だけは残った。
ターニャは身体を前へ傾けた。腰がわずかに床から浮いた。片膝をつき、倒れないよう左手を壁へ伸ばした。拳銃は右手に残っていた。握り続けようとしたのではない。左手を離したあとも、痺れた指が黒い重みの周りに引っかかっていただけだった。
床についた膝が痛んだが、立つための力にはならなかった。脚が自分の身体の下にあることは分かっても、どちらへ重みを移せば立てるのかが分からない。入口の人影は増えていくのに、身体だけが床へ置き去りにされていた。
壁に触れた左手が滑った。立ち上がる前に膝が止まり、腰が持ち上がらない。右手の指から、残っていた力が抜けた。
拳銃が掌を滑った。
硬いものが床へ落ち、短い音を立てた。ターニャはその音へ顔を向けなかった。捨てたのでも、渡したのでもなかった。落ちたものを拾うという考えが浮かぶ前に、入口から入ってくる人影へ注意を奪われた。
左手を壁につき、片膝を床につけたまま、ターニャは動けなくなった。
先ほどまで自分へ銃を向けていた人影は、もうそこにいなかった。
*
狭い通路へ入ったところで、久住は由子とすれ違った。
互いに足を止めなかった。久住は一瞥で、由子に撃たれた様子がないことと、その手に銃があることだけを確認した。由子はすれ違いざまに、手にしていたベレッタをしまった。
言葉は交わさなかった。何が起きたかは、後の報告で確認すればよい。
久住はそのまま倉庫へ入った。
最初に視界へ入ったのは、壁際にいる金髪の少女だった。
立ち上がろうとして失敗したのか、片膝を床につき、左手を壁へ伸ばしている。身体はそこで止まり、肩だけが細かく揺れていた。右手の近くには拳銃が落ちている。少女の手はそこへ伸びていなかった。
久住は歩みを緩めず、少女と拳銃の距離、両手の位置、周囲の動きを順に見た。
「Не двигайся. Мы не будем стрелять.(動くな。こちらは撃たない)」
少女が言葉を理解したかは分からない。顔は入口側へ向いたまま、明瞭な反応を返さなかった。ただ、拳銃へ触れようとする動きもなかった。
一人が少女の右手側へ回り、床の拳銃を足元から遠ざけて回収した。
少女は目で追わなかった。手を伸ばすことも、身体を引くこともなかった。焦点の合わない目が人影の間を漂い、壁についた左手は身体を支えきれずに震えている。
それでも久住は油断できなかった。疲労と恐怖を装い、接近した相手へ隠した刃物を使う。あるいは最後の抵抗ではなく、自分へ向ける。複数に囲まれ、武器を失った状況なら、訓練された兵士ほど無意味な動きを控えることもある。
だが、近づくほど、その少女が訓練を受けた者には見えなくなった。周囲の人数も出口も見ていない。回収された拳銃へ注意を戻さない。片膝をついた姿勢から立ち直ることもできず、震えを隠そうともしていない。身体は十二、三歳ほどにしか見えなかった。
「ほかに生存者はいません」
倉庫内の確認を終えた部下が報告した。
久住は少女へ向かう足を止めなかった。
「消毒班をよこせ」
消毒班。久住たちは、作戦実施後の痕跡、遺体、記録、証拠、目撃情報などの後始末をする部隊をそう呼んでいる。
久住は残留する要員に、倉庫の掌握を維持し、後着する班へ引き継ぐよう命じた。具体的な処理はそちらの仕事だった。
床に片膝をついた少女は、まだ壁へ伸ばした左手を下ろせずにいた。
拳銃が手元から離れても、少女の呼吸は乱れたままだった。髪は頬に張りつき、顔色は照明の明滅を差し引いても悪い。目立つ大量出血は見えない。だが、それ以上のことをここで判断する必要はなかった。
工作員ではないと決めるには早い。それでも、何も知らずにこの場へ運ばれ、巻き込まれただけの少女である可能性は、近づくたびに高くなった。
久住は立ったまま、少女の手が届かない距離を保った。
「Как тебя зовут?(名前は?)」
