春の夕方はまだ冷えていたが、工房の炉の前だけは別の季節だった。
一九九六年の春、運河工藝館で、ターニャは吹き竿を両手で回していた。
十四歳になった身体には、借りた保護具がまだ少し大きかった。鞄を工房の外の決められた棚に置き、袖口と髪を確かめてから、男性のベテラン職人の隣にある、決められた位置へ入った。竿の先にあるのは、職人が量を決めた練習用の少量のガラスで、移動も再加熱も、すぐ横の職人が管理していた。
熱が頬を押した。回す手を緩めれば、柔らかいガラスは重力に引かれて形が崩れる。ターニャは肘を身体から離しすぎず、左右の手をずらしながら、竿の回転を切らさなかった。
小さな膨らみが、職人から示された大きさへ近づいた。ターニャは職人の顔を見ずに息を止め、竿を回し続けたまま、決められた位置まで自分から下がった。
「見せて」
今度は迷わなかった。
ターニャは職人の差し出した手へ吹き竿を渡し、手を離した。竿を受け取った職人が回転を保つのを見届けてから、熱の届きにくい安全なところへ一歩下がった。
止めることも、手を離すことも、相手へ渡すことも、いまは一つの動きになっていた。
* * *
ちょうど一年前、同じ工藝館で、十三歳のターニャは、練習用のガラスを台から離すことができなかった。
研修の条件と安全上の説明は、通訳を介してすでに終わっていたが、作業台のそばにいるのは、工藝館のオーナーだけだった。
最初にオーナーが並べたのは、色見本と白い紙だった。透明に近いもの、薄い青、琥珀色、深い緑。ターニャは一つずつ光へ透かし、薄い青と淡い琥珀色を選んだ。紙には、細い器の胴へ二本の線が回る形を描いた。線の間隔が途中で狭くなり、描き直した跡が残ったが、オーナーは消させなかった。
次に、二つの器が置かれた。一つはまっすぐ立ち、もう一つは口がわずかに傾いていた。ターニャは傾いた方を先に持ち上げ、光へかざした。大きな気泡、片側だけ厚い胴、底のざらつきへ順に指を当てた。
「見せて」
オーナーが言った。
ターニャは器をさらに高く上げ、自分で光の角度を変えた。どこを見ればよいのか、と言われたのだと思った。
オーナーは何も言わず、掌を上へ向けた。
その手と、自分が持つ器を見比べて、ようやく意味がつながった。見るのではない。相手に見せるため、渡すのだ。
ターニャは器を差し出した。オーナーも笑わなかった。それでも耳の奥まで熱くなり、器を置いた自分の指を隠すように握った。
次にオーナーが持ってきたのは、底の厚い、丸いガラスだった。器の下だけを切り取ったような形で、手に載せると見た目より重かった。
オーナーは、その底を濡れた台へ当てた。傾ける角度、両手を置く場所、力を抜いて持ち上げるタイミングを、ゆっくり一度ずつ見せた。途中で手を止めると、ガラスを光へ向け、指の腹で表面を確かめた。
ターニャは説明された位置へ指を置いた。ガラスの重みを両手で支え、傾けずに回す。濡れた台へ触れた瞬間だけ力が肩へ上がったが、すぐ肘へ戻した。
父の工房でも、冷えた表面のざらつきを磨いたことはあった。音が高くなれば当たり方が変わったと分かる。指先へ伝わる細かな震えも、まったく知らないものではない。
オーナーが手を上げると、ターニャはガラスを台から持ち上げた。光へかざし、指の腹で表面をなぞる。ざらつきは薄くなっていた。
オーナーは見本と並べ、まだ残る箇所を指した。
「もう一度」
ターニャはうなずき、ガラスを戻した。
今度は先ほどより滑らかに当たった。手の中でガラスが暴れない。これなら、父から教わったことが何も残っていないとは思われない。
オーナーが止める合図を出した。
ターニャはガラスを浮かせかけた。表面はもう十分に滑らかだった。けれど、光の下に、ごく薄い曇りが残って見えた。
あと少しだけなら、もっときれいになる。
