作業着の上着を脱ぎかけたところで、ターニャは手を止めた。
胸の真ん中を、内側から平たいものに押されているようだった。息を吸っても、途中でつかえる。もう一度吸おうとすると、今度は喉まで狭くなったように感じた。
ターニャは更衣室の壁へ手をついた。
指先に冷たい感触が伝わった。急に膝を折れば倒れそうな気がして、壁から手を離さず、ゆっくり腰を落とした。しゃがんでから、そのまま床へ座った。背中を壁につけ、作業着の前を少し緩めた。
息はできていた。ただ、一度に入ってくる空気が足りない。
今日はいつもより疲れていた。工房を出たあとの冷気に、身体がついていかなかっただけかもしれない。
そう考えながら、浅く息を続けた。
しばらくすると、胸を押していたものが少しずつ弱くなった。深く吸おうとすればまだ苦しかったが、先ほどより奥まで空気が入る。
ターニャはすぐには立たなかった。
片膝を立て、壁へ手をつき、ゆっくり身体を起こした。ふらつかないことを確かめてから、残りの着替えを済ませた。
更衣室を出る頃には、いつもの速さで歩けた。
次の日も、その次の日も、仕事はいつも通りにできた。一度だけなら、体調が悪くなることは誰にでもある。休めば治ったのだから、オーナーや店長へ伝えるほどのことではないと思った。
工房では、先にいた年上の女性職人のほかに、その後入ったもう一人の女性職人も働いていた。二人ともターニャより年上で、ターニャと同じように、男性のベテラン職人から指示を受けながらそれぞれの作業を進めていた。
その後も訓練は続いた。会話をどこで終えるかを自分で決め、あとから自分の言葉も含めて順に思い返した。見たことと、そう感じただけのことを分けて話すようにも言われた。
その間にも、胸が詰まることがもう一度あった。最初ほど強くはなく、座って休んでいるうちに治まったが、ただ疲れただけではないのかもしれないと思った。それでも、まだ誰かに話すほどのことではないと考えた。
胸が苦しくなったと言えば、炉の前へ立たせてもらえなくなるかもしれない。職人から吹き竿を渡される時間は、まだ短い。ようやく任されるようになった仕事まで、危ないからと外されるのが怖かった。
オーナーや店長に心配をかけるのも嫌だった。
* * *
工房から売場へ出た直後だった。
胸の奥が強く縮み、ターニャは足を止めた。
売場に客はいなかった。照明を受けたガラスが棚の上で光り、その向こうで店長が商品の並びを見ていた。
息を吸えない。
手には何も持っていない。熱い炉からも離れている。それなのに、苦しさは消えなかった。
「ターニャ?」
店長が近づいてきた。
「だいじょうぶ、です」
声が途中で切れた。
額の生え際に汗がにじんだ。指先が冷たくなり、頬から血の気が引いていくのが自分でも分かった。
「仕事はやめよう。事務所へ行くよ」
「少し休めば――」
「事務所で休もう」
店長は腕をつかまなかった。すぐ横につき、ターニャが歩き出すのを待った。
事務所までの距離が、いつもより長く感じられた。呼吸を乱さないように一歩ずつ進み、ようやく事務用の椅子へ座った。
店長はそばを離れなかった。
机の向こうにいたオーナーへ、工房から出たところでターニャが立ち止まったこと、息が苦しいと言ったこと、顔色が悪く汗をかいていることを話した。
オーナーがターニャへ向き直った。
「胸が痛いのか」
「痛いというより、押されるみたいです」
「前にもあったか」
ターニャは膝の上へ視線を落とした。
一度だけだと言えば、今日だけ休んで終わるかもしれない。
けれど、さっきの苦しさは、前の二回より強かった。
「二回、ありました。少し休んだら、治りました」
「どうして言わなかった」
責める声ではなかった。そのことが、かえって答えにくかった。
「疲れただけだと思って……」
オーナーはしばらく黙っていた。
