客と交わした会話を思い返す課題は、その後も続いた。休憩に入るたび、ターニャはメモをとらず、最初の問いから最後の返事までを頭の中へ入れた。はじめのうちは、順序を一つ間違えると、その後の言葉まで入れ替わった。思い出せない部分を、たぶんこうだったはずだと補ってしまうこともあった。
久住は、思い出せないことを埋めるなと言った。相手が実際に口にした言葉と、表情や声の調子から自分が感じただけのことを分ける。自分が話したことと、答えようとしてやめたことも同じにしない。ターニャは、確かめられる事実を順に置き、その間へ自分の考えを混ぜないようにした。
何度か繰り返すうち、客が先に尋ねたこと、自分が答えたこと、その返事を受けて客が話題を変えたことを、前より崩さずにたどれるようになった。返答までに間があったことや、別の言葉を選びかけたことも、あとから区別して思い出せた。うまく話せたかではなく、何が起き、何を自分で選んだのかを報告する課題なのだと分かってきた。
接触相手へ自分のことを話すときには、ロシアで生まれたこと、ガラスの仕事をしていること、父もガラス職人だったことなど、話してよい本当のことを選んだ。作り話を覚えるより、本当のことの中から必要な分だけを出すほうが自然だった。
けれど、住所や勤務先の名を伏せるだけでは足りなかった。父の仕事を話せば、どこで教わったのかを尋ねられる。日本へ来た年を答えれば、誰と来たのか、その前はどこにいたのかへ進むこともある。話した内容が本当でも、その先の問いによっては、言ってはならないことへ近づいてしまう。
ターニャは、答えを隠すだけでなく、会話がどちらへ進みかけているかを考えるようになった。話題を戻したとき、短く答えて終えたとき、答えずに笑ったときも、久住には理由まで報告した。言おうとして止めたことも、自分がどこで危険を感じたかを示すものとして、覚えておかなければならなかった。
* * *
九月に入って間もない頃、ターニャは夕焼けを眺めようと、いつものように公園へ向かった。
西の空には薄い雲が伸びていたが、傾きかけた日はまだ隠れていなかった。昼より低くなった光が、ベンチや柵の影を長く地面へ落としている。離れた場所には何人か人がいたものの、ターニャがいつも立つ辺りのベンチには、一人の女の人が座っていた。
横顔に見覚えがあった。
いつか美術館で、ガラスの中に花が入っているように見えると言った人だった。
女の人が靴音に気づいたのか、振り返った。ターニャは歩く速さを落とした。目が合うと、女の人は少し驚いたように眉を上げた。
「あんた、美術館で前に会っただろ?」
「はい。ガラスの展示で」
女の人は立ち上がらず、ベンチの空いたところを片手で軽く示した。
ここへ来たのは夕日を見るためだった。隣へ座らなくてもよかったし、挨拶だけで離れることもできた。それでも、ターニャは少し間を置いてから、女の人の隣へ腰を下ろした。
「あんたも夕日を見に来たのかい」
「はい。私は、夕日を見るのが好きです」
「ここはよく見えるからねぇ」
女の人は正面へ視線を戻した。ターニャも同じ方を見た。日が低くなるにつれ、白かった光に少しずつ色が混じり始めていた。
「美術館のガラスの展示は、あのあとも見ましたか」
「見たよ。あんたに聞いたおかげで、厚さとか、光の通り方も少しは気にして見るようになったさ。分かったかどうかは別だけどね」
「見る場所を変えると、違って見えるものもあります」
「そういうもんかい」
女の人は笑った。美術館で別れたときと同じ、相手へ返事を求めない笑い方だった。
「そういや、名前聞いてなかったね。私は陽子。あんたは?」
「ターニャです」
「ターニャか。覚えやすくていいね」
ターニャは、陽子という名前を頭の中でもう一度繰り返した。名前を交わしただけなのに、前より少し近くなったような気がして、口元が緩んだ。
「名前も知らないまま、前はずいぶん話したんだねぇ」
「私も、聞きませんでした」
陽子はターニャの横顔を見た。何かを言いかけるように唇を開いたが、口元にかすかな笑みを残したまま、ベンチの背へ体を預けて西の空へ目を戻した。ターニャは夕日を見たまま、両手を膝の上で組み直した。
しばらく、二人は何も言わなかった。夕日はゆっくりと低くなり、長く伸びていた柵の影が、さらに遠くまで地面を横切っていった。空の赤みが深くなった頃、陽子が静かに口を開いた。
「前に、あんたがお父さんの話をしたとき、私も大切な人を亡くしたって言っただろ?」
「はい」
「夫だったのさ。仕事でイギリスへ行ってね。向こうで亡くなった」