ガラスを台から離すのが遅れた。ほんの短い間だった。オーナーの手がもう一度上がり、ターニャはようやく濡れた台から外した。
「見せて」
意味は分かっていた。
それでも、すぐには渡せなかった。滑らかになった面を自分の方へ向け、ガラスの半分を両手の中へ隠すように引き寄せた。
失敗したと思われたくない。父から何も教わっていない子供だと思われるのも嫌だった。
数秒して、ターニャはガラスを、見てもらうために作業台へ戻した。
オーナーは見本と並べた。指で二つの輪郭をなぞり、磨いた方の一部を示した。表面はきれいだったが、端の高さがわずかに低くなっていた。
「よし、きれいだ」
オーナーは先にそう言い、見本と並べて、どこまで磨けばよいのかを指で示した。
「でも、ここまで」
ターニャは返事をしなかった。きれいと言われたことを喜びたいのに、その後の言葉だけが耳へ残った。指の間が湿り、ガラスにもう一度触れることもできなかった。
オーナーは失敗したガラスを片づけなかった。見本の隣へ置いたまま、まだ手をつけていない別の練習用のガラスを作業台へ置いた。
「次。もう一度」
ターニャは顔を上げた。
オーナーは新しいガラスを指し、入口の方を示した。
「また来て」
次がある。
指から先に力が抜け、ターニャは両手を作業台の縁へついた。すぐに触ってやり直したかった。けれど、また同じ失敗をするのが怖かった。
「はい」
やっと出た声は小さかった。
後日、工藝館へ通える日や時間が決められた。これは賃金の出る仕事ではなく、許された場所で練習用のガラスだけを扱うもので、オーナーや職人の合図には必ず従うようターニャに伝えられた。
* * *
梅雨のない北海道では、春の冷たさが薄れると、短い夏が駆け足で始まった。日が長くなった午後、ターニャはエンゼルのテーブルへノートを開いた。
開いたページには、ひらがなで「みて」と「みせて」が並んでいた。習った文字を使ったが、二つ目の「せ」は何度書いても傾いた。
マスターは白いカップをターニャの前へ置いたあと、ノートをのぞき込んだ。ターニャが二つの言葉を交互に指すと、マスターは少し考え、カップへ手を伸ばした。
「見て」
そう言って、自分でカップを見た。次にカップをターニャへ持たせ、掌を差し出した。
「見せて」
ターニャがカップを渡すと、マスターは受け取って見た。それから、もう一度ターニャへ返した。
文法の説明はなかった。自分の目を向けることと、相手の目へ渡すこと。その違いだけが、白いカップの行き来で残った。
ターニャはノートを閉じかけ、また開いた。傾いた「せ」を見られるのは嫌だったが、確かめないまま帰るのも嫌だった。
ノートを両手で持ち、マスターの前へ差し出した。
「見てください」
マスターはノートを受け取らず、身を乗り出して頁を見た。二つの言葉を順に読み、それからターニャへうなずいた。
通じた。
ターニャは急いでノートを引き戻した。嬉しい顔を見られる前に閉じたかったのに、指が表紙の端で滑り、少し遅れた。
次に工藝館へ行ったときは、職人が確認のために手を差し出すと、ターニャは練習用のガラスをその掌へ置いた。別の日には、途中で止めたガラスを作業台へ戻し、自分から言った。
「見てください」
職人が実際にガラスを見たことで、エンゼルの白いカップと工房の手がつながった。
初夏から秋まで、同じことがそのまま続いたわけではなかった。最初は職人の顔を見てから止めていた手が、短い合図だけで止まるようになった。合図を待つことへ気を取られ、早く止めすぎて「もう一度」と言われる日もあった。言われてから返していた練習用のガラスは、やがて自分で作業台へ戻すようになった。
