十一月も半ばに入ったころ、ターニャは施設の職員と冬物の衣類や日用品を買った帰りだった。
新しい上着は肩に重く、襟元がまだ身体になじまなかった。袖の中で手を動かすたび、硬い布が擦れた。職員が持つ袋の口からは、畳まれた靴下と寝間着の端が見え、別の袋には歯ブラシや丸められたタオルが入っていた。
職員は通りの途中で足を止め、一軒の店を指した。扉の上に並ぶ文字の一部を指先で追いながら、ゆっくり言った。
「エンゼル」
ターニャには文字は読めなかった。けれど、扉を開けると頭上で鈴が鳴り、カウンターの向こうに、施設へ箱を持ってきた年配の男がいた。
男もターニャに気づいた。目を細め、軽く頭を下げた。
職員は男に「マスター」と呼びかけた。その意味は分からなかったが、それが男を呼ぶ言葉であることは分かった。
マスターはカウンターの内側から出てきた。職員と挨拶を交わし、買物袋とターニャの新しい上着を見た。それから窓の外へ目を向け、両腕を身体へ寄せて寒そうな仕草をした。
職員が袋を持ち上げて何かを答えた。マスターはうなずき、先日施設へ持ってきた箱を抱える仕草をした。職員は頭を下げ、子供たちが並ぶような身振りをして、指をいくつか折った。
二人の話の内容は分からなかったが、施設へ持ってきた菓子について話しているらしい。
職員はターニャを示し、食べる仕草と眠る仕草をした。マスターはうなずいたあと、自分の口元を指し、首を傾げた。
二人の目がターニャへ向いた。
自分の暮らしと、言葉が通じないことについて話しているのだろう。
ターニャが上着の袖口を握ると、職員は近くの椅子を引き、自分も同じテーブルへ座った。買物袋は椅子の脇へ置かれ、重みで底が広がった。
マスターは店の奥へ戻り、しばらくして盆を運んできた。
ターニャの前へ、受皿に載った白いカップが置かれた。湯気の立つ紅茶の横には、薄い輪切りのレモンが一枚載った小皿と、小さな砂糖入れが並んだ。受皿と砂糖入れには、それぞれ別の小匙が添えられていた。
マスターは何も言わず、ターニャがカップと小皿を見るのを待った。
紅茶であることは分かった。けれど、レモンと砂糖を使ってよいのか、どちらか一方を選ぶのかは分からない。職員がカップ、レモン、砂糖を順に指し、ターニャを見た。
答えられずにいると、マスターはカウンターの下から厚い本を取り出した。
施設で会ったときには持っていなかった本だった。あのとき言葉が通じなかったために、用意したのかもしれない。
マスターは本を開き、指で行を追った。何度かページを行き来してから紅茶のカップを示し、ためらいながら発音した。
「Чай?(紅茶?)」
音は不慣れだった。それでも、意味ははっきり分かった。
施設で初めて会ったとき、マスターが話すことはすべて知らない言葉だった。今、その声の中に、知っている言葉が一つあった。
ターニャはマスターの顔を見た。マスターはもう一度カップを示した。
「Чай?(紅茶?)」
「Да.(はい)」
答えると、マスターの表情が少し緩んだ。職員も二人を見比べ、うなずいた。
マスターは辞書へ目を戻し、小皿のレモンを指した。
「Лимон?(レモン?)」
ターニャはうなずいた。
次に砂糖入れを示した。
「Сахар?(砂糖?)」
ターニャはもう一度うなずき、砂糖用の小匙へ指を伸ばした。どれだけ入れればよいのか分からず、急いで一杯すくおうとすると、マスターが手を上げた。
止められたと思い、ターニャの指が固まった。
マスターはすぐに首を横へ振り、辞書を引き寄せた。ページを探し、言葉を一つずつ確かめながら読んだ。
「Не спеши.(急がなくていい)」
職員も手をゆっくり下ろす仕草をした。
ターニャは小匙を砂糖入れへ戻し、今度は自分で量を見ながらすくった。砂糖をカップへ入れ、レモンも自分の指でつまんで紅茶へ落とした。
マスターは手を出さなかった。
ターニャがスプーンで混ぜ終えるまで、職員もマスターも待っていた。
カップを持つと、熱が指先へ移った。口をつけると、紅茶の熱と薄い酸味、そのあとに砂糖の甘さが残った。
飲み込んで顔を上げても、マスターは答えを求めるようには見ていなかった。辞書を閉じず、すぐ手の届く場所へ置いていた。
職員がマスターへ何かを言った。短い日本語の中に、ターニャが覚えた挨拶と、自分の名だけが聞き取れた。二人だけで話し続けることはなく、すぐにターニャへ視線を戻した。
マスターは辞書をもう一度開いた。今度は言葉を見つけるまで、さきほどよりも長くかかった。店の中を手で示し、それからターニャを見た。
「Приходи ещё.(また来て)」
ターニャは隣の職員を見た。職員がうなずくと、マスターへ向き直り、小さくうなずいた。マスターの口元が緩んだ。
今日だけではない。
この店には、また来てもよい。
カップには、まだ紅茶が少し残っていた。ターニャは急がずに飲んだ。マスターはときどき辞書へ目を落としたが、それ以上言葉を増やそうとはしなかった。
やがて職員が買物袋を持ち上げ、ターニャの上着の襟元を確かめる仕草をした。帰る時間らしい。
ターニャは空になったカップと、レモンの小皿、砂糖入れ、開いたままの辞書を順に見た。それから椅子を降り、マスターへ向き直った。
「До свидания.(さようなら)」
誰かに教えられたわけでも、言うように示されたわけでもなかった。
マスターは一瞬目を見開き、小さくうなずいた。
「ダ……スヴィダニヤ」
それがロシア語の「さようなら」だと気づくまで、ターニャには少し時間がかかった。意味がつながると、ターニャはマスターを見て、もう一度小さく頭を下げた。
店の扉が開くと、頭上の鈴が鳴り、外気が頬と手に触れた。
外へ出ると、細かな雪が降り始めていた。
職員と並んで数歩進み、ターニャは一度だけ振り返った。
雪の向こうに、エンゼルの窓の灯りが見えた。