部屋の床に置いた三つの段ボール箱には、何も書かれていなかった。
ターニャは棚に残った物を一つずつ取り出し、床の段ボール箱へ詰め始めた。
明日の朝、ここを出て、運河工藝館の寮へ移る。
棚へ手を伸ばしたところで、ターニャは四月からの仕事が決まった日のことを思い出した。
その日、ターニャは何度目かの赤いガラスの試作をした。目指した夕焼けの赤は、この日も出せなかった。使った場所と道具をいつもどおり片づけ、作業を終えると、オーナーから事務所へ来るよう言われた。
「四月から、うちでガラス職人として働いてもらいたい。いいかな」
オーナーは静かにそう告げた。
「はい。ここで働きたいです。ありがとうございます」
言葉は考えるより先に出た。声が少し大きくなったことに気づいたが、言い直そうとは思わなかった。背筋が自然に伸び、頬が熱くなった。そして、口元が自然にほころんだ。
オーナーは、その顔を見て穏やかにうなずいた。
続いて、四月からは給料を得る正式な仕事になることと、当面の担当について説明された。工房では男性のベテラン職人の指示を受けながら必要な仕事を担い、必要に応じて売場も手伝う。見習いのガラス職人として、できる範囲の仕事を任されることになった。
工房を自分の目的のために使わせてもらうのとは違う。工藝館が必要とする仕事を受け持ち、その仕事から得る給料で、自分の生活を支える。
父とオーナーの縁がなければ、最初に工房へ入る機会はなかった。けれど、雇うと決めてもらえたのは、それだけではなかった。オーナーも職人たちも、ターニャが工藝館へ通い、工房で作業を続ける姿を見ていた。若手として仕事を任せられると判断してくれたのだ。
最初にガラスの扱いを教えたのは父だった。
ガラス職人。
そう、四月からは、自分も父と同じガラス職人として働くのだ。
嬉しかった。胸の奥が熱くなり、指先まで落ち着かなくなった。同時に、職人として工藝館の仕事を受け持つことを考えると、肩へ新しい重みがのしかかる緊張もあった。
それでも、緊張より喜びの方がずっと大きかった。
ターニャは、運河工藝館のガラス職人として迎えられた。
ターニャは、畳んだ衣類を一つ目の箱の空いたところへ詰めた。厚みのある物を下へ、薄い物を隙間へ入れる。箱の中で崩れないことを確かめてから、二つ目の箱を手元へ引いた。
廊下の向こうで扉が開き、誰かの声が少しだけ聞こえた。足音はターニャのいる場所を通り過ぎ、遠ざかっていった。
引出しの奥からノートを取り出すと、エンゼルのマスターの顔が浮かんだ。
「四月から運河工藝館で、ガラス職人として働きます」
エンゼルのいつもの席に着くと、ターニャは紅茶を待たずに口を開いた。
「そうか。就職、おめでとう」
マスターは嬉しそうに目を細め、声を弾ませた。
ターニャは、まだ日本語がほとんど分からなかった頃から、辞書とノートを挟んで話を聞いてくれたことへお礼を伝えた。言葉が増え、日本語の勉強のことや、工藝館であったことを自分から話せるようになるまで、何度訪ねても同じように迎えてくれた。話す用事がなくても店へ入れたことも、就職を自分のことのように喜んでくれたことも、どれも一言では足りない気がして、ターニャは言葉を探しながら、一つずつ礼を伝えた。
ターニャが伝え終えると、マスターは短くうなずき、いつものようにカップを用意した。
「じゃあ、今日の紅茶は私のおごりだ」
特別な宴会も、贈り物もなかった。いつもの店に、普段どおりの紅茶が置かれた。
ターニャは白いカップを両手で包んだ。いつもと同じ紅茶なのに、今日は少しだけ甘く、温かく感じられた。
ターニャは、ノートを二つ目の箱へ入れた。棚と引出しは、少しずつ空になっていった。
