「久住さん。来月、うちに親戚の子が来るよ」
受話器を耳に当てたまま、久住は机上に開いていた書類から目を上げた。春野陽子から直接かかってくる電話自体は珍しいものではなく、声にも差し迫った様子はなかった。
「姉の子でね。甥だね。東京に住んでる高校二年生。八月一日に来て、うちに二週間くらい泊まる予定さ」
久住は手元の紙の余白に日付だけを書き込み、ペン先を止めた。
「八月一日から、二週間ほどですね」
「ああ。最初の予定じゃ、そのくらい」
「分かりました」
「一応、言っておいた方がいいと思ってね」
「ありがとうございます。承知しました」
それ以上、確認することはなかった。久住が受話器を置くと、机の上には途中まで検討していた報告書と、いま書き加えた日付だけが残った。
春野家に親族が滞在する。管理対象から上がってくる情報としては、それだけで完結する内容だった。陽子の甥で、東京に住む高校二年生。八月一日に北海道へ来て、当初の予定では二週間ほど春野家に泊まる。
久住はペンを置き、先ほどまで読んでいた報告書を一度閉じた。
陽子の話を聞いている間は、重要性の低い情報だと感じていた。北海道へ来る理由を尋ねる必要も、滞在中の予定を聞く必要もない。管理対象の家庭に一人増える人間について、最低限の情報を受領した。それで済む話だった。
だが、閉じた書類を脇へ寄せようとしたところで、久住の手が止まった。
久住は椅子を引いて立ち上がると、保管してあるターニャの個人別管理記録を取りに向かった。記録を手に席へ戻り、机の上に置く。表紙を開き、必要な箇所までページを送ってから、その中に綴じられていた上申書を抜き出した。
「当局管理下にない危険性の低い第三者を用いた技能確認」
上申した訓練計画にはそう書いてあった。
春野家へ来る高校生は、少なくとも市ヶ谷が準備した人間ではない。だが、陽子から聞いた事実だけでは、危険性が低い第三者として扱えると確定したわけでもなかった。東京に住む高校二年生で、陽子の甥である。それ以上の情報を、久住はまだ持っていない。
指先でページの端を押さえ、次の箇所へ移る。
「再接触が本人又は相手方の自然な意思により成立し」
そこで、久住は紙から目を離した。
再接触どころか、接触そのものがまだ存在しない。
東京から北海道へ来ることと、小樽にいるターニャとの間には何の関係もなかった。春野家へ二週間ほど泊まるという予定の中に、小樽も運河工藝館も含まれてはいない。滞在中、札幌の外へ出るかどうかすら分からない。
それでも、我々が用意していない人間が、春野家という既知の環境へ自然に入ってくるという条件だけは成立する。
そこから先も、こちらが何もせずに条件が重なるなら、前に確かめられなかったことを試す機会になるかもしれない。
久住は上申書を閉じず、しばらく開いたまま机に置いた。
こちらから条件を作れば、上申した訓練計画に書いた前提そのものが崩れる。誰かに会わせるよう陽子へ頼むことも、外出先を指定することもできない。ターニャへ近づくよう仕向けた時点で、自然に関係が生まれるかを確かめることにはならない。
ならば、現時点で動く理由はない。
久住は上申書を、開いたままのターニャの管理記録へ戻し、表紙を閉じた。最初に検討していた別件の報告書を再び机の中央へ戻すと、その日は春野家にも、小樽にも、ほかの誰にも連絡しなかった。
* * *
七月三十一日までの数日間、久住は春野家に関する新しい資料を集めることも、誰かと評価方法を協議することもしなかった。
結論として残ったのは、きわめて単純な線引きだった。
自然な条件はこちらから作らない。しかし、自然な条件が成立したかどうかを知ることまで放棄する必要はない。
その日、久住は机上の手帳を開いて日付を確認してから、春野家の番号を押した。
陽子が出るまでの呼出音を聞きながら、久住はペンを指の間で一度回し、そのまま机へ置いた。
「春野さん。一つお願いがあります」
「なんだい」
「東京からいらっしゃる甥御さんですけども、その滞在中の予定についてです。外出その他の予定が決まった場合だけで構いません。分かった時点で一度、知らせてください」
受話器の向こうで、わずかに間が空いた。さきほどまで普通に応答していた陽子の呼吸音が消え、代わりに衣擦れのような小さな音がした。
「ちょっと待ちな。あの子に何をさせるつもりだい」
