Op.クリムゾン・ランディシー   作:ゆきなんとか

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また会えたら

 二人の男性客が売場へ入ってきたとき、ターニャは棚の奥に置いた小さな器の向きを直していた。若い方は肩から大きなバッグを提げ、その隣を年上の男が歩いている。観光客の出入りは朝から続いていたから、ターニャも二人へ特別な注意を向けることなく、商品のコップを正面へ向けて隣との間隔を確かめた。

 売場には、その二人とは別に、一人の少年がいた。

 そのとき、視界の端で赤いものが動いた。

「あっ――」

 自分の作った花瓶だった。何が触れたのかは見えなかったが、棚の上で大きく傾き、そのまま外へ落ちようとしている。ターニャが身体を向けたときには、もう少年の手が伸びていた。

 赤いガラスは床へ落ちる寸前で、その手の中に収まった。

 ターニャはすぐには動けなかった。落ちると思った瞬間に止めていた息をようやく吐き、少年の手の中にある花瓶へ目を凝らす。口にも胴にもひびはなく、欠けたところもない。店内の光を受けた赤いガラスは、何事もなかったように澄んだ色を返していた。

 よかった、と最初に思った。

 自分で作った花瓶の中でも、とりわけ気に入っている作品だった。それが壊れなかったことを確かめて胸の奥の緊張がほどけてから、ターニャはようやく、その花瓶を受け止めた少年の顔を見た。

 少年も、手の中の花瓶が無事なのを確かめているようだった。

 ターニャはその前まで歩み寄った。

「あの……ありがとうございます。私、ターニャ・リピンスキーです」

 名乗ってから、少年の手にある花瓶へもう一度目を落とす。

「その花瓶、私が作ったんです。お気に入りの作品だから、壊れたらきっと、すごく悲しかったと思います」

 少年も自分のことを話した。東京から来た高校生で、今は札幌の親戚の家に世話になっているという。名前も聞いたが、ターニャが強く覚えたのは、そのあと少年が花瓶を見ながら口にした言葉だった。

「この花瓶、本当にいい感じだよね。シンプルで、でもすごくセンスの良い形だし、澄んだ赤い色も暖かい感じがして好きだな。」

「本当ですか?」

 ターニャは、しばらく返事を忘れていた。きれいだと言われたことならある。赤がいいと言われたこともあった。けれど、形を見て、色を見て、その色から受ける暖かさまで言葉にしてくれた人はいなかった。それは、この花瓶を作るときに自分が残したかったものを、知らないはずの相手が見つけてくれたように思えた。

「私の作品を、そういう風にほめてくれた人は、あなたが初めてです」

 言ってから、頬が少し熱くなった。少年は驚いたようにターニャを見た。

 ターニャは少しためらい、それから花瓶を少年へ差し出した。気に入ってくれたのなら、使ってほしいと思った。

「気に入って下さった方に使って頂くのが一番です。それに、もしもあなたがいなければ、この花瓶は誰にも使われないまま壊れていたところですから」

 さっきまで、落ちたらどうしようとしか考えられなかった花瓶だった。けれど、自分が大切にしたかった形と赤を、初めてそんなふうに見てくれた人なら、使ってほしいと思った。

 少年は花瓶を受け取ってくれた。大切に使うと言った。自分の作ったものが、それを気に入ってくれた人のところへ行くことがターニャにはとても嬉しかった。

「あ……私、そろそろ工房に戻らなければなりません。今日は本当にありがとうございました。さようなら」

 ターニャはもう一度頭を下げ、売場の奥へ戻った。

 

* * *

 

 工房へ戻れば、やることはいつもと変わらなかった。売場で何があったとしても作業の手順まで変わるわけではなく、道具の位置を確かめて指示された工程を進め、熱の近くへ長く留まりすぎないよう時間を見て離れ、喉が渇く前に水を飲む。身体の具合にも気を配りながら繰り返す、いつもの仕事だった。

 それでも、意識のどこかには赤い花瓶が残っていた。澄んでいて、暖かい――少年が口にした言葉を思い出すたび、胸の奥がわずかにくすぐったくなる。自分では、あの花瓶を作るときにそんな言葉を考えていたわけではなかった。ただ、赤を濁らせたくなかったし、手に取った人に冷たいものだとは感じてほしくなかった。それを初めて見た少年が、形と色を眺めただけで、自分が言葉にしていなかったものまで見つけてくれたように思えた。