ノートには一語だけでなく、「ここを見てください」「もう一度お願いします」のような短い文が増えた。エンゼルでは白いカップが置かれる前に、自分からノートを開く日もあった。鞄をどこへ置き、どの道を通って工藝館へ行き、帰りにどちらの角を曲がればエンゼルへ着くかを、もう誰かへ訊くことはなかった。
窓を開けていた日が減り、工房を出るころには外が暗くなるようになった。
* * *
工房の窓から差し込む光は低くなり、作業台の上に長い影を落としていた。
ターニャは決められたところで研磨を止め、器の底を模した厚い練習用のガラスを作業台へ置いた。
左右の幅を光へ向けて見ると、片側だけ磨いたところがわずかに広かった。
見間違いかもしれない。
ガラスの縁へ指先を添え、軽く触れた。平らな作業台の上で、ごく小さく揺れた。
胸の内側が縮んだ。
反対側を少し削れば、揺れは消えるかもしれない。職人へ見せる前に、自分で直せるかもしれない。春のときと違って、いまならどちらを削ればよいか分かる気もした。
けれど、分かる気がするだけだった。ここで削れば、ガラスの状態は変わる。直ったように見えても、何を間違えたのか分からなくなる。
ターニャは濡れた台へ戻さなかった。
ガラスをそのまま作業台へ置き、両手を離した。離した指がべたつき、作業着の脇へこすりたくなったが、動かさなかった。
職人は別の作業台を見ていた。
呼べば、失敗を自分から見せることになる。黙っていれば、まだ直せるかもしれない。春には新しい練習用のガラスを置いてもらえたが、今度も同じとは限らない。
ターニャは喉を一度鳴らした。
「すみません」
職人が振り向いた。
ターニャは片側だけ磨いた幅が広くなっているところを指し、次に作業台の上のガラスへ触れた。小さな揺れがもう一度指へ返った。
「ここ……違います。見てください」
職人はガラスを手に取り、光へ向けた。左右の幅を見てから作業台へ戻し、指で一度だけ揺らした。
ターニャは職人の口元を見た。褒めてほしかった。早く気づいたことだけでも認めてほしい。けれど、褒められたがっていると分かるのは嫌だった。
「余計に削らないで持ってきたんだな」
職人はガラスの角度を変え、削り足す前に確かめる位置を示した。
「ここから直す。次は、こっちを見てから」
大きな失敗ではないとも、よくできたとも言われなかった。ガラスは捨てられず、職人の手からもう一度作業台へ戻った。
ターニャはうなずいた。息を吐くと、口の中がひどく乾いていることに気づいた。
*
その日のエンゼルで、マスターはいつもの白いカップを置いた。
ターニャはすぐにはノートを出さなかった。工藝館で何があったのか訊いてほしい気持ちが少しあった。でも訊かれたら、失敗したことまで話さなければならない気もした。
詳しくは知られたくない。けれど、何も気づかれないのも少し嫌だった。
マスターは訊かなかった。カップの横へ砂糖入れを置き、カウンターへ戻ろうとした。
ターニャは鞄からノートを出した。初夏に書いた「みて」と「みせて」の頁を開き、傾いた「せ」を指で隠しかけてから、そのままにした。
「今日、言えました」
マスターは頁を見た。
「通じたか」
「はい」
それだけだった。
何を見せたのかも、誰に言ったのかも訊かれなかった。少し物足りなかった。ほっともした。
白いカップは、いつもと同じ位置にあった。ターニャが取っ手へ指を掛けると、肩に残っていた力がようやく抜けた。
* * *
紅茶を飲み終えて店を出たターニャがいつもの曲がり角を曲がったあと、同年代に見える少女が十分な間を置いて同じ角を曲がり、次の辻で別の道へ入った。
ターニャが帰ったあとも、エンゼルはいつもどおり営業を続けた。
閉店時刻を過ぎ、最後の客を見送ると、マスターは入口を施錠した。カウンターを拭き、洗い物を流しへ運ぶ。約束した時刻になると、扉のガラスを短く叩く音がした。