久住は椅子の背へもたれず、机に片腕を置いたまま答えた。
「我々からは何もさせません」
「どういう意味だい、そりゃ?」
久住はすぐには答えず、机上に置いた手帳を閉じた。
「春野さん」
呼びかけると、陽子の声が止まった。
「必要な連絡だけは続けてください。娘さんのためにも。お分かりになりますね?」
受話器の向こうから、しばらく返事はなかった。
久住は何も足さなかった。
やがて陽子が息を吐く音がしてから、低い声で言った。
「……予定が決まったら、それだけ知らせればいいんだね」
「そうです。決まった場合だけで結構です」
「どこへ行けとか、誰に会えとか、そういうことじゃないんだね」
「こちらからは何もしません」
また短い沈黙があり、そのあとで陽子はため息をつきながら、
「……分かったよ」
と答えた。
「お願いします」
久住は、用件が終わったことを示すように短く礼を述べて受話器を置いた。
* * *
陽子から連絡があったのは、その翌々日だった。
「明日、うちの琴梨とあの子が小樽へ行くってさ」
久住は椅子へ座ったまま、机の端に置かれていたメモ用紙を一枚引き寄せた。
「小樽ですか」
「ああ。それだけ。あたしも、それ以上は知らないよ」
久住は紙に日付と「小樽」とだけ書いた。
「分かりました」
そこで用件が終わるなら、通話を切るところだった。
しかし陽子は黙ったまま電話を切らなかった。受話器越しに、遠くで家の中の物音がかすかに聞こえた。
「久住さん」
「なんでしょう?」
「小樽に何かあるのかい?」
久住はペンを机へ置いた。
「この前も小樽だったじゃないか」
陽子の声が少し大きくなる。
「一昨日にあんな電話をしてきて、そのあとでこれじゃ、何もないとは思えないよ」
久住は急いで否定しなかった。
「申し上げたとおり、我々からは何もしません」
「じゃあ、何があるんだい?」
「春野さん」
「何なんだい?」
「あまり深入りしないでいただきたい」
言葉を切ると、向こうの声も止まった。
久住は受話器を持ち替えた。
「分かりますね?」
返事はない。
春野家の中に誰がどの位置にいるのか、久住には見えない。ただ、電話の向こうが完全な無音ではなく、生活している家の中からかけていることだけは分かった。
久住は机上のメモへ一度目を落とし、それから静かに言った。
「偶然ですが、ちょうど七年前の今日ですよね」
受話器の向こうで、息を呑む音がした。
「それは、あんたたちが――」
「娘さんに聞かれますよ」
久住は陽子を遮った。
それまで小さく聞こえていた家の音まで消えたように感じるほど、向こうが静かになった。
久住は受話器を耳につけたまま待った。これ以上、言葉を足す必要はなかった。
「よろしいですね?」
返事までには、先ほどより長い間があった。
「……分かったよ」
陽子は押し殺すように言った。
久住は用件を繰り返さず、そのまま通話を終えた。
受話器を戻したあとも、手はしばらくその上に残った。
メモ用紙には、日付と「小樽」の二文字しかない。
明日、琴梨と春野家に滞在している高校生が小樽へ来る。
確定しているのはそれだけだった。
出発時刻は分からない。交通手段は恐らく鉄道だろうが、到着時刻は分からない。陽子自身が知らない以上、小樽のどこへ向かうかについての情報もない。
当然、ターニャのいる運河工藝館へ行くとも限らない。
小樽観光の途中で工藝館の前を通るかもしれず、まったく別の場所だけを回って札幌へ戻るかもしれない。ターニャと接触する可能性についても、現時点では何も成立していなかった。
最初の陽子からの電話の時点では存在しなかった行動予定が、いまは具体的な予定として成立している。その先に何が起こるか、見てみることはできる。
久住はメモを手元に残したまま、由子への連絡を取った。
「明日、春野琴梨と、春野家に滞在している東京の高校生が小樽へ来る。時刻、交通手段、到着時刻、行先はいずれも分からない」
久住は机の上のメモを指先で押さえた。
「現地で可能な範囲で二人を捕捉し、行動を観察しろ。見るのは、ターニャとの自然な接点が生じるかどうかだ。接点が生じなければ、それで終わりにする。高校生には働きかけるな。二人の行動を変えさせることもするな」
そこで一度言葉を切った。
「明日は予備観察だ。具体的な監視方法は現地判断に任せる。千歳の勤務はこちらで調整しておく」
短い間のあと、由子が答えた。
「了解」