保護
車が路面の継ぎ目を越えるたび、座席の下から低い振動が伝わってきた。
薄く汚れた窓の向こうを、灰色の壁、低い塀、閉じたシャッターが順に流れていった。交差点で車が速度を落とすと、横断歩道の白線が窓の下を斜めに滑り、街灯の光が電柱に遮られ、ワゴンの広い車内が一瞬だけ暗くなった。車が再び動き出せば、それらは何事もなかったように後方へ消える。
少女はその揺れに身を任せていた。肩から掛けられた毛布の端を両手で押さえ、背もたれに浅く身を預けている。窓の外へ顔を向けることはなく、膝の上に落ちる自分の指先を見ていた。
泣いてはいなかった。
眠ってもいなかった。
久住はすぐ近くから、何度目かになる確認をした。呼吸は乱れていない。顔色も、先ほどより悪くなってはいない。目立った出血はなく、急いで医療処置を要する状態ではないという判断はすでに聞いている。それでも、子供の状態は短い間にも変わる。まして、危険な案件のただ中から連れ出されたばかりだった。
「気分は悪くないか」
少女の指が止まった。
すぐには顔を上げず、久住の声が自分へ向けられたものだと確かめるように一拍置いてから、ゆっくりと視線を上げた。
「だいじょうぶ」
声は小さかったが、聞き返す必要はなかった。
久住は頷いた。それ以上は訊かなかった。
何があったのか。どこにいたのか。誰といたのか。名前は何というのか。確認しなければならないことはいくらでもある。だが、それを今、この車内で重ねる意味はない。安全を確保し、身体を休ませ、生活を受け止める側へ引き渡す。それが先だった。
案件の整理は大人がすればいい。
記録に必要な言葉を得ることと、少女を守ることは同じではない。いま問いを重ねれば、返事は得られるかもしれない。だが、返事が得られることと、それが少女のためになることもまた別だった。
この子まで、大人が決めた整理の順序に付き合わせる必要はなかった。
少女のそばには、久住の部下が座っていた。蓋を緩めたミネラルウォーターのペットボトルを差し出す。
「お水、飲める?」
少女はペットボトルではなく、それを差し出した部下の顔を見た。口元に浮かべた笑み、少し下げられた眉、返事を急かさないように保たれた姿勢を、順に確かめるような目だった。
部下はもう一度、今度は声を出さずに頷いた。
少女は毛布から片手を出した。
「ありがとう」
受け取る前にそう言い、両手でペットボトルを持った。少しだけ口をつけ、すぐに返そうとした。
「もっと飲んでいいのよ」
そう言われると、少女はまた部下の顔を見た。それから、今度は先ほどより長く飲んだ。
喉が渇いていたのかどうか、久住には分からない。最初の一口で足りたのかもしれないし、遠慮して返そうとしたのかもしれない。言われたとおりにしただけかもしれない。
いずれも、今ここで決めることではない。
ペットボトルを返した少女は、毛布の端を元の位置まで引き上げた。手順を覚えていたかのように、先ほどと同じ姿勢へ戻る。
車内には、走行音だけが残った。
普通なら、という考えが久住の頭をよぎった。
普通なら、もっと泣くものなのか。知らない大人に囲まれ、見覚えのない車に乗せられ、行き先も告げられないまま運ばれている。泣き叫んでも、黙り込んでも、眠りに落ちても不思議ではない。
だが、何をもって普通とするのか。
大人でさえ、身に起きたことをすぐには理解できない場合がある。子供ならなおさらだ。声を失う者もいれば、何事もなかったように振る舞う者もいる。緊張が切れずにいるだけかもしれない。疲労が限界を越え、感情を表に出す余力がないのかもしれない。
久住は、自分の経験を物差しにすることをやめた。
「安心して休めるところへ行く」
必要なことだけを伝えた。
「今日は休める。嫌なことを訊かれたら、答えなくていい。分からなければ、分からないと言っていい」
少女は久住を見ていた。
理解しているのか、音だけを聞いているのかは分からない。久住が言葉を切ると、少女は少し遅れて頷いた。
「わかった」
返事は明瞭だった。
部下がほっと息を吐いた。ほんのわずかな変化だったが、少女の目がそちらへ動いた。その肩から力が抜けたことを確かめたように見えた。
その直後、少女の口元が少しだけ緩んだ。
笑顔と呼ぶには小さく、偶然と片づけるには形が整っていた。
部下も微笑み返した。
久住は視線を外し、車内前方を見た。
返事ができるのは悪いことではない。周囲の大人と意思を通わせられるなら、この先の保護にも支障は少ない。食事、睡眠、診察、着替え。ひとつずつ必要なものを用意し、子供の時間へ戻していけばいい。
身元については、確認できるものがほとんどなかった。公的な記録へつながる手掛かりも、いまの段階では何もない。名前すらも。だからといって、何者でもないわけではない。書類の欄が埋まらないことと、目の前にいる子供の存在は別の問題だった。
大人の都合で空白になっている場所を、子供自身に背負わせてはならない。
久住はそう考えていた。
車が速度を落とした。
窓の外では、塀が途切れ、建物の外壁が近づいた。入口の脇には小さな植え込みがあり、葉の表面に細かな埃が白く残っていた。舗装の端には雨水の乾いた筋が走り、玄関の前にある三段だけの階段は、縁だけが繰り返し踏まれて明るく擦れていた。
