少女は、施設の決まりをよく覚えていた。食器を戻す場所。入浴の順番。消灯前にしてよいことと、してはいけないこと。職員が忙しいときに声をかける時機。年下の子が泣いたとき、どこまで近づけば嫌がられないか。
何度か見れば分かった。職員に褒められれば笑う。年下の子に頼られれば手を貸す。誰かが泣いていれば、すぐに触れず、相手がこちらを見るまで待つ。そうすると、相手は安心した。
安心した顔も、困った顔も、少女にはよく分かった。だから、少女は聞き分けのよい子だと思われていた。
ある日、担当職員に呼ばれた。面談室には年配の職員もいた。机の上には書類が置かれていた。
「ここは、これから小さい子が多い組に変わるの」
年配の職員が言った。
「あなたくらいの年の子がいるところへ移った方がいいって決まったのよ」
少女は二人の顔を見た。担当職員は膝の上で手を組み、年配の職員は書類の端を押さえていた。二人とも、少女が自分たちに追い出されたと思わないようにしている。
「あなたが何か悪いことをしたからじゃないの」
「うん」
「向こうにも学校があって、ごはんも出る。あなたと年の近い子もいるわ」
「わかった」
それで話は終わると思った。だが、担当職員はまだ少女を見ていた。返事が足りなかったらしい。
少女は考えた。行きたくないと言えば、二人は困る。向こうへ行ってもいいと言えば、ここを離れても寂しくないのかと心配する。黙っていれば、話を理解していないと思われる。
必要なのは、別れを嫌がりながらも、聞き分けよく受け入れる返事だった。
「ここ、好きだよ」
担当職員の目が潤んだ。選んだ言葉は合っていた。
「でも、向こうでもちゃんとする」
年配の職員が顔を伏せた。担当職員は少女の手に自分の手を重ねた。
「ちゃんとしなくてもいいの。困ったら、困ったって言っていいのよ」
少女はその言葉を覚えた。困ったときには、困ったと言えばよい。だが、何を困ったと呼ぶのかは分からなかった。
「わかった」
今度は担当職員が笑った。
その日から、少女の荷物が少しずつ箱へ移された。服、本、描きかけの紙。自分のものと皆のものを分け、持っていけるものだけを残した。
ほかの子供たちは、箱が増えるたびに少女のそばへ来た。
「帰ってくる?」
「まだ分からない」
「会える?」
「会えるかもしれない」
「絶対じゃないの?」
「うん」
相手の顔が曇れば、少女は少し間を置いた。
「忘れないよ」
そう言うと、相手は安心した。少女は、誰がどの玩具を好み、誰が夜に泣き、誰が食事の途中で席を立つかを覚えていた。忘れる予定はなかった。だから、その返事は嘘ではなかった。
翌日、一人の子が折り紙で作った小さな箱を持ってきた。
「あげる」
「ありがとう」
「なくさないで」
「なくさない」
少女は、ほかの荷物に潰されない場所へ箱を入れた。それで約束は守れる。
別れの日、玄関には職員と子供たちが集まった。元気でね。嫌なことがあったら言うんだよ。忘れないでね。
少女は一人ずつ顔を見て、相手が望む返事をした。
「うん」
「ありがとう」
「忘れない」
返事をするたび、相手の表情が緩んだ。
最後に、担当職員が少女の前でしゃがんだ。毎朝、少女の髪を結び直した人だった。熱を出した夜には、何度も額へ手を当てた。眠れない夜には、眠るまで少し離れた椅子へ座っていた。
少女は、そうした出来事を覚えていた。
担当職員は両腕を少し開いた。少女は、その姿勢の意味を知っていた。一歩近づき、首へ腕を回す。担当職員は少女を強く抱きしめた。
「寂しくなるね」
声が震えていた。
少女は返す言葉を考えた。ここで「寂しい」と言えば、担当職員は悲しむ。しかし同時に、自分だけが別れを惜しんでいるのではないと分かって安心する。
「わたしも、寂しい」
担当職員の腕に力が入った。
少女は、胸が苦しくなることも、泣きたくなることもなかった。ただ、これが正しい返事だと分かった。
「忘れないでね」
「忘れない」
それは、考えなくても答えられた。
担当職員は泣きながら笑った。少女が腕を解くと、相手も身体を離した。頬を拭い、もう一度だけ少女の襟を直した。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
車が動き出すと、少女は窓の外へ手を振った。建物の角に隠れて皆が見えなくなるまで続けた。誰も見えなくなると、手を下ろした。
隣に座る大人が、心配そうに少女を見た。
「大丈夫?」
「大丈夫」
その返事を聞くと、大人は前を向いた。
少女は膝の上の鞄を開け、折り紙の箱が潰れていないことを確かめた。それから、次の場所で最初に確かめることを考えた。
自分の棚。荷物の置き場所。食事の席。入浴の順番。誰が決める人で、誰が先に動く人か。
新しい施設では、玄関の手順から違っていた。迎えの職員が靴箱を示し、居間へ案内し、使ってよい棚と守るべき決まりを説明した。
食事の前には手を洗う。人の棚は開けない。小さい子から先に風呂へ入る。困ったことがあれば近くの職員へ言う。
少女は説明する指先と、ほかの子供たちの動きを見た。決まりはすぐに分かった。子供たちの関係も、少し見れば分かった。
よく話す子。黙って見ている子。職員の前では返事をする子。誰かが叱られると笑う子。自分の物に触られると怒る子。
誰が何を望み、どの言葉で安心するのかを覚えれば、暮らすのは難しくなかった。少女は、呼ばれれば返事をした。頼まれれば手を貸した。褒められれば笑った。前の場所でしていたことと、ほとんど同じだった。
しばらくすると、職員たちは少女を気遣いのできる子だと言った。年下の子が泣けば、少女はそばに座った。
「帰りたい」
そう言われれば、
「帰りたいんだね」
と答えた。
前の施設で、担当職員が使っていた言葉だった。それを言えば、泣いている子の声は小さくなった。
戻ってきた職員は少女の肩へ手を置いた。
「ありがとう。優しいのね」
少女は微笑んだ。
「もう大丈夫みたい」
その返事で、職員も安心した。
翌朝、少女は決められた時刻に起き、寝具を畳んだ。年下の子の毛布がずれていれば直した。
「すっかり慣れたね」
朝の職員が言った。
少女はその顔を見た。ここで問題なく暮らせているという確認と、これからも同じようにしてほしいという期待があった。
「うん。もう分かるよ」
職員は満足そうに頷いた。
少女は洗面所へ目を向けた。列には、まだ二人並んでいた。食事までに髪を整えるには、その後ろへ並べば間に合う。
少女は自分のブラシを持ち、列の最後に立った。