Op.クリムゾン・ランディシー   作:ゆきなんとか

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ガラスの境界

「春野さん。先日話した件です」

 春野陽子は、久住の部下ではない。公にできない仕事に関わっていた夫を失った後、陽子と娘の秘密保持と安全をめぐる連絡は、久住の側へ引き継がれた。娘をその事情から遠ざけておくため、陽子は自分が久住の協力者となる道を選んでいた。

「ああ、決まったのかい」

 受話器の向こうの陽子の声は低かった。

「場所は北海道立近代美術館です。ガラスの展示を見に来るロシア人の少女へ、短く話しかけてください」

「ロシア語なんか話せないよ」

 陽子は驚いた様子だった。久住には、受話器を持ち直すわずかな音が聞こえた。

「心配はいりません。日本語で結構です」

「その子は、私が声をかけることを知っているのかい?」

「誰かと話す可能性があることは承知しています。誰が話しかけるかは知りません」

 陽子はすぐには答えなかった。話しかけられることは知っていても、相手を知らされていない。その違いを確かめているようだった。

「何を話せばいいんだい?」

「それは決めません。展示を見て、自然に話せることがあれば、そこから始めてください。表向きの目的は、知らない成人から話しかけられた場合の反応確認です」

 久住は、それ以上の説明を加えなかった。

 陽子は言葉の不足に気づいたはずだった。しかし、問いを重ねる代わりに、実際に必要なことを確認した。

「その子が嫌がったら、どうするのさ」

「中止してください。返事が短い、明らかに警戒している、会話を望んでいないと見える。そのどれかがあれば、無理に続けないでください」

「分かったよ」

 受話器の向こうで、陽子が小さく息をついた。

「一つ、聞いてもいいかい?」

「何でしょう」

「どうして私なんだい?」

 陽子を選んだ理由のすべてを、本人へ伝える必要はない。久住は口にしてよい範囲だけを選んだ。

「相手は十五歳の少女です。成人男性より警戒させにくいというだけではありません。あなたなら、相手の反応を見て、話しかけないことも、途中でやめることもできる」

「ずいぶん消極的な理由だねぇ」

「今回は、それが必要です」

 受話器の向こうが、しばらく静かになった。

「そうかい。ガラスの展示を普通に見て、話せそうなら話すよ。無理なら何もしないさ」

「それで結構です」

 短い間があった。

「そのあとは?」

「電話してください。相手がどう見えたかだけでなく、あなたが何を言い、相手が何を答え、どう話が移ったかを、あなた自身の順序で報告してください」

「覚えている範囲で、だろ?」

 陽子は念を押すというより、以前と同じ手順を確かめるように言った。久住はそれには触れず、短く応じた。

「では、お願いします」

 そう言って、久住は受話器を置いた。

 

* * *

 

 次の休みの日、ターニャは近代美術館へ向かいながら会話の始め方を考えようとして、やめた。誰が、どんな話をしてくるかも分からないのに、先に言葉を決めても仕方がない。

 美術館へ着いてしばらくは、館内を行き来する人影が気になった。展示室には何人かの来館者がいて、それぞれに展示品を見ていたが、誰もターニャへ話しかけてこなかった。

 初めのうち、ターニャは自分の近くに立つ人の動きを意識していた。けれど、いくつかのガラスを見ているうちに、作品の形と光の通り方へ目を引かれた。表面に模様があるだけでなく、色が内側へ沈んで見えるものもある。薄い部分と厚い部分とでは、同じ色でも光の残り方が違っていた。

