ターニャは白いページへ何も書けないまま、数週間を過ごしていた。工藝館から次の練習を自分で考えてよいと言われてから、エンゼルでノートを開くたび、紙の白さだけを見て閉じていた。
書くものがないわけではなかった。何を書けばよいかも、もう分かっていた。けれど文字にすれば、次に工藝館でそれを見せ、自分から試させてほしいと言うことになる。父の色を作れないかもしれないという怖さまで、頭の中だけにしまってはおけなくなる。
五月の終わりのある日、工藝館を出ると、西の空に夕方の赤色が残っていた。ターニャはエンゼルへ向かう途中で足を止めた。白いページへ書けずにいた色を確かめるように、鎖を首に掛けたまま、服の内側からペンダントを取り出した。
ターニャはそれを片方の掌へ載せた。
父が作った夕焼けの赤は、いまはこのペンダントにしか残っていなかった。
ペンダントを夕暮れの光にかざし、指先でゆっくりと傾けた。明るい赤色と深い赤色の場所が、曲面の上をゆっくり移った。薄く見えるところから濃く見えるところまで、色は途中で切れず、一つの赤色のままつながっていた。
掌のペンダントから、建物の向こうに残る夕焼けへ視線を移した。空の低いところでは赤色が橙へほどけ、その上では薄い紫へ変わり始めている。もう一度だけ掌へ目を戻した。
ターニャには、二つが同じ色に見えた。
ターニャはペンダントを服の内側へ戻し、エンゼルへ入った。
「いつもののでいいかい」
「はい」
マスターはいつもの白いカップを置き、カウンターへ戻った。
ターニャは鞄からノートを出し、何度も開いては閉じた白いページを開いた。初めの行はロシア語で、その下には日本語で書いた。
「 цвет заката
ゆうやけの赤を作りたい 」
最後の文字だけ、線が少し濃かった。ページを閉じず、紅茶が少し冷めるまで、白い紙の上に並んだ二行を見ていた。
後日、ターニャは工藝館でノートをオーナーに見せた。
「私、この色をガラスで表現したいんです」
声にすると、書いたときよりも大きなことを言っているように聞こえた。ターニャは服の内側からペンダントを取り出し、鎖を首に掛けたまま、胸元で掌へ載せた。
オーナーの視線が、掌の上で短く止まり、ターニャの顔へ戻った。
「この色か?」
「はい」
「小さい見本からやってみよう」
ターニャは一度息をのみ、それからペンダントを服の内側へ戻した。試してよいと言われた嬉しさのすぐ隣に、実際に作れば違う色が出るかもしれない怖さがあった。ノートに書いたあの二行の言葉は、もう自分だけが見る言葉ではなかった。
オーナーは職人を呼び、赤いガラスの小さな見本を何度か作りたいというターニャの希望を伝えた。危険な工程は職人が受け持つとも付け加えた。ノートに書いた願いが、現実の作業として動き始めていた。ターニャは閉じたノートを胸の前で抱え、角が掌へ食い込むほど強く握った。
職人は、炉の前では必ず自分の目が届くところで作業するよう言った。ターニャはすぐにうなずいた。返事をした声は思ったより小さかったが、もうノートを開いて見せる前へは戻れなかった。その日は何も作らず、次に来る日だけを決めてターニャは工房を後にした。
次に工藝館へ行った日、職人は練習用の赤いガラスを、ターニャが扱えるよう準備してくれていた。ターニャが作るのは、厚みに少し差をつけた、小さな丸いガラスの見本だった。薄い側と厚い側へ光を通し、冷めたあとの赤色を見るためのものだ。
職人から渡された吹き竿の先には、同じ炉のガラスから取り分けた少量のガラスがあった。ターニャは職人の隣で、柔らかいガラスが垂れないよう吹き竿を回し続けた。平たい木の板をガラスへ当て、一方から反対側へ少しずつ押さえる位置を移す。手に返る重さに合わせて回す速さを変えながら、一方が薄く、反対側が厚くなるよう形を整えた。丸く平たい形にはなったが、縁の一か所がわずかに張り出していた。
一つ目の形がおおむね整うと、ターニャは職人の指示でガラスを炉へ戻した。
「上げて」
ターニャはすぐに吹き竿を炉口から引き、職人へ渡した。職人はガラスの根元にくびれを作って竿から外し、耐熱の受け板に載せて徐冷炉へ運んだ。熱いガラスは橙色を含んで強く光り、冷めたあとの赤色はまだ分からなかった。
職人は別の吹き竿に、同じ炉のガラスを同じ程度だけ取り、ターニャへ渡した。ターニャは二つ目も、先ほどと同じ程度の形と厚みへ近づけた。一つ目と同じところまで再加熱したあと、職人の指示でもう一度炉へ入れた。
表面が再び柔らかくなり、形がわずかに崩れ始める。ターニャはガラスの傾きに合わせて回す速さを変え、張り出した側が垂れないよう竿を回し続けた。
「上げて」
声と同時に炉から引き出し、吹き竿を職人へ渡した。二つ目の見本も竿から外され、一つ目と同じ徐冷炉へ収められた。
徐冷には時間がかかるため、その日の作業はそこで終わった。ターニャは保護具を戻し、二つの見本を徐冷炉に残して工房を出た。
