二度目の聴取から三日後の朝、病室の窓から差し込む光は、ターニャには前よりも白く見えた。
ターニャはベッドの端に浅く腰を下ろし、両足を揃えていた。食事は取れるようになり、着替えも洗面も、もう自分で済ませられるようになっていた。それでも、扉の外で足音が止まるたび、膝の上の指が重なった。
扉が開き、あのロシア語を話す日本人の女の人と、倉庫へ来た日本人の男が入ってきた。
ターニャは思わず顔を上げた。女の人は短い挨拶をして、以前と同じ椅子へ座った。男は病床から少し離れた別の椅子へ腰を下ろした。
女の人は、ターニャと男のどちらにも顔を向けられるように身体の向きを変えた。前の二日間と同じだった。何を訊くか決めるのは男で、女の人はその言葉をターニャへ伝える。男はターニャを見てから、短く話した。
女の人が、その言葉をロシア語へ訳した。
「Ты пока останешься в Японии. Сейчас тебя не будут возвращать в Россию. Для тебя подготовят место, где ты будешь жить.(あなたには、このまましばらく日本にいてもらいます。今すぐロシアへ戻すことはありません。暮らす場所も用意します)」
女の人の言葉を聞いても、ターニャはしばらく意味をのみ込めなかった。
ロシアへは戻されない。少なくとも、今すぐには。どうやら、しばらくは日本にいられるらしい。
ターニャは膝の上で組んでいた指をほどいた。掌に爪の跡が残っていた。息を吸うと、胸の奥まで空気が入った。
「Я могу остаться в Японии?(日本に残っていいんですか)」
女の人が、ターニャには分からない言葉で男に伝えた。男が短く答えると、女の人はそれをロシア語に訳した。
「Да. Ты пока останешься в Японии.(はい。あなたは、しばらく日本にいることになります)」
ターニャはもう一度息を吸った。喉の奥が狭くなり、返事をしようとしても声が出なかった。窓の外へ目を向けると、見慣れない形の建物の壁と空しか見えない。それでも、その空の下からすぐに連れ戻されることはない。
「Пока мы будем тебя защищать. Для тебя подготовят место, где ты будешь жить. Вопросы о школе и дальнейшей жизни решат позже.(当面は、こちらであなたを保護します。暮らす場所も用意します。学校やこれからのことは、後で決めます)」
どこで暮らすのか、そこにロシア語を話す人がいるのか、いつ病院を出るのか。訊きたいことはいくつも浮かんだが、どれから言えばよいか分からなかった。
それでも、しばらく日本にいられることだけは決まっている。
ターニャは小さくうなずいた。
「Я поняла.(分かりました)」
男が短く話し、女の人が訳した。
「Теперь я хочу уточнить твоё имя.(次に、あなたの名前について確認します)」
ターニャは返事をしなかった。聴取で父の名を答えたときのことを思い出した。父はリピンスキーで、自分はリピンスカヤだった。
これからも日本にいるのなら、父と同じ姓を名乗ることはできるのだろうか。
「Я хочу такую же фамилию, как у отца.(父と同じ苗字にしたいです)」
女の人はすぐには訳さず、ターニャの顔を見た。それから男へ伝えた。
男が短く話すと、女の人は再びターニャを見た。
「Какую фамилию ты хочешь носить?(姓は何としたいのですか)」
「Липинский.(リピンスキーです)」
女の人はすぐには男へ伝えず、ターニャに聞き返した。
「Липинский? Не Липинская?(リピンスキー? リピンスカヤではなく?)」
「Да. Липинский.(はい。リピンスキーです)」
女の人は男に向き直り、ターニャの答えを伝えた。男が短く話すと、再びターニャを見た。
「Почему ты хочешь эту фамилию?(なぜ、その姓にしたいのですか)」
父が赤いグラスを窓へ掲げて笑っていた顔が浮かんだ。仕事場にこもる熱と煤の匂い、太い指の下で光っていた赤が、遠くにあるものではなく、すぐ近くへ戻ってきた。
「Потому что я очень любила отца.(父が大好きだったからです)」
言い終えると、目の奥が熱くなった。ターニャは瞬きをして、男から視線をそらさなかった。
女の人が訳すと、男はターニャを見たまま短く話した。女の人がその言葉を伝えた。
「Ты действительно этого хочешь?(本当にそうしたいのですか)」
「Да. Я хочу.(はい。そうしたいです)」
男は小さくうなずいた。
病室には、窓の外から届く遠い車の音だけが残った。