 考えごとをしたまま扱っていい仕事ではない。ターニャは作業台へ視線を戻し、手元へ意識を集中させたが、一区切りついて顔を上げたとき、工房と売場を隔てるガラスの向こうに見覚えのある人影を見つけた。さっきの少年だった。

 目が合うと、少年は少し迷うような間を置いてから片手を上げ、小さく振った。何かを言っているわけではないのに、その仕草を見ただけで、また顔を合わせられたことを喜んでくれているように感じた。

 ターニャも反射的に応じかけたが、ここは仕事をする場所だと思い直して周囲へ一度だけ目を走らせた。それでも無視するのは嫌で、作業を妨げない程度に手を上げ、控えめに振り返すと、ガラスの向こうで少年が笑った。

 その笑顔につられて、自分も笑っていることに気づいた。

 少年はそれ以上そこへ留まらず、やがて売場の向こうへ姿を消した。ターニャは手を下ろして作業台へ向き直ったものの、口元に残った笑みはなかなか消えず、それを意識すると少し恥ずかしくなったが、無理に消してしまいたいとは思わなかった。

 

* * *

 

 仕事が終わるころには、昼の光はすっかり傾いていた。外へ出ると、海の方から来る風が日中より涼しかった。まっすぐ寮へ戻るにはまだ少し早い。ターニャはしばらく歩いてから、夕日が見える公園の方へ足を向けた。夕焼けを見たいと思った。それだけだった。

 公園へ着くと、西の空はすでに色を変え始めていた。雲の縁に明るい橙が残り、その下へ赤が広がっている。海に近い空ほど色は薄く、上へ行くにつれて青が残っていた。ターニャは足を止めた。夕焼けは見るたびに少しずつ表情を変える。それでも、赤の奥にあるものは同じだった。幼いころ、父がガラスの中へ閉じ込めた色――澄んでいて、暖かくて、優しい赤が、今日も西の空に広がっている。だからこそ、何度見ても飽きることがなかった。

「今晩は。ターニャ」

 後ろから声がして、ターニャは振り返った。昼の少年が立っていた。一瞬驚いたあと、胸の中に小さく明るいものが広がる。ターニャも挨拶を返し、少年と並んで西の空を見た。

「綺麗な夕焼けだね。」

「……夕焼け……好きなんですか?」

 少年が好きだと答えると、ターニャはもう一度空を見上げた。

「私も大好きなんです。……自然が作り出した、あったかい色……この赤い色が……どうしても出せなくて」

 風で髪が頬へかかり、指で耳の後ろへ戻した。昼の花瓶を見て、少年は暖かいと言った。だからなのかもしれない。この人なら、赤の話をしても分かってくれるような気がした。

「ツヴェト・ザカータ……夕焼けの色……私、この色をガラスで表現したいんです。澄んでいて、暖かくて、優しい赤……」

 少年は途中で急かさず、ターニャが言葉を探す間も待っていた。話はガラスから仕事へ移り、ターニャは自分の来歴も話した。

「私、ロシアのナホトカで生まれて……十二歳の時、日本に来ました。それから四年間、運河工藝館で働いています」

 全部を詳しく説明したわけではない。それでも、気づけば昼に名乗ったときよりずっと多く、自分のことを話していた。相手が聞いてくれるから、その次も話したくなる。その感じがターニャには少し珍しかった。

 夕日はさらに低くなり、空の赤が変わるたび、話が途切れても気まずくはなかった。やがて少年から夕食に誘われると、ターニャは少し戸惑った。初めて会った日に女性をそんなふうに誘うのかと尋ねると、少年は今日聞いた話でもっと彼女のことを知りたくなったのだと答えた。

「そんなにお話しできることありませんよ。私は普通の女の子」

 特別なものがあるとすれば、それは父から受け取ったガラスのことくらいだった。日本へ来るまでのことも、そのあとにあったことも、誰かへ話して特別だと思ってほしいことではない。ただ、もう少しこの人と話していたいとは思った。

 ターニャは自分がいつも行く店なら案内すると申し出た。知らない店へ二人だけで入るより、自分のよく知っている場所がいい。好きな店で、マスターがいる。それなら初めて会ったばかりの男の人と一緒でも少し安心できる。二人は公園を出ると、エンゼルへ向かって歩き始めた。

 

* * *

 