「今日はもう終わりだ。今から病院へ行く」
「もう、さっきより楽です」
「楽になっても、診てもらわなくちゃだめだ」
店長もオーナーも、もう炉へ入るなとは言わなかった。ガラスの仕事をやめろとも言わなかった。
ターニャは膝の上で両手を重ねた。
「分かりました」
小さく答えた。
その日のうちに、小樽国際病院へ行った。
診察室で、ターニャは順に話した。勤務を終えたあとの更衣室で胸が苦しくなったこと。もう一度、同じようなことがあったこと。今日は工房から売場へ出たあとに、息ができなくなったこと。
担当の医師は、どこで起きたか、何をしていたか、どのくらいで治まったかを一つずつ尋ねた。二回目について、よく覚えていないところは、覚えていないと答えた。
「最初の二回は、どうしました?」
「休んでいました。疲れたせいだと思ったので」
それだけではなかったが、炉の前へ立てなくなるのが怖かったとは言えなかった。
医師は診察を続け、手元の記録へ目を落とした。
「胸の症状が三回起きていますから、心臓に問題がないかも含めて、詳しく調べましょう。今日の診察だけでは、まだ原因は決められません」
「心臓に、何かあるんですか」
「まだ分かりません。詳しく調べるために、北海道大学付属病院を紹介します」
ターニャは自分の胸元へ視線を落とした。
病院を出る頃には、胸の苦しさは消えていた。それでも、医師の口にした心臓という言葉が、何度も頭に浮かんだ。
* * *
それからターニャの勤務表に、北大病院へ行く日が書き込まれるようになった。
検査が終わるたび次の予定を告げられ、寮へ戻った。次の勤務日には、また工藝館へ向かった。
原因がはっきりするまでは、炉の前に立つ時間が短くなり、そのぶん、売場に出ることと、冷えたガラスを削る仕事が増えた。
ターニャはエンゼルへ向かい、胸が苦しくなって病院で検査を受けていることをマスターに話した。
「まだ病名は分からないのかい?」
「はい。検査がまだあります」
「そうか。ここでも苦しくなったら、すぐ言うんだよ」
「はい」
次の訓練の話はなかった。
いつもなら、何日かするとマスターが封筒を出した。今度は何も出さなかった。
訓練を止めるとも言われなかった。
エンゼルへ入るたび、ターニャはマスターの手元を見た。カウンターの下へ手を伸ばしても、出てくるのは紅茶の缶や伝票だった。
検査を受けている間は休ませるつもりなのかもしれない。もう続けさせないと決められたのかもしれない。
どちらなのかを、マスターへ尋ねることはできなかった。マスターが知っているとも思えない。
そうしているうちに、年が変わった。
新しい手帳にも、病院へ行く日を書いた。仕事へ行き、また病院へ行った。
北大病院の診察室で、医師は検査の結果を説明した。
「虚血性心臓病の一つで、冠攣縮性狭心症です」
聞き慣れない言葉が続いたが、その中で「心臓病」だけは聞き取れた。
「心臓病……」
「ええ。心臓へ血を送る血管が、一時的に強く縮み、血が流れにくくなる病気です。そのときに胸が苦しくなります」
「心臓が悪いんですか」
「心臓そのものが大きく傷んでいるわけではありません。血管も、ずっと狭いままではありません。ただ、発作を起こさないための治療は必要です」
自分が心臓の病気だと告げられ、背中がこわばった。
医師は、毎日飲む薬と、発作が起きたときに使うニトログリセリンについて説明した。
「発作の薬を使うときは、立ったままにしないでください。座るか、横になって休むこと。薬を使っても良くならないときや、短い間に何度も続くときは、すぐ病院へ連絡してください」
「はい」
何が起きているのか分からないままではなくなった。病名が分かり、治療する方法もあると聞いて、胸の奥に入っていた力が少し抜けた。
ターニャは薬の説明を聞き終えてから、尋ねた。
