扉が閉じる音がした。
部屋には久住一人が残った。机上の記録へ視線を落とした久住は、二年半ほど前に自ら提出した上申書を確かめるため、ターニャの個人別管理記録を取り出し、承認表示のある原本を開いた。
「上申書 極秘 【承認 平成9年1月10日】
平成8年10月21日
内事部北部方面札幌分室長 殿
内事部北部方面札幌分室 二等陸尉 久住征一
ロシア語圏接触・関係形成要員候補の選定及び基礎訓練について(上申)
標記について、下記のとおり上申する。
記
1 上申事項
(1) 候補者の選定
Татьяна Владимировна Липинская(管理番号1611349-X-954PR、ターニャ・リピンスキー)を、ロシア語圏接触・関係形成要員候補として選定すること。
(2) 一体的な候補育成計画の実施
次の事項を一件の候補育成計画として実施すること。
ア 生活・職業・教育基盤の成立及び維持に必要な調整及び確認
イ 本人の通常生活を維持した候補育成
ウ 基礎訓練及び管理された接触訓練
エ 危険性の低い第三者による段階的評価
オ 節目報告、中間評価及び総合評価
本計画は、生活・職業・教育基盤の成立及び維持と、基礎訓練及び評価とを分離せず、本人の通常生活を維持しながら一体的に実施するものとする。教育環境、職場又は住居は、関係機関及び関係者がそれぞれの権限と判断により決定するものとし、当局が直接決定又は付与するものとはしない。
(3) 実施及び監督体制
本計画の個別実施、接触管理、報告照合及び評価については、上申者を本件担当官とし、札幌分室長の監督下に置くものとする。計画全体の実施状況、承認範囲及び重大な変更については、札幌分室長の審査を受けるものとする。
候補者の選定及び本計画は、承認をもって直ちに発効するものとする。承認までの間、対象者は従前どおり保護及び監視の対象として扱い、本人への協力依頼、受諾確認及び個別課題の実施は、承認後に順次行うものとする。
2 背景
冷戦の終結に伴い、北部方面においては、従来の対ソ連正面を前提とした人員、予算、権限及び現地情報網の縮小又は再編が検討されている。一方、北方から生ずる脅威は消滅したものではなく、犯罪組織、民間物流、商業活動、観光及び文化交流、偽装身分並びに非合法越境経路へ形を変え、地域社会内部へ分散している。
軍事施設、国境及び既知組織を対象とする従来の監視だけでは、非軍事的な外形を伴う浸透、犯罪経路と外国側の人的関係の接続及び地域内に形成される連絡経路を把握することが困難である。また、専任要員を商業、観光、文化及び地域生活上のすべての接点へ常時配置することは、人員及び予算上困難である。このため、少人数の担当官と、地域内に真正な生活及び対人関係を有する接触・関係形成要員とを組み合わせ、地域社会内の人的情報網を補完する必要がある。
監視は、所在、接触、行動変化及び危険の有無を確認することができるが、対象となる人物との自然な会話、事実に基づく自己開示、再接触及び継続的な関係を形成することはできない。通訳は、既に成立した会話を翻訳することができるが、会話の当事者として自然な接触を開始し、相手方の反応に応じて関係を形成する機能を代替しない。
したがって、冷戦後の北部方面における人的情報能力は、監視、通訳及び日本側組織への潜入だけに依存せず、ロシア語圏の人物へ日常生活から著しく逸脱しない形で接触し、相手方との関係を形成し、その言動を整理して報告できる能力を備える必要がある。
3 平成6年10月に小樽港付近で発生した越境移送経路関連事案から得た教訓
平成6年10月に小樽港付近で発生した越境移送経路関連事案の経過及び事後措置については、関係者による完了報告、事後報告、聴取記録及び保護管理記録により既報であるため、本書では再掲しない。
当該事案では、日本側犯罪網に対する潜入及び監視を実施したものの、ロシア側工作員の侵入経路へ直接つながる情報を得ることができなかった。また、日本側犯罪網の人物、行動及び取引状況を把握する能力だけでは、ロシア語圏側の人物、連絡経路、目的及び人的関係を十分に確認できなかった。
この結果、日本側犯罪網に対する潜入能力とは別に、ロシア語圏の人物へ自然に接触し、警戒を不必要に高めることなく会話を継続し、相手方の自然な再接触を含む関係を形成した上で、その言動を人的情報へ変換する能力が必要であることが明らかとなった。
