運河工藝館の建物が見えてきたところで、ターニャは入口の近くに立つ人影に気づいた。昨日と同じ少年だった。
考えるより先に足が少し速くなり、胸の内側が明るくなる。本当にまた来てくれた。その事実がただ嬉しくて、気づけば自然に声をかけていた。
「あっ! お早うございます。今日も来て下さったんですね。ガラスが好きなんですか?」
少年が肯くのを見た瞬間、昨夜の電話が意識の奥から戻ってきた。
自然に再接触したときだけ関係を続けること。こちらから探しに行かないこと。自分から何をしたか、何を話したか、あとで報告すること。
昨日、駅で別れたときにはなかったものだった。
会えたらいいと思っていた。その願いどおり今日また会えたというのに、喜んだすぐあとで久住へ話さなければならないことまで思い出している。少年はそのことを知らない。そう思うと、少しだけ後ろめたかった。
けれど今日は、まず考えなければならないことがあった。一緒に働く女性が急に来られなくなっており、人手が足りず、誰か一人いないだけで売場と工房の間を行き来する細かな仕事が次々に詰まっていた。
目の前には、今日も工藝館まで来てくれた少年がいる。一日だけ手を貸してもらえないかと頼むのが一番自然に思えたし、実際に仕事も助かる。そう考えてから、今日も長く一緒にいられるのだと気づき、また嬉しくなった。
その嬉しさまで報告する必要があるのかは分からない。けれど、自分から手伝いを頼んだことは、きっと話さなければならない。
少しためらってから、ターニャは口を開いた。
「……あの……お手伝いと言ってもお金は出せませんし、こんなことお願いするのも、ちょっとずうずうしい話なんですが……」
少年は引き受けてくれた。
人手が一人増えたことにほっとしながら、ターニャは笑った。その一人が彼だったことも嬉しく、どちらの方が大きいのかは、自分でも分からなかった。
工藝館の一日は、彼が加わっても工藝館の一日だった。客が入れば売場が動き、品物が減れば整え、包装が必要になれば手を動かす。彼には危険のない範囲の仕事を手伝ってもらい、ターニャ自身は工房でいつもの仕事を進めた。
作業の合間に彼の視線が坩堝に向くたび、ターニャはガラスが形になるまでのことを説明した。
原料を高温で溶かし、坩堝の中のガラスを吹き竿へ巻き取り、形を整えながら息を吹き込み、できあがったものは急に冷やさず窯の中でゆっくり温度を下げていく。色は金属や鉱物によって変わるが、狙った色を安定して出すのは簡単ではない。
知っていることを順に話しながら手を動かしていると、彼が昨日より少しだけ自分に近いところにいるように感じられた。ただ、彼が触れるのは安全な仕事だけだった。熱と道具の扱いは、見ているのと実際に行うのとではまるで違う。
この仕事は、五年かけて半人前、十年かけてようやく一人前と言われる。子供のころから父の仕事を手伝い、日本へ来てからも時間を積み重ねてきたが、ターニャ自身もまだその途中にいる。昨日、彼が暖かいと言ってくれた赤い花瓶も、今日の自分なら、形も色ももっとよくできるかもしれない。
彼と一緒に作業をしていると、時間がいつもより早く進んだ。
朝に思い出した久住の言葉も、作るべき商品があり、片づけるものがあり、工房では自分の手元を見なければならないうちに、いつの間にか遠くなっていた。彼がすぐ近くで仕事を手伝っている。それだけで、一日は充分に忙しかった。
彼がガラス職人になる方法について教えて欲しいと言ったとき、ターニャは父のことも話した。
ウラジミール・リピンスキー。ナホトカでは名の知られたガラス職人で、研究のために日本へ来たことがあり、そのとき現在の運河工藝館のオーナーと知り合った。父が亡くなったあともその縁は切れず、自分がここで大切に扱われてきた理由の一つには、父とオーナーの間に本当にあったつながりがある。
父の名前を彼へ話すことに、昨日ほどのためらいはなかった。工藝館でガラス職人として働いている自分と父のことは最初から切り離せず、仕事の話をしていれば自然に父へつながる。それをわざわざ隠したいとは思わなかった。
そのあと、ターニャは自分の作業へ戻り、合間を見ながら夕焼けの赤を試したガラスが冷えるのを待って色を確かめた。
思っていたものとは違う。近づいたと思うと離れる、その繰り返しはこれまで何度も経験していた。
「……あっ!! また失敗です。夕焼けの赤……難しいですね。」