 扉を開けると、いつもの鈴が鳴った。

「ここが私のよく来るお店、喫茶エンゼルです。……すごくあったかいお店なんです」

 ターニャは少年を中へ招き、来日したばかりのころからこの店へ通っていることも話した。

「日本語の分からない私に、ロシア語の辞書を引きながら、一生懸命話しかけてくれたのが、このお店のマスターでした」

 カウンターの向こうで聞いていたマスターが口を挟んだ。

「おしゃれな店でなくて悪かったね」

「あっ! マスター、聞こえちゃいました?」

 マスターは、他に客がいないのだから聞こえると返した。ターニャは少し照れながら少年と席へ着いた。

 やがて紅茶が運ばれてくると、少年は頼んでいないことを不思議がった。

「あの……紅茶は頼んでませんよ。」

「これは店のおごりさ。ターニャがこの店に友達を連れてくるなんて、初めてのこと」

 少年が礼を言う横で、ターニャは紅茶と添えられたイチゴジャムを見た。

「これ、ロシア紅茶ですね。」

「ああ。ロシアじゃ紅茶にイチゴジャム入れて飲むんだろ? それ聞いてさっそく真似してみたんだ。どうだい? うまいかい?」

 ターニャは少しだけジャムを入れて紅茶を口にした。

「はい。ふるさとの味です」

 マスターは満足し、翌日から新しいメニューにすると言って二人を残した。少年との話はまた夕焼けへ戻り、ターニャはしばらく迷ってから、服の下に入れていた細い鎖を指でつまんだ。

「私の宝物、見せましょうか?」

 鎖を引き出すと、赤いガラスのペンダントが胸元へ出た。店の灯りを受け、深い赤の中に光が残る。

「夕焼けの色をしたガラスのペンダントです。……これは、父の形見なんです」

 少年がペンダントを見つめる。ターニャは指先でそれを支えた。何度触れても、これだけは父の手と切り離して考えられなかった。

「父は、この製法を誰にも伝えないまま他界してしまいました。だから私、どうしても夕焼けの赤を作りたいんです」

 公園では仕事の話をしていたはずだった。それが、いつの間にか父のことまで話している。ターニャはそのことに気づき、少し驚いたが、言わなければよかったとは思わなかった。昼の花瓶を見てくれたときも、公園で夕焼けの話を聞いてくれたときも、少年は分かったふりをせず、ターニャが言葉を探せば待っていた。だから、父のことも話せたのだと思った。

「僕に出来ることがあったら、何でも言ってよ。なんとかして、君の力になりたいんだ」

 その言葉は嬉しかった。同時に、ターニャの中で小さく何かが止まった。父のことなら話せる。ガラスのことも、夕焼けの赤のことも話せる。けれど、十二歳で日本へ来たあと、どうしてここへ来ることになったのか。その先には、話せないところがある。

 少年が悪いわけではない。もっと知りたいと言ってくれたことも、助けたいと言ってくれたことも嬉しい。だからこそ、その先へは進ませたくなかった。ターニャは礼を言ってから答えた。

「でも、これは私自身の問題ですから……仕事はとても充実しています。私には、目標があります」

 少年は無理にその先を聞かなかった。ターニャはほっとした。それでも、父の話をしたことを後悔はしなかった。やがて時間が遅くなったことに気づき、札幌へ戻る少年を小樽駅まで送ると言った。

 

* * *

 