少女の背がわずかに起きる。窓の外は見ず、久住と部下の動きを見た。部下は荷物をまとめ、久住は上着の前を整える。少女は二人より少し遅れて毛布の端を揃え、降りる準備をした。
「もうすぐ着く」
久住が言うと、少女は頷いた。
車が止まり、外から扉が開けられた。少し肌寒い外の空気が流れ込み、少女は一度だけ目を細めた。久住が先に降り、足元を確かめる。振り返ると、少女は部下の手を借りて地面へ降りていた。
建物の入口には、連絡を受けた者たちが待っていた。久住はその人数と位置を見て、少女を取り囲まないよう短く求めた。応じた者たちが半歩ずつ下がり、通り道が空いた。
少女は立ち止まらなかった。
久住の横を歩き、示された入口へ向かった。歩幅は小さかったが、足取りに迷いはない。知らない場所へ入ることを嫌がる様子も、久住の服を掴む様子もなかった。
中へ入ると、外の走行音が扉の向こうへ消えた。入口の床には、靴底から落ちた細かな砂が薄く残っていた。壁際には子供用らしい小さな傘が二本立てかけられ、その片方の持ち手に、色の褪せた布の輪が結ばれていた。少女はそこへ目を向けたが、足を止めることはなかった。
ここは、保護された子供の安全を確保し、今後の生活先が定まるまで一時的に預かる場所だった。久住たちの組織に属する施設ではない。少女の保護に必要な情報だけを渡せば、あとは通常の児童保護の手続きに委ねられる。
案件の全容も、久住たちの所属も、その範囲には含まれない。伝えるべきなのは、少女の安全をどう守り、何を急がず、どの変化に注意すべきかだけだった。
明るすぎない照明の下で、受入れを担当する中年らしい女性職員が膝を折り、少女と目の高さを合わせた。柔らかな声で、ここでは休めること、食べられるものを用意すること、困ったら近くの大人へ言ってよいことを伝えた。
近くに腰を下ろせる場所が示されても、少女はすぐには動かなかった。久住と職員の顔を交互に見て、職員が「座っていいのよ」と言ってから、ようやく浅く腰を下ろした。毛布を膝へ掛け直し、両足を揃える。教えられたわけでもないのに、その場で大人が望む子供の形へ収まったように見えた。
久住は、その見方をすぐに退けた。知らない場所で勝手に動かず、許しを待つ。ひどく緊張している子供なら、それだけのことはあり得る。見慣れない大人たちの前で行儀よくしていれば、怒られずに済むと考えているのかもしれない。どちらにせよ、外から見ただけでは分からなかった。
少女は黙って職員を見ていた。
「怖かったね」
久住は、少女が見たものも経験したものも、この職員には一切伝えていない。職員は事情を確かめるのではなく、ただ受け止めるようにそう言った。
その言葉に、少女の目がわずかに動いた。
職員の眉間に寄った皺へ視線を留め、次に口元を見た。そこに求められているものを探しているように、久住には見えた。
やがて少女は目を伏せた。
「うん」
かすかな声だった。
職員はそれ以上を訊かず、「もう大丈夫よ」と言った。少女は再び顔を上げ、その表情が和らぐのを待っていたような間を置いてから、小さく頷いた。
引渡しに必要な確認は、少女から離れた位置で行われた。
久住は、必要なことだけを伝えた。安全上の注意、身体の状態、今後あらためて確認すべき事項。推測は加えなかった。詳細な聴き取りを急ぐ必要はなく、ひとまず十分な休息を優先するよう伝えた。
「こっちへ、いらっしゃい」
膝を折っていた職員が立ち上がり、手を差し出した。
少女はその手を見た。すぐには握らず、職員の顔を見上げる。職員が急かさずに待つと、少女は毛布の端を片手にまとめ、空いた手を重ねた。
そこで初めて、久住の方を振り返った。
別れを惜しんでいるようにも、次の指示を待っているようにも見えた。
久住は判断せず、「ここにいていい」とだけ言った。
少女は久住の目を見たまま、ゆっくり頷いた。
「はい」
それから、差し出された手を握った。
数歩進んだところで、職員が久住へ会釈した。少女はその動きを見て足を止め、同じ角度にはならないまでも、きちんと頭を下げた。
「ありがとうございました」
四つか五つの子供が口にするには、あまりに不足のない挨拶だった。
部下は安堵したように微笑み、「どういたしまして」と返した。少女も、ごく小さく微笑み返した。
扉が閉じるまで、その表情は崩れなかった。
保護は成立した。
ここからは、案件の生存者としてではなく、休み、食べ、眠り、守られるべき一人の子供として扱われる。少なくとも、ここから先はそのための場所だった。
久住は閉じた扉を見つめた。
泣かなかったことではない。言われたことを理解したことでもない。
水を勧められたとき。休めると告げられたとき。怖かったのだろうと、相手から決められたとき。そして、別れの挨拶が必要になったとき。
少女はいつも、相手が安心できる形を返していた。
それは、救出された子供が大人に従おうとしているだけなのかもしれない。疲れ切った頭で、間違えない返事だけを選んでいるのかもしれない。いま答えを出すべきことではなかった。
久住は扉から目を離した。
ただ最後の微笑みだけが、子供のものとしては少し整いすぎていた。