タチヤーナ・ウラジーミロヴナ・リピンスカヤは、ターニャ・リピンスキーという名で病院を出た。これまで日本人の男との間に入り、互いの言葉を訳していた通訳が一緒だった。姓を「リピンスキー」にしたいと告げてから、数日が経っていた。
車で着いた先には、病院よりも小さな建物があった。中へ入ると、一人の日本人が玄関まで迎えに出ていた。
通訳がターニャに言った。
「Здесь ты пока будешь жить. Эта женщина работает здесь и будет заботиться о тебе.(しばらくは、ここで暮らします。この人はここで働いていて、あなたの世話をしてくれます)」
それから通訳は日本語で説明を始めた。迎えに出た職員は、ときおりうなずきながら聞いていた。その視線がターニャの顔から、手に持った袋へ移り、もう一度顔へ戻った。
職員はすぐには近づかなかった。少し離れたところで両手を身体の前に揃え、声を落として何かを言った。それから通訳を見た。
「Она покажет тебе твою комнату.(あなたの部屋を案内すると言っています)」
ターニャは職員を見た。言葉の意味は分かったが、目の前の人が自分をどう扱うのかは、まだ分からなかった。
職員はターニャの袋へ手を伸ばさず、廊下の奥を示した。
案内された部屋には、ベッドと低い棚があった。出入口は一つで、反対側に窓がある。ベッドの脇には、畳んだタオルと歯ブラシ、白いコップが置かれていた。
職員は棚を指し、次にターニャの持つ袋を指した。
そこへ置いてよいという意味らしい。
ターニャは袋を自分で棚へ置いた。職員は中を確かめようとはしなかった。次にベッドを示し、廊下の一方を指して食べる仕草をした。別の方向を示してから、顔を洗う真似をした。
分かったところだけ、ターニャはうなずいた。
通訳が短く補った。ここで眠ること。食事と洗面の場所は職員が案内すること。困ったときには、近くの職員へ知らせること。
最後の一つを、言葉の通じない相手へどう知らせればよいのか、ターニャには分からなかった。
通訳は説明を終えると、職員と二、三言交わした。職員がうなずくのを見届けてから、ターニャへ向き直った。
「Я ухожу.(私は帰ります)」
いつまた来るのかは言わなかった。
ターニャは追いかけなかった。理解できる言葉を持つ人が廊下の向こうへ消え、やがて玄関の扉が閉まる音を聞いた。胸の内側が急に狭くなった。ここへ残れることと、ここで何を言われても分からないことが、同時に身体へ入ってきた。
職員が一歩近づいた。
ターニャの肩が動くと、その人は足を止めた。手を伸ばさず、ベッドのそばの椅子を示した。ターニャが座るまで、それ以上近づかなかった。
廊下には、ほかにも何人かの職員がいた。誰もが日本語で話し、ターニャには挨拶らしい短い言葉しか聞き分けられなかった。
最初の夜、ターニャはベッドから出入口と窓を何度も見た。廊下では足音が行き来し、どこかで扉が開くたびに身体が固くなった。それでも、自分の部屋へ急に入ってくる者はいなかった。眠る前に確かめた袋は、朝になっても棚の上に残っていた。胸元の赤いペンダントもなくならなかった。
食事の時間になると、迎えに出た職員が廊下の先を指した。ターニャはその後ろについていったが、食堂へ入っても、どこへ座ればよいのか分からなかった。
何人もの子供がターニャを見た。聞き取れない言葉が重なり、自分について話しているのかもしれないと思うと、喉が固くなった。
職員が空いた席を示した。腕をつかまれると思って身体を引くと、職員は上げかけた手を止め、同じ席を指すだけにした。
誤解したことが分かり、顔が熱くなった。謝る言葉も、なぜ身体を引いたのか説明する言葉もない。ターニャは俯いて席へ座った。
食事、洗面、消灯は、毎日ほぼ同じ順序で繰り返された。足音が近づいても、職員たちは急に身体へ触れなかった。夜になっても連れ出されず、朝になればベッドも袋も同じ場所に残っていた。
二度、三度と同じ一日が続くうち、次に何が起きるのかを少しだけ予測できるようになった。
ここでは、すぐに傷つけられたり、どこかへ連れ去られたりはしないらしい。
そう思えるようになると、今度は言葉が通じないことが、前よりも重くなった。寒いことも、眠れないことも、何が分からないのかも伝えられない。身振りにできない言葉は、胸の内側に残った。
職員が穏やかな顔で話していても、親切にしているのか、ただ決まりを告げているのか、ターニャには確かめようがなかった。
その日の午後、子供たちが集まっている部屋に、玄関の扉が開く音が届いた。職員の一人が顔を上げた。
入口には、段ボール箱を抱えた年配の男が立っていた。
職員は男を見ると笑って近づいた。男も軽く頭を下げ、箱を差し出した。
箱は壁際へ置かれた。閉じた蓋の隙間から、焼いた小麦と砂糖のような匂いがした。職員は箱を指し、離れたところにいる子供たちの方を示してから、食べる仕草をした。中には菓子が入っているらしい。
しばらくして、職員がターニャを呼ぶ身振りをした。
男は箱から離れた場所で待っていた。近づくと、髪には白いものが混じり、鼻の下には整えられた口ひげがあった。
男は聞き覚えのある挨拶の言葉を口にし、軽く頭を下げた。
ターニャも遅れて頭を下げた。
男は自分の胸に手を当てて何かを言い、それからターニャを見た。名前を伝えているのかもしれなかったが、音を覚えることはできなかった。
職員が男とターニャを交互に示しながら、ゆっくり話した。それでも分かったのは、この人がここへ何度も来ているらしいということだけだった。
男は箱を指し、口元へ手を運ぶ仕草をした。ターニャがうなずくと、少し笑った。それ以上、答えを求めるようなことはせず、もう一度短く頭を下げた。
男が話したことも、ターニャにはまだ知らない言葉だった。
やがて年配の男は、箱を残して帰っていった。
ターニャは、その顔だけを覚えた。