 課題を忘れたわけではなかった。それでも、一つの作品の前に立ち止まる時間が、少しずつ長くなっていった。

「花が、ガラスの中に入っているみたいに見えるわね」

 隣から日本語が聞こえた。

 ターニャが声のほうに顔を向けると、自分の母親ぐらいの歳の女の人が、同じ作品を見ていた。一人で来ているように見える。目立つ特徴はなく、声も大きくなかった。

 この人かもしれない。

 そう思ったが、確かめる方法はなかった。ターニャは女の人の横顔を一度見てから、作品へ視線を戻した。

「色の層と厚みが違うから、そう見えるんだと思います」

 ターニャは答えた。

「内側の色が残るところと、表面の光が強くなるところがあって、形を作るときに、そのバランスを……」

 そこまで言って、女の人の表情がわずかに止まっていることに気づいた。視線は作品へ向いたままだったが、ターニャの説明を理解しているようには見えなかった。

「なんだい? 色の層ってのは?」

 問い方は穏やかだった。分かったふりをせず、ターニャの言葉を待っている。

「ええと……」

 ターニャは作品へ視線を戻した。説明に使えるところを探すように、器の縁から胴へ目を移した。

「ガラスは、同じ一つの色に見えても、見る場所で厚さが違います。薄いところは光が通りやすくて、厚いところは色が深く見えます。色が一つだけではなく重なっていると、表面に光が当たったときと、光が中を通ったときとでは、違って見えます。だから、葉や茎を上に描いただけではなく、形の中にあるように見えるんだと思います」

 女の人は、ターニャが示した部分を順に目で追った。

「へぇ、厚さと、光の通り方ねぇ」

 今度は先ほどよりもゆっくり作品を眺めている。ターニャは小さくうなずいた。

「はい。表面の形でも変わります。つるつるしているところと、少し光が散るところでも違います」

 女の人は作品の横へ少し移り、別の角度から見た。今度はターニャから尋ねてみた。

「あなたは、なにを見て、ガラスの中に入っているように見えたのですか?」

 女の人は近くにある別の作品へ目を向けた。少し考えてから、その一部を視線で示した。

「こっちの、葉っぱの形が器の表面へ浮き出てるところさ。色は奥に見えるのに、葉っぱだけがこちらへ伸びてくるように見えるんだよ」

 ターニャも少し横へ寄り、その人が見ていた角度から作品を眺めた。厚い部分に残った色と表面の光が重なり、葉の輪郭がガラスの中から浮いて見えた。

「たぶん、色だけではなく、表面がでこぼこしていて、光の当たり方が変わるからです。さっきは色の重なりのことばかり言いましたけど、形の方が大きいかもしれません」

 説明を終えると、ターニャはもう一度角度を変えて確かめた。女の人は作品からターニャへ目を移した。

「ずいぶん、詳しいじゃないか」

 その言葉に、ターニャはわずかに姿勢を正した。仕事のことを話すよう指示されたわけではない。それでも、隠さなければならないこととも思えなかった。

「仕事で、ガラスを作っています。まだ、教わることの方が多いですけど」

 口にしてから、ターニャは自分が自然に仕事のことを話していたことに気づいた。

「へぇ。若いのに?」

 女の人は驚いたように眉を上げたが、疑うような言い方ではなかった。ターニャは作品へ向き直ったまま答えた。

「父もガラス職人でした。小さい頃から、父が仕事をするところを見ていました。いま、私も同じ仕事を続けています」

「そうかい」

 短い返事のあと、女の人は再びガラスへ目を向けた。

 そのままでは、父が今もどこかで仕事を教えているように聞こえるかもしれない。ターニャは一度唇を閉じたあと、言葉を付け加えた。

「でも、父は、もう亡くなっています」

 付け加えた言葉のあと、女の人はすぐには答えなかった。

 展示室の別の場所で、靴音が一度近づき、遠ざかった。女の人は作品から目を離し、短く息をついたように見えた。それが何を意味するのか、ターニャには分からなかった。

「そうだったのかい。……私も、大切な人を亡くしたのさ」

 女の人はそれだけを言った。声は先ほどより少し低かった。

 誰なのか、いつなのか、どうして亡くなったのかは話さなかった。

「……そうですか」

 ターニャはそれ以上、尋ねなかった。何か言葉を足そうとしたが、適切なものは見つからなかった。

 この人が、久住の言っていた「誰か」なのかもしれない。その疑いは消えなかった。それでも、その瞬間だけは、目の前の女の人が、大切な人を亡くした一人の人であることの方を強く感じていた。