来たのは、久住の部下で、ターニャの通訳を務めていた女性局員だった。
マスターは扉を開け、女を客席へ通した。照明は営業中のままだった。女はカウンターに近い席へ座った。マスターは向かい側には座らず、店の片づけを続けた。
「久住二尉の指示です。私は、本案件の担当から外れます」
女は前置きを増やさなかった。
「工藝館との話は私が通訳しました。その後の調整も担当していましたが、それもここで終わります」
マスターはうなずいた。
「それで、私は何をすればいいんだね?」
「店の中で、自然に分かる範囲だけ見てもらえれば結構です。来店が急に途絶えたとき、見て分かるけがや体調の悪化、強い恐怖や急な態度の変化、見慣れない人物の不自然な接触、本人が助けを求めたときは、連絡を」
マスターはソーサーを重ね、カウンターの端へ寄せた。
「特に変わりがなければ、何もしなくていいんだな」
「そうです。日本語の勉強に通っている場所や養護施設、工藝館へ問い合わせたり、店の外を追ったりもしないでください。判断はこちらで行います」
マスターは空になった砂糖入れを棚へ戻した。
「まあ、そうだろうな。解ったよ」
マスターはカップを流しへ運びながら、女を振り返った。
「店の外は」
「あなたの担当ではありません」
「なるほど……そういうことか。解った」
それ以上は訊かず、蛇口を開いた。カップをすすぎ、伏せていく。
「今日は、自分から話したよ。『今日、言えました』ってな。けがもないし、怯えている様子もなかった」
「それで十分です」
女が席を立つ間にも、マスターは手を止めなかった。最後のカップを洗い、布巾の上へ置く。
扉を開けると、女は短く頭を下げて表通りへ出ていった。マスターは施錠を確かめ、流しへ戻った。水気を拭き取った白いカップを、同じ棚へ戻した。
* * *
長い冬が終わり、一九九六年の春が来た。
職人はターニャから受け取った吹き竿を回しながら、先端の形を確かめた。ターニャは安全な位置に立ち、自分の呼吸が落ち着くのを待った。
職人がガラスの量と形を見て、その日の炉での研修を終わらせた。切り離しも徐冷炉への搬入も、ターニャの役目ではなかった。保護具を外し、決められた場所へ戻すと、指の間に残っていた熱が少しずつ消えていった。
「次は、自分で考えてな」
職人が言った。
ターニャは聞き返さず、顔を上げた。
「形でも、色でも、回し方でもいい。次に何を練習したいか、紙に書いて見せてくれ」
好きな物を一人で作ってよいという意味ではない。次に教わる形や色、基本の動きを、自分で考えてよいということだった。
ターニャの手が、服の上から胸元へ上がりかけた。指先は、赤いペンダントの固い輪郭へ触れる前に止まった。
「はい」
それだけ答えた。
エンゼルへ着くと、マスターはいつもの白いカップを置いた。ターニャはノートを取り出し、その横へ置いた。
使いかけのページをめくり、新しいページを開いた。
次に工藝館で何を練習したいかを書くためのページだった。
自分で考えてよいということが、少しだけ嬉しかった。でも何かを書けば、次には本当にそれを見せなければならない。作って、失敗した形も見ることになる。
ターニャはペンを取った。
白いページの上へ先を下ろしかけ、止めた。何を描くかは、まだ決めなくてよい気がした。決めたい気もした。
マスターはカウンターの向こうで別のカップを拭いていた。こちらを急かさない。
ターニャは紅茶を一口飲み、もう一度ペンを持ち直した。けれど、ページにはまだ何も書かなかった。
ペンを置き、ノートを閉じて鞄へ戻した。
ターニャはマスターに頭を下げ、鞄を手に店を出た。道の途中で胸元へ手を上げ、服の上からペンダントへ一度だけ触れた。それから鞄を持ち直した。
足は、考えなくても施設へ向かう道を選んだ。
ターニャはいつもの角を曲がった。