久住は、提出された報告書へ目を通した。
「対象者は外国人児童向けの学習教室の利用を開始した。日本語及び基礎学習は継続中。施設生活に特段の支障は認められない。本人は通常通学ではない経路を選択し、同教室の利用を続けている。」
ターニャ本人の外国人身分、施設での継続保護、学習教室の利用、安全の確認は、表側の制度を通じて動き始めていた。施設も学習教室も通常の場所であり、そこで教える者や暮らしを支える者が内部事情を知らされているわけではない。一方で、その制度が実際に機能しているかという結論だけは、内部側へ上がってくる。
通常の中学校へ通わせる案も検討した。十二歳で来日した児童としては、それが最も普通の経路だった。
だが、毎日多数の一般人と継続して接触すれば、来歴や家族について尋ねられる場面も増える。本人は、何を隠すために日本へ残されているのかを知らない。秘密保持と長期管理、日本語能力、本人がすでに示していた職人志望を合わせれば、通常通学だけを既定の経路とする理由はなかった。
教育を止める必要もない。少人数で、外国から来た子供に対応できる学習支援環境を、表側の制度の中で利用できるようにした。どちらを選ぶかまで久住が決めたわけではない。報告書にあるとおり、ターニャ自身がそちらを選んだ。
さしあたりターニャに当面の居所と、学び続ける場所を与えることができた。だが、それは保護だけを目的としたものではない。直ちに送還するわけにいかない以上、ターニャを日本国内に安定して留め、所在と生活状況を継続して把握できる状態に置く必要があった。施設と学習支援環境は、そのための基盤でもあった。
いま本人は日本に残ることを望んでいる。しかし、その意思だけを数年先まで当然の前提にはできない。監視されていると知らせないまま管理を長期化するには、ターニャ自身が失いたくない生活上の結び目を、日本国内に増やしておく方が確実だった。
聴取のとき、ターニャは父と同じガラス職人になりたいと繰り返していた。久住はその希望を、ターニャを日本へ結び付け、通常社会の中で所在を把握できる生活へ定着させる足がかりに使えると踏んだ。
久住は聴取記録を開いた。
父の名はウラジミール。ナホトカのガラス職人で、生前、日本でガラス工芸を研究した経験がある。ターニャは訪問先も、日本側で応対した人物の名も知らなかった。ただ、父と同じ仕事を学び、自分もガラス職人になりたいという意思だけは明確だった。
必要な学習を続けることと、職人への道を具体化することは別の問題だ。当然、十三歳の子供を直ちに働かせることはできない。まず必要なのは、技能や雇用を先に決めることではなく、本人の希望を受け止め得る、現存する通常社会の接点だった。
市ヶ谷を通じた照会で、聴取記録にあるウラジミール本人が実際に来日し、北海道でガラス工芸を研究していたことまでは確認できた。それ以上の行程を洗い出す必要はなかった。久住は、ターニャを日本国内へ定着させる接続先を探るため、いつものように分室の局員に所属と照会目的を擬装させ、表向きの行政経路へ照会を回した。
電話とファクス、当時の名簿や事業報告をたどり、北海道側の交流窓口と北方圏センター、小樽側の関係記録が順に照合された。出入国管理記録にあるウラジミールと、工芸交流記録に残る人物が同一だと分かるまで、さほど時間はかからなかった。
ウラジミールは研究のため、小樽の運河工藝館を訪れていた。現在のオーナーは、その研究訪問に応対した本人だった。
照合結果を受け取ると、久住は正式聴取で通訳を務めた女性のロシア語担当官を呼んだ。
「運河工藝館との面会を組め。児童福祉側との調整も、お前がやれ」
担当官は、渡された資料を開きかけた手を止めた。
「私が、調整まで担当するのですか」
「先方へ出す情報を選び、児童福祉側と説明をそろえられる者が要る。通訳だけでは足りない。知ってのとおり、組織縮小で人手不足だ」