日本へ来たばかりの頃は、自分の持ち物が翌日も同じ場所に残っていると信じることができなかった。いまは、明日の行き先を知り、自分の手で必要な物を選んで箱へ入れている。
ここでは、決まった時刻になれば食事が用意され、日本語の勉強や必要な学習を続けられ、帰ればいつもの場所で迎えられた。工藝館やエンゼルへ出かけられたのも、戻る場所と、そこで暮らしを支えてくれる人たちがいたからだった。
一人ひとりに十分な礼を言えたとは思えなかった。せめて最後くらいは、自分が使った場所をきれいにして返したかった。
ターニャは引出しの底を拭き、空になったクローゼットにはハンガーをそろえて掛け、机の上の鉛筆立てを元の位置へ戻した。共用の辞書と裁縫箱も、それぞれ決められた棚へ戻した。
窓から入る光が弱くなり、部屋の蛍光灯をつけると、段ボール箱が床へ濃い影を落とした。食堂から椅子を引く音と、夕食を知らせる職員の声が聞こえた。
ターニャは、すっきりと片づいた棚や机の周りを見回した。
何もない場所にはなっていない。けれど、自分が持っていく物はほとんど段ボール箱へ収まり、借りた物は元の位置へ戻り、翌朝まで使う物だけが残っていた。
荷造りは終わった。
* * *
四月になり、工藝館で働き始めてから数日が過ぎていた。
少し離れた作業台では、同じ工藝館で働く、ターニャより年上の若い女性職人が、自分の担当作業を終えて道具を片づけていた。男性のベテラン職人がその手元を確かめ、道具の置き方を一つ指示すると、女性職人は「はい」と答えて置き直した。
ターニャは黒い長袖の作業着の袖口を確かめ、作業台の周りを整えた。髪は後ろでまとめてある。使い終えた洋ばしと直鋏を定位置へ戻し、次のガラス職人がそのまま使えるよう、作業場所に残った物を片づけた。
「終わりました」
ベテラン職人が洋ばしへ目を向けた。
「柄は、この向きで」
ターニャはすぐに洋ばしを持ち上げ、柄が手前を向くよう置き直した。
「はい」
職人が短くうなずいた。ターニャはもう一度道具と作業台を見て、片付けの仕事を終えた。
ターニャは髪を下ろし、淡い縦縞のシャツに青いエプロンの制服を身に着けると、売店に出て、包装台の薄紙と緩衝材を、使いやすいよう補充した。
品物を手に取り、棚の前で見比べる客の姿も、少しずつまばらになった。入口の扉の開く回数が減り、展示面へ新しくつく指紋も少なくなった。ターニャは立ち続けた足の裏に軽い重さを感じたが、動きを止めるほどではなかった。
売店の営業が終わると、店長はレジの現金を確かめ、施錠と店内の確認を進めた。ターニャは柔らかい布でガラスケースの指紋と曇りを拭き、売場の通路を軽く掃いた。展示品を動かしすぎず、拭き残しがないことを角度を変えて確かめる。
布と掃除用具を戻し、ターニャは店長へ声を掛けた。
「売場、終わりました」
「はい、ご苦労さま」
店長は手元の確認を続けた。ターニャは自分の仕事が全て終わったことを確認して更衣室へ向かった。
制服を脱ぎ、私服の上着を身につけた。黒いブーツを履き、肩掛け鞄を持つ。閉店作業まで終えた身体には軽い疲れが残っていたが、今日任された仕事はすべて終わり、工房も売場も、明日の仕事を始められるよう整っていた。
ターニャは寮へ戻るため、外へ出た。ふと振り返ると、街灯に照らされた工藝館は、煉瓦の壁と明かりの消えた窓を見せていた。
以前は、自分のために通い、父の残した「夕焼けの赤」を目指して試作を重ねるために、工房を使わせてもらう場所だった。それが今は、仕事を受け持ち給料をもらう勤務先になっている。
ターニャは、そんなことを考えながら、運河工藝館の屋根に並んだ二つのドームをしばらく見ていた。