「なんかつまんない話になっちゃったね」

 女の人はそう言って、作品へ視線を戻した。

「説明してくれて、ありがとう。最初に見たときより、少し分かった気がするよ」

 ターニャも作品を見た。女の人に示された角度から見た葉の輪郭が、まだ目に残っていた。

「私も、あなたが見たところを聞いて、違う見え方に気づきました」

 女の人は軽く頭を下げ、近くの作品へ身体を向けた。ターニャも別の展示へ移った。

 名前は尋ねなかった。自分の名前も言わなかった。どこで働いているか、どこに住んでいるか、また会えるかという話もしなかった。

 少し離れてから、ターニャは一度だけ振り返った。女の人は普通に展示を見ていて、こちらへ目を向けなかった。

 あの人が、久住の言っていた人だった可能性は高い。けれど、偶然隣にいた人が話しかけただけかもしれない。

 ターニャは、そのあともいくつかの作品を見た。ほかの誰かと何かを話すことはなく、一人で美術館を出た。

 久住は、何のために自分をあの人と話させたのだろう。考えても、その先に何があるのかは少しも見えてこなかった。

 久住のところへ向かう途中、ターニャは会話の順序だけを頭の中で並べた。女の人の最初の感想、自分の説明が通じなかったこと、言い換えたこと、自分から尋ねたこと、仕事、父、父の死、女の人が黙ったこと、そして大切な人を亡くしたと言ったこと。覚えていない言葉は補わず、曖昧なところは曖昧なままにした。

 

* * *

 

 机の電話が鳴り、久住は受話器を取った。

「対象Bが対象Aへ接触。対象Aに明確な拒絶なし。第三者の介入なし。両者は展示室内で分離。対象Aはその後、単独で退出。会話の内容は未確認。安全上の異常なし。監視を終了する」

「了解」

 通話はそれだけで終わった。久住は受話器を置いた。

 それからしばらくして、ターニャが部屋へ入ってきた。今は、久住の机を挟んだ向かいの椅子に座っている。

 ターニャは部屋へ入ってから、壁と机の上へ一度ずつ視線を向けていた。この部屋で目につくものは、机と椅子と電話くらいしかない。

 エンゼルでは、久住がターニャのいつもの場所へ出向いた。今度はターニャが、久住のいる建物まで一人で来ている。

「美術館に入ったところから、順に話せ」

 久住は前置きを置かずに言った。

 ターニャは足元に鞄を置いたまま、話し始めた。

「入ってから、しばらくは誰にも話しかけられませんでした。私はガラスの展示を見ていました。少しして、年上の女の人が声をかけてきました。一人で来ていたように見えました」

 久住は口を挟まなかった。

「その人は、花や葉が表面に描かれているだけではなく、ガラスの中まで続いているように見える、という意味のことを言いました。正確な言葉は覚えていません」

「それで」

「私は、色の層と厚みが違うからだと説明しました。でも、その人には分かりにくかったようです。層とは何かと聞かれたので、薄いところと厚いところでは、光の通り方や色の見え方が違うと言い直しました」

 ターニャは一度言葉を切った。

「私からも、どのあたりを見てそう思ったのか聞きました。その人が見ていたところから見ると、色だけではなく、表面の形も関係しているように見えました。それで、最初の説明を少し変えました」

「そのあとは?」

「詳しいと言われたので、仕事でガラスを作っていると話しました。まだ教えてもらうことの方が多いとも言いました」

 ターニャの声が、わずかに低くなった。

「それから、父もガラス職人だったことを話しました。小さい頃から仕事をするところを見ていて、今は私も同じ仕事をしていると。父はもう亡くなっていることも、私から言いました」

 久住は待った。

「その人は少し黙ってから、自分にも亡くした大切な人がいると言いました。それ以上のことは話しませんでした。私も聞きませんでした」

「続けろ」

「そのあと、また展示を見ました。その人は説明してくれたことへの礼を言いました。私は、その人の見方を聞いて、違う見え方に気づいたと答えました。それから別れました。名前は聞いていません。もう一度会う話もしていません」

 ターニャは膝の上で指を組み直した。

「少し離れてから、一度だけその人を見ました。普通に展示を見ていて、私の方は見ませんでした。私はそのあとも少し展示を見て、一人で美術館を出ました。ほかには、誰とも話していません」