残念ではあったが、珍しいことではなかった。彼がそばにいても失敗は失敗であり、それを見せたくないとも思わない。ターニャは、むしろ、自分がまだ夕焼けの赤にたどり着く途中にいることまで知ってもらえたような気がした。
やがて仕事を終えるころには、外の光が朝とは違う色になっていた。
彼はそのままターニャと一緒に工藝館を出て、二人は昨日と同じ公園へ向かった。別れてからもう一度会ったのではない。朝から続いていた一日が、そのまま夕方まで伸びていた。
公園へ着くころには、西の空が赤く染まり始めていた。
昨日と同じ場所でも、夕焼けまで昨日と同じではない。雲の位置も光の強さも違う。それでも、その色を見たときにターニャの中へ戻ってくるものは変わらなかった。
「今日も夕焼けが綺麗ですね。初めて父が、夕焼けの赤を完成させた日のこと……私、今でも覚えているんです。」
あの日の父の姿が浮かんだ。
完成したばかりの小さなベネチアン・グラスを、父は誰より先にターニャへ見せてくれた。父は子供のように喜んでいて、ガラスそのものが美しかったことも覚えているが、それ以上に、そのときの父の笑顔をよく覚えている。ターニャも嬉しくなり、一緒に笑った。
だから夕焼けの赤は、ただきれいな赤ではなかった。
父の笑顔の色だった。
その父は病気で亡くなった。
そこから先を誰かに話そうとすると、いつも時間が急に冷たくなるように感じる。
父が亡くなってしばらくして、セルゲイが家へ来た。そして、母の新しい夫になった。やがて父の工房で、セルゲイはウラジミールのガラス作品を壊し、写真や手紙まで駄目にした。そして、残っていた父の思い出まで母に捨てさせた。
壊れる音は、今でも記憶の中にある。
けれど思い返したときにいちばん苦しいのは、セルゲイが壊したことだけではなかった。セルゲイが怖く、何を考えているのか分からなかったが、母はそれまでターニャが信じていた人だった。その母まで父の思い出を捨てたということの方が、胸の奥に深く残っている。
その日に家を出て、父の思い出がある日本へ来た。
日本へ来る途中に何があったのかは、彼に話さなかったが、話せないことを隠すために別の話を作る必要もなかった。父のこと、家を出たこと、日本を選んだこと。それだけで、彼に伝えたいことは伝えられた。
日本へ来たとき、ターニャは姓も選んだ。本来なら女性である自分の姓はリピンスカヤになる。それでも父と同じ姓でいたくて、自分でリピンスキーを選んだ。
胸元にある赤いペンダントへ指が触れた。
「今となっては、このペンダントと『リピンスキー』という苗字だけが、父がこの世に生きていた証なんです。」
口にしてから、ターニャはしばらく夕焼けを見ていた。
今日は昨日より、ずっと多くのことを話してしまった。
話しているうちに、思っていたよりずっと深いところまで話してしまった。父のことだけではない。家を出たことも、自分がリピンスキーという姓を選んだ理由まで話した。
彼が聞いてくれたことは嬉しかった。けれど、せっかく一緒に夕焼けを見ていたのに、こんな暗い話を聞かせてしまったことには、少し後悔が残った。
ターニャは彼の顔を見て、申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんなさい……こんなお話してしまって……お腹、すいてません?」
これ以上、重い話を続けたくなかった。彼にも気を遣わせたくない。自分から夕食に誘ったのは、二人の間に漂った空気を変えたかったからでもあった。
ただ、自分が父や家族のことまで話したという事実は、胸の奥に残った。
昨夜、久住から言われたことを思い出した。今日、自分から何をしたのか、何を話したのか。それはあとで報告しなければならない。
彼は、そのことを知らない。
朝にはまだかすかだった後ろめたさが、ほんの少しだけ重くなった。それでも今は、そのことを考え続けるより、彼ともう少し普通に話していたかった。
「エンゼルも悪くないけど、今日は別の店に行きたいな。君はいつも同じルートを辿っている気がするんだ。」
言われてみれば、その通りだった。
工藝館で働き、夕日を見るならこの公園へ来て、食事ならエンゼルへ行く。自分にとってはいずれも落ち着く場所で、同じところへ行くことを窮屈だと思ったことはなかった。
彼は、新しいものを作ろうとするなら、いつもと少し違う経験も手掛かりになるのではないかと言った。
