Op.クリムゾン・ランディシー   作:ゆきなんとか

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尋問

「Как ваше полное имя?(氏名は?)」

 午後の薄い光が入る病室で、ロシア語を話す日本人の女の人は、病床の脇に置かれた椅子からターニャを見ていた。

 その隣には、前夜の現場にいた日本人の男が座っている。警察か、それに近い大人なのだろう。二人はターニャを挟んでいなかったが、閉じた扉の前には別の男が立ち、外へ出られないことだけは分かった。

 診察を受け、食事を取り、長く眠った。助けられたのか、捕まったのか、ターニャにはわからなかった。

 向かいの男が話す言葉を女の人がロシア語にした。覚えていないことは、そのまま答えてよいと説明されていた。

 ターニャは膝の上で重ねた手を見た。指先には、まだ自分のものではないような痺れが残っていた。

「Татьяна Владимировна Липинская.(タチヤーナ・ウラジーミロヴナ・リピンスカヤです)」

「Татьяна… Таня?(タチヤーナ……。ターニャ?)」

「Да.(はい)」

 それからはターニャと呼ばれた。

 生まれた日を訊かれた。

「Двадцать седьмого ноября тысяча девятьсот восемьдесят первого года.(1981年11月27日です)」

 生まれた町を訊かれたのでナホトカと答えた。次に誰と暮らしていたのか聞かれたが、すぐに答えられなかった。母、セルゲイ、もういない父の顔が順に浮かんだ。

「Я жила с мамой и Сергеем. Сергей — муж мамы. Мой отец, Владимир, умер.(母とセルゲイと暮らしていました。セルゲイは母の夫です。父のウラジミールは亡くなりました)」

 向かいの男は、セルゲイと暮らしていた家を、なぜ出たのかと訊いた。

 父の工房にいたとき、セルゲイが来て、赤いグラスを見て急に叫び、父の作品、写真、手紙を壊し始めた。なぜ変わったのかは分からず、母が止めてもやめなかった。

 ターニャがそこまで話すと、掌の下で寝具が細く皺になっていた。指を開いたが、布をつかんでいた感覚だけが残った。

「Я испугалась и убежала.(怖くなって、逃げました)」

 通訳の女の人は言葉を足さずに訳した。向かいの男は、誰かに命じられて家を出たのではないのかとだけ確認した。

「Нет. Я сама ушла.(いいえ。自分で出ました)」

 そう答えたとき、工房の入口でセルゲイを押さえていた母の姿が浮かんだ。母を残してきたことは気になった。けれど、家へ戻れば、壊された父の作品をまた見ることになる。セルゲイの顔を見れば、あの音も、床に散ったものも思い出してしまう。

「Мама там. Я беспокоюсь о ней. Но я не хочу возвращаться. Я не хочу видеть Сергея.(母はあそこにいます。母のことは心配です。でも、戻りたくありません。セルゲイに会いたくありません)」

 向かいの男は、その言葉を聞くと一度だけ問い返した。家ではなく、セルゲイのいる家へ戻りたくないということか。

「Да.(はい)」

 声は自分でも聞き取りにくいほど小さかった。

 次の問いは聞こえても意味が入らず、言い直されても舌が動かなかった。

 向かいの男は質問を重ねず、今日の質問はここまでだと通訳させた。扉の前の男は残った。ターニャは横になってよいと言われても、しばらく膝の上の手を見ていた。

 

* * *

 

 翌日の午後、同じ扉の前に同じ人影が立っていた。

 向かいには昨日と同じ日本人の男と、通訳の女の人がいる。その姿を見ただけで、昨日の続きだと分かり、肩の内側へ力が戻った。何をどこまで知られているのか。答えた言葉で、ロシアへ戻されるのか。布団の上へ置いた指が、知らないうちに縫い目を探り、息も浅くなった。

 家を出たあと最初に会ったアリサのこと、古いアパートで数日待ったこと、痩せた男に連れられて船で日本へ来たことは、途切れながらも短く答えた。向かいの男は、その途中で話を戻さなかった。

 なぜ日本へ行こうと思ったのかと訊かれたとき、ターニャは初めて顔を上げた。

「Мне сказали, что в Японии я смогу учиться стекольному делу и работать.(日本でガラス工芸を学びながら働けると言われました)」

 アリサに日本で働けると言われたから、ただついてきたのではない。ターニャは、父と同じガラス職人になりたくて、自ら進んで日本へ行くことを選んだのだ。

「Мой папа раньше ездил в Японию, чтобы изучать стекольное дело.(父は以前、ガラス工芸の研究のために、日本へ行ったことがあります)」

 通訳の女の人がそのまま男へ伝え、男は途中で遮らなかった。

「Когда я была маленькой, папа рассказывал мне об этом. Я не всё помню.(私が小さかったころ、父がその話をしてくれました。全部は覚えていません)」