 久住は、受話器の向こうの声を聞きながら、机上の紙へは何も書かなかった。

「ターニャが若い男を連れてきた」

 マスターはそう言った。

「あの子がここに友達を連れてきたのは初めてだ」

「ほかには?」

「赤いペンダントを出して、男に見せていた」

「本人から見せたのか」

「ああ。あの子が自分で出した。父親の話でもしてたんじゃないか」

「様子は?」

「ずいぶんと打ち解けているように見えたよ」

「ほかに何かあるか?」

「俺が見聞きしたのはそれだけだ」

「分かった」

 久住はそれ以上を求めなかった。通話を終えたあと、少しして別の連絡が入った。

 由子だった。

「昨日と同じ少年を小樽駅で捕捉しました。今日は春野琴梨を伴わず、一人です」

 久住は黙って続きを聞いた。

「少年はそのまま運河工藝館へ向かい、自発的に入館しました。私は昨日、顔を見られているため、距離を取って外部から確認しています。館内へは入っていません」

「ほかには?」

「風祭が工藝館に現れました。青木も一緒です。ターニャや少年との接触は観察できていません」

「……了解した。風祭はこちらで見る。お前は少年の監視を続けろ」

「了解」

「それから、少年ですが、ターニャの退勤後に公園で合流して、二人でエンゼルへ入店しています。私は店内へ入っていませんから、会話内容は未確認です」

「少年が誰かに誘導された形跡は?」

「私が確認できる範囲では、その形跡はありませんでした。一人で小樽へ来て、工藝館へ入ったところまでは本人の行動として確認しています」

「了解だ」

 由子は必要な外形事実だけを続け、報告を終えた。久住は受話器を置いた。昨日は、琴梨と一緒に小樽へ来て、観光の途中で工藝館へ立ち寄った。それだけでは、少年がターニャへ関心を持ったかも、もう一度会おうとするかも分からなかった。今日は違った。少年は一人で小樽へ来て、自分の意思で工藝館へ戻った。そのあと、ターニャと行動を共にしている。

 外から確認できたのはそこまでだった。

 同じ時間帯には、風祭と青木も工藝館にいた。ただし、由子が確認したのはそこまでだった。少年と風祭が直接接触した事実は確認されていない。今の段階で、それ以上を結びつける理由はなかった。

 一方、店の中では、ターニャが父のことを話し、形見の赤いペンダントまで自分から見せていた。久住は机上の電話へ視線を落とした。すぐには手を伸ばさなかった。

 

* * *

 

 久住が電話を受けたそれより少し前、エンゼルを出た二人は、小樽駅へ向かって歩いていた。店を出たときには、もうすっかり夜になっていた。夕焼けの名残はなく、暗い空の下で街灯や店の灯りが通りを照らしている。昼のざわめきが遠のいた街には、夜の小樽の音が聞こえていた。駅までの道で、ターニャはあまり新しい話をしなかった。話さなくても、今日のことが順番に浮かんできた。

 落ちかけた赤い花瓶を受け止めてもらったこと。形と色を、初めて自分が大切にしているところまで見てもらえたこと。工房のガラス越しに手を振り合ったこと。夕日の見える公園でまた会ったこと。夕焼けの赤を話し、気づけばエンゼルへ案内し、父の形見まで見せていたこと。朝には、どれ一つ予定していなかった。

 それなのに、一日の終わりには、ずいぶん長い時間を一緒にいたように感じた。駅へ向かう途中、少年は今度は自分が寮まで送ろうとしたが、ターニャは首を振った。

「私は会社の寮に住んでいます。男の人に送ってもらったら、誤解されます」

 少年は少し残念そうな顔をしたが、それ以上、寮まで送ると言い張ることはなかった。改札へ向かう人の流れが二人のそばを通り過ぎる。ターニャは何かもう一つ言いたい気がしたが、次に会う約束をする言葉は浮かばなかったし、少年も約束を求めなかった。

「きょうはとても楽しかったです。それじゃ……」

 一度言葉を止め、笑った。

 少年も別れを返し、改札の方へ歩き出した。ターニャはすぐには背を向けず、その姿が人の流れに混じるまで見ていた。もう会わないかもしれない。東京から来た高校生で、札幌の親戚の家に滞在している。それ以上のことを、ターニャはほとんど知らない。また工藝館へ来るのかも分からない。それでも、また会えたらいいと思った。

 そう思ったことを、誰かへ説明する必要はなかった。ターニャは一人で駅を離れた。

 

* * *

 

 寮へ戻ったあとも、赤い花瓶を持つ少年の手が何度か頭に浮かんだ。部屋にはいつものものしかなかった。鞄を置き、着替えを済ませ、水を飲む。外出中ずっと体調に問題はなく、胸の苦しさもなかった。それでも気持ちはまだ一日の途中に残っているようだった。

 電話が鳴った。表示には運河工藝館の電話番号が出ていた。こんな時間に店から、とターニャは思いながら応じると、受話口から久住がロシア語で言った。

「Не Когэйкан. Кудзуми.(工藝館ではない、久住だ)」

 その意味を聞き取ったターニャは、思わずロシア語で聞き返した。

「А? Кудзуми-сан?(え? 久住さん?)」

「そうだ」

「今日、工藝館で知り合った少年のことだ」

 ターニャの手が止まった。昼から夜までの時間へ、突然、別のものが入り込んできたように感じた。

「……どうして、そんなことまで知っているんですか?」

「こちらで確認している。まず、今日あったことを話せ」

 ターニャはすぐには答えられなかった。今日は、久住から何も言われていない。誰かと話す課題でも、報告を求められた接触でもなかった。工藝館へ来た客と知り合い、公園で偶然また会い、エンゼルへ連れていった。それは自分の一日だった。