当該能力の不足は、当該事案に固有の偶発的な失敗ではない。犯罪経路、密入国経路及び諜報侵入経路が重なり、商業、物流、観光及び文化交流の外形を利用して地域社会へ接続する冷戦後の脅威に対し、現行の人的情報能力に存在する構造的な欠落であると判断する。
4 候補者の現況及び選定理由
(1) 現在までに確認された状況
本人については、日本語による学習及び地域生活が成立しており、ガラス工芸に関する研修を継続している。また、学習支援環境、生活施設、運河工藝館及び地域内の店舗等において、限定された相手との反復的な対人関係を維持している。
本人の学習環境、ガラス工芸への職業志望及び地域内の対人関係は、当局が訓練用に設定したものではない。特にガラス工芸については、本人が自ら選択し、継続している真正な職業志望であり、運河工藝館も当局の偽装職場、配置先又は研修施設ではない。
(2) 選定理由
本人はロシア語を母語として扱い、ロシア語圏に真正な生活経験を有している。その言語、生活感覚、記憶及び文化的反応は、訓練によって付与されたものではなく、本人の実歴に基づくものである。同時に、日本語による学習及び地域生活が成立しており、異なる言語及び生活環境の双方について、実体験に基づく理解を有している。
本人は、ガラス工芸を真正な職業志望とし、継続してその実現に取り組んでおり、実際の仕事及び地域生活を通じ、商業、観光及び文化交流に関わる人物と自然に接触し得る位置にある。また、これまでの保護管理及び生活状況の確認において、説明を聞いた後に行動を修正し、不明点を確認する傾向が認められる。危険又は過誤を認識した場合には、行動を停止して確認へ移る傾向も認められる。
以上は、本人が完成した接触・関係形成要員としての能力を有することを示すものではない。ただし、現有の人員では充足できないロシア語圏への接触及び関係形成能力について、本人を対象として危険性の低い基礎訓練を実施し、その適性を確認する合理的な理由があると判断する。
(3) 未確認事項及び懸念
本人は、人身売買被害、越境移送及び銃撃事案を経験している。一方、ロシア人又は過去を想起させる相手との接触時に生ずる心理反応は確認されていない。
さらに、接触時に得た情報の記憶、整理及び報告、観察事実と推定の区別、秘密保持並びに接触終了の能力は未確認である。保護管理下にあり継続して状態を確認できることは、本人の適性を示すものではなく、訓練及び評価を実施する上での管理条件として扱う必要がある。
5 育成及び基礎訓練計画
(1) 基本方針
候補者を当局関連の施設へ収容せず、小樽における通常生活を維持する。教育環境、職場、住居及び地域関係を訓練用の偽装へ置き換えず、本人の通常生活へ限定的な個別課題を付加するものとする。
生活・職業・教育基盤の成立及び維持と、基礎訓練、管理された接触訓練及び段階的評価は、一体的な候補育成計画として実施する。生活基盤の完成を待って訓練を一律に開始するものとはせず、生活状態を確認しながら危険性の低い個別課題を付加し、訓練開始後も就業、教育、居住及び健康の各状態を継続して確認するものとする。
固定した進行段階、具体的な終了期限又は一律の段階移行日は設けない。個別課題の進行は、本人の生活状態及び各課題の評価に応じて判断するものとする。
(2) 生活・職業・教育基盤の確立及び維持
予定される生活上の移行は、十五歳到達後の児童養護施設からの生活移行、運河工藝館への正式採用、必要な学習の継続、安定した住居の確保並びに就労、職業訓練及び学習の両立である。
学習環境の継続、運河工藝館による雇用及び具体的住居の決定は、それぞれ関係機関及び関係者の独立した判断によって成立するものとする。当局は必要な連絡、調整及び状態確認を行うが、就学先、雇用先又は住居を直接決定しない。
生活基盤の移行時には、就労及び職業訓練が教育の継続を妨げていないか、住居が安定しているか、通常生活及び地域関係が維持されているかを確認する。訓練及び評価はこれらの状態を損なわない範囲で実施し、状況に明らかな変化がある場合は、課題の変更又は一時停止を行うものとする。
(3) 基礎訓練及び段階的評価
本人には、候補者として選定された事実、本計画の全体像、目的、期間、進行、評価基準又は警補官として採用される可能性を説明しない。本件担当官は、当局への協力を求める依頼を本人に提示し、その依頼を受諾するか否かを確認する。