ターニャはもう一度赤くなった空を見た。自分から冒険をしたいと思っていたわけではないが、彼の言うことは少し分かる気がしたし、何より彼が選ぶところへ行ってみたいと思った。もう少し一緒にいられることも嬉しかった。
「そうですね。それじゃ、私をどこかへ連れて行って下さい。」
公園を出てから、二人は店の並ぶ通りを歩いた。
どこへ行くのかは彼に任せていた。いつもの道を外れると、見慣れない店の灯りや人の流れが次々に目へ入ってくる。同じ小樽の街なのに、普段歩いている場所とは少し違って見えた。
そんな通りを歩いている途中で、二人の男が声をかけてきた。
「よう! ねぇちゃん。かわいいね。お友達になりたいなぁ」
ターニャが相手にしようとしなくても、男たちは離れなかった。酒を飲んでいるらしく、しつこくまとわりつき、やがて身体にまで手を伸ばしてくる。
振りほどこうとしたターニャは、そのまま男たちともみ合いになった。腕を引き、身体を離そうとしても、相手は簡単には放してくれない。
「やめろ!」
少年が割って入った。
少年まで加わり、四人の身体が近いところで入り乱れた。ターニャも男たちの手から逃れようと必死で、何がどこへ触れたのかまでは分からなかった。
そのもみ合いの最中、胸元で何かが強く引かれたような感触がした。
乾いた音がして、足元へ赤いものが散った。
ターニャは息を止めた。
ペンダントだった。
赤いガラスが、路上にいくつかの破片となって落ちている。
「何だよ。そんな安物……俺とつきあえば、いくらでも買ってやるよ。」
父の形見を、安物と言われた。
その瞬間、ターニャの中で怒りが弾けた。考えるより先に手が動き、男の頬を平手で打った。
それから、足元に散った赤い破片へ目を落とした。
怒りは消えていなかった。それでも、ばらばらになったガラスを見た途端、それより大きな悲しみが胸に押し寄せてきた。
父の形見が壊れていた。
しゃがみ込み、反射的に手を伸ばす。赤い破片に触れた瞬間、鋭い痛みが走り、小さな傷から血が滲んでガラスの上へ落ちた。
ターニャは、そのまま動けなくなった。
手についた赤と、路上に散った赤いガラスが、一瞬、見分けられなかった。
同じ色に見えた。
あの日、父の工房でガラスの砕け散った音が重なる。
一つ割れる。もう一つ割れる。何度も続く破砕音の中で、父のものが次々に形を失っていった夜。
それでもターニャは目を閉じなかった。いま目の前にあるのはあの工房ではなく、路上に落ちた自分のペンダントだった。
もう一度拾おうとした手が止まり、代わりに少年が残りの破片を拾い集めた。
ターニャは男たちを追わなかった。どこへ行ったのかも、もう見ていない。追いかけたいとも思わなかった。
ただ、壊れたものを元に戻したかった。
けれど、赤いガラスはもう、一つの形ではなかった。
少年は破片を持ち、ターニャをその場から連れ出した。
向かった先がエンゼルだと分かったとき、行き先を変えようとは思わなかった。いつもの店へ戻る。それだけで、さっきまで知らない灯りばかりに見えていた街が少し遠ざかるように感じられた。
扉の鈴の音を聞いて、ようやく息を吐いた。
マスターはいつものようにカウンターの向こうにいた。
店へ入ってしばらくして、ターニャは切った手を簡単に手当てしてもらった。大きな傷ではなかったが、赤いペンダントの方は手当てのしようがない。
彼が拾ってくれた破片が目の前にある。それを見ているうちに、涙が出た。
父の形見が壊れたことが悲しかった。
けれど、それだけではなかった。
日本へ来てから言葉を覚え、最初はほとんど分からなかった日本語で仕事ができるようになり、客と話し、知っている人たちの中で暮らせるようになった。それでも髪の色も肌の色も変わらず、初めて会う人には、まず外国から来た人間として見られる。
そのことを、ターニャはとつとつと話した。
日本語をどれだけ覚えても、見た目まで変えることはできない。知らない人の前では、いつまでも外国人として見られる。その痛みがあるからこそ、いつもの場所や道筋には、自分を守ってくれるような安心があった。
彼について行ったことを後悔しているわけではないし、あの男たちに会ったからといって、今日一緒にいた時間まで間違いになるわけではなかった。
それでも涙は止まらず、目を伏せた先には壊れたペンダントがあった。
赤いガラスの破片の中に、金色の小さなハートが覗いていた。