 久住は、ターニャが美術館を出るところまで話し終えるのを待った。途中で訂正させる必要はなかった。

「その女性が、あらかじめ決められていた相手だと思うか」

「そうだった可能性は高いと思います。指定された時間と場所で、知らない大人が私に話しかけたからです」

「断定できない理由は」

「話し方が自然でした。展示を見て、本当にそう思って話しかけたようにも見えました。偶然の会話だった可能性はあります。決められていた相手だという証拠はありません」

「ほかに会話した人物は」

「いません」

 久住は一度だけ間を置いた。

「父の話は、その女性から質問されたものではないな」

 ターニャの視線が机の端へ落ちた。

「はい。父については聞かれていません。父もガラス職人だったことは、私から話しました」

「父が亡くなっていることも」

 ターニャの呼吸が一度止まった。久住は質問を繰り返さず、そのまま待った。

「私が付け加えました。聞かれてはいません。そのすぐあとに、その人が、自分にも亡くした大切な人がいると言いました」

「相手の沈黙について、分かることは」

「父が亡くなっていると言ったあと、短く黙ったことは事実です。感情が動いたように見えました。でも、それは私の印象です」

 机の端へ落ちたターニャの視線は動かなかった。膝の上で組まれた指にも、力が残っていた。

「今日の課題と報告は終わりだ。帰っていい。必要なら、あとで連絡する」

「分かりました」

 ターニャは一言だけそう言って椅子から立ち、鞄を持って扉へ向かった。立ち上がる動作にも、扉までの歩き方にも、大きな乱れは見えなかった。

 扉の向こうで、ターニャの足音が遠ざかっていくのを確認すると、久住は机の電話を取り、春野陽子へ繋いだ。

「接触後の報告をお願いします。あなたが見聞きした順に話してください」

 陽子は、美術館で少女に声をかけたところから、順に話し始めた。

「あの子は、最初は少し警戒したね。でも、すぐに展示の話をしてくれたよ。私が、ガラスの花瓶を見て葉っぱが表面に置かれているのではなく、形の中へ入り込んで見えると言ったんだよ」

 ターニャが覚えていた言い回しとは少し違ったが、意図した意味は一致していた。

「最初の説明は、私には少し難しかったね。色の層と言われても分からなくて、聞き返したさ。そしたら、薄いところと厚いところ、色の重なり、透明感、表面に当たる光の話に言い換えてくれたよ。そうそう、あの子から、どの作品のどこを見てそう思ったのか聞かれたね」

 陽子は、その問いに答えると、ターニャが自分の見ていた位置から作品を確かめ、説明を調整したと話した。

「それから、ガラスを作る仕事をしてるんだって。まだ教わることの方が多いって言ってたねぇ」

「父について質問しましたか」

「いいや。私から聞いたんじゃないよ。あの子が、父親もガラス職人だったって言ったんだよ。小さい頃から仕事を見ていたんだってさ」

「父親が亡くなっていることは?」

「そんなことも言ってたねぇ」

「それで、あなたは何と言いましたか?」

 受話器の向こうで、陽子が短く黙った。

「……私にも、亡くした大切な人がいると言ったよ。それで終わりさ」

 陽子はそこで言葉を切った。

「一つ、聞いてもいいかい」

「なんですか?」

「あの子に話しかけさせたのは、何のためなんだい?」

「それはお答えできませんよ。あなたもそのぐらいお分かりになるでしょう」

 陽子はしばらく黙った。

「そう言うと思ったさ」

 陽子はそれ以上問い返さず、電話を切った。

 互いの報告を知らない二人が示した会話の経過は、主要な順序と因果で一致していた。ターニャは、逐語的に覚えていない部分を要約として区別し、覚えていない言葉を推測で補わなかった。最初の説明が通じないと分かると、相手に合わせて言い換え、自分からも問い返して説明を変えていた。

 父の話はターニャから出た。父の死も自分から加え、その開示が、陽子の予定外の自己開示を引き出した。

 それだけで実務適性を判定することはできない。成功や合格を決める段階でもなかった。ただ、段階的な観察と訓練を続ける根拠は得られたと、久住は判断した。

 