受諾後は、直近に実施する個別課題についてのみ、実施内容、禁止事項、離脱方法及び報告方法を必要な範囲で説明し、指示内容の理解及び当該課題を実施することの受諾を確認するものとする。
基礎訓練及び段階的評価では、次の事項を訓練し、又は確認する。
ア 日常的な状況における自然な会話の開始及び終了
イ 相手の人物像、関心、警戒、期待及び対人関係の観察
ウ 不自然な質問によらない情報の取得
エ 共感及び事実に基づく自己開示による信頼関係の形成
オ 本人又は相手方の自然な意思による再接触及び継続的な関係の形成
カ 会話内容、発言順序及び接触経過の記憶
キ 観察事実、推定及び自己評価を区別した報告
ク 自己開示する情報の選択及び機密情報との区別
ケ 不自然、危険又は目的を逸脱した接触からの離脱
コ 指示目的、実施範囲及び禁止事項の確認
サ 接触後の秘密保持及び継続接触に関する報告
初期の訓練課題は、当局管理下の協力者を用いた管理された接触及び公共施設、店舗、展示会その他の日常的な場所における危険性の低い接触を基本とする。その後の技能確認には、危険性の低い第三者を用いることができる。第三者の自発的な再接触により自然な関係が成立した場合は、当該関係における会話、自己開示、記憶、報告及び離脱を段階的に評価するものとする。
(4) 実施管理及び総合評価
固定した月次、四半期又は年度報告は設けない。本件担当官は、生活・職業・教育基盤の移行状況を確認した時、管理された接触訓練について一定の評価をまとめた時、危険性の低い第三者による段階的評価を実施した時、計画の大幅な修正、一時停止又は再開の判断が必要となった時並びに候補者を警補官として採用すること、候補者指定の解除又は計画中止を検討する段階に至った時に、札幌分室長へ報告するものとする。
身体又は心理状態に明らかな異常が生じた場合、情報漏洩のおそれが生じた場合、接触に伴う危険性が想定を超えた場合、暴力、犯罪又は予期しない介入が発生した場合、本人が個別課題を受諾しない場合、報告に重大な欠落若しくは事実との不一致が認められた場合又は本件担当官が計画を即時停止した場合は、臨時報告を行うものとする。緊急時は口頭報告し、必要に応じて事後に書面により報告する。
中間評価は、計画継続、追加訓練、課題変更、前の訓練内容への差戻し又は一時停止を判断する内部評価とする。総合評価では、生活・職業・教育基盤の状態、自然な会話及び関係形成、事実に基づく自己開示、記憶、整理及び報告、観察事実、推定及び自己評価の区別、秘密保持、離脱及び接触終了、心理、健康及び安全上の問題並びに承認された範囲を逸脱せずに行動できるかを確認するものとする。
評価は点数によらず、合格点を設けない。総合評価の完了のみをもって、候補者を警補官として採用するものとしない。総合評価後、警補官として採用する場合又は候補者指定を解除して本計画を終了する場合は、それぞれ別途承認を得るものとし、いずれかの承認をもって本計画を終了する。
6 運用上の制限及び留意事項
(1) 実施範囲及び禁止事項
本計画に含まれる範囲は、当局管理下の協力者を用いた管理された接触、危険性の低い第三者との日常的接触による技能確認、公共施設、店舗、展示会その他の日常的な場所における危険性の低い課題、会話、観察、記憶、情報整理、報告、自己開示管理及び離脱、本人の日常生活を維持した訓練並びに第三者の自発的な再接触によって成立した関係における段階的評価とする。
危険性の低い第三者とは、当局がその人物、所属、活動、人的関係又は保有情報について独立した情報収集目的を持たない者をいう。当該第三者との接触目的は候補者の能力確認に限定し、接触によって得られた情報は候補者評価に必要な範囲でのみ記録する。当該情報を第三者に対する独立した情報活動へ転用しない。
実在する情報収集対象とは、当局がその人物、所属組織、人的関係、活動、意図又は保有情報を把握する目的で接触させる者をいう。候補者の評価を兼ねる場合であっても、独立した情報収集目的がある接触は、本計画に含めず、別途承認を要するものとする。
候補者の能力確認に必要な自然な再接触及び関係維持は、接触回数又は期間のみを理由として継続的な関係工作とは扱わない。相手方について情報を取得する独立した作戦目的がなく、再接触が本人又は相手方の自然な意思により成立し、特定情報を得るために関係を誘導せず、虚偽身分、虚偽の感情又は継続義務を課さず、関係の終了を任務上の損失として扱わず、評価終了後に組織目的で関係を維持させない場合は、訓練及び評価の範囲とする。