担当官はしばらく久住を見たあと、資料へ目を落とした。
「了解です。それで、先方には何と?」
「ほう。早速、情報局員らしいじゃないか。こういう仕事をしたかったんだろ?」
担当官は久住を一瞥しただけで、何も言わなかった。
「ふむ……。以前、運河工藝館を訪れたロシア人ガラス職人の娘が、現在、北海道内の施設で暮らしている。父と同じガラス工芸を学びたがっている。一度、本人と会ってもらいたい。最初はそれだけでいい」
担当官は資料を閉じた。
「児童福祉側には、外出と施設職員の同行を認めさせます」
「工藝館へ引取りや生活保障を求める話ではないと、はっきりさせろ」
「了解です」
担当官は資料を持って席を立った。
彼女は表向きの連絡経路を使って運河工藝館へ面会を打診し、同時に児童福祉側と、外出の許可、施設職員の同行、工藝館へ伝える情報の範囲を調整した。オーナーは、相手がウラジミールの娘だと知ると、二つ返事で面会に応じた。
日程案を持って戻った担当官は、久住の机の前に立った。
「施設職員と私が同行します。通訳に加え、対象の監視も継続します」
「許可した範囲を越える情報は外へ出すな。ただし、本人がガラス工芸を学びたいと話すのは止めるな」
「了解です」
施設での生活と学習教室の利用は、ターニャを監視するために作られたものではない。それでも、生活状況と学習教室の利用状況は内部報告へ変わり、久住の机まで届いていた。
運河工藝館まで同じように動かすことはできない。面会に応じるかどうかも、その後ターニャを受け入れるかどうかも、決めるのは久住ではなくオーナーだった。久住にできるのは、接触の機会を整え、ターニャ自身に希望を語らせるところまでである。
ターニャは、その月のうちに運河工藝館へ行くことになった。
* * *
施設職員と、あの通訳の女の人に伴われ、ターニャは運河工藝館の入口まで来ていた。
父ウラジミールが研究のために訪れた場所であることも、これから会うオーナーが、そのとき父へ応対した人物であることも、すでに説明されていた。オーナーが施設職員と通訳の同席する面会に応じ、ターニャが自分のガラス工芸志望を直接伝えられることも聞いていた。
聞いたときから、胸の中で何度も同じ場面を作っていた。父を知る人。父が歩いた場所。もしかすると父の手が触れた物も残っている。
そんなに都合よく残っているはずはない。それでも、入口の向こうへ父の影を探してしまう。
喉が乾いていた。手袋を外した指先は冷たいのに、手のひらだけが湿っている。
父が日本へ来たことを、ターニャは疑っていなかった。けれど、名前も場所も知らなかった父の訪問先が、いまは入口の向こうにある。
足が止まった。
ほんの一瞬のはずだった。隣にいる二人には、もっと長く見えたかもしれない。
入れば父に近づける。入れば、何も残っていないことも分かってしまう。
胸が早く打った。逃げたいわけではない。早く入りたい。なのに、膝の裏がかすかに震えた。
誰も声を掛けなかった。
急かされないことが、かえって恥ずかしかった。子供だから待たれているのだろうか。十三歳だから。ターニャは唇を噛み、自分からもう一度歩き出して入口を通った。
ターニャたちは応接室へ案内された。オーナーがそこで待っていた。
この人が父と話した。
顔を見た瞬間に何か分かる気がしていた。父と似た仕草を知っているとか、秘密の印があるとか。何もなかった。ただ、知らない日本人の男が一人、こちらを見ている。
期待していた自分が幼く思え、耳が熱くなった。
通訳の女の人は、ターニャをウラジミールの娘として運河工藝館のオーナーに紹介した。
通訳の女の人は、ターニャが十三歳で、施設で暮らしながら必要な勉強を続けていることを短く説明した。身元と生活については児童福祉側が責任を持つことも付け加えられ、その内容はターニャにも訳された。
ターニャは膝の上で指を組み直した。親指の腹が汗で滑った。
オーナーはターニャを見て、少し間を置いてから言った。
