Op.クリムゾン・ランディシー   作:ゆきなんとか

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細い一本の線

 三月も終わりに近づいた夜、WAF隊舎の自室に戻った由子は制服の上衣を脱ぎ、ハンガーに掛けた。

 香月曹長について、報告すべき変化はなかった。勤務、移動、立ち寄り。外から確認できた範囲では、どれもそれだけで意味を持つものではない。

 久住から命じられているのは外から見える範囲の確認だけで、こちらからは仕掛けない。接触が必要になれば指示が来るため、それまでは動かない。その条件に変更はなかった。

 ただし、接触を命じられてから方法を考え始める必要はなかった。

 香月曹長へ近づく理由が必要になるなら、職務上の用件を作るより、《桜町由子》の側に理由を持たせた方が自然だった。会計隊の空士長が、施設隊の曹長を個人的に気にかけていても、職場が違うからといって不自然ではない。会えば話したいし、少し長く話せれば嬉しい。相手が自分を覚えていれば好ましく受け取り、ほかの女性と親しくしていると知れば気になる。距離が縮まれば、その先を望む。

 必要なのは台詞でも表情でもなかった。何を嬉しいと受け取り、何を残念だと思い、誰との距離を近づけたいと感じるか。その評価の仕方を組み替えればいい。

 由子は目を閉じた。

 香月曹長とは、会計隊の窓口で何度か言葉を交わしている。特別な会話ではない。相手も、同じ基地で働く一人として由子を知っているだけだ。

 その事実は変えない。変えるのは、それらの記憶に与える意味だった。

 声をかけられたこと。顔を覚えられていること。短い会話が続いたこと。それらを、会計隊の空士長として人と関わる自分にとって、私的な意味を持つ出来事として置き直す。

 香月さん。

 普段から、そう呼んでいた。呼び方は変わらない。変わったのは、その名を思い浮かべたあとに続くものだった。

 また会えたら嬉しい。次には、もう少し話せたらいい。

 由子は目を開けた。

 それが自分で組み込んだ反応の仕方だということを、由子は知っている。その認識と、香月さんにまた会いたい、もう少し話したいと思うことは矛盾しなかった。

 

* * *

 

 久住は古い資料の一つを抜き出し、机の上へ置いた。札幌分室の窓の外にはまだ冬の色が残り、机上には新しい案件の書類と、五年前の小樽事件から続く記録が並んでいる。

 五年前、「市ヶ谷」はロシア極東から日本へ人を運ぶ人身売買ルートの国内側を追っていた。寿商事と関係する地元暴力団が受入れと取引の一端を担っており、由子も久住の監督下で、その組織へ潜入補助要員として入っていた。あれが由子にとって最初の実戦だった。

 小樽の取引現場は銃撃戦となり、地元組織も、その場にいたロシア人もほとんどが死んだ。しかし、それで国内側の線まで消えたわけではない。事件後に残った資料からは、地元組織の直接犯罪に加え、寿商事系の資金が末端へ流れていたことも確認されていた。

 寿商事の社長、風祭昭一郎を追ううちに、さらに別の名前が浮かんだ。竹下という男で、表向きは里中家の運転手だったが、風祭との継続した接触は記録に何度も残っている。

 追えるのは、そこまでだった。竹下が風祭と接触していることと、里中財閥の総帥本人が五年前の件を知っていたことは同じではない。命令したのか、承認したのか、そもそも報告を受けていたのか。それを示す材料は手元になかった。線が続いていることと、その先まで証明できることは別だった。

 久住は古い資料を重ね直し、その脇に技術情報部系統から上がってきた人物情報を置いた。そこに載っていたのは、里中梢という高校生だった。里中家の娘で、パソコン通信をよく使っているらしく、ハンドル名とメールアドレスも資料に載っていた。

 久住はその先へ目を移した。寿商事の名も、小樽の件も出てこない。少なくとも、梢自身が何かを知っているようには見えなかった。

 それなら、それでよかった。いま聞き出したいことがあるわけではない。里中家の奥へ踏み込める材料も、まだない。

 ただ、いつかもう一度この線を追うことになったとき、最初から他人として近づく必要がなければ、それだけで違う。警戒されずに連絡を取れる細い線を、一本だけ作っておけばいい。