 ターニャは窓へ目を向けた。日本のことを話す父は、いつも嬉しそうだった。

「Он говорил, что японцы были добры к нему. Они показали ему место, где делают стекло, и многое показали и объяснили.(日本の人たちは父に親切だったそうです。ガラスを作る場所を見せてもらって、いろいろなものを見せたり、教えたりしてもらったと言っていました)」

 誰かも、町や場所の名も知らない。ただ、日本の話をする父は嬉しそうだった。

「Папа говорил, что хочет ещё раз поехать в Японию.(父は、もう一度日本へ行きたいと言っていました)」

 父がもう行けないことまで、言葉と一緒にはっきりした。

 向かいの男は、ウラジミールが日本でガラスを作る場所を見せてもらったと話していたのか、それだけを確かめた。

「Да. Я думаю, там были люди, которых он знал. Но я не знаю их имён.(はい。父の知っている人がいたのだと思います。でも、名前は知りません)」

 そこまで答えてから、ターニャは自分から続けた。

「Я хотела поехать в Японию, о которой рассказывал папа. И хотела научиться тому же делу.(父が話していた日本に行きたかったんです。それから、同じ仕事を覚えたかったんです)」

 通訳は最後まで聞いて訳した。ターニャはそっと男の顔を見て、次に何を言われるのか、黙って待った。

 男は少し間を置いて、痩せた男を何者だと思っていたのかと訊いた。

「Я думала, что он отвезёт меня в Японию. И там отвезёт туда, где делают стекло.(日本に連れていってくれる人だと思っていました。それから、日本でガラスを作っているところへ連れていってくれると思っていました)」

 倉庫へ入るよう言われたときは変だと思った。それでも、少し待つだけだと思ってついていった。

「Я думала, что мы там только немного подождём.(そこで少し待つだけだと思っていました)」

 

* * *

 

 倉庫でのことは思い出したくなかった。ターニャは膝を見たまま、しばらく答えられなかった。

「В меня выстрелил тот худой мужчина.(あの痩せた男が、私に向けて撃ちました)」

 木箱の向こうで何かが動き、拳銃がこちらを向いた。大きな音に身体がすくんだ。続けて、もう一度音がした。顔を上げたときには、痩せた男が倒れていた。

 向かいの男が、倒れた男はそのあとどうしたのかと訊いた。

「У него был пистолет.(拳銃を持っていました)」

 ターニャは両腕を胸の前へ引き寄せた。

「Он опять… направил его на меня.(また……私に向けました)」

 そのとき、どう思ったのかと訊かれた。息を吸っても、声になる前に喉の奥で止まった。

「Я думала, что он меня убьёт.(殺されると思いました)」

 次に何をしたのかと訊かれた。

 床に拳銃があった。手を伸ばしたところまでは覚えている。重くて、もう片方の手も添えた。

「Я взяла пистолет. И тут раздался выстрел.(拳銃を取りました。そうしたら、銃の音がしました)」

 向かいの男が、ターニャが自分で引き金を引いたのかと訊いた。

 ターニャは自分の指を見た。引き金に触れた感触は残っていたが、いつ力を入れたのかは思い出せなかった。

「Наверное… да.(たぶん……そうです)」

 何度音がしたのかと訊かれ、ターニャは指を一本立てた。

「Один раз.(一度です)」

 そのあとにも拳銃を使ったのかと訊かれた。ターニャは首を振った。

「Нет.(いいえ)」

 それ以上は訊かれなかった。それでも、あとで何をされるのか分からなかった。男が血を流して倒れていた姿も、頭から離れなかった。

 短い沈黙のあと、通訳の女の人が次の質問を伝えた。

「Что произошло после того, как ты выстрелила?(撃ったあと、何が起きましたか)」

 銃声が止まり、拳銃を持ったまま床にいた。耳鳴りの向こう、木箱の暗い側で何かが動いた。

「Ко мне кто-то подошёл из темноты.(暗いところから、誰かが私へ近づいてきました)」

 何者かが近づき、暗がりから伸びた腕の先に拳銃があった。

「Я видела руку и пистолет. Пистолет был направлен на меня.(腕と拳銃が見えました。拳銃は私の方を向いていました)」

 身体を起こそうとしたとき、向こうの拳銃がこちらを向いた。けれど、音はしなかった。

「Этот человек не выстрелил. Потом со стороны входа пришли другие люди. Когда я снова посмотрела, там уже никого не было.(その人は撃ちませんでした。それから入口の方から別の人たちが来ました。もう一度見たときには、そこにはもう誰もいませんでした)」

 男は人物像を示さず、見えたものだけを順に訊いた。

「Ты видела лицо?(顔を見ましたか)」

「Нет. Лица я не видела.(いいえ。顔は見ていません)」

「Ты слышала голос?(声を聞きましたか)」

「Нет. Голоса не было.(いいえ。声は聞きませんでした)」

「Ты поняла, мужчина это или женщина, и какого примерно возраста был этот человек?(男か女か、およその年齢が分かりましたか)」