次に工藝館へ向かう日は、歩き慣れた道がいつもより長く感じられた。二つの見本がどんな赤色になったのか、工房へ着くまで何度も考えたが、火の中で光っていた姿しか思い浮かばなかった。
工房へ入ると、二枚の見本が作業台の布の上に並べられていた。炉の前で見た橙色の光は消え、どちらも手で持てる冷たいガラスになっていた。
早く上げた一枚は赤色が浅かった。薄い側は光に負け、ところどころ橙へ寄って見えた。再加熱を一回増やした方は、それより赤色が深く、光へ透かしても赤色が残る範囲が広い。
形と厚みを同じ程度に整えても、火の掛け方を変えた二枚は、冷めると異なる赤色になっていた。薄い側を光へ向けると、早く上げた一枚では赤色が頼りなくほどけ、再加熱した一枚では輪郭の内側に残った。火の中では見分けられなかった差が、冷たいガラスになって初めて現れていた。
「同じ原料を同じだけ使っても、火から上げる時機で、冷めたあとの色は変わる。どこで止めるかは、自分でつかめ」
工藝館の職人は、布を敷いた浅い仕切り箱から、二、三種類の赤い色見本を取り出した。どれが正しいとは言わず、光へ透かしたときの明るさと暗さ、透明感、赤色のわずかな違いを見るよう促した。
ターニャは自分の二枚を、その色見本と順に見比べた。赤色かどうかだけで言えば、すべて赤色だった。けれど、明るさも、奥に残る光も、一枚ごとに違う。薄い側で色がほどける一枚もあれば、厚い側に光を残す一枚もある。最初は似ていると思った色見本も、自分の二枚と比べると違う赤色に見えた。色の名前を知っていることと、その赤色を見分けることは全く別だった。
ターニャは自分が成形した二枚の赤いガラスを一枚ずつ紙に包み、鞄の中で重ならないよう離して収めた。そのまま、歩き慣れた道をエンゼルへ向かった。
いつもの窓際の席に着くと、ターニャは二枚の見本を包みから出し、テーブルへ並べた。ノートを脇に置き、鎖を首に掛けたまま、ペンダントを片方の掌へ載せる。反対の手で見本を一枚ずつ持ち、ペンダントと同じ高さまで上げて、窓から差し込む光にかざした。
早く火から上げた一枚は、赤色が明らかに浅かった。再加熱した一枚も、ペンダントのような暖かさと深さには届いていない。それでも、ペンダントの色に近いのは二枚目の方だった。
ターニャは再加熱した一枚を、早く上げた一枚より長く見つめた。それからノートへ書いた。
「После повторного нагрева красный цвет глубже.(再加熱した方が、赤色が深い。)」
書いた一文を読み返し、再加熱した一枚へもう一度目を向けた。ペンダントを服の内側へ戻すと、二枚の見本をそれぞれ紙に包み、鞄へ収めた。
* * *
夏が終わる頃には、エンゼルのテーブルに赤いガラスの見本がいくつも並ぶようになった。
古いものから新しいものへの順が分かるように並べ、工藝館で見本を作り、エンゼルで見比べ、紙包みへ戻して施設へ持ち帰ることが、何度か続いていた。
ターニャはペンダントを片方の掌へ載せ、古い見本から順に、反対の手で一枚ずつ窓からの外光へ向けて見比べた。
古い見本ほど赤色が浅く、新しくなるにつれて少しずつ深くなっている。けれど、どれもペンダントより明るかった。光へ透かしたときに赤色が残る範囲は広がっても、ペンダントの赤色の深さには届かない。
ノートには、火へ戻した回数や、前の見本との違いを短く記していた。
見本は一枚ごとに形も厚みも少しずつ違っていた。だから、一枚だけの見え方を答えにはできない。いくつかの見本で繰り返し確かめられたことだけを、次の火の掛け方を決める手掛かりにした。
ターニャはいちばん新しい一枚を、ほかの見本より長くペンダントと見比べた。前のものより深くなった赤色は、少し冷たく見えた。それでも、進む向きは間違っていないように思えた。
もう少しだけ火を掛ければ、さらに近づくかもしれない。
ペンダントを服の内側へ戻し、最後の一枚だけをもう一度窓の光へ向けた。
* * *
秋が深まり、ターニャは夏に作った見本を工藝館の作業台へ並べた。低い窓から差す光が、その表面を照らしていた。
ターニャは、夏の最後と同じ回数だけ火へ戻した。最後の再加熱に入ると、職人は火口のそばへ寄り、片手を吹き竿へ届く位置に置いた。
ガラスの表面が滑らかになり、輪郭がわずかに下がった。夏なら、もう上げていた。ターニャは回転を続けた。
赤色を深くしたい。夏の見本で明るく残った部分の赤色を、もう少し深くしたい。
熱が頬を押し、保護具の内側で指が湿った。柔らかくなったガラスが片側へ寄ろうとするたび、回転を少しずつ合わせ直す。職人は上げる合図を出さなかったが、ターニャの手元と火口から視線を外さなかった。
ターニャは夏より遅い時機を選び、火から上げた。赤く光るガラスはすぐに職人の手へ渡った。冷めるまで、仕上がった赤色は分からなかった。