 梢と年齢が近く、普通の生活の中で知り合っても不自然に見えず、そのまま関係を続けられる女性がいい。

 久住は机の上の電話へ手を伸ばした。

 

* * *

 

 久住からの電話が入ったとき、由子は隊舎の自室にいた。

 受話器を取り、いつもの短い符牒を交わして認証を済ませる。

「別件だ。ある人物と、今後、必要があったときに自然に連絡できる関係を一つ作っておいてもらう」

 由子は続きを待った。

「相手は里中梢。高校生だ。何かを聞き出す必要はない」

 久住は、梢がパソコン通信を利用していることや年齢、ハンドル名を順に伝え、最後にメールアドレスを区切って読み上げた。

 由子は文字列を頭の中で組み立て、その順序を確かめる。

「確認します」

 最初から復唱すると、久住が間違いのないことを確認した。由子はその並びをもう一度頭の中で繰り返した。

「方法は任せる」

「了解」

 通話はそこで終わり、由子は受話器を戻した。久住が何のために里中家とのつながりを作ろうとしているのかは知らされていないし、由子にも知る必要はなかった。考えるべきなのは、面識のない梢と、どうすれば不自然にならず最初の接点を作れるかだった。

 由子は、その場では方法を決めなかった。

 

* * *

 

 しばらくして、由子は自室の机に座り、ノート型パソコンの画面を見つめていた。

 梢へどう接触するかは、まだ決めていない。面識のない相手へ最初から梢宛てのメールを送れば、見知らぬ人間から突然連絡が来るだけになる。読まずに消されても、返事がなくても不思議ではなかった。

 由子は、隊舎の隣室に住む一期下の山本一等空士と交わした会話を思い返した。誰かに気持ちを伝えること、それをメールに書いて送ること。山本にとっては何気ない話だったが、由子には別の使い方ができた。

 梢に宛てたものではないメールが、間違って届いたことにする。読まれずに消されるかもしれないし、読まれても返事が来るとは限らない。成功する確率が高い方法ではないが、反応がなければそれで終わり、反応があれば相手の側から最初の言葉を返してくる。

 誤送信にする。

 由子はそう決めた。

 では、誰に宛てた私信にするか。

 香月さんなら不自然ではなかった。《桜町由子》が香月さんを好きだと感じていること自体は、演技ではない。会えれば嬉しいし、もう少し話したい。もっと近づきたいとも思っている。

 ただ、それだけではラブレターとして弱かった。年上の曹長へ若い空士長が送る私信なら、なぜそこまで強く想っているのか、梢が読んでも冗談ではなく本気のものだと思える理由が必要になる。

 由子は画面から目を離した。

 八年前、まだ小学生だったころ、家族と一緒に雪の中で立ち往生した。そこへ若い香月が現れ、自分たちを助けてくれた。それ以来、ずっと彼に憧れている。

 必要なのは、その程度でよかった。助けられたことと、そこから現在まで想い続けているという一本の線があればいい。それ以上の経歴を作る必要はない。

 もちろん、八年前に家族と雪の中で立ち往生し、香月さんに助けられたという出来事は、実際には起きていない。そのことを由子は解っていた。

 それでも、その過去を《桜町由子》の側へ置くと、いま香月さんへ向けている気持ちに八年という時間がつながった。八年前から憧れ続けている。そう受け取れば、いま胸の内にある好意にも、それまで積み重ねてきた時間があるように感じられた。

 由子はキーボードへ手を置いた。

 文面は香月さんへ送る私信として書けばいい。梢に読ませるための文章として整えるのではなく、《桜町由子》が香月さんへ書くなら何を書くか、それだけを考える。

 書いている途中で、何度か指が止まった。香月さんにもっと近づきたい――そう文字にすると、胸の奥が少し熱くなる。

 その反応が、自分で組み込んだ評価と反応の仕方から生じていることを由子は知っていた。それと、いま本当にそう感じていることは矛盾しなかった。

 最後まで書き終えると、送信先には久住から渡された梢のメールアドレスを指定した。間違いではない。由子は一度だけ画面を確認し、そのまま送信した。

 《桜町由子》は、香月さんへ書いたラブレターを、知らない相手へ〝送ってしまった〟。

 

