制服
桜町由子は、制服の上衣の裾を指先で引いた。
鏡の中で、紺青色の布が腰のあたりでわずかに動いた。背広型の上衣は身体の線に沿い、襟元から淡い水色のワイシャツと、胸元へまっすぐ下がるネクタイがのぞいている。由子は右側を離し、今度は左側を同じだけ引いた。左右が揃ったところで手を離し、小さな皺を掌で伸ばした。
襟へ指を移す。右、左の順に形を確かめる。前を向き直り、上衣の前へ目を落とした。留め方に乱れはない。肩章を留める銀色の釦も、左右とも同じ位置に収まっていた。
右胸の名札へ指を当てる。「桜町」の文字が傾いていないことを確かめ、次に左腕を見る。空士長の階級章にも、直すところはなかった。
同じ紺青色のスカートは膝のあたりまでまっすぐ落ちていた。由子は腰の位置を確かめ、鏡の前で一度だけ身体の向きを変えた。
WAF隊舎の居室には、春の朝の光が薄く差し込んでいた。窓の外には、ところどころに雪の白さが残っている。
由子は机へ向かった。腕時計を左手首に巻き、財布とキーケースを鞄へ収める。机の端には、紺青色の略帽が置いてあった。
千歳基地、第2航空団基地業務群会計隊。
由子は鏡の前へ戻り、胸の名札を指先で直した。左腕には空士長の階級章。その胸には「桜町」の文字がある。
航空自衛隊に入って一年、由子はこの制服を着て勤務し、食事をとり、隊舎へ戻る生活を続けていた。市ヶ谷から連絡がある日も、ない日も、それは変わらない。
「桜町由子」という名は、市ヶ谷が用意したものだった。五年前のことだ。
いま、鏡の中にいるのは、その名で日々を送る空士長だった。
由子は略帽を取り、部屋を出た。
* * *
小樽での一件のあと、由子にはターニャ・リピンスキーの行動を確認する任務が付与された。
その日、由子に命じられたのは、エンゼルを出てから次の辻までの短い区間で、ターニャの行動を確認することだった。
「店を出たところから確認しろ」
久住は机の上に広げた地図へ指を置き、通りに沿って一区間だけ動かした。
「一人で出たこと、接触が終わっていること、安全上の異常がないこと。距離を詰めるな。接触するな。次の辻で別の道へ入れ。そこまでだ」
「はい」
由子は地図上の開始位置と終了位置を確認した。
エンゼルの正面は避け、出入口を視界へ入れられる離れた場所に立った。店内の様子は見えない。確認できるのは、扉から出てくる人物と、その後の行動だけだった。
やがて扉が開いた。
ターニャが一人で店を出てきた。少し遅れて続く者はいない。扉は閉まり、再び開く気配もなかった。
ターニャは立ち止まらず、通りを歩き始めた。背後を振り返ることも、周囲へ繰り返し視線を送ることもない。歩調は一定だった。曲がり角へ近づき、そのまま姿を消した。
由子はすぐには動かなかった。
数秒置いてから歩き出し、同じ角を曲がった。前方にターニャの背中が見えた。間には、由子が速度を上げなければ縮まらないだけの距離が残っている。
通行人が二人の間を横切った。ターニャへ近づく者はいない。進路へ入る者も、声をかける者もなかった。ターニャ自身にも、足を止める、歩調を変える、後方を確かめるといった動作は見られない。
由子は距離を保った。
確認すべき項目は三つだった。単独で退出していること。店内での接触が終わっていること。帰路に安全上の異常がないこと。
次の辻までに、確認すべき項目に問題は認められなかった。ターニャがそのまま直進するのを見届けると、由子は追跡せず、指示された別の道へ入った。角を曲がったところでターニャの姿は視界から消え、その日の行動確認は終了した。
その後も、由子には必要な時だけ短い任務が与えられた。
その間に治安情報局は、防衛庁情報局――ディフェンス・エージェンシー・インフォメーション・サービス、DAISへ改編された。
組織の名は変わった。
久住から由子へ渡される指示の形は、大きくは変わらなかった。
* * *
「桜町由子」として十八歳になった夏のある日、由子は北海道立近代美術館の展示室にいた。
由子は一般来館者に紛れ、展示室を順に移っていた。ターニャは一人でガラス作品を見ていた。しばらくして春野陽子が近づき、ターニャの隣に立って同じ作品へ顔を向けた。
陽子が何かを話しかけると、ターニャはそちらを見て答えた。明確に拒絶する動作も、その場を離れようとする様子もない。
由子は二人の会話が聞こえない距離を保ったまま、展示を見る速度を調整した。確認するのは話の内容ではなく、接触が続いているか、第三者が介入しないか、両者に異常が生じないかだった。
ターニャは再び作品へ視線を戻し、陽子も同じ方向を見た。二人は少しずつ位置を変えながら、別の角度から作品を見ていた。ターニャが何かを話すと、陽子は作品の一部へ目を向けた。次にはターニャが陽子のいた位置へ寄り、そこから同じ作品を見た。
二人の接触は続いていた。その間、ほかの来館者が近くを通ったが、二人の会話へ加わる者はなく、職員が声をかけることもなかった。
