いつものようにエンゼルに入ったターニャは、そこに見慣れない背中があることに気づいた。
ターニャのいつもの席の向かい側に、一人の男が座っていた。入口へ背を向け、テーブルの上には何も置かれていない。病院で最後に会ってから、もう三年近くになるはずだ。あのとき、ターニャへ質問をしていた男だった。再び会ったことよりも、工藝館の帰りに何度も入ったこの店の中に、その男がいることの方が不自然だった。
ターニャの背後で、最後の客が会計を済ませた。やがて扉の鈴が鳴り、その音も消えた。
「ターニャ、いいからそこへ座るんだ」
いつもの席の前に立ったままのターニャへ、マスターが言った。
ターニャは男から目を離さないまま、椅子へ腰を下ろし、鞄を膝の脇へ置いた。男は何も言わず、ターニャが座るのを待っていた。
マスターはレジからカウンターに戻らず入口へ行き、内側から「準備中」の札を裏返した。店内へ向いていた文字が消え、ガラス越しに外へ向いた。
「久住さん、もういいですよ」
久住と呼ばれた男は、短くうなずいた。
マスターはカウンターへ戻った。紅茶を淹れる様子はなかった。
「どうして、ここにいるんですか」
ターニャが尋ねると、久住はマスターを一度見た。
「わかった。先に、そのことから話す。マスターには、以前からこちらへ協力してもらっている」
意味は分かった。けれど、知っている日本語が、すぐには一つの事実にならなかった。
「協力って、何ですか」
「君が無事に暮らしているか、困ったことや危険な接触がないか、生活に大きな変化がないか。必要なときに知らせてもらっていた」
ターニャはカウンターの中にいるマスターを見た。
「私のことを、話していたんですか」
マスターは視線をそらさなかった。
「ああ。毎日のことを全部じゃない。ここで分かる範囲で、困っていることや、いつもと違うことがあれば伝えていた」
「いつからですか」
「一昨年の秋ごろからだ」
久住が続けた。
「日本語の勉強や必要な学習を続けること、施設で暮らすこと、日本での身分を得ること、運河工藝館で働くこと。私一人が決めたわけではない。工藝館も、自分たちの判断で君を受け入れた。ただ、そのための事務処理と、関係する機関の調整を、こちらで続けてきた」
施設を出たあとの寮も、四月からの仕事も、久住が与えたものではない。それでも、今の生活が形になるまでの見えないところに、久住がいた。
ターニャは目を伏せた。鞄の持ち手をつかんだ指に、少しずつ力が入った。自分の知っている日々が、知らないところで別の意味を持っていた。
「ここも、エンゼルも、その確認に使っていたんですか」
「そうだ」
短い答えだった。
ターニャは唇を結び、もう一度マスターを見た。
胸の奥に冷たいものが落ちた。久住に知られていたことより、マスターがそれを伝えていたことの方が、すぐには受け入れられなかった。何度も座った席も、交わした言葉も、いつもの紅茶も、急に以前と同じものには見えなくなった。
「辞書も、紅茶も、私をここへ通わせるためだったんですか」
聞いた声は、自分が思ったより低かった。
「違う、それは違う」
マスターはすぐに答えた。
「辞書を用意したのも、紅茶を飲んでもらったのも、また来てほしいと思ったのも、私がそうしたかったからだ。ただ、何か変わったことがあれば伝えていた。それも本当だ」
二つの答えは、どちらかを否定しなかった。だから、かえって受け取りにくかった。
「ずっと、私を見ていたんですね」
答えたのは久住だった。
「そうだ」
あまりにためらいのない返事に、ターニャの指が鞄の持ち手を強く握った。
「私に何も言わないで!」
「当然だろう。君には悪いが、必要なことだった。自分がどうやって日本へ来たか、あの夜、倉庫で何をしたか、忘れたわけではないだろう」
ターニャの唇がわずかに開いた。だが、言葉は出てこなかった。
騙されていたのは確かだったが、日本へ行くと決めたのは自分だった。売られるために連れてこられたからといって、港の倉庫で人を撃ち、その人が死んだことまで許されるわけではなかった。そのことが、さっきまで胸の中にあった怒りを、声にできないものへ押し戻した。
「あなたは、何をしている人なんですか」
ターニャがようやく言えたのはそれだけだった。
「公にできない国の仕事をする機関にいる。ロシアにも、同じようなものはあるだろう。それ以上を、いま話すことはできない」
久住の声は、病院で質問をしていたときと同じだった。強くも優しくもなく、必要な文だけを置いていく。
「ところで、これから、君に頼みたいことがある。ある場所へ行き、そこで日本人と普通に話す。相手がどんな人物かを知り、話した内容と順序を覚え、あとで私に報告してもらう。無理に聞き出す必要はない。会話を続けるのが不自然なら、離れていい」
「どうして、私がそんなことをしなくちゃいけないんですか」
ターニャは両手を膝の上で組んだ。指先が冷えているのに、掌には汗がにじんでいた。
「日本語会話の練習だ」
久住は臆面もなくそう言った。
「ウソ!」
声が思ったより大きくなった。
知らない相手と話し、どんな人物かを知り、内容を覚えて報告する。それを何度も繰り返した先で、自分が何をさせられるのか、ターニャにもぼんやりと見えかけていた。
「嫌だと言ったら、どうなるんですか」