陽子の声は、美術館で聞いたときより平らだった。感情を抑えているようにも聞こえたが、それはターニャがそう感じただけかもしれなかった。
「帰ってくるはずだったんだけどねぇ。帰る家はずっとあったのに、あの人だけ帰ってこなかったのさ」
ターニャは何も言えず、陽子の横顔を見た。
「娘がいるからね。二人で、そこで暮らし続けたよ」
帰る人を失った家で、それでも暮らし続けることを、ターニャは想像した。
父が亡くなったあと、家には父の道具も、父が作ったガラスも残っていた。けれど、自分はそこに残らなかった。
「父が亡くなったあと、私も家を出ました」
陽子は顔を向けたが、何も尋ねなかった。
「それから――」
温かい紅茶の湯気が浮かんだ。自分のものではない服の手触りと、足に少し合わなかった中古の靴。日本へ行けばガラス細工を学べると言った言葉。
その先には、知らない男の車と船があり、小樽の倉庫があった。銃声のあとには、久住たちがいた。
「……いえ」
ターニャは視線を手元へ落とし、自分へ言い聞かせるように、首を小さく一度だけ横へ振った。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。陽子は何も尋ねず、夕日へ顔を戻した。ターニャも顔を上げた。太陽は先ほどより低くなり、空の赤みが深くなっていた。
「ガラス、作ってるんだろ?」
「はい。作っています」
「そうかい」
陽子はそれ以上、どこで作っているのかも、何を作っているのかも聞かなかった。
日がさらに低くなると、陽子は腰を少し前へずらした。
「そろそろ帰るよ」
「はい。さようなら」
「じゃあね、ターニャ」
陽子はそう言って立ち上がると、そのまま歩いていった。ターニャは遠ざかる背中を少しだけ見たあと、また夕焼けを眺めた。
太陽が沈んだあとも、西の空には赤みが残っていた。その色は少しずつ淡くなり、いつしか夕闇の青へ溶け込んでいった。どこまでが赤だったのか分からなくなるまで、ターニャはその場を動かなかった。
* * *
数日後の久住への報告では、ターニャは公園へ着いたところから順に話した。
「美術館で会った女の人がいました。向こうも私を覚えていて、先に声をかけました。私は自分で隣へ座りました」
久住は口を挟まなかった。
「夕日と、美術館の展示について話しました。そのあと、名前を聞かれました。相手は陽子と名乗り、私はターニャと答えました。名字も、住所も、働いている場所も話していません。連絡先も交換していません」
ターニャは、陽子が夫を亡くしたと話したところまで続けた。仕事でイギリスへ行き、帰るはずだったのに帰らなかったこと。娘と二人で、夫のいない家に暮らし続けたこと。
「私は、父が亡くなったあとに家を出たと話しました」
そこで一度、息を整えた。
「そのあと、家を出てからのことを話そうとしました。アリサに会ったことを思い出しました。そこから先は、船や倉庫のことにつながります。だから、言いかけてから止めました。その先のことは、陽子さんには何も話していません」
「話を止めたとき、何と言った?」
「『……いえ』とだけ言いました。首を振りました」
ターニャは陽子が追及しなかったこと、夕日を見たあと、ガラスを作っているかと尋ねられたこと、自分は作っているとだけ答えたことを話した。陽子が先に帰り、再会の約束はしなかったことまで話し終えると、久住は初めて質問を続けた。
「再会は、相手から確認したのか」
「はい。美術館で会っただろうと言われました」
「君が実際に話した過去は、父が亡くなったあとに家を出たところまでだな」
「はい。それより先は話していません」
「話を止めた理由は、言ってはならない情報へ続くと分かったからか」
「はい」
「相手は、理由を聞いたか」
「いいえ。続きを聞かず、しばらく一緒に夕日を見たあと、ガラスを作っているかと聞かれました」
「先に帰ると言ったのは」
「陽子さんです。日が低くなって、帰ると言いました。私は残りました」
久住は短く間を置いた。
「相手の苦しみが本物であることと、君が何を話してよいかは別だ」
「分かっています」
「分かっていても、話そうとした」
ターニャは膝の上へ視線を落とした。
「はい」
「止めたことと、危険域へ近づいたと報告したことは別だ。隠せば、止められたことだけが記録に残る」
叱られているわけではなかった。それでも、ターニャはすぐには顔を上げられなかった。
陽子が話したことは、本当だと思った。だから、自分も本当のことを返したくなった。その気持ちと、何を話してよいかは別だという久住の言葉は理解できた。けれど、陽子の話を聞いたときに、二つを別々のものとして感じることはできなかった。