これに対し、特定情報を継続的に取得する場合、人物の意思決定又は行動へ影響を与える場合、相手方を情報源、協力者又は将来の接触経路として育成する場合、関係継続自体を任務として命ずる場合、定期的な接触又は報告を義務づける場合又は関係維持のために虚偽の身分、経歴、感情若しくは約束を用いる場合は、継続的な関係工作として別途承認を要するものとする。
次の事項は、本計画に含めない。
ア 武器、射撃、格闘及び破壊工作
イ 犯罪組織又は暴力的集団への潜入
ウ 住居、事務所その他の非公開区域への侵入
エ 尾行、盗聴、窃取その他の秘密収集
オ 実在する情報収集対象への接触
カ 犯罪組織、外国情報機関又は危険人物への接触
キ 身体的危険を伴う接触
ク 国外活動
ケ 長期的な虚偽身分の構築又は使用
コ 威迫、露骨な利益供与又は性的接近を主要手段とする人物操作
サ 違法行為を前提とする課題
シ 人身売買経路への再投入
ス 戦闘要員又は独立潜入要員としての訓練
(2) 安全管理及び停止
本件担当官は、次の場合、個別接触を直ちに終了し、訓練を一時停止できるものとする。
ア 身体又は心理状態に明らかな異常が生じた場合
イ 協力者又は接触相手との接触状況が想定された範囲を逸脱した場合
ウ 暴力、犯罪又は予期しない第三者の介入が生じた場合
エ 監督又は安全確認を継続できない場合
オ 本人、協力者又は当局との関係が露見するおそれが生じた場合
カ 指示目的又は実施範囲を著しく逸脱した場合
キ 接触後の報告が得られず、又は事実確認ができない場合
本件担当官による停止は安全上の一時的措置であり、候補者指定の解除を伴う計画の中止とは区別する。
(3) 権限区分及び別途承認事項
本件担当官は、個別課題の内容及び実施方法、当局管理下の協力者の選定、危険性の低い第三者の評価及び利用、実施場所、日時及び間隔、本人へ説明する個別指示の範囲、報告方法並びに監視及び安全確認方法を決定できるものとする。また、同一目的内の軽微な課題変更、管理された接触から危険性の低い第三者との自然な接触への進行、追加訓練又は前の訓練内容への差戻し、接触の即時終了、安全上の一時停止並びに訓練記録及び評価資料の作成を行うものとする。
札幌分室長は、計画全体の実施状況を監督し、訓練記録及び評価を確認するものとする。また、継続、追加訓練及び差戻しの妥当性を審査し、実施頻度、期間又は方法の大幅な変更、健康、心理又は生活上の問題が生じた場合の計画停止、本件担当官が一時停止した案件の再開可否並びに承認範囲内に収まる計画修正を決定し、上位承認を要する事項を上申するものとする。札幌分室長は個々の日常課題を事前決裁せず、計画全体の継続性及び承認範囲を監督するものとする。
次の事項は、本計画とは別に上位承認を要する。
ア 候補者の警補官採用
イ 独立した任務の付与
ウ 特定の人物、組織、人的関係又は活動に関する情報取得を目的とする接触
エ 犯罪組織、外国情報機関又は危険人物への接触
オ 犯罪組織等への潜入
カ 国外活動
キ 強制措置
ク 武器、暴力又は違法行為を伴う課題
ケ 長期的な虚偽身分の使用
コ 特定の情報取得、人物への影響又は将来の利用を目的とする継続的な関係工作
サ 当初計画の目的又は危険度を重大に変更すること
シ 候補者指定の解除を伴う計画の正式中止
管理された接触から危険性の低い第三者との自然な接触への進行、当局管理下にない危険性の低い第三者を用いた技能確認、第三者の自発的な再接触によって成立した関係を用いる中間評価、同一目的内の追加訓練又は差戻し、本件担当官による即時停止及び札幌分室長による計画停止は、前記の別途上位承認事項に含めない。
7 結語・承認要求
以上につき、当該候補者の選定及び本計画の実施を承認されたく上申する。
以上」
久住は最後の行まで読み返し、開いた書面から目を上げた。
承認後、候補育成と基礎訓練は、承認された範囲内で進められた。胸の症状が現れ、精密検査によって冠攣縮性狭心症と診断されてからは、訓練を一時停止した。それはターニャの失敗でも計画の破綻でもなく、健康状態を確認し、実施条件を改めるための措置だった。治療と勤務の再編を経て、昼間、短時間、炉前作業のある日を避けるなどの条件を定めて再開し、その後の訓練は健康上の制限を守りながら順調に進んでいた。