「ターニャ、話せ」

 久住がもう一度そう言った。

「……はい」

 ターニャは花瓶が落ちかけたところから話した。少年が受け止めてくれたこと。花瓶を褒められ、贈ったこと。仕事へ戻ったあと、ガラス越しに手を振ったこと。公園でまた会ったことまで話すと、久住が短く尋ねた。

「再会は約束していたのか」

「いいえ。偶然です。私は夕日を見に行きました。そこに、その人が来ました」

「それで?」

「夕焼けのことと、ガラスのことを話しました。ナホトカで生まれたこと、日本へ来たこと、工藝館で働いていることも話しました」

「それから?」

「夕食に誘われました。私はエンゼルへ案内しました」

 そこで、久住が言った。

「父親の話もしたそうだな?」

 ターニャの指に力が入った。受話器を持つ手が、急に重くなったように感じた。

「……はい」

「赤いペンダントも見せた?」

 ターニャは、さっきより長く答えをためらった。だが、久住は知っている。

「……はい」

 エンゼルで、少年の前へペンダントを出したときのことをターニャは話した。父の形見だと言った。父もガラス職人だったこと、父が夕焼けの赤を作ったこと、その作り方を残さず亡くなったことまで話した。

 あのとき、そばにいたのは少年とマスターだけだった。マスターが久住へ必要なことを知らせる場合があるのは知っている。それでも、父のことも、赤いペンダントを見せたことも、あの店で交わした時間の中にあるものだと思っていた。それがもう久住のところまで届いている。そのことの方が、ターニャには重かった。

 誰から聞いたのかを尋ねようとして、やめた。答えが一つとは限らなかったし、誰から伝わったのかを知ったところで、自分が今日したことまで消えるわけではなかった。

「日本に来たときのことは話してないだろうな」

「そんなこと、話すわけありません!」

 ターニャは、思いの外、大きな声を出してしまった自分に驚いていた。

「父の話だけです。助けたいと言われましたけど、これは私自身の問題だと答えました」

「分かった」

 久住の声に、責める調子はなかった。

「これから、その少年について指示する」

 ターニャは黙って、久住の次の言葉を待った。

「今後、その少年と自然に再接触した場合、関係を維持しろ」

 ターニャは意味をすぐには飲み込めなかった。今日まで、その少年との間にあったことを、任務として考えたことは一度もなかった。

「……関係を、ですか」

「そうだ。こちらから無理に会う機会を作る必要はない。探しに行くな。相手から自然に接触してきた場合は応じろ。会話を続けて、相手が何に関心を持っているか、何を求めているかを見る」

 久住はそこで一度言葉を切った。

「必要なら、話していい範囲では本当のことを話していい。今日と同じだ。ただし、話せないところとの境界は守れ」

 今日と同じだ。その言葉が、ターニャの中に残った。今日、自分で花瓶を渡した。自分で夕焼けの話をした。自分でエンゼルを選び、自分で父の形見を見せた。誰にも言われていなかった。けれど次に会ったときからは、その人との関わりを続けること自体が、久住から与えられた任務になる。

「以後、その少年と接触した場合は報告しろ。日時と場所、相手の反応、次に会う予定ができたか、自分から何をしたか、重要なことを話したか。それでいい」

「……はい」

「体調に異常があれば中断しろ。任務よりそちらを優先する」

「分かりました」

 返事はできた。それでも、久住が通話を終える前に、ターニャは一つだけ確認した。

「私から、会いに行かなくていいんですね」

「ああ。自然に会わなければ、それで終わりだ」

「……分かりました」

 今度は、それ以上何も聞かなかった。通話が終わる。ターニャはしばらく受話器を持ったまま動かなかった。駅で別れたとき、また会えたらいいと思った。その気持ちは、電話を切ったあとも消えていなかった。もう一度、あの人と会いたい。夕焼けの話をしたい。そう思うと、胸の奥に昼から残っていた暖かさが戻る。

 けれど、そのすぐ隣に、今までなかったものが残った。もし、本当にまた会えたら。そのとき自分は、今日と同じように笑えるのだろうか。何が違うのか、ターニャにはまだうまく言葉にできなかった。

 

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