* * *
秋から冬にかけて、ターニャは久住らの管理下で接触と報告の訓練を重ねた。話してよい真正な情報を選び、会話の内容と順序を保ちながら、相手が実際に示した言動と自分の推定、自分が話したことと話さなかったことを分け、接触を終えた理由まで報告するようになった。ある接触訓練では、相手の返事が途中から短くなり、視線が何度か別の方へ動いたことから、帰りたがっているように見えたと報告したうえで、それは自分の推定にすぎず、確認できた事実は返事の長さと視線の動きだけだと言い直した。
別の接触訓練では、相手から尋ねられなかったことを、ターニャは自分から話題に加えなかった。訓練後の報告で、久住からなぜ話さなかったのかと問われると、秘密にする必要があったからではなく、相手から尋ねられず、会話の流れにも必要がなかったからだと答えた。何を話したかだけでなく、話すことはできたが実際には話さなかったことも区別して覚えていた。相手の返事が短くなり、会話を終えようとしていると判断したときには、それ以上話題をつながず、自分から挨拶して離れた。
年が変わる頃には、普通の会話であれば、相手の言葉、自分の返答、推定、話さなかったこと、接触を終えた理由を順に分けて報告できるようになり、久住が途中で訂正することもほとんどなくなった。それでも、陽子の話を聞いたときのように、相手の苦しみが自分の経験へ重なり、父や家を出たあとの記憶へ触れたときまで、同じように分けて考えられるとは思えなかった。
* * *
春になってしばらくしたある日の夜、久住の電話が鳴った。受話器を取ると、エンゼルのマスターだった。
「ターニャが今日、店に来た。一件、報告しておく」
「よし、送れ」
「同僚二人と美術館を回って、途中から別行動になった。そのあと、一般人の父娘と接触したそうだ。本人からその話が出た」
「それで?」
「しばらく話をしたらしい。色の話から、自分の父親がガラス職人だったこと、自分も同じ仕事をしていること、夕焼けの赤を作りたいことまで話したと言っていた」
「ほかには?」
「俺が聞いたのはそこまでだ。こっちから聞き出したんじゃなく、あの子が自分から話した」
「様子は?」
「普段より口数が多くて、かなり嬉しかったようだ」
「体調は?」
「問題ないと言っていた。本人の言い方じゃ、病気のことを忘れていたくらいだったそうだ」
「了解した」
必要な話はそこで終わったはずだった。だが、マスターは電話を切らなかった。
「久住さん」
「何だ?」
「あの子が何をしたか知らんが、久住さん、あんた、ちょっとやり過ぎじゃないかね? あの子は心臓が弱いんだろ。そりゃ、こうしなきゃ、あの子も守れんのだろうが、もっとやりようがあるんじゃないかね? ええ?」
久住は答えなかった。
「あんたが、あの子をただ利用しようとしてるだけじゃないってことくらい、俺にも分かる。だがな――」
「そこまでにしていただきましょうか。あの子のためにも」
久住がマスターの言葉を遮ると、受話器の向こうが静かになった。
「……」
「いいですね?」
「わかったよ」
電話は切れた。
* * *
後日、札幌分室で、ターニャは久住の向かいに座り、その日の外出について最初から順に報告した。運河工藝館の同僚二人とペテルブルグ美術館へ行き、見たいものが違ったため途中から別行動になったこと、その後、小柄な少女から話しかけられ、一人でいたことと幼く見えたことから小学生くらいの迷子だと考えたことまでを話すと、自分から推定の誤りも付け加えた。
「あとで、中学三年生になると分かりました。小柄で、顔が幼く見えたことは、私が見たことです。小学生だと思ったのは私の推定です。迷子だと思ったのも私の推定でした」
久住は訂正せず、続きを促した。
ターニャは、ロシア美術館へ移ったあと、見知らぬ中年男性から話しかけられたため、最初は返答せず、日本語が分からないふりをしたことを報告した。ところが、なぜ自分をロシア人だと思ったのかを尋ねようとして日本語を理解していることが相手に知られ、男性から、売店でイコンを真剣に選んでいる姿を見たからだと説明されたという。
「説明に不自然なところはないと思いました。日本語が分かることも、もう知られていました」
「それで応じたのか」
「はい。ただ、警戒は続けました。話している間も相手の様子を見ていました。危ない人ではないと思って、会話を続けました」