* * *

 

 ターニャは、札幌から小樽へ向かう列車の窓側席に一人で座っていた。

 外はまだ明るかった。建物の並びが途切れ、線路脇の信号柱や架線柱が、窓の外を流れていった。途中駅では何人かが乗り降りした。列車が減速しても、再び動き出しても、見たものはほとんど意識に残らなかった。窓には車内の明かりが淡く重なっていた。

 しばらくして、久住への報告を終えたときの自分の言葉が、少しずつターニャの頭へ戻ってきた。

 父は、もう亡くなっています。

 美術館では、父のことを話すうちに、自然と口をついて出た言葉だった。久住の前では、いつ、何のあとに、自分から言ったのかを、出来事の順序どおりに話した。

 父が道具を扱っていた手が、短く浮かんだ。硬いものと柔らかいものを同じ手で確かめるような指の動き。工房で、道具とガラスが触れたときの乾いた音。けれど、それ以上は思い出せず、作業の音も、道具を扱う父の手も、すぐに遠のいた。

 父が亡くなっていることを話すと、女の人は短く黙った。あの人が何かを思い出したように見えたのは、自分の思い込みかもしれなかった。それでも、亡くした大切な人がいるという言葉まで、全部が何もないところから作られたとは思いたくなかった。

 その言葉が本心でも、出会う場所と時刻は久住が用意したのかもしれない。

 久住は、父の死と、その人の言葉の順序を確かめた。あの人が何者だったのかも、久住が何を知ったのかも、ターニャには知らされなかった。

 本心で話したことと、誰かに頼まれて自分へ話しかけたことは、同時に成り立つのかもしれない。

 そう考えると、マスターの顔が浮かんだ。

 辞書も紅茶も、また来てほしいと思ったことも本心だったと、マスターは言った。長い間の親切を、すべて演技だったとは思えない。けれど、親切が本物でも、ターニャの生活や変化を久住へ伝えていた事実は消えなかった。

 許せるとは思わなかった。それでも、これまでの親切まで偽物だったとは思えなかった。

 久住は、ターニャが日本で暮らせるように動いた。学校や施設や工藝館がそれぞれの意思でターニャを受け入れられるよう、見えないところをつないだ。その一方で、生活の状態を確かめ、マスターから報告を受け、あの女の人に自分へ話しかけさせたのかもしれない。久住は父の話まで順序を追って確認し、その結果を何も知らせなかった。

 久住がターニャの生活を守ってきたことと、これからターニャに何かをさせようとしていることも、同時に成り立つのかもしれない。

 久住への怒りは消えなかった。これから何をさせられるのか分からない怖さもあった。それでも、いまの生活を久住なしに同じ形で続けることができるのかと考えると、すべてを否定し切ることはできなかった。

 恩人とも、敵とも決められなかったし、頼らずに済む相手でもなかった。

 父と同じガラス職人を続けたいという願いを、久住に利用されたように思えた。

 それでも、その願いまで偽物になるわけではない。工房で仕事を覚え、任された作業を終え、まだ作れない色を確かめてきた時間は、久住に言われて積み重ねたものではなかった。父から始まった仕事を手放したくない。久住の都合だけで、その意味を決められたくない。これからも自分の仕事として続けていきたかった。

 けれど、そのためにこれからも久住に従うと決めたわけではない。どうすれば守れるのかも分からない。

 考えはどこにもまとまらないまま、列車は減速し、小樽駅に停車した。周囲の乗客が立ち上がり始めたところで、車内放送が流れた。「ご乗車ありがとうございます。小樽です。This is OTARU station.」その文言が意識へ届き、ターニャはもう小樽へ着いていることに気づいた。一拍遅れて普段使いの鞄を引き寄せ、少し慌てて席を立つと、降り始めた乗客の後ろへ続いて列車を降りた。

 ホームへ降りると、ターニャはいつもの歩調へ戻った。先に降りた乗客のあとを追うでもなく離れすぎるでもなく、改札の方向へ歩いていた。

 

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