男二人が通りの先へ離れていくのを、由子は少し距離を置いた場所から見ていた。
路上には、まだターニャと少年が残っていた。二人とも足元に身をかがめている。しばらくして立ち上がると、少年がターニャを伴うように歩き出した。向かう先は、エンゼルのある方角だった。
由子は二人から視線を切った。
男たちはまだ通りの先にいる。振り返る様子はなく、ターニャたちも追ってはいない。
あの二人が、たまたま酔って絡んだだけなのか。それとも、ターニャを認識した上で近づいたのか。
由子は男二人を追って歩き出した。
二人は並んだり前後になったりしながら、店の灯りが続く通りを進んでいた。歩調は一定せず、ときどき肩が触れ合う。片方が何かを言うたび、もう片方が必要以上に大きく笑った。後ろを気にする様子はない。店先へ顔を向けるときも注意は散漫で、曲がり角では行き先を決めかねたように一度足を緩め、そのまま片方が向いた方へ進む。誰かとの合流を意識している様子も、周囲の人間を確かめる視線も見えなかった。
由子は距離を詰めすぎず、そのまま短く追った。二人の動きに、先ほどの接触を継続する意図は見えない。ターニャの方角を振り返ることもなく、目についた灯りへ注意を移しながら歩いている。
人の流れが少し薄くなったところで、判断はほぼ終わっていた。工作員ではない。ターニャを狙って配置された者でもない。ただ酒を飲み、通りで見かけた若い女に絡んだだけの一般人だった。
由子は二人との距離を詰めた。片方が笑いながら顔を横へ向け、もう片方の肩を叩いた。由子の方は見ていない。
周囲に人影はある。ただ、さっきまでより少ない。そのまま数歩で追いつける距離まで近づく。
由子は、ごく普通の若い女が夜道で知り合いへ声を掛けるような調子で言った。
「ねぇ?」
二人が振り返った。
「なんだ、ねぇちゃん?」
もう一人も由子を見て、口元を緩めた。
「お? いいねぇ。どこの――」
片方の男が言い終わるより先に、由子の拳が腹へ深く突き刺さった。
鈍い音と同時に、男の身体がくの字に折れた。肺の中の空気を一度に吐き出したような声が漏れ、そのまま膝から崩れ落ちる。
由子は倒れた男の脇腹へ、間を置かず鋭い蹴りを叩き込んだ。男の身体が路面の上で大きく跳ね、潰れたような苦鳴が漏れた。男はもう一度、路面へ崩れ落ちた。
「な――」
隣の男が声を上げたときには、由子はもう正面にいた。
踏み込む。足を払って体勢を崩し、倒れかけた男の顎へ掌底を突き上げた。
頭が大きくのけぞり、男は声も出せないまま路面へ倒れ込んだ。それでも男は起き上がろうとした。
由子は待たなかった。
片膝をついて身体を起こした男の胸元を踏みつけるように蹴り倒した。背中が路面へ叩きつけられ、男の口から短い悲鳴が漏れる。
由子はそのまま一歩踏み込み、起き上がる隙を与えず、肩口へ踵を強く落とした。男の身体がびくりと跳ねた。そのまま力が抜け、路面に沈んだ。男のズボンの股間から濃い染みが広がり始めた。
二人とも、もう起き上がらなかった。
由子は振り返らず、その場を離れた。来た道を戻り、エンゼルのある通りまで引き返す。店の手前の角で足を止め、そこから入口と窓際を窺った。
少年とターニャは、すでに店内にいた。
由子は店へ入らず、外から一度だけ二人の姿を確かめた。二人とも店内にいる。それで十分だった。会話の内容も、ターニャの手元も、ここからは確認できなかった。
由子はそれ以上を読もうとせず、位置を変えながら待った。少年が朝からターニャと行動を共にしていることは、すでに確認している。いま必要なのは、二人が店を出たあとも同行を続けるかどうかだった。
しばらくして二人が店から出てくると、由子は再び距離を取り、後方から動きを追った。二人はそのまま一緒に小樽駅の方へ向かった。