その後、先ほどの少女が現れて中年男性の娘であることが分かり、三人で色について話した。夕焼けの赤にこだわる理由を尋ねられたターニャは、父がガラス職人だったこと、自分も同じ道を進み、小樽で仕事をしながらガラスを学んでいること、夕焼けのような赤いガラスを作りたいことまで話したと報告したが、家を出たあとのこと、日本へ来るまでのこと、倉庫のこと、住所や連絡先については話していないと続けた。
別れ際には少女が自分の名を告げたため、ターニャもターニャ・リピンスキーと名乗ったが、連絡先は交換せず、再会の約束もしていない。父娘が先にその場を離れたところで接触は自然に終わったという報告を、久住は最後まで口を挟まずに聞いた。
久住は、由子からすでに報告を受けていた。ターニャが二人の女性と美術館へ入り、途中から一人になったこと。そのあと小柄な少女と短く言葉を交わし、別の場所で中年男性と話し始め、やがて先ほどの少女も加わったこと。三人はしばらくその場に留まり、中年男性と少女が先に立ち去った。
由子が確認していたのはそこまでだった。離れた位置からの監視だったため、何を話していたかまでは分からない。ターニャが最初に日本語を知らないふりをしたことも、なぜ途中から話すことにしたのかも、父について何を話し、別れ際に名乗ったのかも、由子の報告にはなかった。少なくとも、外から見えていた経過と、いまターニャが話した内容に食い違いはなかった。
久住はターニャを見た。
「三月の札幌とは、何が違う」
ターニャは少し考えてから、三月は左京葉野香に助けられたあとだったと答えた。若い男たちから離してもらい、胸が苦しくなったときには薬を出すのも飲み物を買うのも手伝ってもらったため、その援助のあとで会話が始まったのだという。
「三月は、左京葉野香に助けてもらって、それから話しました。今回は違います。最初は話さないようにしましたし、日本語が分からないふりもしました。でも、どうして私をロシア人だと思ったのかを聞いて、その理由は分かりました。話している間も、その人を見ていました」
「それで?」
「危ない人ではないと思いました。それで、話を続けました」
久住はそれ以上、答えを補わなかった。父について話した理由も、夕焼けの赤へこだわる理由を尋ねられ、その問いに真正な情報で答えたという報告の中にすでに含まれている。そこから秘匿すべき情報へは進まず、名前を名乗っても住所、具体的な勤務先、連絡先は渡しておらず、次の接触経路も作っていなかった。
久住が得ていた情報は三つあった。由子の報告には、ターニャの移動と、少女や中年男性との接触、その後の合流と別離が記されている。ターニャ自身の報告からは、最初に警戒したこと、相手を見て判断を変えたこと、何を話し、何を話さなかったかまで分かる。さらにエンゼルのマスターからは、その接触のあと、ターニャが父娘との出会いを自分から話し、普段より口数が多く、嬉しそうだったと聞いていた。
三者が見聞きしたものは違っていたが、接触の始まりから終わりまでに食い違いはなかった。ターニャは、少女の年齢を読み違えたことも、途中で相手に応じる判断へ変えたことも、別れ際に自分から名乗ったことも隠していなかった。
管理された接触ではない今回でも、警戒し、相手を観察し、必要な真正情報を使いながら秘匿すべきところへは進まず、接触を自然に終えて、その経過を整理して報告するところまでは成立していた。同じ種類の相手をこちらで用意し、同じことを繰り返させても、新たに確認できるものは少ないと久住は判断した。
ただし、今回の父娘との接触は、その日限りで終わっていた。同じ相手ともう一度会い、その翌日にも顔を合わせるようになれば事情は変わる。何度も言葉を交わし、数日にわたって互いのことを知っていくうちに、相手への好意や親しさも積み重なっていく。そのときにも、何を話し、何を話さず、何を報告するかを同じように分けられるか。それはまだ確認できていなかった。
しかも、その条件をこちらで作れば、自然に始まった関係とはいえなくなる。次の相手を用意するのではなく、同じ人物との接触が本人の日常の中で繰り返される機会を待つしかなかった。
そこまでの判断は、ターニャ自身の報告と、由子が監視中に確認していた内容だけでもできた。マスターからの電話が伝えたのは、それとは別のことだった。ターニャは父娘との出会いを、報告すべき出来事としてだけではなく、嬉しかった一日のこととしてエンゼルへ持ち帰り、自分から話していた。それを失点とする理由はないし、次の訓練を始める理由にするものでもなかった。
久住は目の前のターニャへ視線を戻した。
「報告は終わりだ。帰っていい」
「分かりました」
ターニャは椅子から立ち、鞄を持った。久住へ一度頭を下げ、扉へ向かった。
ターニャの姿は扉の向こうへ消え、久住の視界から失われた。