* * *

 

 二日後、梢からの返信をきっかけに《桜町由子》に生じた怒りは、その日の勤務中も収まらなかった。自室の椅子に座っていても、勢いよくキーボードを叩いた感覚がまだ指先に残っているようだった。人の真剣な気持ちを面白がるなんて最低だ――そう思えば、腹立たしさがまた込み上げてくる。あのメールは香月さんへ向けて書いたものだった。《桜町由子》にとっては、自分の気持ちを言葉にした私信であり、それを見知らぬ相手に笑われたことになる。梢への送信が意図した工作だったことを知っていても、その受け取り方まで消えることはなかった。

 その怒りを共有したまま、由子は任務上確認できた事実を整理した。梢は最初のメールを誤送信だと受け取り、見知らぬ相手から届いたものを読んだうえで、自分から返信してきた。由子が腹を立てて送り返した強い言葉も届いている。少なくとも梢の側からは、由子が自分へ接触してきた形には見えていない。偶然届いたメールに梢自身が反応し、その返事に《桜町由子》が応じたという関係が成立していた。

 接触は成立している。これから先、梢が完全にやり取りを断たない限り、もう一度言葉を交わす余地も残った。

 由子は、その結果だけを久住へ報告した。《桜町由子》の怒りが報告のための演技だったわけではない。任務上望んだ形になったからといって、人の気持ちを面白がられたという腹立たしさまで消えるわけでもなかった。二つは、由子の中で別々のものとして同時に存在していた。

 それから季節が進んでも、「優子」と「ゆき」のやり取りは途切れなかった。梢は最初の一通が偶然届いた間違いメールだったと信じたまま、画面の向こうの「優子」と少しずつ言葉を交わした。由子も急いで距離を縮めようとはしなかった。近づきすぎれば、それまで自然に続いていた関係の方が不自然になる。

 いつか必要になったとき、何の前触れもなく現れる他人ではなく、以前から言葉を交わしている相手として連絡できる。それだけで、久住から与えられた目的は果たせていた。

 

* * *

 

 七月に入ってしばらくしたころ、久住から電話があった。

「状況終了だ」

「了解」

 通話はそれだけで終わった。

 由子は受話器を戻した。香月曹長の監視は、これで終わりだった。

 久住は任務終了の理由を説明しなかった。だが、香月曹長を監視する必要がなくなったことは明らかだった。市ヶ谷が別のルートで関与者を抑えたのだろう。由子にはその程度の推定で足りた。

 これからは香月曹長の行動を確認する必要も、見えた行動を監視対象として記憶に留め、報告の材料として整理する必要もない。

 それでも、《桜町由子》の中にある香月さんへの気持ちは残った。会えれば嬉しい。話せるなら、少しでも長く続けばいいと思う。監視を終えるという久住の指示は、その感情について何かを命じたものではなかった。

 その後も会計隊での通常の勤務が続いた。香月曹長を追う必要がなくなったからといって、基地での生活まで変わるわけではない。勤務に就き、隊舎へ戻り、翌日になればまた出勤する。その日々の中で、七月も下旬に入った。

 久住から、もう一度電話があった。

「八月から、少し動きやすくなってもらう」

「はい」

「司令部広報室へ異動だ」

 由子は受話器を耳に当てたまま、続きを待った。

「正式な人事で動かす。広報室長だけには、市ヶ谷からの調整が入ることと、必要なら勤務を外すことがあるところまで話してある。具体的なことは知らない」

「先任以下は」

「何も知らない。通常どおり勤務しろ」

「了解」

 会計隊から広報室へ移っても、航空自衛官として勤務すること自体は変わらない。担当する仕事が変わり、市ヶ谷から指示があれば、その範囲で別に動く。それだけだった。

 由子は八月を前に広報室に異動した。

 

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