「聞いたよ。お父さん、亡くなったんだってな」
通訳の女の人が意味を伝えた。
その言葉はもう何度も聞いた。知っている。自分で言ったこともある。
それでも、父を知っている人の前で聞くと、喉の奥が急に狭くなった。
泣きたくはなかった。ここで泣けば、かわいそうな子として会いに来たみたいになる。違う。ガラスを学びたいと伝えに来たのだ。
ターニャは視線を落とし、一度うなずいた。膝の上の指へ力が入り、爪が皮膚へ食い込んだ。
「君のお父さんが研究でここへ来たとき、話をしたのは俺だ。工房も見てもらった」
通訳の女の人が訳した。
「そのとき、娘さんがいるって話も聞いたんだ。それが、君だったのか」
その言葉も、通訳の女の人によってターニャへ伝えられた。
ターニャは顔を上げた。
父は日本にいる間にも、自分のことを話していた。
名前を言ったのだろうか。歳も。困らせる娘だと言ったかもしれない。ガラスを触りたがる、と笑ったかもしれない。
何を話したのか聞きたかった。全部。今すぐ。
オーナーも、それ以上の言葉を続けなかった。
部屋が静かになった。ターニャは自分の呼吸だけが大きく聞こえた。
話さなければならない。
違う。話してよいのだ。
言いたいことはずっと同じだった。なのに、舌が上顎へ張りつき、最初の音が出ない。
ターニャは乾いた唇を一度舐め、なんとか口を開いた。
「Я приехала в Японию, чтобы стать мастером по стеклу, как папа. Я и сейчас хочу учиться работать со стеклом в Японии.(父と同じガラス職人になるために日本へ来ました。今も日本で、ガラス工芸を学びたいです)」
言い終えるころには、声が少し震えていた。
通訳の女の人が、ターニャの言葉を日本語へ訳した。
オーナーはターニャを見たまま短く間を置き、それから言った。
「そうか。好きなときに来て、工房を見ていきな」
その意味が通訳の女の人から伝えられた。
ここへ、また来てよい。工房を見てよい。
一度きりではない。
胸の奥で、固くなっていたものがほどけた。すぐに何かを教えてもらえるわけではない。それでも、この場所から追い返されなかった。父のいた工房へ、また来ることができる。
嬉しいと言うには胸がいっぱいで、ターニャはただオーナーを見た。
ありがとう、と言わなければ。
勉強を始めた最初の日、助けてくれた子には言えなかった。今も喉が固い。発音を間違えたらどうしよう。通訳してもらえばよい。けれど、それでは自分の言葉にならない。
耳が熱くなった。指先まで汗ばんだ。
「ありがとう」
声は小さかったが、出た。
オーナーは笑顔で一度うなずいた。
通じた。
たった一語なのに、胸が痛いほど膨らんだ。顔が熱くなり、笑いそうになった。子供みたいで嫌だったので、ターニャは口元へ力を入れた。
「帰る前に、工房を見ていくといい」
通訳の女の人がその趣旨を訳した。
ターニャはすぐ立ち上がりかけ、膝が机へ当たりそうになった。慌てて動きを止め、今度はゆっくり立った。見られたかもしれない。耳の熱さが戻った。
オーナーへ一度うなずいた。オーナーも立ち上がり、ターニャたちを工房へ案内した。
工房は、作業場と見学スペースがガラスの壁で仕切られていた。
父の工房では、炉も道具も、父の手も、もっと近かった。近づけば危ないと叱られたが、それでも、父の背中の向こうをのぞけた。
ここではガラスの壁があった。
ガラスの向こう側で、職人が吹き竿を回している。作業する者の顔も全身も、ターニャの目には入らなかった。吹き竿の先にある赤熱したガラスが回っている。形を崩さず、まだ何にでもなれそうなまま回っている。
ターニャは乾いた喉で息をのみ、回転するガラスを目で追った。
人の手に回される吹き竿の先で、赤熱したガラスが、途切れることなく回り続けていた。