二人が男に絡まれる前にどんな会話があったのか、エンゼルの中で何があったのかは知らない。それでも、事件のあとも同行が続いていることは確認できた。
駅までの追尾に新しい出来事はなかった。人の流れの中で少年とターニャが立ち止まり、やがて少年が駅の方へ離れ、ターニャはその場に残った。
二人が別れた。
由子は、少年を追わない。ターニャも追わない。朝から続いた直接監視は、そこで終わった。
* * *
由子からの電話が入った時点で、久住はすでにエンゼルから連絡を受けていた。二人が店を出た後に入った連絡だった。
ターニャと少年が店へ来たこと。来店前に男二人とのトラブルがあったらしいこと。ターニャの手に軽い傷があり、赤いペンダントが壊れていたこと。かなり動揺していたが、店内で見た限り会話も移動もでき、ただちに救急対応が必要と思える様子は見えていないこと。
久住はその情報を頭の隅に置いたまま、由子の報告を聞いた。
朝、少年は再び運河工藝館へ現れた。昨日に続く自発的な再訪だった。その後も長時間ターニャと行動を共にし、夜の通りで男二人がターニャへ接触した際には、少年は自分から介入した。
由子は、少年が自分から男たちの間へ割って入り、揉み合いになったことも報告した。ただし、男二人はそれ以上争おうとはせず、そのまま現場を離れている。ターニャも追おうとはせず、そこで接触は終わった。
赤いペンダントが壊れ、ターニャは手を軽く負傷した。少年は残った破片を拾い、その後、自分の判断でターニャをエンゼル方面へ連れていった。
ここまでは、マスターから聞いていたこととも食い違わない。
続いて由子は、ターニャたちからいったん離れ、男二人を追ったことを話した。その上で、自分から二人へ接触し、制圧したと報告した。
「男らに戦闘能力はありませんでした。ただの酔客です」
由子は、二人を制圧した経緯を話したあとで、ただの酔客だったと付け加えた。
由子の能力なら、二人を短く追った段階で、少なくともターニャを知った上で近づいた者ではないことは、かなりの確度で見切れたはずだった。
それでも由子は接触し、二人を倒した。
しかも、いつそう判断したのかについては、自分からは言わなかった。二人を追い、接触し、制圧したこと自体は隠していない。ただ、そのあとで「ただの酔客です」と付け加えている。
久住は確認しなかった。
「由子、おまえもやっぱり人間なんだな」
受話器の向こうから、すぐには返事がなかった。
「だが、余計なことはするな」
久住はそれだけ言って、話を終えた。
由子が何を考えて二人を倒したのか、久住には分からない。問いただすつもりもなかった。
分かるのは、由子が二人を追い、必要な確認を終えたあとにも一手を加えたこと。そして、その行動そのものは隠さず報告したことだった。
電話を置いたあと、久住は由子から聞いた残りの内容を整理した。
少年は朝、自分からターニャを訪ね、その後も男二人との揉み合いへ割って入り、事件のあとには付き添い、最後は小樽駅まで一緒に歩いた。由子の報告から見える範囲では、ターニャも予想外のトラブルをそれ以上広げてはいない。
ただ、それらをターニャが少年にさせたと決めつけることはできない。いま分かるのは、少年自身がターニャとの関わりを続けようとしていることまでだった。
その後、ターニャ本人からの報告も入った。
マスターが店内で見聞きしたこと。由子が外から見ていたこと。そして、ターニャ本人が報告したこと。三つは同じ一日についてのものだったが、見えている範囲はそれぞれ違っていた。
どこまで重なり、どこに違いがあるのか。いま確かめる必要はない。少年とターニャの関係そのものが、まだ途中にある。
久住はその夜、三つを照らし合わせるところまでは進まなかった。