「Ты можешь отказаться. Тебе не нужно отвечать сейчас. Если ты откажешься, тебя не накажут, не арестуют и не отправят обратно немедленно. Но я не могу обещать, что нынешние условия защиты, контроля и жизни останутся прежними. Их придётся пересмотреть. Могут измениться и условия проживания и передвижения.(断ることはできる。今、答える必要はない。断っても、直ちに処罰、逮捕、送還はしない。ただし、現在の保護、管理、生活の条件が今と同じまま維持されるとは約束できない。条件を再評価することになる。居住や移動の条件も変わり得る)」
久住はロシア語でそう言った。
工藝館を奪うとは言わなかった。寮から追い出すとも、エンゼルへ来られなくするとも言わなかった。
何も一つずつ挙げないまま、いまある生活の全部が、同じ形では残らないかもしれないと告げていた。
「……分かりました」
ターニャは日本語で答えた。
「でも、今は答えられません。考える時間をください」
「いいだろう。四、五日は待つ。決めたらマスターへ伝えろ。ここで会う」
久住はそれ以上、理由も恩も語らなかった。決めるのはターニャだという形だけが、テーブルの上へ残された。
* * *
工房で吹き竿を回している間は、ガラスの形だけを見ていられた。職人の合図で竿を渡し、作業台を片づけ、売場へ出れば、覚えた順に仕事が続いた。寮へ戻れば、自分の鍵で部屋を開けられた。翌日に持っていく物も自分で決められた。
それらは昨日まで、自分で得た生活だった。
けれど今は、そのどこまでを自分の力で得たのか、分からなくなっていた。
日本語の勉強や必要な学習を続けられたことも、施設の人たちが帰れば迎えてくれたことも、工藝館のオーナーが働く場所を与えてくれたことも、久住に命じられた親切ではない。それでも、その人たちと出会い、今の生活へたどり着くまでの見えないところで、久住が動いていた。
マスターの顔を思い出すたび、最初に浮かぶのは怒りだった。何も知らない自分を見ながら、どこかへ報告していた。辞書を挟んで話した言葉も、就職を喜んだ顔も、どこまで伝えたのか分からない。
それと同時に、辞書を用意したことまで嘘だったとは思えなかった。そう思えない自分にも腹が立った。
久住にも怒っていた。断れると言いながら、断ったあとの生活を見えなくした。処罰しないと言われても、寮を出てどこへ行くのか、工藝館へ通い続けられるのか、自由に小樽を歩けるのか、何一つ分からなかった。
それでも、久住に小樽で起きたことを持ち出されると、怒りを抱くことさえ許されないように思えた。
床へ倒れた男と、手に残った拳銃の重さは、考えまいとしても消えなかった。自分が撃ち、その人が死んだ。自分は一人を死なせた過去を抱えたまま、周囲に守られて暮らしてきた。忘れかけていたその事実が、再び胸の中へ戻ってきた。
求められたのは、誰かをだますことだとは説明されなかった。普通に話し、相手を知り、覚えて報告するだけだった。
けれど、自分の記憶や言葉まで、久住の仕事のために使われることになる。
日本語の勉強で身につけた言葉も、工藝館で身につけた言葉も、エンゼルで重ねた会話も、誰かと話すための本物の時間だった。
久住とエンゼルで会ってから四日が過ぎた日の夜、ターニャは寮の机の前に座っていた。答えは出ていなかった。ただ、断ったあとの生活を想像するたび、最初に消えるのは工房の炉の熱と、作業台に並ぶ道具だった。
父と同じガラス職人として働き始めたばかりだった。
四月からは、自分の「夕焼けの赤」の試作よりも、同じ工藝館で働く女性職人と同じように、工藝館から任された仕事を優先する立場になっていた。
選びたいから選ぶのではない。それでも、選ばなければならなかった。
* * *
次の日、ターニャはもう一度エンゼルのいつもの席へ座った。
久住は五日前と同じ向かい側にいた。マスターはカウンターの中に立ち、何も言わなかった。
「決めました」
久住は返事を急かさず、ターニャを見た。
「私は、いまの生活を続けたいです。ガラスの仕事を続けたいです。父と同じ仕事を、やめたくありません」
言葉にすると、願いを差し出したように感じた。久住がそれを知らなかったわけではない。ずっと前から知っていて、いま、この場所で使っている。
久住はしばらくターニャを見ていた。それから、ロシア語で確かめた。
「Ты согласна принять это поручение?(この依頼を引き受けるのか)」
「Да. Я согласна.(はい。引き受けます)」
ターニャもロシア語で答えた。
「それなら、今までどおりだ」
安心させる言葉ではなかった。それでも、少なくとも明日からすぐに何かが変わるわけではないと分かった。
「最初の課題を説明する」
久住は続けた。
「次の休みの日に、北海道立近代美術館へ行け。誰かから話しかけられる機会がある。自分から無理に話しかけなくていい。普通に話し、その人がどんな人物かを知れ。会話の内容と順序を覚えておけ。相手が嫌がることを聞くな。君が不自然だと感じた場合も、無理に続けず離れていい。終わったら、私一人に報告する」
「その人が誰かは、教えないんですか」
「教えない」
「何を聞けばいいかも」
「決めない。会話を質問の一覧にするな」
ターニャは短くうなずいた。
カウンターの中で、マスターはカップを拭いていた。受け入れてよかったとも、断らなくてよかったとも言わなかった。久住の説明へ加わることもなかった。