 ターニャは顔を上げずに首を横へ振った。

「Нет. Я не знаю.(いいえ。分かりません)」

「Ты помнишь одежду или какие-нибудь особенности?(服装や身体の特徴を覚えていますか)」

 残っているのは腕と拳銃だけで、服、背丈、髪は覚えていなかった。

「Нет. Не помню. Я видела только руку и пистолет.(いいえ。覚えていません。腕と拳銃しか見ていません)」

「Ты видела, как этот человек ушёл?(その人がいなくなるところを見ましたか)」

「Нет. Когда я снова посмотрела, там уже никого не было.(いいえ。もう一度見たときには、そこにはもう誰もいませんでした)」

「Этот человек стрелял?(その人は撃ちましたか)」

「Нет.(いいえ)」

 質問はそこで止まった。

 通訳の女の人は何も言わず、水の蓋を外して渡した。ターニャは両手で受け取り、二口目でようやく飲み込んだ。冷たい水が通るたび、息が少しずつ長くなる。女の人も男も、呼吸が整うまで待った。

 やがて男が短く何かを言った。通訳の女の人がターニャを見た。

「Что ты хочешь делать дальше?(これから、どうしたいですか)」

 どこへ戻りたいかとも、ロシアと日本のどちらを選ぶかとも言われなかった。

 これまでは起きたことを答えればよかった。今度は、まだ起きていないことを自分で言わなければならない。

 母のもとへ戻りたい気持ちはあったが、セルゲイのいる家へは戻れない。壊された工房へ戻っても、つらいことを思い出すだけだった。

 日本には父が仕事を学んだ場所があり、親しくした人たちもいた。その名前も場所も知らないが、父が再び行きたいと言った国に、自分はいまいる。

「Я не хочу возвращаться в тот дом.(あの家へは戻りたくありません)」

 ターニャはそこで言葉を区切り、向かいの男が理解するまで待った。

「Я хочу остаться в Японии. Я хочу учиться работать со стеклом и стать мастером, как папа.(日本に残りたいです。ガラスを学んで、父のようなガラス職人になりたいです)」

 向かいの男が短く何かを言った。通訳の女の人が、一語だけをロシア語にした。

「Понятно.(分かった)」

 残ってよいのか、ただ聞いたのかは分からない。家へ戻されないのか、明日もここにいるのかも分からなかった。

 二人は立ち上がり、警備の男の脇を通って出た。扉が閉じ、出入口の人影だけが残った。

 静かになった。

 質問されている間は、自分へ言葉が向き、次に何を話せばよいか分かった。いまは扉の前に人がいても、通じる言葉はなかった。

 ターニャは水の容器を膝の上へ置いた。

 また訊かれるのは怖かった。それでも、答えの来ない時間を待つより、まだ質問されていた方がよかった。

 

* * *

 

 久住が札幌分室へ戻ったころには、もう外は暗くなっていた。

 ターニャの供述から、ロシア人工作員の侵入経路につながる情報は得られなかった。だが、代わりに、由子がターニャへ接触していたことが明らかになった。

 ターニャの供述によれば、何者かが近づいて拳銃を向けたものの、発砲はせず、久住たちが倉庫へ入ったときには、その場を去っていた。ターニャは相手の顔を覚えておらず、性別も年齢も分からなかった。

 突入の直前、久住は狭い通路で由子とすれ違っている。由子は拳銃を持ち、被弾もしていなかった。時刻も位置も一致していた。あの場に、由子とは別の者がいたとは到底考えられない。

 久住は、由子が現場の生存者と接触したと報告書に記した。そのうえで、ターニャ自身は相手を由子と認識していなかったことも付記した。

 由子の完了報告には、その接触が書かれていない。生存者を確認していながら、命令を実行しなかったことにも触れていなかった。

 なぜ報告しなかったのか。

 答えは出なかった。

 久住は、報告書の作成を続けた。

 ターニャは、すでに機密に触れている。密航者として処理し、ロシアへ送り返すことはできず、少なくとも今後五年間は監視下に置かなければならない。そのためには、在留資格だけでなく、暮らす場所と保護する者が必要だった。十二歳なら、学校へ通わせることも考えなければならない。

 亡父ウラジミールの日本側の縁故は、ターニャの生活基盤を整えるうえで役に立つかもしれない。久住は、現在調査中とだけ記した。ガラス工芸を学ぶため正式に来日していたのなら、記録をたどることはできるだろう。

 ターニャは、父が話していた日本を見たかったと言った。父と同じ仕事を学びたいとも、セルゲイのいる家には戻らず、日本に残りたいとも話した。

 本人に帰国の意思はない。

 久住は、ターニャの話をその一言にまとめ、報告書を書き終えた。

 

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