次に工藝館へ行くと、新しく作った赤いガラスが、夏の終わりに作ったものと並べられていた。
新しいガラスは、薄い部分の赤色が前より深くなっていた。だが、厚い部分は暗く沈み、向こうの光を通しにくい。全体の透明感も弱く、並べただけで違いはすぐに分かった。
火に長く置けば、赤色は深くなる。そうすれば夕焼けの赤へ近づくと、ターニャは考えていた。
けれど、二つは同じことではなかった。
エンゼルの窓際で、ターニャは掌のペンダントと自分の作った赤いガラスを外光へ向けて比べた。自分の作ったものは、ペンダントのように、厚いところまで暖かく透けてはいなかった。深くなった赤色の奥が、重く閉じて見えた。
ペンダントを服の内側へ戻し、ノートを開いた。
「Красный цвет стал глубже. Толстая часть потемнела, а стекло стало менее прозрачным. Но это не тот цвет заката, который создавал отец.(赤色は深くなった。厚い部分は暗くなり、ガラスの透明感は弱くなった。でも、これは父が作った夕焼けの赤ではない。)」
ターニャはそう書いたノートを読み返した。最後の文の句点にペン先を止め、しばらく動かさなかった。
* * *
年が変わると、エンゼルの窓から入る光は白く短くなった。ターニャは、夏の終わりに作った赤いガラスを左に、秋に作ったものを右に置き、その間でノートを開いた。
夏のものはまだ明るい。秋のものは、厚い部分が暗く沈んでいる。つぎの試作で狙うのは、その間だった。
けれど、加熱時間を夏と秋の中間にすればよいわけではなかった。日によってガラスの動きも、手へ返る重さも少しずつ違う。ノートに残せるのは、試した順と、冷めたあとに現れた違いだけだった。火の中でどこまで待つかは、次のガラスを前にした自分の手で決めるしかない。
工藝館で、ターニャは二枚の見本を作業台の端へ置き、準備された少量のガラスを回した。職人は手の届く位置で、炉とターニャの動きを見ていた。火から上げる合図はなかった。
最後に火へ戻したガラスの表面を見た。熱を受けた面の細かな揺れが少なくなり、輪郭がゆっくり緩み始める。道具を通して返る感触は、夏より柔らかく、秋ほど重くなっていなかった。
いま火から上げれば、夏に作ったものより浅い赤色になるかもしれない。けれど、このまま加熱を続ければ、秋のもののように暗くなりすぎるおそれがあった。
ターニャは時計を見なかった。回数も数え直さなかった。回転するガラスの表面と、両手へ返る感触だけを追った。柔らかさが増し、回転を保つために指を送る幅が少し変わる。秋には、その変化のあとまで火の中に置いた。
表面の動きがもう一段ゆるくなりかけたところで、火から上げると決めた。そのまま火の中に置けば、秋の見本と同じ暗さへ進むかもしれない。それでも、いま見えている動きと手の感触から選べるのは、この時機だった。
ターニャは火から上げた。
冬の午後、まだ外の光が残るエンゼルのいつもの窓際で、ターニャはノートをテーブルに広げた。最後に作った赤いガラスを紙包みから出し、ノートの隣へ置いた。
ペンダントを片方の掌へ載せる。反対の手で赤いガラスを持ち、ペンダントと同じ高さまで上げて、窓から差す光にかざした。ペンダントの向きはほとんど変えず、赤いガラスだけをゆっくり傾けた。
薄い部分の一部へ光が通ったとき、二つの赤色が重なって見えた。
ほとんど同じだった。
胸の奥が大きく跳ねた。ついに作れたと思いかけ、赤いガラスを持つ指へ力が入った。息を止めたまま、その色から目を離せなかった。
ターニャは赤いガラスをさらに傾けた。
同じに見えていた二つの赤色が、再び違って見えた。薄い部分は明るく抜け、厚い部分は暗く沈む。先ほど同じに見えた部分も、光の通り方が変わると、ペンダントとは違う赤色になった。
先ほどの角度へ戻せば、もう一度同じように見せることはできる。けれどターニャは戻さず、違いが見える角度で手を止めた。
ペンダントとの違いは見えた。けれど、その違いが何から生まれているのかは分からなかった。
これまでで最も夕焼けの赤に近い。それでも、同じではなかった。
ターニャはペンダントを服の内側へ戻し、赤いガラスをテーブルへ置いた。
「В одном положении цвет почти такой же. Тонкая часть слишком светлая, а толстая часть слишком тёмная. Это самый близкий цвет, но он всё ещё не тот же самый.
(ある向きでは、色はほとんど同じ。薄い部分は明るすぎ、厚い部分は暗すぎる。これまでで最も近い色だが、それでも同じではない。)」
ターニャはノートにそう書くと、赤いガラスを紙包みに戻し、ノートとともに鞄へ収めた。