少女の顔は上がらなかった。
少し遅れて、目だけが久住へ向いた。焦点は定まりきらず、すぐに外れそうだった。唇が動いたが、最初に漏れたのは声ではなく息だった。もう一度息を吸おうとして、それも途中で途切れた。
「Таня… Татьяна Липинская…(ターニャ……。タチヤーナ・リピンスカヤ……)」
言い終えると、少女の視線は床へ落ちた。それ以上の言葉は続かなかった。
「ターニャ」
久住は、聞き取った名を確かめるように小さくつぶやいた。
ターニャと名乗った少女の目はもう久住を見ていなかった。震えは収まらず、壁についた手にも力が戻らない。言葉を続ける余力はなく、拳銃があった場所へ手を伸ばす気配もなかった。
現場で問いを重ねても、信頼できる情報は得られない。身体の状態を確認し、休ませたうえで、回復後に正式な聴取を行うべきだった。
「生存者確保。メディック!」
久住は医療担当を呼んだ。メディックは衛生兵ではない。負傷者が出た場合の搬送と、受入先の病院へ渡す情報の操作を担う工作員として、最初からチームに同行している。
メディックが近づく前に、別の要員がターニャの外衣の上から必要最小限の安全確認を行った。ターニャは遅れて身体を揺らしただけで、抵抗しなかった。直ちに使える隠し武器は確認されなかった。
それでも久住は、少女の両手から目を離さなかった。
メディックがターニャに近づいた。呼吸が続いていること、意識が完全には失われていないこと、目立つ大量出血がないことを短く確かめる。ターニャは触れられても、避けることも払いのけることもできなかった。
「運べ」
メディックはターニャの脇へ入り、肘から上腕を支えて立たせた。最初の一歩で膝が折れかけたが、支えられて体勢を戻した。その後は小さな歩幅で、自分の足を動かした。
久住はターニャの横から半歩下がった位置で、急な動きと周囲への警戒を続けた。
ターニャは顔を伏せていた。自分の足元だけをぼんやり見て、倉庫の中を見回さなかった。倒れている者にも、回収された拳銃にも、先ほど人影が消えた方向にも目を向けない。
残留要員を倉庫へ残し、久住はターニャとともに現場を離れた。
メディックはターニャを車の後部座席へ座らせた。背もたれへ身体を預けると、両手は腿の上へ落ち、そのまま動かなかった。久住が続いて隣へ乗り、メディックは助手席へ回った。
前席のメディックが必要な連絡を済ませ、事前に調整されていた受入れを確認した。病院へ伝えるのは限定された情報だけだったが、そこで行われる診察と治療は通常のものだった。
車は小樽国際病院へ向かっているが、後部座席に座らされたターニャには、車の行先も、自分があの倉庫から救い出されたのかさえも理解している様子はなかった。
久住は正面を向いたまま、ときどき隣へ視線を落とした。
ターニャの両手は腿の上から動いていない。衣服や身体のどこかへ手を伸ばすことも、窓や座席を確かめることもなかった。車が動き出したことを理解しているかさえ分からない。呼吸はまだ浅く、身体には不自然なこわばりが残っていた。
武器を隠し持っている様子はなかった。それでも、久住は工作員の可能性を完全には捨てなかった。何もできないように見えることと、何もしないことは同じではない。病院へ引き渡すまでは管理を続ける必要があった。
追ってくる車も、新しい銃声もないまま、走行が続いた。
ターニャは車内を見回さず、久住へ顔を向けもしなかった。背もたれに預けていた上体が、少しずつ姿勢を支えられなくなった。残っていた緊張よりも疲労が勝り、身体が久住の側へ傾いてくる。
久住がその変化を知ったのは、肩へ重みがかかったときだった。
肩にかかる重みは動かず、呼吸だけが次第に整っていった。
赤いペンダントが少女の胸元からこぼれ、細い鎖に留められたまま、かすかに揺れていた。