彼はそれを手に取り、しばらく確かめるように見つめてから、そっと指をかけた。
ハートが開いた。
「ターニャ! これ…」
内側に、細かな文字が記されていた。
ターニャは身を寄せる。
見覚えのある筆跡だった。
「これは……父の字です。きっと夕焼けの赤の成分表……そうですか……ハートを開いたら……」
ターニャは、開いたハートの内側から目を離せなかった。涙で滲んで見える文字を見つめているうちに、幼いころ何度も聞いた父の声が蘇ってくる。
「小さい頃から体が弱くて、引っ込み思案だった私に、父はいつも言ってくれました。」
あのころの父の顔まで、鮮やかに思い出された。ターニャは胸元へそっと手を添えた。
「Открой своё сердце……Open your heart. 心を開いてごらん。」
その言葉を口にすると、胸の奥に残っていた父の声と、自分の声が重なった。
「父の作品が、全てなくなってしまった今でも父は……生きているんですね。」
ターニャはもう一度、開いたハートの内側へ目を落とした。何年も追い続け、何度試しても届かなかった夕焼けの赤。その答えが、父の筆跡で目の前に残されている。
「この表をもとに、明日さっそく試してみます。夕焼けの赤を……父の笑顔の色を……」
失敗するたびに遠ざかっていた色が、今は手の届くところにあるように思えた。明日になれば、父が残した成分表を自分の手で確かめ、ずっと作りたかった夕焼けの赤を、もう一度ガラスの中に生み出すことができる。
壊れたペンダントが元に戻るわけではない。それでも、失ったものの中から、これから自分が作るものへ続く道が現れたように感じられた。
父の成分表を使って、あの赤を出してみる。
エンゼルを出たあと、二人は小樽駅へ向かった。
朝からずっと一緒だった彼とも、そこで別れることになる。一日が長かったのか短かったのか、ターニャには分からなかった。工藝館で手伝ってもらった時間はあっという間だったのに、公園で父のことを話したのはずっと前のことのようにも思える。壊れたペンダントを思えばまだ悲しかったが、その内側に父の字があったことを思うと、足は前へ進んだ。
駅前で、ターニャは彼の方を向いた。
今日、もう一度会えたこと。仕事を手伝ってくれたこと。父の話を聞いてくれたこと。知らない道へ連れ出してくれたこと。あの場で自分から前へ出てくれたこと。そして、壊れた破片を拾い、エンゼルまで一緒に戻ってくれたこと。
どれも、なかったことにはしたくなかった。
「今日は本当に、ありがとうございました。私、もう泣きませんよ。さようなら。」
彼は駅の方へ歩いていった。
ターニャは、その背中が遠ざかるのを見送った。
やがて彼の姿が人の流れの向こうへ消えたとき、朝から何度か遠ざかっていたものが、今度こそはっきりと戻ってきた。
久住へ報告しなければならない。
今日、工藝館で会ったこと。自分から一日だけ手伝ってほしいと頼んだこと。父とオーナーのことを話したこと。夕焼けの赤と父の記憶、リピンスキーという姓を選んだことまで話したこと。彼に誘われていつもの道を外れ、男たちに絡まれ、ペンダントが壊れたこと。そしてエンゼルへ行き、父の成分表を見つけたこと。
今日一日が、一つずつ報告しなければならない出来事へ置き換わっていくように感じられた。
けれど、置き換わるというのも違う気がした。今日が偽物になるわけではない。彼と一緒にいて嬉しかったことも、父のことを話したかったことも、助けてもらってありがたかったことも、全部本当だった。
だから、話したこと自体を後悔してはいない。
久住へ報告しないという選択肢はなかった。昨夜そう決められたことを、ターニャは分かっている。
それでも、彼は知らない。
自分と過ごした一日が、あとで別の誰かへ報告されることを知らない。父のことを聞いた時間も、壊れたペンダントを一緒に見た時間も、ターニャが久住へ話すことになるとは知らない。
そう考えると、さっきまで前を向けると思っていた気持ちが、ゆっくりと重くなっていった。
嘘をついたわけではない。それでも、騙しているような気がした。
彼が知らないことを、自分だけが知っている。その事実は、彼が自分へ向けてくれた信頼を思うほど重くなった。
何も知らない彼と一日を過ごし、一緒に笑い、父のことまで話した。
それが、ひどく後ろめたかった。
ターニャは駅前に立ったまま、もう見えない彼のいた方を、しばらく見ていた。