「ガラスの仕事は、続けられますか」
医師はすぐには答えなかった。
「仕事を全部やめる必要はありません。ただ、長い時間、熱い場所にいる仕事は避けた方がいい。重いものを持つことや、休まずに働き続けることも避けてください」
「短い時間なら、炉の前に立てますか」
「体調を見ながら、勤務先の人と相談してください。苦しくなったらすぐにやめられることと、休憩や水分を取れることが大切です」
もうガラスを作ってはいけないとは言われなかった。
ターニャは膝の上で握っていた手を、少しだけ開いた。
診察を終えると、受付で二通の封筒を渡された。一通は工藝館へ提出する診断書で、もう一通は本人控えだった。
ターニャは二通を鞄へ入れ、そこにあることを手で確かめてから病院を出た。
次の勤務日、事務所でオーナーに封筒を差し出した。
「病院からです」
オーナーは宛名を確かめ、封筒を受け取った。
もう一通は寮へ持ち帰った。机の上で封筒を開き、書かれている病名と注意事項を一度だけ読んだ。知らない言葉は多かったが、自分で書き直すことはせず、診断書を封筒へ戻した。
その封筒を鞄へ入れ、ターニャはエンゼルへ向かった。
店内が落ち着くのを待ってから、マスターに声をかけた。
「病名が分かりました」
マスターが手を止めた。
「何だったんだい」
ターニャは鞄から封筒を出した。
「詳しいことは、ここに書いてあります。これを久住さんへ渡してください。病院でもらった本人控えです」
マスターは封筒を受け取ったが、中を見ようとしなかった。
「わかった。このまま渡すよ」
「お願いします」
その日も、次の訓練の指示はなかった。
* * *
ターニャは毎朝、水と一緒に薬を飲み、鞄の内側に発作の薬が入っていることを確かめてから部屋を出るようになった。病院へ行く日は、その後も手帳からなくならなかった。
工藝館では、炉の前に立つ時間が短く区切られ、作業の合間には必ず休憩を取った。重いものを運ぶ仕事からも外れ、ときどき男性のベテラン職人や店長が体調を尋ねた。
仕事の仕方は変わったが、それでも勤務の日には、ターニャは作業着に袖を通した。
男性のベテラン職人が吹き竿へ溶けたガラスを巻き取り、小さな花瓶の形を作った。胴が整ったところで、ターニャへ竿を渡した。
「ここから。長くやらない」
「はい」
ターニャは竿を回した。
熱が頬と腕へ当たる。口の部分を少し開き、横から全体の形を見る。もう少し直せそうだと思ったところで、職人が言った。
「よし、代わって」
ターニャはすぐに竿を返した。
職人が切り離すまでを手伝う間、少し離れたところから花瓶を見た。もう少しなら続けられたと思った。
けれど、胸が苦しくなってから止めるのでは遅い。
ターニャは炉の前から離れ、水を飲んだ。そばで作業していた職人が目を向けたが、ターニャがうなずくと、何も言わずに自分の仕事へ戻った。
数日後、徐冷を終えた同じ花瓶が作業台へ回ってきた。
ターニャは底に残った竿の跡を削り、指先で粗さを確かめながら磨いた。
炉の前で触れた時間は短かった。それでも、自分が口を開き、形を整えた花瓶だった。いま、その底も自分の手で仕上げている。
職人が横から見て言った。
「そこ、もっとよく磨いて」
「はい」
ターニャは花瓶を持ち直した。
職人の指示は、病気になる前と同じだった。
父の残した「夕焼けの赤」は、まだ出せないままだった。それでも、オーナーは仕事をやめろとは言わなかった。店長も、売場の仕事だけをさせるのではなく、その日の体調を見ながら、工房でできる仕事を任せた。
寮の部屋も変わらなかった。工藝館へ行けば、ターニャはこれまでと同じ作業着に袖を通した。エンゼルでは、いつもの席が空いていた。
それでも、すべてが病気になる前と同じではなかった。薬を飲み、病院へ行き、時間が来れば仕事を止めて水を飲む。その一つずつが、ターニャの日常になっていった。