やがて陽子が短く口を動かし、ターニャが応じると、二人の会話は終わった。
陽子は軽く頭を下げて近くの展示へ移り、ターニャはその場に残って作品へ視線を戻した。二人の距離は次第に開き、その後、再び近づくことはなかった。
陽子は展示室内に残り、ターニャはほかの作品を見て回ったあと、単独で美術館を出た。
その後、陽子にもターニャにも、安全上の異常は見られなかった。由子は指定された時点で監視を終えた。
数日後、由子は札幌分室へ呼ばれた。
「春野陽子からターニャへの接触を確認。ターニャに明確な拒絶はありません。接触中、両者は同じ展示を見ながら位置を変え、会話を継続しました。第三者の介入はありません」
久住は黙って聞いていた。
「春野陽子が先に別の展示へ移り、両者は分離しました。春野陽子は展示を継続。ターニャはその後、単独で退出しました。双方に安全上の異常はありません。会話内容は未確認。監視を終了しました」
「わかった」
久住は一度、手元へ視線を落とした。
「ところで、別件だ。航空自衛隊へ入ってもらう」
由子は次の言葉を待った。
「少し我々の目の届くところに居てもらいたい。航空自衛隊だ。空曹候補士に応募しろ。教育隊は防府だが、その後は千歳だ」
「はい」
由子は久住から志願票と募集要項を受け取ると、その日のうちに応募した。
* * *
由子は答案用紙の受験番号欄を埋め、その横に桜町由子と書いた。
決められた時間内に筆記試験を受け、終了の合図がかかると、ほかの受験者と同じように答案を伏せた。
面接では、志望動機や希望する勤務地、集団生活について順に尋ねられた。
「集団生活に不安はありませんか」
「ありません」
「希望する勤務地は」
「特にありません」
聞かれたことに答え、それ以上は付け加えなかった。
結果は合格だった。
翌春、由子は空曹候補士として採用され、2等空士として防府南基地へ着隊した。
支給された被服と装具を受け取り、制服と作業服に名札と階級章を付けた。決められた位置からずれれば直され、終われば次の作業を命じられた。起床、点呼、食事、課業、清掃、消灯まで、一日の区切りは由子ではなく号令と時刻で決まった。
基本教練で速足行進を習った。班付は歩幅と歩調を示し、号令に合わせて踏み出すこと、途中で歩幅を変えないことを繰り返し指導した。
列が組まれ、号令がかかった。
由子は前の隊員が動くのを見てから一歩目を出した。続く数歩で前後の間隔を測り、歩幅を調整した。
「桜町2士!」
班付の3曹が声を飛ばした。
「遅い! 周りを見て動くな。号令で動け。途中で歩幅を変えるな」
「はい」
次は「前へ進め」の号令と同時に左足を出した。
班付はそのまま由子の前を通り過ぎ、後ろの隊員へ声を飛ばした。
別の日には、小銃の分解と結合を繰り返した。班付の示範が終わると、机の上の小銃へ一斉に手が伸びた。外した部品を並べ、確認を受け、再び組み上げる。やり直しを命じられれば最初から行った。
射撃予行のあとには実射があり、持続走の日には列になって基地内を走った。教場で過ごす日もあれば、一日の大半を屋外で過ごす日もあった。課業が終われば被服を整え、靴を手入れし、翌日の準備をして消灯を待った。
それが何週間も続いた。
教育も終わりに近づいたころ、一人ずつ呼び出され、配属先を告げられた。
第2航空団基地業務群会計隊。久住の言ったとおり、北海道の千歳基地だった。
* * *
千歳へ赴任すると、由子は会計隊の一員として勤務を始めた。
市ヶ谷から指示がなくても、会計隊の勤務は続いた。与えられた業務をこなし、服務に従い、同じ基地で働く者たちと同じように一日を終える。
会計隊で過ごす時間は、市ヶ谷から次の指示が来るまでの待機時間ではなかった。
やがて、季節が一巡し、由子は空士長になった。
鏡の前で紺青色の上衣を整えたあの朝も、それまでと変わらない一日の始まりだった。
だが、その春、一本の電話が入った。
「はい、桜町です」
由子は、友人からの電話に出るときと変わらない調子で答えた。
「確認する。アルファ、タンゴ、ヒト、ロク」
由子は頭の中で対応する符牒を拾い、「ゼロ、ナイナー、ビクター、ロメオ」と抑揚のない声で返した。
「よし、久住だ。千歳で一件ある」
由子は黙って続きを待った。
「情報漏洩の疑いが出た。確認対象は複数いる」
久住が一拍置いた。
「お前には施設隊の香月曹長を見てもらう」
「はい」
「香月が関与しているとは限らない。こちらから仕掛けるな」
「確認だけですか」
「今のところはそうだ。外から見える範囲でいい。変わったことがあれば上げろ」
久住は少し間を置いた。
「接触が必要になれば指示する。動くのは指示してからだ」
由子は条件を整理した。
現段階では外形監視だけ。香月へ接触はしない。変化があれば報告する。ただし、接触へ移る場合に備え、自然な近づき方は考えておく必要があった。
「了解」
由子はそう答えた。