観察と記憶については、会話の内容と順序を保ち、相手の言動を自分の推定から分けられる。情報管理と報告については、自分が話した真正情報、話さなかったこと、自分の判断を区別し、曖昧なところを補わずに報告できる。秘匿と離脱についても、秘匿すべき内容へつながる連想に気づいて自力で止まり、相手が会話を終えようとしていると判断したときには、引き留めずに接触を終えられた。
だが、自力で止まれたことは、秘匿すべき内容へ近づかなかったことを意味しない。相手の経験に本物の共感を抱き、父や家出、現在の居場所に触れたとき、自己開示として選んだ情報と、それに結びつく本人の感情との境界は揺らぐ。公園で陽子と話したときは自力で止まり、その危険を隠さず報告したが、それによって限界がなくなったわけではなかった。
上申時点で、ターニャを候補とし、通常生活を維持したまま危険性の低い条件から段階的に訓練していくという判断には、技術的な妥当性があった。過去の被害と生活条件を踏まえれば、危険を増やさずに観察、記憶、報告、秘匿、離脱を確かめる必要があった。
春の美術館では、当局が接触を配置していない一般人との偶然の会話でも、警戒、観察、真正情報の選択、秘匿、接触終了、事後報告までの基本技能が成立した。だが、その接触は一日で自然に終わっており、当局管理下にない相手が自分の関心と意思で関係を続けたときに、同じように自己開示を選び、事実と推定を分け、必要なところで接触を終えられるかまでは確認できない。
判断上の誤差は、真正な自己開示を訓練可能な技能として扱い、その真正性が強いほど本人の感情を動かすことを、十分に見積もらなかった点にあった。父の記憶、家出の経緯、ガラスの仕事、いまの居場所は、信頼を得るために選べる情報である前に、本人が生きてきた事実だった。何を話してよいか、何を伏せるべきかという整理だけでは、そこに結びつく感情まで制御できない可能性があった。
心臓病は、上申時点では見通せなかった健康上の事情であり、候補選定の誤りではない。十分に見通せなかったのは、本人が自分のために築いた生活が、自然な関係を作る能力の根拠であると同時に、それを失いたくないという限界の根拠にもなることだった。もっとも、心理反応と秘匿、接触終了の能力を未確認事項としていた以上、危険そのものが想定外だったわけでもない。
同じ管理下の条件を繰り返しても、この限界について新しいことは分からない。上申書に含めた次の段階は、当局管理下にない危険性の低い第三者との間に自然な接触が成立し、相手自身の意思で関係が続いた場合の評価だった。
久住は開いた上申書をターニャの個人別管理記録へ戻し、その記録を閉じた。
* * *
数日後の遅い午後、運河工藝館では、売場も工房もまだ一日の仕事を続けていた。
ターニャも、工藝館の商品を作っていた。いつもの仕事を終えると、使った道具を戻し、作業台を片づけた。手を動かしているあいだは、考えることも仕事の順番に並んでいた。作業が切れると、その隙間へ、あの日の会話が戻ってきた。
何を話したか。何を話さなかったか。相手が実際に言ったことと、自分がそう感じただけのこと。いまでは、会話のあとにそれらを分けることができた。知らないことを知っているように話さないことも、話さなくてよいことを口にしないことも、前より自然にできる。
けれど、美術館で父のことを話したとき、なぜそこまで話したくなったのかは、そのどれにも分けられなかった。考えても、まだよく分からない。胸の奥に少し落ち着かないものが残ったが、ターニャは小さく息を吐き、そこで考えるのをやめた。
片づけを終えると、作業台の端に置いていた試作のペンダントとノートを手元へ寄せた。売場に並んでいるものと同じ形のペンダントが、いくつか並んでいる。同じ形でも、ガラスの色が違えば、受ける印象は少しずつ変わった。ノートには、それまで試したものについて短い記録がいくつも残っていた。
ターニャは一つを手のひらにのせ、少し離して眺めた。光の中で見るのと、手元で見るのとでも違って見える。どれがよいのか、まだ決めきれない。けれど、それは嫌ではなかった。次に試すものを考えると、さっきまで胸の中に残っていたものとは別の、静かな楽しさがあった。
それからも、ターニャはいくつかの試作を重ねた。
ターニャの作った淡い赤のガラスを使ったペンダントが、運河工藝館の売場に並ぶことになった。