* * *
その日も、ターニャはエンゼルのいつもの席に座っていた。久住からの訓練の指示はしばらく来ておらず、もうマスターの手元を気にすることもなくなっていた。
最後の客が店を出た。
扉の鈴が鳴り止むと、マスターは入口へ行き、「準備中」の札を外へ向けた。
店内には、ターニャとマスターだけが残った。
マスターはカウンターの下から封筒を出した。
「ターニャ」
ターニャは封筒を受け取った。
中の紙には、訓練を再開することが書かれていた。
小樽の中で、昼間に行うこと。炉の前へ立つ日には行わないこと。長く続けないこと。胸が苦しくなれば、その場でやめること。
診断書に書かれていた仕事上の注意が、訓練の条件にも組み込まれていた。
最初の課題は、工藝館で客と話すことだった。
客から商品について尋ねられ、会話になったときだけ、あとで話した順を思い出す。自分から客のことを聞き出さない。会話を長くしない。何も起きなければ、それでよい。
ターニャは紙を封筒へ戻した。
「読みました」
封筒ごとマスターへ返した。
マスターは灰皿へ入れ、火をつけた。
封筒の端が黒く縮れ、火が表面を走った。やがて中の紙にも燃え移り、形を失って灰になった。
マスターは焼け残りを確かめたが、何も言わなかった。
ターニャも尋ねなかった。
検査を受けている間には来なかった指示が、仕事も寮も続いている今になって、再び届いた。
数日後、炉前の仕事がない日に、ターニャは工藝館の売場で小さな花瓶を並べていた。
一人の客が、同じ棚にある二つの花瓶を見比べた。
「こちらは、同じ花瓶ですか」
「同じ種類です。一つずつ手で作るので、少しずつ違います」
客は二つの口を見比べた。
「こちらの方が、少し広いですね」
「はい。口の開き方や厚みも、一つずつ違います」
「そうなんですね」
「はい」
客はもう一度二つの花瓶を見比べてから、礼を言った。ターニャは会話をそこで終え、名前も、どこから来たのかも尋ねなかった。ほかの商品を勧めることもしなかった。
客が売場を出ると、ターニャは花瓶の向きを元へ戻した。今の会話をすぐに頭の中でたどりたくなったが、まだ休憩の時間ではなかった。課題のことばかり考えて売場の仕事を止めるのも気が引けて、そのまま商品の整理を続けた。
休憩時間になると、ターニャは事務所へ入り、いつもの椅子に腰を下ろした。机には紙と筆記具があったが、手を伸ばさなかった。帳面も録音する物も使わず、両手を膝に置いて、先ほどの客が最初に口にした言葉を思い出そうとした。
工房では、職人から受け取った吹き竿で小さな花瓶の口を開き、徐冷を終えたあとには、その底を自分の手で磨いた。今日は売場に立ち、手作りの花瓶に一つずつ違いがあることを客へ説明した。
病気が分かったときには、炉の前に立つことも、ガラスの仕事を続けることもできなくなるのではないかと思った。寮を出なければならなくなることも考えた。
けれど、仕事の仕方は変わっても、ターニャは今も工藝館で働いている。寮へ帰れば、次の勤務日にはまた作業着に袖を通せる。病気になる前とは違っていても、工藝館でガラスを作ることは、今も変わらずターニャの暮らしの中心だった。
なくなるかもしれないと恐れていたものが、形を変えながらも続いていた。それを一つずつ確かめるうちに、病気を告げられてから張りつめていた気持ちが、わずかに緩んだ。
ターニャは先ほど客と交わした会話を思い返した。最初に尋ねられたのは、二つの花瓶が同じものかということだった。
売場では珍しくない質問だった。ターニャも、売場に立つ職人として答えた。それだけの会話だったはずが、今は久住から与えられた課題として、言葉の順まで確かめなければならない。
両手を膝に置いたまま、ターニャは客の最初の問いから、自分が返した言葉を一つずつたどり始めた。